みちのく岩手 紀行


            樹齢300年の杉並木

2023年10月、東北岩手県を旅した。都道府県の面積で北海道に次ぐ岩手、日本の辺地と言われた岩手だが見るべき所が多かった。
 一番の見所、中尊寺は、平泉の中心部北側の関山丘陵に位置し、奥州藤原氏初代清衡が、日本の北方領域における政治・行政上の拠点として平泉を造営するのに当たり、12世紀初頭から四半世紀をかけて、現世における仏国土(浄土)を表すその精神的な中核の寺院として最初に造営した寺院 である。

 中尊寺の入り口である月見坂に差し掛かると、まず最初に杉の大木の並木に圧倒される。江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が木陰を作り参拝客を迎える。老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、 500年前の平泉に思いを馳せて詠んだ一句「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」がある。 現在、芭蕉の句碑が高館と毛越寺の敷地内に建てられていて、この俳句は、中尊寺の金色堂を見て詠んだ句である。

奥州藤原氏 平泉



今回の旅はフエリーで八戸へ。

盛岡、花巻、平泉、宮古、久慈を回る観光・グルメ・史跡巡りである。

平泉は毛越寺中尊寺を徒歩で一日をかけてめぐる歴史散歩である。

 1105年藤原清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。 現在は2023年、何と187年前である。まさしく兵(つわもの)どもの始まりである。

 

(平泉を生んだ奥州の歴史)

 今からおよそ950年前の平安時代中期、「安倍氏」という豪族が、岩手県の中央から県南にかけて勢力を広げていた。頭領である安倍頼時は大きな力を持つようになり、この力を恐れた朝廷は、武士である源頼義を陸奥守として派遣し、安倍頼時・貞任親子と戦争を始めた。

 安倍氏と源頼義・義家親子との合戦は、およそ12年間にわたり続けられ、多くの兵士が傷つき、倒れていった。

 源頼義親子は苦戦したが、秋田で勢力を広げていた豪族、清原武則を味方につけ、ついに安倍氏を滅ぼした。この合戦を「前九年合戦」という。

 この戦で、安倍頼時・貞任親子は戦死し、頼時の娘の夫である藤原経清も源頼義によって殺されてしまう。しかしその後、頼時の娘は7歳になる息子をつれて清原家の息子武貞と再婚することになったのである。その息子こそが、のちの「藤原清衡」である。 約100年にわたる黄金文化、平泉の歴史はここから始まる。 

 ☆平泉駅散策

平泉駅と観光案内所、レンタサイクルが人気。

柳之御所は源義経を匿い、源頼朝に滅ぼされるまでこの地に栄華を極めていた平泉館があった。早速駅の裏側にある遺跡へと足を延ばす。

平泉駅前には右も左にも綺麗な店が立ち並ぶ。さすが年間観光客数が200万人を数える街である。芭蕉館では土産物のほかに「わんこそば」まであった。

柳之御所遺跡平泉館 栄華の跡

柳之御所遺跡は、『吾妻鏡』に記された平泉館の跡

柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)は、岩手県西磐井郡平泉町にある平安時代末期の遺跡。

        平泉館 建物跡 

出土遺物は種類が豊富で量もきわめて多い。 かわらけ・白磁などの土器・陶磁器類、瓦、内耳鉄鍋・鏡・輪宝などの金属製品、食膳具・呪符・形代・建築部材などの木製品、硯などの石製品、動植物遺体などがある。

       西の復元図

      東の復元図

毛越寺 (もうつうじ) 「浄土庭園」 

 850)に創建された天台宗の寺院。開山は慈覚大師。見どころは仏堂と苑池が一体として配された「浄土庭園」。日本最古の作庭書である「作庭記」の思想や技法を現代に伝える貴重な庭園

 天台宗(最澄=総本山:比叡山延暦寺延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、陰りが見えた。

中尊寺は天台宗東北大本山の寺院。実質的な開基藤原清衡

 奥州藤原氏三代ゆかりの寺。金色堂を始め、多くの文化財を有する。世界遺産。平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡秀衡泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄えた。

