吉田松陰 (吉田寅次郎)(よしだしょういん (よしだとらじろう))

政治・軍事

至誠を貫いた松下村塾の主宰者

【生没年】天保元(1830年)- 安政6(1859年)

【享年】 30 歳

【誕生地】長門国萩松本村(萩市椿東)

【墓】東京都荒川区(回向院) 東京都世田谷区(松陰神社) 萩市椿東(護国山団子岩) 下関市上新地町(桜山神社)

藩士杉家に生まれ、6歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、叔父玉木文之進の指導を受ける。19歳で兵学師範として独立し、藩校明倫館で本格的に教授を行う。21歳の時に藩から諸国修業を許され、九州を皮切りに関東・東北・関西へと全国を遊歴。24歳の嘉永6年(1853)浦賀に来航したペリーの黒船を目撃し、翌年、下田で米国への密航を図るが失敗、萩の野山獄に投じられる。 安政2年(1855)12月、実家杉家に幽閉され、翌年3月から近隣の子弟に講義を開始し、松下村塾を事実上主宰。安政4年、杉家宅地内の小舎を修理して松下村塾の塾舎とし、まもなく十畳半の部屋を増築する。2年10ヵ月の短期間に、全人格でぶつかる指導で久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文らを育てた。 安政5年、幕府が朝廷に無断で日米修好通商条約に調印したことにより幕政批判を開始。老中間部詮勝の暗殺計画が発覚すると、再び野山獄に投じられた。同6年、安政の大獄により江戸の伝馬町獄へ送られ、まもなく処刑された。 杉民治(梅太郎)の弟。

吉田松陰 (吉田寅次郎)

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