櫛田ふき(くしだふき)

政治・軍事

女性解放・平和運動指導者

【生没年】明治32(1899年)- 平成13(2001年)

【享年】 103 歳

【誕生地】阿武郡萩町江向(萩市)

【墓】東京都府中市(多磨霊園)

父は東京外国語学校(現、東京外国語大学)のドイツ語教師。大正6年(1917)父の死去により大学を中退し、父の教え子櫛田民蔵と結婚した。民蔵はマルクス経済学者として多くの業績を残したが昭和9年(1934)に急死、35歳で未亡人となったふきは、保険の外交員などをしながら2人の子供を養育した。 戦後、小説家の宮本百合子から「櫛田民蔵の妻だったから頼むのではない。女手ひとつで2人の子供を育て上げたあなただから頼みたい」と励まされたことが、女性・平和運動に飛び込むきっかけとなった。 昭和21年(1946)婦人民主クラブの結成に参加し、初代書記長に選ばれた。その後、日本婦人団体連合会の会長、新日本婦人の会の代表役員、原水爆禁止世界大会議長団などをつとめた。 白寿を迎えても「戦争と核兵器のない世界に」と、闘いの先頭に立ち、平成11年(1999)に行われた戦争法案反対のデモを呼びかけ、自らも参加して日本の女性たちを励まし続けた。

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櫛田ふき