山根孝中(やまねこうちゅう)

教育・文化

会津戦争で敵兵も治療した医師

【生没年】文政6(1823年)- 明治31(1898年)

【享年】 76 歳

【誕生地】周防国吉敷郡矢原村(山口市)

【墓】萩市前小畑

医家重嶺(重宗とも)家に生まれ、藩の一代雇医で叔父の山根文季の養子となる。36歳の安政5年(1858)松下村塾に入る。松陰より7つ年上で塾生中最年長であった。同年、萩に流行したコレラにより父が没し、家督をつぐ。 萩香川津の自宅に村医者として開業していたところ、文久3年(1863)眼科医としての評判により、養父と同じく藩から一代雇医に取り立てられる。元治元年(1864)赤間関に医師として出張。4ヵ国連合艦隊との激戦に参加し、講和成立後、宮市(防府市)に転陣する奇兵隊に従った。慶応元年(1865)第2次征長軍に備えて徳地に駐屯していた干城隊や狙撃兵、諸兵の隊付医師として勤務した。 明治元年(1868)戊辰戦争では干城隊・奇兵隊に従って越後口に向かう。戊辰戦争でももっとも苛烈をきわめた会津城の攻略戦においては、野戦病院で敵味方を問わず、戦傷者の治療や婦女子の救護にあたった。 除隊後は、香川津の自宅で眼科および外科の診療を行った。 小野為八の従兄弟。山根正次の父。

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