大賀大眉(おおがたいび)

産業・経済

幕末にパンづくりを試みた商人

【生没年】文政10(1827年)- 明治17(1884年)

【享年】 58 歳

【誕生地】長門国萩大屋(萩市椿)

【墓】萩市北古萩町(梅蔵院)

酒造業を営む大賀家に生まれ、名は幾介、春哉とも称し、大眉と号した。31歳の安政4年(1857)松下村塾に入り、増野徳民や吉田稔麿らとともに『孟子』の会に参加した。翌年、吉田松陰から情報収集を託され、岩国方面へ赴く。また大原三位下向策など松陰の一連の政治的画策では兵糧米担当を予定された。 元治元年(1864)奇兵隊の屯所に出入りし、慶応元年(1865)下関の桜山招魂場(現在の桜山神社)の建設に尽力。萩前小畑の泉流山窯(文政9年〈1826〉開窯)の古窯を復興し、自ら絵付けして磁器を焼くかたわら、志士の集会所としても場所を提供した。また奇兵隊に対しては、資金的な後方支援も行った。慶応2年、長州戦争(四境戦争)の直前に兵糧用のパンの製造が許可され、藩から補助金が支給された。 明治3年(1870)諸隊の脱隊騒動のさい武器や弾薬の買入れに奔走した功を賞される。その後、脱隊騒動を鎮圧した木戸孝允の使者として下関を出港し、大阪に出て鎮台出入りの御用商人となった。また、砂糖会社や製靴工場などを経営したともいわれている。

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大賀大眉