 当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺(モウツウジ)庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。

 奥州藤原氏源頼朝に滅ぼされるまで、東北地方一帯に勢力を張った藤原北家右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系の支流の豪族。奥州藤原氏は清衡秀衡泰衡4100年にわたって繁栄を極めた。しかし源義経を匿ったことから源頼朝に滅ぼされた。

        浄土庭園

     四季折々に景色が変わる

            本殿

         芭蕉句

       復元図

☆ 中尊寺

 850年に比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられている。実質的な開基は藤原清衡と言われている。境内の見どころとしては、国宝にも指定されている「金色堂」や、奥州藤原氏の残した文化財約3000点が収蔵される「宝物館讃衡蔵」などがある。 

月見坂


 月見坂と呼ばれる坂の入り口へとたどり着く。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきた。

本堂

 中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院。

 本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建された。

 古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められる。 

 不動堂


 本堂近くの不動堂は昭和52年建立の祈祷堂。御本尊の不動明王は1684年、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調された。不動明王は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しい顔をされている。皆様の願い事に応じて家内安全・病気平癒・受験合格・交通安全などの御祈祷をしている不動堂、今日では多くの信者さんを集め一年を通して御祈祷が絶えない。 

能楽堂


 古来、卯月初午の日に催行された中尊寺鎮守・白山神社の祭礼では、中尊寺一山の僧侶によって「古実舞(古実式三番)」と「御神事能」が神前に奉納されてきた。

 現在も毎年5月4日・5日に古実式三番と神事能が中尊寺一山の僧侶によって勤められている。

 この能舞台は嘉永六年(1853)、伊達藩によって再建されたもので、正統かつ本格的な規模と形式の能舞台として、平成15年(2003)に国の重要文化財に指定された。 

金色堂】

 中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、天治元年(1124)に上棟された。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂(屋根部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために箔補てんは見送られた)。

 まず堂内の装飾に目を奪われる。4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がする。

 須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護している。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なもの。

 孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されている。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がない。

 国宝建造物第1号の金色堂は、中尊寺を、また奥州藤原文化を象徴するもの。(国宝) 

   4代 藤原泰衡

昭和25年、「藤原氏遺体学術調査団」により 人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われている。

    藤原4代

藤原 清衡  1056年生まれ~1128年没

 奥州藤原氏初代当主。1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏4100の栄華の基礎を築いた。身長は159cm

 

藤原 基衡  1105生まれ~1157年没

 奥州藤原氏2代当主。藤原清衡の次男。1150毛越寺に大規模な伽藍を建立した。

基衡は血液型A型、身長は三代中もっとも高く167cm。太く短い首、福々しい顔。

 

藤原 秀衡  1122年生まれ~1187年没

 奥州藤原氏3代当主。奥州藤原氏最盛期時の当主。武士団17万騎を統率。

この頃平家全盛期を迎えるが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を有した。

 源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。その後、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化することを覚悟で受け容れた。

 頼朝が秀衡の君主としての器量を認めざるを得なかったことを示しており、それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていた。そして、奥州藤原氏に対して頼朝の圧力が強まるのは秀衡の死後であった。

 ミイラによる調査では、秀衡は身長164cm、いかり肩で肥満体質、腹がよく突き出していたと思われる。

 

藤原 泰衡  1155年生まれ~1189年没

 奥州藤原氏4代(最後)の当主。藤原秀衡の次男として生まれる。

父秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、平氏滅亡後に頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。

 源頼朝の圧力に屈し、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。しかし、泰衡は義経の首を差し出すことで平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。

頼朝が攻め入ると、泰衡は平泉に火を放ち、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。最後は家来に裏切られ殺害される。眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられ、また鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認された。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により、黒漆塗りの首桶に入れられ、父・秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。

讃衡蔵


 讃衡蔵は奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められている。

 平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を今に伝えている。 

   ☆ランチは前沢牛

旅の楽しみはやはり・・・グルメ

 出発地は苫小牧からフェリー

フェリーは夜9時乗船、駅前居酒屋で海の幸を求める

港町苫小牧の新鮮刺身で乾杯!

