山田顕義(やまだあきよし)

政治・軍事

初代司法大臣で日大・国学院の学祖

【生没年】弘化元(1844年)- 明治25(1892年)

【享年】 49 歳

【誕生地】長門国萩松本村中ノ倉(萩市椿東)

【墓】東京都文京区(護国寺)

萩藩士。軍人政治家。通称は市之允。号は空斎。藩校明倫館や松下村塾で学ぶ。師吉田松陰から志は特異でなければならないこと、無駄飯を食ってはいけないことなどを説く、漢詩を贈られた。元治元年(1864)禁門の変で敗れて帰国し、同志と共に御楯隊を組織し、慶応元年(1865)の藩内戦では諸隊を指揮し戦う。のち大村益次郎から西洋兵学を学ぶ。慶応3年12月、王政復古の際に、長州軍を率い入京。戊辰戦争では新政府軍参謀として北越を転戦後、箱館五稜郭を陥落させ、永世禄600石を与えられる。明治2年(1869)兵部大丞に任ぜられ、翌3年、大阪に兵学校を設け指導にあたる。明治4年、岩倉使節団に理事官として加わり欧米諸国を視察し、同6年6月帰国後は司法大輔などを務めた。明治10年の西南戦争では薩摩軍を鎮圧、この功により翌11年には陸軍中将に進む。明治16年に司法卿、同18年に初代司法大臣となり、法治国家建設のため尽力。生野銀山で没したが、事故死ともいう。日本大学・国学院大学の学祖。

山田顕義

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