白根多助(しらねたすけ)

政治・軍事

地租改正を推進した埼玉県令

【生没年】文政2(1819年)- 明治15(1882年)

【享年】 64 歳

【誕生地】周防国吉敷郡吉敷村(山口市)

【墓】東京都台東区(谷中霊園)

萩藩士大田直猷の三男として生まれ、藩士白根兼清の養嗣子となり萩に移住。藩校明倫館に学び、美祢宰判・大島宰判に出仕した。ついで大坂藩邸に勤務し、尊王攘夷運動の志士たちが活躍するための資金調達に尽力した。元治元年(1864)帰藩後は所帯方の役職につき、藩財政の維持に努めた。 明治維新後は山口藩会計局に勤めたが、明治4年(1871)埼玉県権参事に転じ、同8年、県令に昇進し、明治15年に死去するまで務め、埼玉県政の基礎を築いた。在任当時から名県令の声高く、後々まで「徳望の県令」と語られた。 養蚕など勧業政策に尽力するとともに、住民との合意に配慮した地租改正を推進した。明治9年(1876)明治天皇が巡幸時に多助に拝謁を賜い、納税について下問され、天皇の厚い信任を得た。明治15年、多助の病中に明治天皇はしばしば宮内卿を召して病状を問いただしたという。 第2次伊藤博文内閣の逓信大臣を務めた白根専一の父。さいたま市の県営大宮公園には多助の頌徳碑が建てられている。

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白根多助