ボリビア
【MAP】
ワンポイント情報
・面積 日本の約3倍
・人口 1,150万人
・首都 ラパス(人口76万人) 標高
3,600mで世界で最も高い高所
にある首都
・民族 先住民41%、非先住民59%
・略史 1825年スペインから独立~軍
事政権~民政移管
・産業 天然ガス
・有名観光地 ウユニ塩湖
【 首都 ラパス 】
中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。 おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。
山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。
空気が希薄であることと、ほとんどの家が「アドベ」とよばれる日干しレンガで造られていることから、火事はめったに発生しない。
空気が希薄なために、吸っていないタバコの火が消える、ビールやコーラが激しく泡立つ、袋菓子、シャンプーなどが膨れあがったり破裂する、輸入品の粉クリームのふたを初めてあけるときに粉が吹き出るなど、高地特有の様々な現象が起きる。
酸素が不足するため、旅行者は高山病にかかりやすい。 急な坂だらけの街であるので、長く住んでいる人でも息が切れて苦痛を感じることが多い。
空港には酸素マスクが常備されている。高山病にかかったときにはコカ茶を飲むと症状が緩和されると言う
2017年現在「赤」「黄」「緑」「青」「オレンジ」の5路線が運行されていて最終的には11路線が開通予定。
地形の起伏が激しいラパス市内には鉄道を通すことが難しく、また市内の渋滞緩和策のひとつとして、元大統領モラレスによって計画された。
世界では珍しく一般市民の足としてロープウェイが運行されている。またロープウェイからはラパスや隣のエルアルトの街並み、さらに天気が良ければアンデス山脈までも眺めることができるため新しい観光スポットとして人気の名所となっている。
ラパスの街から見るアンデス山脈
【ウユニ塩湖】
南米のボリビア西部にある都市ウユニから車で1時間ほど、アンデス山脈に囲まれた広大な塩の大地「ウユニ塩湖」。
標高約3,700mと富士山と同じくらいの高さに位置し、南北約100km×東西約250km、面積約11,000km²に広がっている。ちなみにその広さは…岐阜県=10,620km²とほぼ同じ!
見渡す限り真っ白の神秘的な大地が出来た背景として、はるか昔、アンデス山脈が海底から隆起した際に大量の海水が山上に残ったため、この広大な塩湖が形成されたといわれている。
塩湖全体の高低差がわずか50cm以内という「世界で最も平らな場所」であるウユニ塩湖では、降った雨が流れることなく大地に薄く膜を張ることで、空を湖面に映し出す「天空の鏡」と呼ばれる神秘的な絶景が現れる。
塩湖には3件のホテル
一番新しいホテルの様だ、1泊1人3万円とか
ロビー床も柱もカウンターも塩
レストランのテーブル、椅子も塩、だから動かせない
壁もベッドも塩
塩湖の中にポツンと島、サボテンが無数。
観光客は様々な遊びをして楽しむ!
【ポトシ(鉱山の町)】
ポトシ(鉱山の町)
富の山セロ・リコの銀は全て宗主国スペインへ
砕いた鉱石を高温で銀を取り出す
ボリビアの首都ラパスから南東に約 440 km に位置する。アンデス山脈中の盆地にあり、標高約 4,000 mと人が住む都市としては世界最高地点である。高山地域のうえ乾燥気候であるために植生には乏しい。
インディオの特徴を強く持つ人が多く、チョリータ(民族衣装)が多い。 町は1546年に鉱山町として設立された。人口も一時は20万人を数えたが現在は16万人。労働力としてアフリカ人奴隷も連れてこられている。
【可愛い動物】
こちらはラブラブ!
ビクーニャの毛は天然繊維で貴重、数え切れないほど沿線で見かける。
アルパカ
【日本人移住】
ボリビアへの移民
サンタクルスへの移住は。14,000人
1954年、沖縄政府計画移民第一陣269人がボリビアへ出発。
1950年九州からの移民が中心。180人が製糖業のため第一陣。計1700人が移住。
【戦争に弱いボリビア】
ボリビアの元の領土
・チリ、ペルーとの間で1879年に始まる太平洋戦争にて太平洋岸の領土を失った。
・ブラジルとのアグレ紛争にも敗れ、領土の一部を失
うこととなった。
・1932年、パラグアイとのチャコ戦争で敗れ領土が縮
小。
・アルゼンチンとの紛争で領土縮小
すべての紛争や戦争でボリビアは敗れ、結果領土は半
分程度になった。
【 あの チェ・ゲバラ の終焉の地 】
ゲバラの最後の地イゲラ村
ゲバラが収容されたボリビア・イゲラの小学校
ボリビアのラ・イゲラにあるチェ・ゲバラ像
チェ・ゲバラ終焉の地
1967年10月8日 ボリビアのバジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。
ゲバラが射殺された「理由」 CIAの「生け捕り」作戦、なぜ変更? されたか。
キューバ革命を成功させたゲバラ、やがてゲバラはアフリカのコンゴやボリビアで社会主義革命を目指し、ゲリラ戦を指導していた。
当時、東西冷戦のさなか、米国は共産主義の拡大を防ぐため、親米のボリビアを支援していた。ゲバラを捕まえるため、米中央情報局(CIA)は「ゲバラを生け捕りにすること」であった。「もし、ボリビアでチェの革命が成功していたら、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、チリ、ペルーへも、チェは革命を広げていただろう」
そんな中、「反米の象徴」として影響力のあるゲバラの裁判が始まれば、世界中で釈放を求める声が高まる可能性があった。ボリビア政府はあせり、アメリカの方針に従わず射殺することにした。
射殺されたのは「事態を複雑にする。ゲバラは裁判にかけるべきではない」という判断からだったと言われている。
【政府の指導者】
ボリビア編 終わり