井上剣花坊(いのうえけんかぼう)

教育・文化

近代川柳改革の旗手

【生没年】明治3(1870年)- 昭和9(1934年)

【享年】 65 歳

【誕生地】長門国萩江向(萩市)

【墓】神奈川県鎌倉市(建長寺)

萩藩士の井上吉兵衛の長男として生まれる。幼名は七郎、後に幸一に改める。川柳作家となってからは、喧嘩早い性格を自覚して剣花坊(=喧嘩坊)を名乗った。 ほとんど独学自習により地元小学校教員となる。後に山口町(現山口市)の新聞社記者を経て、明治33年(1900)に上京、雑誌記者となり文芸欄担当。明治36年に日本新聞社入社。同社の新聞「日本」紙上において正岡子規が俳句を復興したことから、狂句に陥った川柳の再興をすすめられて取り組む。新聞編集のかたわら「新題柳樽」(後に「新川柳」)欄を設け、剣花坊の名前で作品を発表、川柳の改革復興に努めた。 明治38年(1905)には新聞社を辞し、柳樽川柳会を組織、機関誌『川柳』を創刊した。革新川柳を提唱して各種新聞の川柳欄等を担当、毎月句会も催した。『大正川柳』、後に『川柳人』などの川柳雑誌を主宰し、門下を全国に広げていった。作家の吉川英治(号は雉子郎)も門下のひとり。雄大豪放な作風で、川柳中興の祖と称された。

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井上剣花坊