アルメニア

 アララト山

 トルコ共和国の東端にある標高5,137mのであり成層火山 。左が小アララト山、右が大アララト山 。アルメニアとの国境から32km、イランとの国境から16kmである。  『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。 

 アララト山は古くからアルメニア人の多くが居住してきた地域 であったが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住で相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人ジェノサイドとして国際的非難を浴びたが、トルコ政府はジェノサイドの事実を否認しており、長らく論争となっている(アルメニア人虐殺)。 

     赤いラインのあたりがトルコとの境界線。トルコの軍隊が終始見張り中。越境すると銃殺される。

 証拠物件

アルメニア正教会 の総本山。

 この教会の中にキリストを指した槍とノアの方舟の木の破片が展示されている。

キリストの脇を刺したローマ兵の槍。

ノアの方舟の木の破片、その上に十字架が置かれている。

 大虐殺

トルコによる大虐殺の前に集められたアルメニア人。前列には子供たちが・・・、この後全員が殺害された。

1915年4月、オスマン帝国軍の武装兵により追い立てられるアルメニア人。

 アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられている。
 大虐殺になった要因・・・

1.アルメニア人の多くがイスラム教からキリスト教に転じたため、イスラム人の恨みをかうことになった。
2.オスマン帝国からアルメニア人が独立すると言う風評が流れ、オスマン側から弾圧されることになる。

3.富裕層を中心にオスマン帝国を見限ったアルメニア人の欧米への移住が相次いだ。
4.貿易金融業で成功して富裕な商人層を形成しており、また建築家造幣官などとして宮廷、中央官庁に仕える者も多く、 それらがオスマン帝国の人民に反感をかった。

 アルメニアの人口は約300万人が、海外に住んでいるアルメニア人は約700万人と言われてい。多くのアルメニア人が、ディアスポラ(離散の民)として、ヨーロッパやロシアを始め、アジアやアメリカなど世界中に分散して暮らしている。 

 日本マクドナルドの創始者である藤田田氏が、「商売においては、華僑やインド人やユダヤ人が束になっても、アルメニア人には敵わない」といった旨の言葉を残してい

 コニャック

 チャーチルが愛したアルメニア・コニャック

   ARARATO工場見学&試飲

   コニャック

         アルメニア・ワイン

 ガイドと食事

 左はアルメニア現地ガイド、元歌手。右は大学生のガイド見習い。
 美人が多いアルメニア人女性の顔の特徴は、目が大きく鼻も高く、はっきりとした顔立ちの方が多いと言われている。また色々な血が混じっているので金髪や黒髪、様々な美人がいる。

アルメニア第一位のフロシキ、肉や野菜の煮込み料理。  

 葡萄の葉で包んだ肉料理

この葡萄で、世界で最高のワインやブランデー、コニャックが作られる。

市場にはたくさんの果物、大いに試食しました。

【政府の指導者】

サルキシャン アルメニア大統領 1953年生  67才 政治家、物理学者、コンピューター科学者。


大学の物理学助手のち准教授を務めた。

ケンブリッジ大学から客員研究員として招かれ、教授にまで昇格した。

2018年大統領に推薦される。

アルメニア編   終わり