苫小牧は北寄貝の名所、美味い

    日本酒もすすむ~

「盛岡三大麺」 

  岩手県の県庁所在地・盛岡に根付く独自の麺文化「盛岡わんこそば」「盛岡冷麺」「盛岡じゃじゃ麺」 

 わんこそば東家本店

     人気の東家へ

  一度は食べたいわんこそば

 盛岡じゃじゃ麺

一番人気の白龍(バイロン)は常に行列、30分並ぶ

   店の壁一面に色紙

女将は食べ方を親切に教えてくれる

小麦から作られた、ゆでた温かい平麺の上に、キュウリやネギ、特製肉みそを全体によく絡めて食べる作法が最大の特徴。 お好みで、酢やラー油、おろし生姜、おろしニンニクなどを加え る。これが実に美味い。麺を食べ終えたら、残った肉味噌に生玉子を落とし、麺の茹で汁を加えた「チータンタン」で締めるのが定番 (右側) 2度美味しい。

  盛岡冷麺

「ぴょんぴょん舎」の名前の由来は、「邊(へん)」のハングル読みが「ぴょん」であること。 大草原の中で人が安らぐ場所「舎」、自然の中で動物たちが“ぴょんぴょん”飛び跳ねるイメージも重ね合わせ「ぴょんぴょん舎」と名付け た。

高級馬鈴薯澱粉粉と小麦粉を使用 した麺が実に美味い。手前の梨は味が染みてウマイのだ。

   朝 食

海外旅行・国内旅行を含め、日本でのホテルは安くて便利な庶民の味方「東横イン」である。
全国に335店、海外16店を構えている。高知県を除いてどこの都市にもあり、しかも駅から歩いて数分のところにある。

しかも安価で、朝食が無料である。朝食無料というシステムを導入したのは、多分東横インが最初かもしれない。料理を作るのはホテルの近くのオバちゃん方かもしれない。素朴でおふくろの味を彷彿とさせてくれ、癒されるのである。しかも愛想がイイ。

  前沢牛

 岩手県奥州市前沢 にある「牛の里」

   A5の最高級はうまい、美味い。

 宮古市の人気居酒屋

酒場詩人の吉田類も「無頼講」に来ていた

宮古市では有名なお店

刺身11点盛、宮古は港町、美味い

遠いところから来てくれたと、店主がイカの墨炒めをサービス

  地元の銘酒「男山」

苫小牧港近くの旨い店

超有名な「マルトマ食堂」は漁師相手だけに早朝朝5時から開店

個々の料理は全てが大盛、一番人気がホッキ入りカレー

 海鮮丼、ご飯が見えません

南部杜氏全国最大

有名なのは「日本三大杜氏」と呼ばれる集団。 それは、兵庫の「丹波杜氏」、新潟の「越後杜氏」、そして岩手の「南部杜氏」 

平成6年(1994年)の時点で、南部杜氏協会員数は1,725人、杜氏総数は368人、杜氏が就労している蔵数は389場で、九州と沖縄以外のほぼ全国に分布している

盛岡城(南部城)

                      石垣だけが今残り、栄華を残す盛岡城                   

        三橋美智也/古城 - YouTube

   松風騒ぐ 丘の上       崩れしままの 石垣に

   古城よ独り 何偲ぶ      哀れを誘う 病葉(わくらば)や

   栄華の夢を 胸に追い     矢弾(やだま)のあとの ここかしこ

   ああ 仰げば佗し 天守閣      ああ 往古(むかし)を語る 大手門               

盛岡藩は現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。表高20万石。

甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉奥州藤原氏征討の功で現在の盛岡に居を構えた。

盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地。南部杜氏は杜氏組合としては、全国最大の規模。領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される南部鉄器の本格的な生産が開始される。

