飯田俊徳 (飯田吉次郎)(いいだとしのり (いいだきちじろう))

産業・経済

日本の鉄道草創期の技術者

【生没年】弘化4(1847年)- 大正12(1923年)

【享年】 77 歳

【誕生地】長門国萩松本村(萩市椿東)

【墓】愛知県豊橋市(全久院)

藩校明倫館に学び、11歳の安政4年(1857)松下村塾に入る。吉田松陰から「書を読むこと河の如し」と俊才ぶりを称賛された。同年、父の死により家督をつぐ。その後、大村益次郎から蘭学・洋式兵学を学び、成績優秀であった。文久3年(1863)滝弥太郎らとともに小倉藩領の豊前国田ノ浦(北九州市門司区)へ渡海して砲台を設営するなど、奇兵隊でも活動した。 慶応3年(1867)藩命により兵学研究のため渡辺蒿蔵とともに長崎へ派遣され、まもなく米国へ留学する。さらにオランダへ移り、アムステルダムの士官学校やデルフトの国立工科学校(現在の国立工科大学)に学んだ。 明治6年(1873)帰国、工部省に入る。鉄道権助となって大阪勤務を命じられ、大阪駅舎の2階に創設された工技生養成所で後進を育成。明治11年(1878)に起工した京都・大津間の逢坂山トンネルは、日本人独力で設計・施工を行った最初のトンネルで、工技生養成所の教え子を指揮し、明治13年に完成させた。「鉄道の父」と称される井上勝をつねに支え、明治26年(1893)、井上の鉄道庁長官勇退に従い退職した。

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飯田俊徳 (飯田吉次郎)