鮎川義介(あゆかわよしすけ)

産業・経済

日産コンツェルンの創始者

【生没年】明治13(1880年)- 昭和42(1967年)

【享年】 88 歳

【誕生地】山口県吉敷郡大内村(山口市)

【墓】東京都府中市(多磨霊園) 山口市水の上町(洞春寺)

萩藩士鮎川弥八の長男として生まれる。母ナカは、初代外務大臣となった井上馨の姪。明治36年(1903)に東京帝国大学工科大学を卒業、芝浦製作所に入社。欧米技術見聞のために渡米、可鍛鋳鉄工場で見習工として働く。明治43年、井上馨らの支援を受けて戸畑鋳物株式会社(現、日立金属)を設立、海軍単独指名工場に指定されるなど業績を伸ばす。 昭和3年(1928)には、政界に転じた妹婿の久原房之助の後を受けて久原鉱業社長に就任。これを持ち株会社の日本産業株式会社に改組した。日産自動車、日本鉱業(現、JX日鉱日石金属)、日立製作所、日立電力、日本化学工業、日産油脂、日本水産、日産火災海上保険(現、損害保険ジャパン)など、多数の企業を傘下に収め、昭和12年には日産コンツェルンは三井、三菱につぐ企業集団となった。同年、日本産業をそっくり満州国に移した満州重工業開発株式会社に改組、初代総裁となった。戦後は、公職追放解除後に中小企業助成会会長、昭和28年には参議院議員に当選。政治の側から中小企業振興を図った。

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鮎川義介