ペルー
【MAP】
【スペインの征服】
インカ帝国
最後の皇帝トゥパク・アマル
スペインの征服
スペインの征服者フランシスコ・ピサロ
1533年にスペイン人の征服者フランシスコ・ピサロに滅ぼされ たインカ帝国。
全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは植民地化で108万人になったといえば、その凄まじさがうかがわれる。
【 首都 リマ 】
リマ
アルマス広場
カテドラル
【クスコ】
クスコの街並み
標高3,400m にある街
低所得者は山の高い所に住む
12角石
インカ帝国の建造物は精微
【ランチ・タイム】
ロサ・ナウティカ シーフードが人気
海辺にたたずむ人気レストラン
【 インカの謎 マチュ・ピチュ 】
マチュ・ピチュから見た、太陽に照らされているワイナ・ピチュ(若い峰)
登頂には50分ほどかかり、道中には、手すりがない突き出した階段や月の神殿に行く分岐点がある。山頂には住居やインカ帝国式の寺院の遺跡が残っている。
ワイナ・ピチュに登る道
ワイナピチュの頂上
マチュ・ピチュ
15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーの谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。
山裾からは遺跡の存在は確認できないことから、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと雅称される。
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
マチュピチュの麓の街
列車の最終駅
インカの王様像
街のホテル
ホテルが立ち並ぶマチュ・ピチュ村
マチュ・ピチュ村からバスで向かう
かなり険しく川に沿って奥へバスは行く
マチュ・ピチュの石組み
マチュ・ピチュの段々畑
マチュ・ピチュの建物跡
アルパカ
リャマ
マチュ・ピチュ村の土産物店
【ナスカの地上絵】
ナスカの地上絵セスナ機
機中から眺める。右、左
はるか下方に不思議な絵
ナスカ
ナスカの地上絵は、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた平坦な砂漠の地表面に、砂利の色分けによって描かれた幾何学図形や動植物の絵の総称であり、古代ナスカ文明の遺産である。
エリアは縦横30kmもある非常に広大な面積があり、全体に千数百点もの膨大な数の巨大な図形が描かれている。あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像の把握が難しい。なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということが大きな謎の一つとなっている。
主な動物を描いた地上絵の規模としては、長さ46mのクモ、96mのハチドリ、55mのサル、65mのクジラ、180mのイグアナ、135mのコンドルが挙げられる。
【チチカカ湖】
チチカカ湖
チチカカ湖は、南米大陸 アンデス山脈のペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖。
標高は3810mほどである。湖面の60%がペルー領で、40%がボリビア領となっている。「汽船などが航行可能な湖として世界最高所」と言われる。数少ない古代湖でもある。
浮島は1630年頃、先住民がスペイン人の侵略を逃れて造るようになったと推定されている。かつては漁業で生計を立てていたが、2005年にある浮島にオランダ人夫婦が泊まったことをきっかけに観光客の受け入れが始まり、約20の島に民宿がある。
島には約1500家族、5000人程度が暮らし、先住民族が居住しており、漁業や都市部での就労の他、島では農耕などに携わって生計をたてて暮らしている。
【ペルー原産の作物が世界中へ 】
ジャガイモ、トマト、かぼちゃ、ピーナッツ、トウガラシはどれもペルーが原産地。
16世紀にスペインの植民地になったことで、スペイン人がこれらの食材を持ち帰り、世界に広めた。
食用のジャガイモだけで3000種類以上もある。唐辛子も350種類。
【ジャガイモ】
色とりどりのジャガイモ
3000種類以上もある
これはアートと言える
アンデスのジャガイモ畑とインカの末裔
3000mの高所
【かぼちゃ】
かぼちゃ
アンデスのかぼちゃはでかい
アンデスのかぼちゃ畑
インカの末裔
