坪井九右衛門(つぼいくえもん)

萩地域

交易で藩財政を支えた長州藩役人

【生没年】寛政12(1800年)- 文久3(1863年)

【享年】 64 歳

【誕生地】長門国萩(萩市)

【墓】萩市上五間町(光源寺)

藩士佐藤家に生まれ、坪井家を継ぐ。江戸方右筆から同相談人兼手元役に進み藩政に参与。天保11年(1840)建白書を提出し、村田清風らとともに天保の改革に加わる。弘化元年(1844)清風が商人抑圧策の失敗により辞任すると、代わって実権を掌握し、商人優遇策を打ち出した。しかし、大坂商人からの借金が増え、藩財政の赤字が増大したため失脚した。 清風後継者の周布政之助による改革後、安政2年(1855)藩政に復帰し、椋梨藤太とともに改革に着手する。安政4年、撫育方御用を命じられ、萩を訪れた梅田雲浜の意見を受けいれて上方との交易を開始し、産物取立政策を実施した。安政5年、日米条約の無勅許調印により尊王攘夷運動が高揚すると、周布政之助に実権を奪われて辞職。文久3年(1863)羽島に流され、結党強訴の罪名により野山獄で処刑された。 萩市平安古町に現存する居宅を水哉亭・五峯楼といい、顔山と号した。また詩文に秀でたため文人墨客との交流も広く、梅田雲浜のほか、日田の広瀬旭荘らが彼の居宅を訪問した。

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坪井九右衛門