リトアニア

【MAP】

ワンポイント情報


・面積 日本のおよそ6分の1

・人口 280万人

・首都 ビリニュス(人口約54万人)

・独立

  バルト海を挟んで、船では北欧のフインランドへ至近距離の2時間。 ロシア、ポーランド、ドイツが隣国のため常に侵略され、文化も建物も宗教も食べ物さえも影響を受けた国々、それがバルト三国。忍耐の中から、三国がそれぞれ1991年独立。

首都 ヴィリニュス 】

    首都ヴィリニュスの街並み

世界遺産  リトアニア首都ヴィリニュスの街並み

現地ガイドは、昔大学の教授。一見こわもてだがさすがに教授、退屈はさせない。

ホテルの女の子、リトアニアは美人が多いので有名

 聖アンナ教会 :1812年、ロシアに攻め上るフランスのナポレオンがヴィリニュスに入城した際に、「我が手に収 めてフランスに持ち帰りたい」と語ったのは有名な話である。 ゴシック建築の素晴らしい教会。

【ローカル・レストラン】

人気のローカル・レストラン

  前菜は冷製ボルシチ

ツェペリナイ:リトアニア名物「ジャガイモ料理」

    中にはひき肉

デザートはアイスクリーム

      紅茶

      人形の親父のプレートにはチップ

【リトアニアの日本人女性】

リトアニア在住7年、埼玉出身で琥珀の販売会社を経営(社員は誰もいない)する彼女と乾杯!

ビールのつまみには、こちらは「男性の悦び」意味? 左端の豚の耳が人気。

メニューでは名称が珍しい「女性の悦び」を更に注文。

バルト三国・人間の鎖は1989年8月23日に、ソビエト連邦の統治下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)で、独立運動の一環として行われたデモ活動。バルトの道ともいう。

 およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600km以上(日本の東京から大阪以上の距離)の人間の鎖を形成した。このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。

 「人間の鎖」は地元の当局によって認可され、鎖が切れないよう、周到に計画された。例えば、各都市や町には担当の場所が割り当てられ、他の交通手段を持たない参加者には無料バスを提供するよう指示された。参加者は、現地時間午後7時から15分間手をつないだ。この集会を調整するため、特別のラジオ放送も行われた。

 その後、各地で多くの集会や抗議行動が行われるようになった。ヴィリニュスでは教会の大聖堂前で数千人が、ろうそくを持って国歌をはじめとする民族の歌を歌った。他の場所では神父がミサを行い、教会の鐘を鳴らした。

 エストニアとラトビアの国民戦線は二国の国境で集会を開き、巨大な黒い十字架に火がともされ、象徴的な葬儀が営まれた。 抗議行動はまったく平和裏に行われたが、参加者は報復や制裁がなされることを恐れたが、ソ連の体制崩壊もあり制裁は無く独立につながった。

 人間の鎖にどれだけの人が参加したかは報道によって異なる。翌日のロイター通信によれば、エストニア人70万人、ラトビア人50万人、リトアニア人100万人が参加したと報じている。

【バルト三国】

【日本の英雄】

杉原 千畝(すぎはら ちうね)さん

         領事館時代の写真

    「杉原記念館」看板

第二次世界大戦時代の日本領事館あと、現在は杉原記念館

当時の机、ここで1600枚のユダヤ人へのビザを発行サイン

6000人のビザ、杉原 千畝の切手

 杉原 千畝の功績

 第二次世界大戦の際、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くは、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。

 この時日本は日独伊三国同盟を結んでおり、ナチス・ドイツの意向に従わないわけにはいかなかった。外務省は当然ビザの発行は許可できるわけがない。

しかし、杉原は発行した。

 その後杉原は述べている。「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。 大したことをしたわけではない 当然のことをしただけです」

「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」

 外務省から退職通告書が送付され、外務省を依願退職。カウナスにおける大量ビザ発給の責任を負わされた形で実質的に退職させられた可能性が強い。

 2000年、故杉原氏の名誉回復を象徴する「杉原千畝を讃える顕影プレートの除幕式」が東京都内外交資料館であった。

 挨拶に立った当時の河野洋平外務大臣は、故杉原氏とその遺族に対して、

「外務省とご家族との間にご無礼があった・・・極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴らしい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応について、初めて外務省の非礼を認め正式に謝罪をしたのである。

 米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンが東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、「窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うこと」であり、「今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」との公式声明を発した。

 まさに日本の英雄、ここにあり。

 動画・・・・
 杉原記念館上映のビデオ → http://www.youtube.com/watch?v=f6BvmObdR-g

【十字架の国】

十字架の丘は「シャウレイ」の町の近く

十字架の丘 リトアニアから隣国ラトビアに行く途中は田園地帯

老若男女、願い事をして家路に

インフォメーションには民芸品売り場が

右から、左まで200mはあるだろうか、小高い丘の向こうにも丘がある。歩く速度が何故かだんだん遅くなる。

ここは墓地ではない。十字架をおく丘なのだ。

十字架、キリスト像、マリア像、ロザリオ・・・数えられない。

キリスト像もあまりの重さに首が下がっている

気味が悪いほど多数の十字架

      丘の向こうに、またもや丘が

      皆、言葉が出ない

    キリストも見る方も疲れた~

 リトアニアは「十字架の国」


 十字架の丘は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所となっている。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』の一つとして無形文化遺産(日本では「能楽」、「人形浄瑠璃文楽」、「歌舞伎」)に指定されている。

 その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられている。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されている。

 ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした(1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。反兵の家族が、彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てたのである

1918年、リトアニアは独立を回復。独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となった。

 リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を持っていた。丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や遺産への忠誠心を示した。それは、非暴力による抵抗を表していた。にもかかわらず、ソ連は3度にわたりブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした。

しかし、撤去しても夜更けに多くの人々が何度も何度も十字架を置いていき、あきらめなかった。

 この丘を見て、観光客の多くが茫然と立ち尽くす。異様な風景である。数十年、数百年にわたるソ連の支配に国民は疲弊していたのだ。十字架を置くことで抵抗するしか術がなかったのだ。

 独立した今でも十字架の数は増えている。遠く世界の国々から何かの意図で十字架を運ぶのであろう。この地を訪れる者は、しばしこの地で立ち尽くすしかない。


 動画・・・十字架の丘 → http://www.youtube.com/watch?v=bA97VeQFMiM

【政府の指導者】


シモニーテ リトアニア首相 1974年生 47

 

・大学卒後、1997からリトアニア財務省で勤務。

・財務大臣、大学講師、国会議員。

2020年首相就任。

 旅を終えて・・・

 バルト三国を歩いて感じたのは、ソ連(現在はロシア)の脅威を未だに国民が感じていることである。若い人も同じようだ。

 1700年代からおよそ270年ほど支配されてきた歴史があるからである。またいつかロシアは攻めてくるかもしれないと恐れているのだ。

 三国共に平和な時代を過ごしている。未だに経済が軌道に乗っていない国もある。しかし、国民は明るい。どの国へ行っても大国(ロシア、アメリカ、中国・・・)の政策に翻弄されている国が多い。

 世界には大国のエゴにより苦しめられている国々がなんと多いことか。大国のエゴは資源の確保、領土の確保、自国経済の成長、自国流通の延長、自国の物流ルート延長、人流の一方的拡大などである。

 植民地政策は未だに続いている・・・。

リトアニア編   終わり