堀 真五郎(ほりしんごろう)

政治・軍事

大審院判事となった尊攘志士

【生没年】天保9(1838年)- 大正2(1913年)

【享年】 76 歳

【誕生地】長門国萩溝部横町(萩市)

【墓】山口市小郡下郷(尾崎墓地)

萩の妙玖寺の臣(陪臣)堀家に生まれる。堀家はもと菅原姓であったが、河川開鑿に巨費を投じて功を立て、藩主より堀姓を下賜された。 万延元年(1860)脱藩し中国諸藩を遊歴、文久元年(1861)萩に帰り松下村塾に潜伏する。翌年、久坂玄瑞らに推され薩摩へ赴き、同藩尊王攘夷派の有馬新七らとともに上京し、寺田屋事変に遭遇。長井雅楽暗殺に失敗し囚われ、釈放後は高杉晋作に従い英国公使館焼打ちに参加、文久3年、吉田松陰の遺骨の改葬にも加わった。中山忠光に従い久留米に赴き、真木和泉らを救出して上京。8月18日の政変後、山口に帰り八幡隊を編成、総督となった。 慶応元年(1865)内訌で大田・絵堂(美祢市)に戦い、翌年、長州戦争(四境戦争)で芸州口・小倉口を転戦。明治元年(1868)討幕軍の中軍として福山城を攻略後、徴士内国事務局権判事として箱館(函館)裁判所へ赴いた。 明治8年(1875)判事となり、東京裁判所を経て金沢裁判所長・水戸始審裁判所長・東京始審裁判所長などを歴任し、明治23年、大審院判事に昇進。また貴族院議員にも勅撰された。

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堀 真五郎