ポーランド
【MAP】
ワンポイント情報
・面積 日本の約5分の4
・人口 3,800万人
・首都 ワルシャワ
(人口180万人)
【 首都 ワルシャワ 】
高層ビルが林立
歴史がある旧市街
ポーランドの悲劇
・他国からの支配で、「分割と統合」を幾度も繰り返し、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。
・古くから争乱を繰り返す関係で、幾度もポーランド・ロシア戦争が起こった。そのため、現在でもポーランド人は強い反露感情を抱いているとされる。
・2017年には、アメリカ軍がポーランドへの駐屯を開始し、西部で歓迎式典が開かれた。
【 収容所の街 クラクフ 】
クラクフ空港は森の中にある。ポーランドは国土の30%が森林。
空港内の花束自動販売機。ヨーロッパは歓迎に花束プレゼントが恒例。
【小さな像】
街角にある小人の像。小さく四つ角の片隅、散策道路の端、ホテルの前とかにありとても可愛い。観光客は20~30個ある像を捜して歩くという。良いアイデアだ。
これは肉屋さんの前、こういう動物の肉がありますという宣伝
これはホテル前
今日は満室なのでベッドを借りてホテル前で寝ている小人さん
【ショパン】
ショパン生誕200年を記念して、広場にはピアノ
ショパンの曲を弾きCDを売る人達
ショパンの反抗。
動乱のポーランドの時期に生まれた作品 「革命のエチュード」
1830-1831年に起こったポーランドやリトアニアで発生したロシア帝国の支配に対する武装反乱。この反乱には多くのポーランド人たちが参加した。しかし、結局はロシア軍により鎮圧された。
ショパンもそれに加わりたかったのだろうが、体が弱かったため反乱には参加できなかった。
ショパンはこの怒りの感情を音楽で表現しようとした。
そして、それが表現された代表作が「革命のエチュード」だと言われている。激しい旋律、これにはショパンの怒りが感じられる。この後、ポーランドは幾度もソ連やドイツに支配され、ショパンはなくなる最後までポーランドの土を踏むことがなかった。
【コウノトリ】
ポーランドはコウノトリの国
全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する
高いところが好きなコウノトリ
【ユダヤ教】
ユダヤ人は独特の雰囲気。黒服・黒い帽子、髭に代表される。
礼拝のためのユダヤ人の集会所はシナゴーグ
ポーランドは当時の王様の理解でユダヤ人が多かった。
ユダヤ人街の建物とユダヤのマーク
ユダヤ人は何故憎まれた?
ユダヤ人はなぜ、ナチス・ドイツの標的にされたのか? それは一種の宗教対立である。
ユダヤ人迫害は、宗教の問題に根ざすものであった。キリスト教はユダヤ教に起源を持つが、その後分離し、キリスト教徒はイエス・キリストを救世主として認めなかったユダヤ人を蔑んだ。またイエスが磔にされた責任もユダヤ人にあるとしている。厳格なユダヤ教に対抗してキリスト教指導者の陰謀が始まったのである。
特にヨーロッパではキリスト教の宗教者が、勢力を伸ばすためにユダヤ教を標的にする。
時あたかも、ヒトラーはユダヤ人を排除する政策を次々と打ちだした。その狙いの一つは、明確な敵を作ることによって、ドイツ国民を一つにすることにあったのである。
第二次世界大戦中にドイツ占領下の国々に住んでいたユダヤ人は、合計でおよそ900万人。1933年の時点でユダヤ人人口が最も多かったのは、ポーランド、ソ連、ハンガリー、ルーマニアを含む東欧であった。特にポーランドには、200万人以上のユダヤ人が暮らしていた。悲劇の場所に選ばれたのが現在のアウシュビッツ。かくして600万人のユダヤ人がナチスに命を奪われた。
【アウシュビッツ収容所】
1944年、ドイツ軍は44万人のユダヤ人をハンガリーからアウシュヴィッツ収容所に連行してきた。
ガス室に送られるとは知らずに、順番を待つ女、子供、老人達。
冷静に、真剣に当時の状況を伝えて、見学者に問題提起をしながら「負の世界遺産」を説明する日本人ガイドの中谷剛さん。
見学者は壮絶な収容所のありさまに皆が寡黙になる。
この狭いトイレで並んで、一人二分程度と決められていた
三段ベッド、ワラの敷物で寝る