青森県にあるの付く地名は、軍馬の生産地であり牧場の木戸のあった場所を「戸」と名付けたことから一戸、二の戸・・・と名がついた。南部光行が糠部に9つの牧場を設けて、それを中心とした集落に一戸から九戸までの呼称を与えたことに由来。四戸のみない。

岩手三賢人と武士道

・南部光行(南部藩始祖)

  南部氏は、由緒ある戦国武将で南部藩の始祖として歴史を残した。

新渡戸稲造
1984年、五千円紙幣に盛岡の先人・新渡戸稲造が印刷された。日本の心を語る「BUSHIDO」を英語で執筆した。日本を代表する国際人である。感銘を受けたアメリカ大統領ルーズベルトは30冊購入し友人らに配った。その後各国で翻訳されている。

  新渡戸家は300年以上南部氏に仕えてきた武士の家

・原敬

  明治維新で盛岡藩は賊軍とみなされたが、大正時代には。元家老の孫である 原敬 が、総理大臣として活躍する。

 

「花は咲く 柳は萌ゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道

 見えぬ道を武士道精神で切り開き、旧藩士たちはあらゆる分野に名を残した。

  南部藩の始祖 南部 信直

     新渡戸稲造

     原 敬

岩手県の偉人

南部光行(南部藩始祖)

原敬  (第19内閣総理大臣

斎藤実 (第30代内閣総理大臣)

米内光政(第37代内閣総理大臣)

鈴木善幸70代内閣総理大臣)

後藤新平外務大臣東京市市長

金田一京助(言語学者、民族学者)

高野長英(江戸時代後期の医者、蘭学者)

新渡戸稲造(教育者、農学者)

山折哲雄(哲学者)

宮沢賢治(詩人・童話作家)

石川啄木(歌人・詩人)

                 盛岡城の復元図

岩手県が誇る一村一品

岩手山早池峰山姫神山「南部三山」

           岩手山



日本100名山

盛岡市のあらゆる所からその雄姿が見られる岩手山、岩手県人のシンボル。

・ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふる さとの山はありがたきかな (石川啄木

・風さむき岩手の山にわれらいま校歌をうたふ先生もうたふ (宮沢賢治


           早池峰山

100名山。麓の岳集落で伝承される刀を手に勇壮に踊る早池峰神楽が知られている。 『遠野物語』 伝承の地。

                  姫神山


独立峰でピラミッド型をした山容が特徴である。山頂には一等三角点がある。日本二百名山新・花の百名山の1つである。 

標高1123.8 m。山麓の渋民村(現・盛岡市渋民)出身の歌人石川啄木がこよなく愛したことで知られる。 

小岩井農場(今も昔も有名で、人気の全国区牛乳)

 1891(明治24)年、日本鉄道会社副社長の小野義眞と三菱第二代社長岩崎彌之助(三菱の創業者・岩 崎彌太郎の弟)、鉄道庁長官の井上勝3が、東北 地方への鉄道開通を機に食料増産のため農牧事業を 起こそうと農場を開設。 3人の名字から1文字ずつ取って「小岩井」と命名。

農場の空気まで詰め込んだような産地直送牛乳。

岩手県にある小岩井農場まきば園は日本最大級の民間総合農場

南部3大商品

  南部鉄器 鉄瓶  

南部藩の野戦食 南部せんべい 

  庶民の味方 盛岡三大麺

日本のチベット

盛岡~宮古線は北上山地のトンネルばかり、猿でも恐れて入り込まない。

沿線には住宅がほとんどない

 盛岡 - 宮古間は大部分の区間が人口希薄な山岳地帯で、日本のチベットと言われていた。

帝国議会で野党議員は「こんな所に鉄道を敷いて、首相は山猿でも乗せるつもりか」と首相の原敬を非難した。これに対し原は「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と、平然と答弁した、と伝えられている。ユーモアのある回答であった。しかしここが開通したその後は、いつも満員の盛況であったという。

