ミャンマー

 空港

仏教国らしい空港

 親日国

   バスは日本からのお下がりなのか人気があるのかそのまま使用している。

 名所

 タウン・カラッは土着信仰のナツ神信仰の総本山。標高737mの岩山の頂きまでは右側の屋根の付いた階段777段を登る。

 仏教遺跡:バガン

バガンは、カンボジアアンコール・ワットインドネシアボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称され る。仏塔の数は、3000を超えるといわれている。広さは40K平方㎞で沖縄県と同じ広さである。
  建造物の大多数は、西暦1000年代から1200年代に建てられたもの である。

     馬車での移動は快適、あまりにも広すぎる

 5層のテラス、靴も靴下も脱いで、ミャンマーの寺院は全て裸足で歩かねばならない

 シュエサンドーパゴダ高さ100m、5層の上に登るには恐怖をおぼえるほど高い。

     シュエサンドーパゴダ 100間の高さから見る朝陽に固唾をのんで見守る

 食事

   最初に新鮮野菜、次はパスタ、そしてエビ料理

    メインは肉料理、デザートは毎回新鮮果物。日本人には喜ばれる

 ミャンマーの田舎の住宅事情

 竹が豊富なので田舎は殆どが竹の家、寒いので窓は少ない。テーブルや椅子も竹

 インレー湖

ヨーロッパ人観光客の間ではインレー湖はバガンと並ぶ観光地として人気が高く、浮島や浅瀬にはいくつかのリゾートホテルが建てられている

バラウン族の首輪

どうして首輪をつけてるの?

 諸説あるよう。美しさの象徴、その昔虎が女性の喉を噛み切るのでそれを守るため、内戦が続いたときに金を首にはめたところ、戦争が終結した、他の部族の男性と交際を防止するため(首長族を後世につなげるため)などが言われてい 

           インレー湖の島は水草のホテイアオイを集めて作られる。 家も寺院も畑までも。

インパール作戦の悲劇

作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。 

  インパール作戦の詳細は当管理人作成のHPをご覧下さい。 → こちら

左から、インパール作戦で散った日本人の慰霊碑、中は「弓部隊」の碑、右は当地のお寺で手厚く維持・管理してくれているお坊さん。

 2500の仏塔

  カックー遺跡   2500もの仏塔の丘。目を見張る異様さ 

           現地ガイドは大学生  

 女性

  ミャンマーのスッチー

ミャンマーの女性が好む化粧品で「タナカ」と云う木、水で樹液を取り顔に塗る。日焼け防止とオシャレとか。 

 托鉢

 大人の托鉢、右は女性の托鉢、小さな女の子まで。

托鉢で集められた食料で、1日2回の食事

田舎へ行くとお坊さんによる学校もある

僧侶

 はミャンマーでは非常に多い。国民の10%以上、500万人程度が僧侶。男性はもちろん、

尼僧も多いが男女の子供も大変多い。ミャンマーでは、男子は一生に一度は出家得度して修行す

るのが不文律となっているとも言う。

   
 自分がお坊さんになろうとしたら、家を離れることはもちろん、妻帯も男女の交わりも経済活動も生産も、ほとんどのものを放棄しなければならない。食べ物でさえ托鉢によって得たものしか食べられない。


 1日の食事は2回のみ。早朝と午前10時半頃、午後は水以外一切口には出来ない。だから翌朝まで18時間程度喰わずに修業することになる。

では何故厳しい僧侶になるのか? 軍事政権が長く、民主化が遅く企業が育たなかったので、農業か軍隊に入るしか選択肢が無く、必然的に僧侶が多くなったそうだ。

 何よりミャンマーの国民は信仰心が厚い。「お金が出来たら、まずお寺に寄付をする」と云うのが一般の国民性である

  この国には物もらいや乞食が殆ど見当たらない事である。考えるとこの国の宗教が大きく寄与しているのである。仏教国で国民の10%以上、500万人が僧侶である。田舎へ行くと学校が無い部分、僧院が寺子屋方式で子供の教育をし、また食べられない人は僧院で保護しているのである。日本の寺や神社は知らん顔だがミャンマーは違う。宗教にも質があるのだろうか。

 それに反して、ミャンマーの軍事政権は一体どういう組織なのだろうか、不思議である。

 スーチーさんは?

スーチーさんの自宅

この家で拘束されているのだろうか?

クーデター

民主化された後のミャンマーの姿を「日本で言えば、明治維新と第2次大戦の終戦とIT革命が一緒にやってきたような時代」と表現されている。しかしまた、軍政に戻ってしまった。 

タイ、ミャンマー、ラオスの国境地帯に広がる「黄金の三角地帯では最近、合成麻薬の生産が盛んになっている。ミャンマー軍部の腐敗した一部の幹部は、年間で数千億円規模の利権を手にしている と言われている。
 「3兆円規模のミャンマーの国家予算に比べても莫大な数字。この利権にスーチーさんにより手を突っ込まれると、こうした幹部らが考えたのではないか」 こうして軍政のクーデターは起こった、との説もある。何れにしてもミャンマーはイギリスの統制下に長くあったが、民主主義は根付かなかったようだ。イギリスも民主主義を叫ばれると植民地化は難しかったのだろう。いつの時代もエゴがまかり通るのである。

【政府の指導者】

アウンサンスーチー ミャンマー初代国家顧問 1945年生 76

2016年ミャンマー初代国家顧問、事実上の最高指導者であったが、フラインのクーデターで監禁中。


ミン・アウン・フライン ミャンマー国家行政評議会議長 1956年生 64

202121軍事クーデターを起こした張本人であり、政権転覆によって失脚した国家顧問アウンサンスーチーに代わってミャンマーの事実上の最高指導者にあたる国家行政評議会議長となった。

ミャンマー編   終わり