長井雅楽(ながいうた)

政治・軍事

独自の開国論を説いた先駆者

【生没年】文政2(1819年)- 文久3(1863年)

【享年】 45 歳

【誕生地】長門国萩松本村中ノ倉(萩市椿東)

【墓】萩市北古萩町(海潮寺)

文政5年(1822)、4歳の時に父が病死したため、未成年相続の規定により禄高半分の150石で家督を継ぐ。藩校明倫館に学び、天保8年(1837)藩主毛利敬親の小姓役となる。嘉永3年(1850)奥番頭格に登用され、明倫館の内用掛に就任。翌年、藩主世子(世継ぎ)元徳のお守役も兼任し、養育に尽力した。安政5年(1858)直目付役に昇進し、記録所役も兼ねて藩政の中枢に参画する。 文久元年(1861)幕府の開国方針に対し京都を中心に攘夷論が高まるなか、「公武一和・航海遠略策」と称される独自の開国論を藩主に建白する。これがまもなく藩是として認められ、藩主の命により朝廷と幕府(公と武)の間を周旋。翌年、その功労により禄高を元の300石に戻され、中老格に列した。 その後、久坂玄瑞や木戸孝允(桂小五郎)ら尊王攘夷派により、「航海遠略策」に朝廷を誹謗する文言があると弾劾され、文久2年、藩是は「破約攘夷」に一変し、辞職に追い込まれた。文久3年、萩城下土原の自宅で壮絶な切腹を遂げた。

長井雅楽

(C)萩博物館