玉木文之進(たまきぶんのしん)

萩地域

松下村塾の創始者

【生没年】文化7(1810年)- 明治9(1876年)

【享年】 67 歳

【誕生地】長門国萩(萩市)

【墓】萩市椿東(護国山団子岩)

藩士杉家に生まれ、11歳の文政3年(1820)叔父の玉木正路の跡をつぐ。文之進は通称で、名は正?。幼い吉田松陰の指導にあたる一方、27歳の天保7年(1836)以降、松陰の代理教授として藩校明倫館で山鹿流兵学を教授する。天保9年、御蔵元順番検使役となった。 天保11年、部下が不始末を起こしたため非職となる。天保13年、自宅に松下村塾を創始し、子弟の教育にあたる。のちに藩政に復帰、弘化4年(1847)御手当総奉行宍戸孫四郎の手元役、嘉永元年(1848)明倫館都講となり、公務多忙となったため塾を廃止。安政元年(1854)手廻組に加えられ、相模国備場総奉行毛利隠岐の手元役となり、安政2年、相模国(神奈川県)へ出張。その後、小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代など諸郡の代官として民政に尽力し、郡奉行もつとめた。元治元年(1864)には自宅に寄宿した乃木希典の指導も行った。 明治2年(1869)隠居、松下村塾を再興し子弟の教育に専念する。明治9年、門人が多数参加した萩の乱直後、玉木家の墓前で自刃した。 杉民治(梅太郎)・吉田松陰兄弟の叔父。

玉木文之進

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