鳥尾小弥太(とりおこやた)

政治・軍事

保守主義を貫いた陸軍中将

【生没年】弘化4(1847年)- 明治38(1905年)

【享年】 59 歳

【誕生地】長門国萩川島(萩市)

【墓】兵庫県加古川市(光念寺) 東京都文京区(護国寺)

藩士中村家に生まれる。江戸で江川太郎左衛門に学ぶ。文久3年(1863)奇兵隊に入り、中村鳳輔と称していたが、のちに鳥尾小弥太と改名。戊辰戦争では建武隊参謀として転戦した。 明治3年(1870)兵部省に出仕し、翌年、陸軍少将に任じられる。その後、兵学頭、軍務局長、参謀局第二・六局長を歴任。明治7年、佐賀の乱勃発に伴い大阪鎮台司令長官となり、事後処理にあたった。明治8年、元老院議官兼任となったが、翌年、陸軍中将、陸軍大輔兼任、参謀局長となる。明治10年の西南戦争時、輜重兵站をはじめ枢機を担当。明治12年、近衛都督となるが、明治13年、病のため一切の職を辞し、『王法論』を執筆した。 明治14年(1881)三浦梧楼・曾我祐準・谷干城とともに、北海道開拓使の官有物払下げへの反対および国憲制定にかかる建白書を政府へ提出する。翌年、初代統計院長に就任。明治18年、国防会議議員、元老院議官となり、欧州視察に派遣された。明治21年、日本国教大道社を組織し、機関誌『保守新論』を発行。その後、枢密顧問官、貴族院議員を歴任した。

鳥尾小弥太

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