周布政之助(すふまさのすけ)

政治・軍事

幕末期藩政改革派の盟主

【生没年】文政6(1823年)- 元治元(1864年)

【享年】 42 歳

【誕生地】長門国萩(萩市)

【墓】長門市三隅 萩市椿東(東光寺) 山口市周布町 東京都港区(青山霊園)

藩校明倫館に学び、弘化3年(1846)有志とともに嚶鳴社を結成して時事を討議する。 嘉永6年(1853)政務座役(右筆)筆頭に昇進し、村田清風の後を継いで藩財政の建て直しを図ったが、保守派に反対され辞職。安政5年(1858)再び政務座役となって安政改革を推進し、人材登用、洋式軍事改革などを行う。また朝廷に忠節、幕府に信義、祖先に孝道という「藩是三大綱」を確定した。 文久元年(1861)長井雅楽の公武周旋に加わったが、翌年、久坂玄瑞や木戸孝允(桂小五郎)らとともに藩是を「破約攘夷」に転換させ、尊王による挙国一致を目指す。 文久3年、いったん外国と戦ってからのちに開国するという考えのもと、伊藤博文・井上馨ら5人の密航留学生(長州ファイブ)をイギリスに送り込む。しかし元治元年(1864)禁門の変を起こしたことで長州征討が決定し、4ヵ国連合艦隊により下関の砲台が壊滅されると、椋梨藤太ら保守派に藩政の実権を奪われる。その責任を取り、同年、山口矢原の大庄屋吉富簡一宅で自刃した。

周布政之助

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