【トマト】
ペルーにあるトマトの原種
トマト
トマト
トマトの歴史は現在のペルーを中心としたアンデス山脈周辺からはじまる。
アンデス山脈は太陽の光が強く、年間降水量が平均100m以下と、一年を通じて乾燥した地域。今で
もトマトが比較的乾燥を好む野菜なのは、このことが関係している。このトマトはその後人間や鳥によ
ってメキシコに運ばれ、その地ではやがて栽培されて食べられるようになったと言われている。
ヨーロッパに伝わったのはわずか400年ほど前、コロンブスの新大陸発見に端を発する大航海時代。 1529年にメキシコに上陸したコルテスがヨーロッパに初めてトマトを伝えた人物と言われている。
日本にトマトが伝わったのは江戸初期と言われていて、狩野探幽が「唐なすび」として、1668年にスケッチしている。また、貝原益軒の『大和本草』にも「唐ガキ」と紹介されている。
江戸時代にはヨーロッパに伝わった時と同様に、食用としては扱われず、観賞用としてのみ扱われていた。そのため日本料理にトマトが扱われることはなく、食用になったのは大正時代になり、洋食文化が広まり始めてからであった。
【ピーナッツ】
ピーナッツの歴史
ピーナッツは南アメリカ原産のマメ科植物。8500年前、アンデス山脈の東側から、 ピーナッツがペルー北部のザナ渓谷に移動。
初期のスペイン人とポルトガル人の探検家は、西インド諸島、メキシコ、ブラジル、ペルーなどでピーナッツが栽培されているのを発見した。
中国へは1600年代にポルトガルによって導入された。
日本へは中国から琉球を通じて江戸時代中期に入って来たといわれている。
ちなみに現在のピーナッツの世界最大の生産国は中国である。
【トウガラシ】
【銀】
ペルーの銀鉱山
銀の塊
金銀で作られた教会
銀
ヨーロッパ、スペインにより新大陸アメリカの発見に伴い、メキシコとボリビアの金・銀、ベネズエラとコロンビアの宝石、ブラジルの金、ペルーの銀を求めてヨーロッパからたくさんの移民が16世紀、17世紀にかけて大量に中南米大陸に押しかけたのである。
馬と銃のない中南米先住民が対抗できずに、スペイン・ポルトガルの植民地になることになった。
そして、大量の富がヨーロッパへと持ち出されたのだが、その多くでメキシコ、ペルー、ボリビア、ブラジル、などでたくさんの教会が建てられ、それを金・銀で埋め尽くされた。その面影は今でも残されている。
【ペルーの水産】
アンチョベータ
アンチョビ
【移民とフジモリ元大統領】
フジモリ元大統領
娘のケイコフジモリ
・移民
今でも推定で10万人の日系日本人がいるといわれていて、その規模は世界で3番目。1990年にはペルーで初めて日系日本人のアルベルト・フジモリ氏が大統領になったことも有名。
その後の日系人の人口増加を勘案すれば、現在の日系人口は数十万に達している可能性がある。
・フジモリ ペルー元大統領
・第91代大統領 1990年~2000年
・1938年、ペルーの首都リマで仕立物屋を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれる。
・両親は日本の熊本県出身であり、1934年にペルーへ移住した移民である。
・フランス、アメリカの大学に留学し、やがてペルーの大学の総長就任。
・大統領に就任すると大規模な経済改革を実行し、ペルー経済を立て直し、麻薬組織および左翼ゲリラを中心としたペルー国内の混乱に歯止めをかけた実績が評価されている。
・1990年代後半、テロや多くの腐敗事件が明るみにだされ、経済不況が戻ったことから、フジモリ大統領の支持率は低下し、東京にて大統領職を返上し、訴追逮捕された。
・その後、娘が大統領選挙に出るが勝てずにいる。
・2022年に憲法裁が恩赦の復活を決定し、フジモリは再び釈放されることとなったが、ペルー政府はフジモリの釈放を認めるべきではないとの決議を出した。
2022年現在、84歳の高齢である。
ペルー日本人ガイドのフジモリ評
リマの丘の上はやはり貧民街で水道が無い為、子供が学校を休んで下の公園水道から水を背負って運び上げる。フジモリ元大統領が貧民を救済し、丘の上まで水道を引いたり、住みやすい住環境を整え出したので、国民の人気は急上昇した。それを見て政敵が危うくなり、フジモリを陰謀にかけて失脚させたと言うのが庶民の間での一致した見解とのガイドのお話。
町や工場の塀には「2006年、カムバック・フジモリ」とあらゆる所で、あらゆる都市にも見受けられる。人気があったのである。
【政府の指導者】
ペルー編 終わり