カンボジア

タ・プローム
(巨大なガジュマルの木々に押しつぶされそうな寺院) 

 アンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院宮殿などの遺跡群の内のひとつで、12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡。 

 熱帯の巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論である。2006年10月現在、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続中である。 

アンコールワット 

 ユネスコ世界遺産文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表する寺院。ヒンドゥー教寺院として作られた。しかし、16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在も上座部仏教寺院となっている。 

 アンコールワットはカンボジア最大の観光地である。
  カンボジア内戦前の1960年にはドラマ快傑ハリマオが日本のテレビ史上初の海外ロケを行っている

 トンレサップ 
 世界最大規模で水上生活者が生活、100万人以上が住む。

 乾季の間、水深は1m程度に留まり、面積は2500平方km琵琶湖4倍程度)しかない。しかし5月半ばから11月半ばの雨季には、プノンペン付近でメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流し、周囲の土地と森を水浸しにしながら面積は約6倍、深度も9mに達する。

          湖の中にある学校                         子供たちは船で通う 

アンコール・トム


 12世紀末の都市遺跡、通称“クメールの微笑”と言われている。

 アンコール・トムの遺構にはヒンドゥー教大乗仏教の混淆が見られるが、都市建築の基本はヒンドゥーの宇宙観を基に成り立った古代インドの建築理念の影響が見られ、中央に世界の中心である山岳メール山を象徴するバイヨン寺院がある

 アンコール・トムは約3キロメートル四方の京城であり、幅100メートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの城壁で囲まれている

ポルポト政権の大量虐殺


 多くの罪のない人を無理矢理な拷問にかけ、最後は楽になりたい一心から反ポルポト政権と嘘を言う人がたくさんいたぐらい不条理な現場。周囲からバレないように小学校をそのまま拷問場として利用。

 

 1975年、カンボジアに誕生したポル・ポト政権は内戦で荒廃した国を再建するため、都市の住民を農村に移住させ、ダム建設や米作りなどの重労働を課した。人々はおかゆしか与えられずに次々と餓死していった。一方、知識層は排除され、スパイの容疑で次々と処刑された。プノンペン市内のトゥールスレン収容所では、約2万人が拷問を受けて死亡した。 

 

 ポルポトの虐殺により、多くの国民が犠牲となり、その後の国民の平均年齢は24才、若者しか残されなかった。

カンボジアの歴史 ポル・ポト政権時代(1975年〜1979年)の学習

 

 フランスで共産主義を学び、中国の毛沢東に強い影響を受けたポル・ポトは、原始共産主義を掲げた。

原始共産主義とは?

 階級や格差のない社会を目指し、カンボジア独自の質素で堅実な農村生活を行うべきというもの。

この政権下のもと、

 学校は閉鎖された。病院も閉鎖された。貨幣も廃止された。戸籍も廃止さした。書籍は処分された。宗教も禁止された。音楽や映画も禁止された。恋愛も禁止された。一切の私財が没収された。

 当時、カンボジアの食糧生産は空爆などで大打撃を受けていた(この事についてアメリカは「カンボジアは今後海外からの食糧援助が得られなくなり、100万人が餓死にさらされることになるだろう」と予想していた。

 この頃のカンボジアの総人口が700万人なので7分の1にあたる。

 そこでポル・ポトは食糧増産を図るため、都市住民から財産や身分を剥奪して一人残らず農村に強制退去させた。約200万人の都市住民は食糧も与えられず歩かされ、この強制退去だけで約10万人が死亡したと言われている。

 強制退去させられた住民は、見知らぬ村(サハコー)で農業に従事させられた。異論を唱えた者は処刑された。十分な食糧も与えられず過酷な労働により生産された米は、外国から武器を購入するために召し上げられ、次第に大規模な飢餓が発生していく。

 ある日、ポル・ポトはこう呼びかけた。「理想の国をつくるためには教師や医者、技術者の力が必要だ。海外に留学している学生もカンボジアへ帰って来てほしい」と。この呼びかけによって集まった人々はポル・ポト政権に連れて行かれ、生きて帰ることはなかった。それはなぜか...

