チリ
【MAP】
ワンポイント情報
・面積 日本の約2倍
・人口 1,900万人
・首都 サンティアゴ(人口1800万人)
・民族 欧州系87%、先住民系13%
・言語 スペイン語
・経済 中南米の「優等生」と評され、国際社会における評価も高い
・チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。
・銅生産量では世界一である。
・ワインの生産国は世界の上位である。
チリの領土の長い理由
1. 独立当初のチリは、現在の1/3程度の長さ
(赤い部分)。
2. 硝石の有力な鉱脈が発見されたため、チリ
とボリビアの間で硝石鉱山を巡る戦争が起
こる。
ボリビアには、ペルーが味方し、3カ国間
で太平洋戦争と呼ばれる戦争が勃発した。
イギリスの支援を受けていたチリが圧勝し、ボリビアとペルーから領土を奪い、北方に勢力を広げた。青い部分がボリビアから奪った領土で、水色の部分がペルーから奪った領土。
3.. 南部の地域には、原住民であるマプチュ族がおり、その後マゼラン海峡の重要性が高まると、アルゼンチンとチリの間で、マゼラン海峡の支配権を巡り対立が生じ、結局安定した水域を有するチリ側が優位になり、現在のチリ領が確定した。 黄色の部分
【 首都 サンティアゴ 】
サンティアゴの街並とアンデス山脈
首都サンティアゴ
サンティアゴ・デ・チレ、通称サンティアゴは、チリ共和国の首都である。人口は466万。標高520m。
サンティアゴは、スペイン人によって建設された。1985年に地震が発生し、中心部の歴史的建造物が破壊された。1990年には、国会議事堂が約120km離れたバルパライソに移転している。
降水は冬季に集中し、サンティアゴ市内でも雪が降ることもあり、周辺の山々は豊富な積雪量を誇る南半球最大のスキーリゾートとなっている。
バルパライソ 国会議事堂
バルパライソ の街並み
ホテルから見るサンチアゴの景観
ホテルから見るサンチアゴの景観
街並み
街並み
大聖堂(チリ・カトリックの総本山)
騎乗兵
サンチアゴの女
官邸前の衛兵
写真撮影に引っ張りだこの女性衛兵。どこかの国の皇太子妃殿下に似ている?
サルバドール・アジェンデの案内板
第29代大統領サルバドル・アジェンデ像とモネダ宮殿(大統領官邸) かってアジェンデ元大統領が空爆をされ、拳銃自殺したことで世界を震撼させた
第30代大統領 アウグスト・ピノチェト
アジェンデ
1970年から1973年まで同国大統領であった。チリ史上初の自由選挙による社会党政権が成立した。
アメリカは 「共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と認識し、また共産主義の不当性の宣伝材料としてきたホワイトハウスにとって、選挙によって選ばれたアジェンデ政権は自説の正当性を揺るがしかねない存在であった。リチャード・ヘルムズCIA長官は、「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。合衆国などの西側諸国は経済封鎖を発動し呼応した。
1973年、アウグスト・ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて再度大統領官邸を襲撃した(チリ・クーデター)。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で砲弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後、自殺した。
ピノチェト
1973年にクーデターを敢行、翌12日に結成された軍事評議会の議長となる。これは、1970年に自由選挙によって樹立された史上初の社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権を、冷戦時代に反共主義や反社会主義を唱える者であれば誰彼となく支援したアメリカ・ホワイトハウスの支援によって倒したものであった。クーデター直後に戒厳令が敷かれ、ビクトル・ハラを初めとする人民連合系の市民が多数サンティアゴ・スタジアムに集められ、容赦なく虐殺された。クーデター後一日で確認された遺体は2,700体に上った。
1974年6月27日には大統領に就任。アメリカ合衆国の政財界、チリ国内の保守層や軍部の支援を受けながら、その後1990年3月までの16年間に亘って軍事政権を率いて強権政治を行い、「独裁者」と呼ばれた。
2000年には、チリの市民団体がピノチェトを告発し、ピノチェトを殺人及び誘拐罪で起訴。しかし、ピノチェトには在任中の2700万ドルと言われる不正蓄財の容疑でも捜査が進められ、妻と息子が逮捕された。2005年10月にはピノチェトと家族の全ての資産が差し押さえられた。
2006年12月10日14時15分、心不全によりサンティアゴ市内の軍病院で死去した。
現在、ピノチェトに対しては、「軍事独裁政権を敷いた冷酷な独裁者」という見方が大勢を占めるが、一方では「アジェンデと並ぶアメリカ合衆国の犠牲者」と言う同情的な見方もある。ピノチェト失脚後、アメリカ合衆国とチリとの関係は悪化しており、チリ国内外には、「アメリカ合衆国がチリをダメにした」「ピノチェトはアメリカ合衆国の捨て駒であり、被害者だった」と、かつてピノチェト政権を陰ながら支持したアメリカ合衆国歴代政権の責任を問う声も多く出ている。
【アタカマ砂漠】
アタカマ砂漠。白い雪をかぶったアンデス山脈、反対側のこちら側は太平洋に連なる
アタカマ砂漠
アタカマ砂漠はチリのアンデス山脈と太平洋の間にある砂漠である。全体の平均標高は約2,000mにも達し、その過酷さからアタカマ砂漠への道は「死への道」と恐れられた。砂漠内にはオアシスがあり、東西交易の拠点としてアンデス山脈と沿岸を結んでいる。
東西の幅は平均160kmに満たない一方、南北の広がりは1000kmあり長大な盆地状をなす。アンデス山脈と海岸の山地によって湿った空気が遮断されているため世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある。