 宮古の水産物と盛岡の物資の流通が盛んになったのである。

       岩手県の産業

農業 東北第2位、全国第10位。

・林業 全国におけるシェアは4%、全国第6位。

・水産業 東北第3位、全国第14位。あわびが全国第1位、わかめが全国第2位、さけが全国第3位。

岩手県が生んだ天才・・・宮沢賢治

貫郡川口村(現・花巻市)出身。文学・教育・農業・地質学・宗教など、数々の分野で才能を発揮した。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学し地質調査研究を行ない、卒業後は農学校や羅須地人会で農民の教育・指導にあたった。
 文学面では心象スケッチ(詩集)「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」などを刊行。日蓮宗の熱心な信者でもあり、作品にもその宗教的な思想が見られる。郷土岩手をこよなく愛し、理想郷と位置づけ『イーハトーブ』と呼んだ。
 県内あちこちに足を運んでいたため、歌碑や詩碑などが点在している。昭和8年、急性肺炎でこの世を去った。
 生涯独身であった。

      宮沢賢治生家

生家は父親が質屋経営 資産家であった

    宮沢賢治記念館

    宮沢賢治記念館

    宮沢賢治記念館

       星めぐりの歌 - YouTube (唄:田中 裕子) 

岩手県が生んだ天才・・・石川啄木

石川啄木がこよなく愛した、ふるさと岩手の岩手山。盛岡からのどこからでもその雄姿が見られ、心の支えとなっている。

啄木生誕の地

石川啄木 生誕の地 常光寺

      墓碑

 

 明治19年2月20日石川啄木はこの寺に生まれた。境内には啄木の生涯の友であった金田一京助の揮亳による「石川啄木生誕之地」の碑がある。また、啄木の宝徳寺に転住するまで過ごした部屋が一部復元保存されている。 

 盛岡市出身の詩人。盛岡尋常中学校(後の盛岡中学校)金田一京助や後の妻である堀合節子らと出会う。『明星』に傾倒し、上級生である野村胡堂・及川古志郎らの影響を受けて文学に目覚め、明治35年中学校を自主退学・上京する。与謝野鉄幹夫妻を訪ねて指導を受け、明治38年『啄木』の名で詩集『あこがれ』を刊行。同年に文芸誌『小天地』を創刊するが、経済的に行き詰まり1号で終刊となる。
 明治39年渋民村に戻り、母校の渋民尋常小学校の代用教員となるが、翌年北海道行きを決意。辞職を申し出て引き止められるものの、ストライキ騒ぎを指導し免職。ここから函館、札幌、小樽、釧路と漂泊の生活を送る。
 明治41年に再び上京し『東京毎日新聞』に小説『鳥影』を連載。明治43年には処女歌集『一握の砂』を刊行。生活派歌人として評価されるが、貧困と病のため明治45年、故郷へ戻ることなく永眠した。 

石川啄木 2歳から18歳までを過ごした徳寺

啄木が使用した部屋は現存されている

     ひばの木

啄木は盛岡の隣村の日戸村の常光寺で生まれたが、一年後、父一禎が隣村の渋民村の宝徳寺の住職になったため、ここに移住し、盛岡の中学を退学するまで、この寺で暮らしている。歌碑は昭和364月に建立された。 

啄木の漂泊

父:一禎 (いってい) 放漫と母の溺愛

 石川啄木の父・一禎は、1850(嘉永3)年岩手県岩手郡平館村(現八幡平市平舘)に生まれ、長じて曹洞宗の僧となった。そして、宗門の師であり、歌人でもあった葛原対月の妹カツと結婚、1875(明治8)25歳で南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区日戸)の日照山常光寺の住職となり、その後渋民村(現盛岡市玉山区渋民)の宝徳寺住職を務めた。そしてサダ、トラ、一(啄木)、ミツ(光子)の一男三女をもうけた。
 しかし、1904年、宗費滞納との理由で罷免された。また母は一人息子啄木を溺愛しすぎて将来の人格形成に問題をおこす。「石をもて追はるるごとく」渋民村を去った啄木一家は、その後、生活苦の中に一家離散の悲しみを味わうことになる。