上が小さなパン、その下にマーガリン。右は野菜スープ、左がコーヒーもどき
アウシュビッツ内の劣悪食事
収容者の食事のサンプル
朝食は、コーヒーという名の濁った飲み物
昼食は、腐った野菜などで作られた野菜スープ
夜は、パン1つたまにマーガリンが付く
これが被収容者の基本的な1日の食事
もちろんこんな量で足りるわけもなく栄養失調になって動けなくなり動けない被収容者はガス室送り…
やせ細った男性
人体実験に使われた子供達
収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている
絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという
大量の女性の髪の毛
これが使われた毒ガス、サイクロン
おびただしい数の眼鏡フレーム。収容の際に没収されたもの
靴の山。女性もののサンダルも
ガイド中谷さんの説明に、見学者は絶句
慣れない土木作業で倒れる人も続出
銃殺用の「死の壁」には花束が絶えない。
イラストと言えど壮絶な絞首刑の場面
収容所から生きて生還できたユダヤ人の体験手記(抜粋)
・アウシュヴィッツに到着するとすぐ、持ち物を全て取り上げられ、身分を証明するものをいっさい失った。
・収容者は生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物(パンなど)を盗むことも平気になってしまった。
・私はたまたま生還できたが、いい人は帰ってこなかった。
・多くのユダヤ人は安定した土地を与えると言われ、金銀・プラチナ・ダイヤモンドを持ち込み移住してきたが、それは抗弁であった。貴金属や宝石は巨大な倉庫だけでなく、ドイツ人の懐に貯め込まれた。
・収容塔の定員がせいぜい200人の所に、1100人が移送されむき出しの土間に寒さに震え、空腹にさいなまれながら、うずくまったり立ったり、全員が座る事が出来なかった。もちろん横になることなどできなかった。4日間でパンをたったのひと切れしか あてがわれなかった。
・貨物車から降りると、高級将校の前に順番に通され、右手で右、左と指示され区別された。あとで判明したが、右は労働に、左は労働不適格者と言う事でガス室送りであった。
・私は三段「ベッド」で寝た。一段(縦が2m、幅が2.5mほど)の、むき出しの板敷きに9人が横になった。毛布は9人に2枚だけ。
・私たちは横向きにびっしりと体を押し付けあって寝なければならなかった。もっとも、外は冷え込み、居住棟には暖房などなかったのだから、これは都合が良かった。
・人間にはなんでも可能だと言う事を体験した。収容所暮らしでは、一度も歯を磨かず。歯茎は以前の栄養状態の良かった頃より健康だった。半年間、たった一枚の同じシャツを着て、傷だらけの手は土木作業で汚れていたが、傷口は化膿しなかった。
・仲間とぎゅう詰めになり、耳元で盛大ないびきを聞かせられても、横になったとたんにぐっすりと寝入ってしまった。
・「鉄条網に走る」という収容所特有の言い回しは、収容所ならではの自殺方法を言い表している。つまり、高圧電流が流れている鉄条網に触れると言う事だ。
・一日の食事は水としかいえないようなスープ、人を馬鹿にしたようなちっぽけなパン、それにおまけがついた。ソーセージ一切れか、チーズのかけらであった。
・皮下脂肪を最後まで消費してしまうと、私たちは骸骨が皮をかぶって、その上からちょろっとぼろをまとった有様になった。
・筋肉組織が消えると、体は抵抗力がなくなり、居住棟の仲間はばたばたと死んでいった。
・夜は寝る前にシラミを取るのだが、その時自分の体を見て考える事は、皆同じだった。これが私の体か?これはもう死体じゃないか。
・夜、横になる前にシラミ退治ができれば、私たちはもうそれだけで喜んだ。シラミ退治が途中半端だと、夜もおちおち眠られないのだ。
・重病人には薬を半錠与え、危篤状態の患者には何も与えなかった。薬が無駄になるだけだからだ 。
【政府の代表者】
モラヴィエツキ ポーランド首相 1968年生 53才 政治家、経済学者。
・2017年首相就任。
・父親は物理学者で、労働組合「連帯」の指導者でもあった。
・出版会社2社を共同で設立。
・ヴロツワフ経済大で講師を勤めた。
ポーランド編 終わり