不毛で岩塩や石灰の堆積層で覆われている所が多く銅、銀、ニッケル、リチウムなどの資源に富んでいる。天然の硝酸ナトリウム(チリ硝石)の産出は世界最大であり、1940年代初期まで大規模に採掘されていた。
アンデス山脈は、主に南アメリカ大陸の西側に沿って、南北7500km、幅750kmにわたる世界最大の褶曲(地層が曲がりくねるように変形)山脈。
山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。最高峰はアコンカグア(6960m)で、6000mを越える高峰が20座以上聳え立っている。
月の谷
フラミンゴ
月の谷
アンデス山脈東部の山間盆地にひろがるイスチグアラスト・タランパジャ自然公園群を埋め尽くす岩石砂漠は、三畳紀時代(2億4500年前~2億8000万年前)の地層がむき出しの状態で広がっている。まるで月面世界のようで現地の人からは、月の谷と呼ばれている。
この地で、哺乳類の祖先や恐竜、植物などなど。1991年には世界最古の恐竜の化石が発見されたという。
タティオ温泉 (標高4500m)
ナイスバディの美女に注目
【チリとは・・・】
イースター島に残るモアイ像
チリとは
西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南に細長く、北から南までの総延長は約4,630km(参考:日本列島は3,300km)に及ぶ。
チリの国土は、主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。
最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が多くなっている。
識字率は約96.4%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカで最も高い部類に入る。
チリは,1970年代初めより他の中南米諸国に先駆けて,国家主導型産業育成政策から,民間主導の開放経済へと政策転換。
その後1980年代初めの債務危機を克服し,順調に持続的成長を達成させたことから,中南米の「優等生」と評され,国際社会への評価も高い。
チリの略史
・1万年前 世界最古のミイラ発見。先住民はアジア系人種、ポリネシアン人種
・16世紀 インカ帝国の支配始まる。
・1541年 スペインがサンティアゴを創建
・1557年 スペインが総督府を置く。以後3世紀にわたる植民地が続く
・1818年 スペインから独立。オイギンスが初代元首
・1879~1883年 太平洋戦争。隣国のペルー、ボリビアと戦い、領土を広げる。以後、
両国からチリ感情が良くない。この戦争以後、他国との戦争はない。
・1970年 社会主義政権時代となる。
・1973年 軍事政権のピノチェトが大統領。
・1989年 民政移管、軍事政権に終止符。以後安定。
【チリワイン】
全国に約500のワイナリーがあるチリ
コンチャ・イ・トロ
チリ・ワイン
チリワインの生産量は現在、イタリア、フランス、スペインに次いで世界第10位(2005年現在)。
スペインによる南米各地の植民地化にはカトリック教の宣教活動が重要であったため、宣教師たちは南米の太平洋沿岸側を南下しながら活動を行った。
そして、教会の礼拝に必要なワインを作るために、葡萄の木もチリに持ち込まれ、これがチリの気候や土壌と良くマッチし栽培が広がった。
チリのワイン作りが始まったのは、16世紀の中頃である。
転機が訪れたのは、19世紀後半、世界中のぶどうをフィロキセラという害虫が襲ったときのこと。
ヨーロッパの醸造家たちが難を逃れてチリに移住したため、近代的な醸造技術が伝わり、チリワインの品質向上に大きな影響を与えたのである。
また、陸の孤島と言われるチリの地形がぶどうを害虫から守り、結果的にチリ独自の品種を生み出した。
全国に約500のワイナリーがあるチリ。
・日本のワイン輸入量の国別シェアで、フランスなど南欧諸国を上回り首位となっている(2018年)
東にそびえるアンデス山脈、西の海岸線に沿って流れる冷たいフンボルト海流、北部のアタカマ砂漠と南の氷河が天然の障壁となり、ブドウを害虫から守っている。
ちなみに、フランスのワイナリー、25,000~27,000件
コンチャ・イ・トロ
チリ最大のワインメーカーである。
1883 年、スペインの名門貴族コンチャ家のドン・メルチョー氏が、世界有数のワイン銘醸地ボルドーからブドウ苗をチリへ持ち込み、ブドウ栽培に最適な気候を持つマイポ・ヴァレーにブドウ畑を開拓し、コンチャ・イ・トロの基礎を築いた。
現在のコンチャ・イ・トロ社はチリの10ヴァレーに55の畑をもつだけでなく、アルゼンチンとカリフォルニアにも進出し、3カ国合わせた栽培面積は、世界第2位となる1万2000ヘクタールにのぼる。
【 ワイナリー訪問(サンタ・リタ)】
チリの首都、サンチャゴにある 「サンタ・リタ」 のワイナリー
ブドウ畑の緑が眩しい
案内嬢とガイド
チリは地震が多いので、この様な耐火構造
ワイナリーのレストラン、とってもゴージャス
テスティング、まだ飲める? とからかう案内嬢
グラスが三個
白と赤、ムム~ツ。 これはうまい、当然飲み放題
モモのような
サーモンサラダ
牛煮込み
120の意味、下記参照
日本円で800円程度。 300円~500円が多い
120 シェント・ベインテ
その名の由来は、チリ独立戦争時にサンタ・リタ社創立前のワインセラーで120人の革命兵士達をかくまったことにある。
1818年チリが独立を果たし、彼らを指揮していたベルナルド・オイギンス将軍が初代大統領に就任。
120人の英雄達と共にチリ建国へ貢献したという誇りから、120(シェント・ベインテ)が生まれた。チリの歴史と共に市民に親しまれ、世界中で愛されているワイン。
【アコンカグア】
アンデス山脈の上空から見る
アコンカグア(6960m)
アコンカグア登山ルート概念図
【政府の指導者】
チリ編 終わり