      龍谷寺

 

啄木の父 一禎 と、母 カツ はこの龍谷寺で知り合い結婚することになる。
龍谷寺は宗門の師であり、歌人でもあった母カツの兄葛原対月が住職である。
 一禎は生涯、和歌に親しみ3800余首を収めた歌稿「みだれ蘆」を残している。啄木はこの父と、和歌に秀でて名のあった伯父・葛原対月の影響を受けたといわれており26歳の短い生涯ながら多くの人びとの魂にふれる詩や短歌などを残した。 

父:一禎 (いってい) の終焉の地

 石川啄木の父一禎 (前列右端)、右から3番目が啄木の姉トラ とその家族


 啄木の父一禎妻や啄木に先立たれた一禎は、やむなく啄木の姉(とら)の夫である鉄道省職員の山本千三郎のもとに身を寄せた。 


 トラの夫の山本千三郎が鉄道官吏であったため、その転勤に伴い一禎も各地を転々としたが、1925年に千三郎が高地出張所長を命ぜられたため、高知に来て共に晩年を過ごし、高知駅近くにあった所長官舎で1927220日に76歳の生涯を閉じた。

 一禎の終焉の地は高知駅構内の官舎。官舎のあった位置は、JR高知駅の再開発が行われる前まであった高知保線区管理の高い四角無線鉄塔のあった場所とのことで、現在はケーズデンキの敷地内となっている。

 このような状況から、近くの駅構内に「啄木の父、石川一禎終焉の地」と書かれた石碑が駅前の広場に設置されており、啄木の父と高知との間に関わりがあったことについて、道行く旅人たちから意外がられている。 

啄木と北海道

明治40年21歳の時に北海道に渡る。

5月、函館に移り、9月札幌、更に9月末には小樽、明治41年1月釧路、3月には釧路を離れる11か月という短い期間だが、代表的な歌を数多く残した。この間の歌を明治43年、24歳の時に東雲堂書店出版、処女歌集『一握の砂』として世に出す。 

北海道には41の歌碑が刻まれ、銅像とともに親しまれている。

函館市4・倶知安町2・小樽市3・札幌3・岩見沢市北村1・美唄市1・砂川市1・釧路市26。

ちなみに、最もたくさんの歌碑があるのは、岩手の96(盛岡52) である。
 歌碑は岩手で96カ所、青森5カ所、秋田1カ所、北海道41・・・全国計134か所。

啄木の一面

石川啄木とは・・・


 「嘘つき、甘ちゃん、借金王、生活破綻者、傍(はた)迷惑、漁色家、お道化者(おどけもの)、天才気取り、謀反好き、泣き虫、生意気、ほとんど詐欺師、忘恩の徒、何もしないで日記ばかりつけていた怠け者、盆踊好き、狂言自殺常習者、空中に楼閣を築く人種の代表的存在、貧乏を売り物にした偽善者、度し難い感傷家などなど、石川啄木という人物は、じつにさまざまな不名誉きわまりない異名の持主である(1986年6月3日発行『the 座』前口上より)」というように、辛辣に、しかし愛情をもって評していたと解説。啄木の姿が生き生きと浮かび上がってくる。

啄木の歌碑追っかけ

·         岩手県盛岡を旅した機会に、啄木の歌碑を訪ねてみた。

   1.   岩手公園(盛岡城跡公園)  10. いわて銀河鉄道好摩駅歌碑

·         2.盛岡城跡          11. 丸藤大通本店銅像

  3.石割桜           12. 岩手銀行本店敷地の啄木歌碑

  4.もりおか啄木・賢治青春館

·         5.報恩寺

·         6.啄木新婚の家

·         7.盛岡駅前歌碑

·         8.盛岡市先人記念館 

·         9.岩山公園歌碑

    

岩手公園(盛岡城跡公園)

