笠井順八(かさいじゅんぱち)

産業・経済

日本初のセメント会社創業者

【生没年】天保6(1835年)- 大正8(1919年)

【享年】 85 歳

【誕生地】長門国萩浜崎町(萩市)

【墓】山陽小野田市

藩士有田家に生まれ、のちに笠井家の養子となる。藩校明倫館では一、二を争う秀才で、安政2年(1855)相州警衛(江戸湾防備)に赴く。安政5年に萩へ帰って以降、財政・土木方面の役職を歴任、文久3年(1863)の藩庁移転(山口移鎮)では敷地工事を監督した。また郡奉行として戸口調査や租税も司った。 明治元年(1868)御蔵元本締役に抜擢され、藩財政の改革に尽力したのち、明治7年に山口県を辞職する。士族授産事業としてセメント製造に着目し、工部省深川工作分局の官営セメント工場(東京都江東区)に人員を派遣、製法を習得させる。井上馨の斡旋で政府の授産金を借用し、明治14年(1881)民間初となる小野田セメント株式会社(現在太平洋セメント株式会社)を厚狭郡西須恵村(山陽小野田市)に設立した。その後、社員の福利厚生を充実させて事業を拡大する一方、道路・石炭・灌漑・農業など公共事業の整備にも力を入れた。昭和55年(1980)小野田市名誉市民第1号に推挙された。 なお長男健次郎は小野田町長、次男真三は小野田セメントの第4代社長をつとめた。

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笠井順八