久原房之助(くはらふさのすけ)

産業・経済

日立鉱山を創業した財政界の重鎮

【生没年】明治2(1869年)- 昭和40(1965年)

【享年】 97 歳

【誕生地】長門国萩唐樋町(萩市)

【墓】京都市東山区(西大谷墓地)

酒造業を営む唐樋町の久原家に生まれ、同家は熊谷町に移転し醤油醸造業に転じた。慶応義塾に学び、明治24年(1891)叔父藤田伝三郎が興した藤田組に入社、秋田県の小坂鉱山に赴任する。明治29~31年、藤田組は窮地に陥り、小坂鉱山も銀鉱が底を尽いて閉山の危機に直面。しかし、新しい銅精錬技術(自熔精錬法)を開発して小坂を銅山として再生、足尾・別子と並ぶ日本三大銅山の一つに成長させた。藤田組復活の契機を作り、明治32年に藤田組支配人、明治33年に小坂鉱山事務所長となった。 明治38年(1905)藤田組から独立、茨城県の赤沢鉱山を買収し、日立鉱山と改称して創業、機械化により増産に成功する。大正元年(1912)久原鉱業㈱を設立して事業拡大、大正4年に日本汽船㈱、大正7年に久原商事㈱を設立した。 昭和3年(1928)義兄鮎川義介に事業を委ね、立憲政友会に入り衆議院議員に当選、田中義一内閣の逓信大臣となる。戦後は公職追放解除を経て日中・日ソ国交回復などにつとめ、昭和36年、萩市名誉市民第1号に推挙された。 「鉱山王」「政界の惑星」の異名をとった。

久原房之助

(C)萩博物館