不来方のお城の草に寝ころびて

空に吸はれし十五の心 

盛岡城跡

「不来方のお城の草に寝ころびて……」岩手公園は啄木が学んだ盛岡中学のすぐ近くに当たり,彼は教室から逃げ出し,ここで文学の夢を結んだ。「病のごと思郷のこころ湧く日なり……」盛岡最初の啄木歌碑であり,啄木の代表的歌集「一握の砂」の中の「煙」の巻頭作品である。26年の短い生涯のうち文学に夢をはせ、恋に目覚め、新婚生活を送り、最も華やいだ青春時代を過ごした盛岡にはゆかりの地が多く、啄木の歌碑が多数点在する。 

啄木の石割桜を詠み込んだ短歌が三首

盛岡の中学校の

 露台(バルコン)の

 欄干(てすり)最(も)一度我を倚らしめ


 神有りと言ひ張る友を

 説き伏せし

 かの路傍(みちばた)の栗の樹の下


 西風に

 内丸大路の桜の葉

 かさこそ散るを踏みてあそびき 

もりおか啄木・賢治青春館 

同県出身の石川啄木宮沢賢治と、彼らが中学生時代を過ごした盛岡の地をメインテーマとする

ビデオ室では生い立ち等が放映され一見の価値あり。

 報恩寺 

 石川啄木がまだ盛岡中学の学生だったころ、この北山一帯の風光をこよなく愛し、級友とよく散策したといわれている。詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺をうたったもの。

「落瓦の賦

 幾年の前なりけむ、猶杜陵の学舎にありし頃、秋のひと日友と城外北邱のほとりに名たゝる古刹を訪ひて、菩提老樹の風に嘯《うそぶ》ぶく所、琴者胡弓を按じて沈思頗《すこぶ》る興に入れるを見たる事あり。年進み時流れて、今寒寺寂心の身、一夕銅鉦の揺曳に心動き、追懐の情禁じ難く、乃ち筆を取りてこの一編を草しぬ。 

     啄木新婚の家

  啄木の居間、奥が寝室

    新婚の部屋

啄木新婚の家

 新婚の石川啄木・節子夫婦が、啄木の父母と妹と明治38年(1905年)6月に住み始めた家。しかし新婚生活は貧しく3週間で転居することになった。

 新婚の部屋はたった二畳間ほどの狭さである。

 父親はこの頃ほぼ破産しており、妻と娘1人を連れ、新婚でもある啄木の新居に転がり込んでいた。

 啄木はすでに重荷を背負っていたのである。

  

  盛岡駅前歌碑

  盛岡駅前広場には

 「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と刻まれた歌碑がある。

   東京朝日新聞時代に勤めていた時代に詠んだもので、その郷愁を誘う歌は多くの人に親しまれている。

   また、駅正面外壁に掲げられた「もりおか」の文字は、啄木自筆の文字を集字して使用したもの。 

盛岡市先人記念館 

 五千円札で肖像画にもなった国際人・新渡戸稲造、アイヌ研究の先駆者で国語辞典の編纂にも尽力した言語学者、国語学者・金田一京助、“良識の提督”と呼ばれた海軍大将で第37代の内閣総理大臣・米内光政。三人とも盛岡出身。

 また原敬、石川啄木、宮沢賢治などを始め、数多くの盛岡ゆかりの偉人たち。総勢130名の偉大な先人たちの功績や足跡を知ることが出来る岩手県「盛岡市先人記念館」を紹介している。 

  岩山公園歌碑


  盛岡・岩山公園のお店の脇のちょっとした広場に啄木の像が立っている。

  ここは、啄木望郷の丘。 そして、夫婦の詩が刻まれている。

看板には、

  夫婦が逝いて70周年。
その鎮魂のために郷土の山河を望むここ風光の地岩山山頂を画して啄木の銅像を建て、併せて夫妻の歌碑を建立する。 

  現在の好摩駅

   好摩駅前にある歌碑

  いわて銀河鉄道好摩駅歌碑

  渋民には現在は渋民駅があるが、啄木の頃にはなかったので、啄木の育った宝徳寺から5km先の好摩駅を利用していた。

  文学を志して上京するとき、挫折して故郷へ帰るときなど啄木は何度も好摩駅に立ったのであろう。

  啄木が最後に好摩駅に立ったのは、明治40年5月4日、渋民村を追われ、函館に旅立った時である。  

 

