志賀義雄(しがよしお)

政治・軍事

共産主義運動の活動家

【生没年】明治34(1901年)- 平成元(1989年)

【享年】 89 歳

【誕生地】福岡県門司市(北九州市)

【墓】東京都府中市(多磨霊園)

川本筆助の次男として生まれ、明治39年(1906)6歳の時、萩の母方の祖父志賀氏の養子となり、志賀姓を名乗る。大正2年(1913)小学校を卒業後、志賀家を継ぐため萩町菊屋横町に移住し、萩中学校(現、萩高等学校)に入学した。 東京帝国大学在学中に日本共産党に入党し、卒業後、徳田球一らと党再建に尽力した。昭和2年(1927)党中央常任委員となったが、翌昭和3年、三・一五事件(日本共産党に対する弾圧事件)で検挙され、以後18年間、獄中生活を送った。 戦後、出獄と同時に党再建に参画し、昭和21年(1946)衆議院議員に当選、昭和41年(1966)まで通算6期つとめた。この間、昭和25年にアメリカ占領軍(GHQ)による公職追放令で4年半地下活動に潜行後、昭和30年(1955)に衆議院議員に再選された。昭和39年(1964)、党議に反して部分的核実験停止条約の批准に賛成し、共産党を除名され、「日本のこえ」を結成した。

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志賀義雄