村田清風(むらたせいふう)

政治・軍事

天保改革の立役者

【生没年】天明3(1783年)- 安政2(1855年)

【享年】 73 歳

【誕生地】長門国大津郡三隅村(長門市)

【墓】長門市三隅沢江

寛政9年(1797)、15歳の時に藩校明倫館に入学して優秀な成績をおさめ、文化3年(1806)明倫館書物方となる。文化5年、手廻組に加えられて小姓役、御用所右筆役添役などを歴任。その一方、兵学を研究して異船防禦方に参画し、神器陣という新しい戦陣を編成した。天保2年(1831)の長州藩大一揆後は、表番頭格に列して当役用談役となり、財政改革を建白した。 天保9年、藩主毛利敬親により表番頭に登用され、財政改革に着手する。天保11年、江戸当役用談役として天保改革を本格化させ、財政整理に取り組む。また、アヘン戦争の情報に危機感を抱き、海岸防備の強化のため羽賀台大操練の実施、明倫館の拡充などに尽力し、長州藩を雄藩へと成長させた。 天保14年、藩士の借金整理のため三十七ヵ年賦皆済仕法を実施したが、弘化元年(1844)坪井九右衛門らから批判されて辞任。藩政を退いてからは、三隅の自宅に創設した三隅山荘尊聖堂という文武演習場において、後進の育成にあたった。

(C)萩博物館

村田清風