ポル・ポトは「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称し、「国を指導する我々以外の知識層は自国にはいらない」と考えたからである。

次第に虐殺はエスカレートしていった。

・眼鏡をかけているひと ・外国語を話せるひと ・本を読んでいるひと ・過去に海外に行ったことがあるひと これらの人々も知識階級と見なされ虐殺された。

 将来敵になるであろうとされた子どもも木に叩き付けられて殺されたという。ポル・ポト政権に反対したものは「政治犯」「反乱分子」として、拷問を受けた後、殺されていった。

 

 ある日ポル・ポトは、カンボジア全土に「内部に潜む敵を探せ!」という命令を下す。サハコーのリーダーには「内部の敵」を処刑する権限が与えられ、殺した人数を報告すれば賞賛されたという。処刑には証拠不要で、もちろん裁判などは決して行われない。「内部の敵」を密告するよう奨励されたことにより、「相手を密告しなければ自分が密告されて殺される」という恐怖が広がった。そのため、家族を密告する者もいたという。国民が互いを監視し合う。そして、国民が互いに殺し合う恐怖の密告社会が出来上がった。

  この悪夢の政権はいつまで続くのか。 ポル・ポトと交流があった中国やカンボジア周辺の国々は、このポル・ポト政権のことを知っていたのか。実は、ポル・ポト鎖国政策をとっていたために、世界はこの状況を知ることが出来なかった。外国人記者により他国で報道されることもあったようだが、「まさか!」「国民同士が殺し合うはずがない!」といった感じで、誰も信じなかった。

ポル・ポトは反ベトナムを掲げ、ベトナム領内を攻撃する。当時、中国とソ連が対立していた。ポル・ポト政権は中国から支援を受け、ベトナム軍はソ連から支援を受けていた。ポル・ポト政権とベトナム軍は対立構造にあったわけである。

ベトナム軍がプノンペンを占領した。ポル・ポト政権にはベトナム軍と戦えるほどの力が残っていなかった。ポル・ポト政権崩壊。ベトナム軍とカンプチア救国民族統一戦線が目にしたのは、横たわる大量の死体の山であった。

 このポル・ポト政権による強制労働、飢餓、大虐殺による死者は一説に200万人以上とも言われている。1970年代の総人口が約700万人と言われているので、約3割がそれにあたる。そして、ポル・ポト政権崩壊後の国民の85%が14歳以下であった。それだけ大人が殺されたということである。

 

ポルポトとは、どんな人物か?  


 民主カンプチアは、かつてカンボジアに存在した国家。いわゆるポル・ポト政権の正式名称。クメール・ルージュ(かつて存在したカンボジアの政治勢力、および武装組織の俗称)の精神的指導者として知られている。

 生い立ちは父母と子供2人、養子にとった甥たちなど約20人で、9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園と水牛6頭を所有し、カンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模であった。

その後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。

 奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学、フランス国立通信工学校に入校して2年間の技術課程を受ける。留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。

ポル・ポトは試験に3年連続で失敗し、奨学金を打ち切られたため、自国に戻りやがては中国の毛沢東思想の影響を受けていく。毛沢東の大虐殺の影響を受けた一人ともいえよう。

政権崩壊後は内部分裂で密林に逃れたが、最後は毒殺された

【政府の指導者】

フン・セン カンボジア首相 1951年生 70才 軍人政治家

 

民主カンプチア(ポル・ポト政権)で軍司令官を務めていたが、1977年に離脱しポル・ポトと決別。

農家に生まれる。

・1970年、クメール・ルージュ軍(ポル・ポト)の下級部隊指揮官として従軍、戦闘で顔面に銃弾を受けて左目を失明した。翌年の6月にポル・ポト派を離脱しベトナムに亡命する。

・1998年首相に就任。

中国の経済支援を後ろ盾に独裁化を強めているとされる。

・2017年時点で、在職期間で世界最長の首相とされる

親中派とされ、カンボジア首相府は中国の援助によって建設されている。

・フン・センに反対する野党勢力は中国のハッカーからサイバー攻撃などを受けているとされる。

カンボジア編  終わり