ボスニア・ヘルツェゴビナ
【MAP】
ワンポイント情報
・面積 中国・四国地方とほぼ同じ
・人口 330万人
・首都 サラエボ(人口31万人)
・宗教 イスラム教(54%)、セルビア正教
(33%)、カトリック(12%)
・独立 ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、ク ロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。
【サラエボは3つの事象で注目】
3つの宗教が争う
ユーゴ解体から、独立をめぐってイスラム教、セルビア正教、カトリックの信者たちが、民族の争いで死傷者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。
サラエボの銃声
サラェボ近郊イリッツエに到着したオーストリア・ハンガリー帝国の大公夫妻は、 犯人プリンチップによりブローニング拳銃で襲われた。オーストリアは事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。
山に囲まれ盆地の中にある
赤い屋根が目立つサラエボ
第二次世界大戦はこの場所から・・・「サラエボの銃声」ラテン橋 橋の右側がその場所
右がラテン橋、左の博物館付近が事件場所。博物館のウィンドウには、事件の説明や写真、車、犯人の写真等が掲載
大公夫妻が乗っていたオープンカー
犯人ガヴリロ・プリンツィプは未成年のため牢獄に。窓もない独房故最後は発狂死
【橋を挟んで】
復興なったスタリーモスト(古い橋)。左側がカトリック圏、右側がイスラム圏。この橋をはさんで同じ民族が争った。
破壊中の石橋
復興後
【銃撃の跡】
砲撃で炎上するサラエボ
イスラム圏の街には破壊されたビルが未だ多数
ビルに銃弾の跡
サラエボのスナイパー通りという、大通りと話題になったホリデイ・インはそのままである。ビルの上から市民が動くと女・子供までが標的となり亡くなったと言う。だからこの辺は「狙撃兵通り」。ひどい名前だ。
【宗教は民衆を苦しめる】
バルカン半島最大のセルビア正教会(キリスト教)
カトリック大聖堂キリスト教)
イスラム教のモスク
・対立 1992年、独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死傷者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。民族間の不信感が今も根深く残っている。
ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
・民族浄化
紛争は「陣取り合戦」であった。手段としては各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。
・女性の悩み
また、女性らは強制収容後、組織的な強姦を繰り返され、妊娠後中絶が不可能な段階になってから解放することによって、出産せざるを得ないよう仕向けた。これは家父長的な男権社会の影響が残っていたボスニア・ヘルツェゴビナの村社会では、女性が強姦によって(異民族の子を)妊娠・出産したということは、一族にとって非常な不名誉と見なされるため、これによってコミュニティを破壊させ、効果的に異民族を排除できると考えられたためである。
【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】
ユーゴ解体、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言 430万人
・ボシュニャク人(ムスリム人)44% (イスラム教) 独立主張
・セルビア人 33% (正教会) 独立反対
・クロアチア人 17% (86%がカトリック) 独立主張
【紛争終結のその後】
未だ和解ならず!
観光バスの運転手はクロアチア人。モスタルで観光バスの昼食場所が石橋の近くのイスラム圏のレストラン。
運転手はいつもガイドと食事をしていたが、この日はいない。ガイドに聞いてみた。私はイスラムの人や、ましてやイスラム人の経営しているレストランでは食事はしたくないと言って、橋の向こうのカトリック圏のレストランに行ったと言う。
学校でもいまだ!
トラブニクの分離学校の校庭。サッカーボールをフェンス越しに投げ返そうとするボシュニャク人生徒 。
ボスニア内戦が終わって20年以上になるが、この街にある学校は内戦の遺産を引きずったまま、真ん中が金網フェンスで仕切られている。
生徒は毎日、同じ学校に通いながら民族別に分かれて勉強している。別々の教科書を使い、別の言語で学習する。 郊外からやってくるクロアチア人は校舎の右側半分で授業を受ける。その大半はカトリック教徒だ。ほとんどが市内に住むボシュニャクと呼ばれるイスラム系住民たちは左側半分の教室で受ける。
・シェフィク・ジャフェロヴィチ ボシュニャク人
1979年に大学法学卒業。家族の司法機関で働らく。 評議会に選出 。 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦国会議事堂で副儀長に就任。 、2020年3月20日から11月20日までその議長。
在任期間2020年3月20日 - 2020年11月20日
ボスニア・ヘルツェゴビナ編 終わり