南アフリカ
【マンデラさん】
アパルトヘイト廃止を訴え続けたネルソン・マンデラ氏(1918〜2013)は、64年に国家反逆罪で終身刑の判決を受けた。約27年にわたる獄中生活を経て、91年に撤廃に導いた。93年、デクラーク大統領(当時)とともにノーベル平和賞を受賞。94年には全人種が参加する初めての選挙でアフリカ民族会議(ANC)を率いて圧勝し、大統領に就任。99年まで務めた。
余生を送ったマンデラさんの住宅、その後は博物館
【経済の街 ヨハネスブルグ】
黒人居住区のスフエトは環境劣悪
「1976年6月16日記念碑」 ヘクターピータソンという13才の子供が、アパルトヘイト暴動で警官に発砲され、犠牲となった写真。この写真がきっかけで、世界的に白人の黒人に対するアパルトヘイトが問題となっていった
ヨハネスブルグ 有刺鉄線を張り巡らす商店
17世紀半ばからオランダ、19世紀前半からは英国の植民地となる。1910年、南アフリカ連邦として独立したが、白人政権は黒人の政治的・社会的・経済的権利を剥奪するアパルトヘイト(人種隔離政策)を実施し、国際社会から厳しい非難を浴びた。
先住民族サン人の小さな集落
ヨハネスブルグ
・19世紀前半。先住民族サン人の小さな集落の1つに過ぎなかった。
・ヨハネスブルグの語源は、19世紀金鉱が発見された際に測量のため派遣されたヨハネスという人物の名と、ブルグは「要塞都市」、合わせた名前がヨハネスブルグとなる。
・イギリスが金鉱の利権を巡り、黒人の権利を踏みにじりつつ鉱山労働などで酷使するアパルトヘイト政策(1948年〜1994年)を約50年に渡り施行していった。
【アパルトヘイト】
アパルトヘイト
・1948年~1994年 南アフリカ共和国における白人と非白人(混血民、先住民、黒人等)の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。南アフリカの黒人が白人ではないという理由で差別された。
・アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが、失業率や犯罪率が減らないもっとも大きな要因と考えられる。政策変更後、黒人への優遇政策により、これまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、今度は白人の失業率が上昇することになった。
・アパルトヘイト時代には黒人は事実上義務教育の対象ではなく、それが今日まで続く深刻な貧困の原因となっている。
・犯罪が多いため、南アフリカで活動する警備会社は9,000以上で、働く警備員の数は40万人と、警察官や国防軍の兵士よりも多いとされている。
・アパルトヘイト統治時代、白人居住区と、黒人居住区に分断され、黒人の白人居住区への立ち入りを厳しく制限した。更に約6万人の黒人住民がソウェト地区という劣悪な場所に強制移住させられた。
・1976年に至り、学生を中心としたアフリカ系住民による大規模な暴動が起こり、白人の黒人に対する人種差別が、世界に衝撃となり広まった。
・アパルトヘイト政策は曲がり角を迎え、1993年にようやく全面廃止されるに至った。
・旧白人・黒人居住区間の移動制限が撤廃されたが、現実には彼らのほとんどは職を得ることができなかったため、失業者による犯罪が多発し、市内の治安が極端に悪化していった。
・金鉱での採掘が難しくなってきたことや、富裕層や企業の移転により、犯罪多発と共に、エイズの蔓延の問題も、近代都市・国際都市としてのヨハネスブルグの暗部であり続けている。
南アフリカ全体での犯罪件数
殺人1日当たり43.6件、殺人未遂1日当たり42.4件、武装強盗1日当たり277.9件、強盗1日当たり150.3件、強姦を含む性犯罪1日当たり181.3件が発生している。戦時下にない地域としては世界でもワーストクラスとなってしまった。
【ライオンパーク】
【プレトリア】
【ケープタウン】
【喜望峰】
これが喜望峰:左がインド洋、右が大西洋
喜望峰の写真はここで撮りましょう
ロブスターは喜望峰の名物料理、後はワイン。
【ワイナリー】
南アフリカで最も有名なワイナリーGROOT CONSTANTIA グルート・コンスタンシア
【アフリカ最大の経済大国 】
【政府の指導者】
南アフリカ篇 終わり