啄木を訪ねて・・・
盛岡から渋民駅まで行き、渋民駅から徒歩で20分、 啄木が生まれた常光寺へ。更に宝徳寺まで距離は10km、のんびり歩いて1時間、そして啄木が利用した好摩駅までは5km 。北上川や姫神山を見ながら素朴な村を歩き、啄木の世界に浸る。

   丸藤大通本店銅像


  「新しき 明日 ( あす )の来 ( きた )るを 信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど」 


「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」

岩手銀行本店敷地(旧盛岡中学跡)の啄木歌碑


 啄木は明治314月に盛岡中学に入学し、3510月に退学している。盛岡中学には当時、野村胡堂、金田一京助らが在籍しており啄木も文学に目覚めた頃である。友人と回覧雑誌「爾伎多麻(にぎたま)」を発行したり、短歌グループ白羊会を結成し、「翠江」の号で「岩手日報」に「白羊会詠草」として歌を発表している。
 啄木が通っていた当時の盛岡中学は現在の岩手銀行本店の場所にあり、啄木歌碑は岩手銀行と盛岡地方裁判所の間の道路に沿った銀行の敷地内にあり、「盛岡中学濫觴の地」と銘記されている。「濫觴の地」 啄木もこの地から大きく育っていったのである。

盛岡を流れる母なる大河・北上川も、その源泉は盛岡から50kmほど北の岩手町にあり「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」といわれ、小さな湧き水だが、それが大きくなって盛岡を通り宮城県の石巻までの250kmの距離を流れる間にさらに大きくなっていく。なお、この歌碑は昭和5811月に建立された。


稲荷山歌碑

 盛岡市玉山区好摩の夜更けの森園地に啄木歌碑があるが、すぐ裏の稲荷山山頂にも昭和35年に建立された啄木歌碑がある。夜更けの森園地の裏側に坂道があり、木の階段になっている。この山の頂上には御影石でできた歌碑があり、石碑の文字は妹光子の文字で書かれている。啄木がいた当時の好摩駅周辺は、一面原野だったようだ。 

石川啄木・・・その功績

代表歌

啄木と文化人

与謝野鉄幹、与謝野晶子 宮崎郁雨 野口雨情 金田一京助 
            森鷗外 伊藤左千夫 北原白秋 若山牧水 夏目漱石 

 石川啄木が没したのは何と26才、赤貧の果て病に倒れる。石川啄木という人物は、じつにさまざまな不名誉きわまりない異名の持主でもあり、まさに漂泊の人生であった。北海道に渡り一年もたたずに札幌、小樽、函館、釧路をさまよっていた。

 しかし26年の短い人生の中で、当時のそうそうたる文化人に会い、いずれの人たちからも啄木の才能は認められていたことが伺えられる。

 もう少し長生きし、その才能を見せてもらいたかった。

三陸を回る

盛岡から宮古へ移動、そして三陸を走る

  日本のチベットを体験する

    三陸鉄道

龍泉洞「日本三大鍾乳洞

秋芳洞山口県美祢市)・龍河洞高知県香美市)と共に「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられる。 高低差約249 m。

実際の全長は2.5km以上とも5km以上とも言われている 。

2時間程度を全コースを歩く。階段を上り、下り、翌日は足・腰が痛く大変であった。自然の力を知りえた。

        日本にある鍾乳洞 その分布図

観光客は年間 20 万人程であり、岩泉町の観光産業を支えて いる

   神秘的な鍾乳洞、その深さは日本一の120m 

フェリーの旅

        シルバープリンセス号

     苫小牧フェリーターミナル

     八戸フェリーターミナル

  昔は和室の大広間が専門であった

 ちと高いが2等寝台A、静かで快適

                 思い出を残して・・・