時山直八(ときやまなおはち)

政治・軍事

北越に転戦、戦死した奇兵隊参謀

【生没年】天保9(1838年)- 明治元(1868年)

【享年】 31 歳

【誕生地】長門国阿武郡山田村(萩市山田)

【墓】萩市山田(楞厳寺) 下関市上新地町(桜山神社) 下関市吉田(東行庵) 新潟県小千谷市(船岡山・朝日山)

藩士(無給通士)の家に生まれ、少年のころ岡部半蔵から宝蔵院流の槍術を学ぶ。そのころ山県有朋と知り合う。安政5年(1858)、松下村塾に入り、師吉田松陰から「中々の奇男子なり、愛すべし」と評された。 翌6年、江戸に行き、藤森弘庵・安井息軒に師事。文久元年(1861)、藩が公武間を周旋したさいは、長井雅楽を補佐して働いた。このため一時、山県と絶交する。文久2年、諸藩周旋掛となり、元治元年(1864)7月には、禁門の変に加わり敗走。帰国後、奇兵隊に参加し、4カ国連合艦隊と下関で戦う。慶応元年(1865)1月、大田・絵堂の戦い、同2年、第2次幕長戦争(小倉口)でも、奇兵隊を率いて活躍した。 明治元年(1868)の戊辰戦争では奇兵隊参謀として北越方面で戦うも、越後朝日山の戦いで敵弾に倒れた。その報に接した山県有朋は、「あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風」と詠み、竹馬の友の死を悼んだ。凄絶な戦死は人々の話題となり、当時、戦う時山の姿を描く錦絵が何種類か出たほどだった。

時山直八

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