苦味受容に残された謎

受容体の発見によって、味覚受容体の研究は大きく発展しましたが、まだまだわからないことがたくさん残っています。特に苦味受容体は、これまでに同定された三つの味覚受容体のうち、もっとも謎が多いものだといえるでしょう。

苦味細胞が一つの細胞につき複数の苦味受容体を発現しているという説があることを上で述べましたが、もしこのような苦味受容の考えが正しかった場合、それは感覚受容細胞としては特殊なケースに当たります。例えば、嗅覚細胞は苦味よりもはるかに数多い、数万種類もの匂い成分を受容しますが、一種類の嗅覚受容細胞には一種類の受容体だけが発現しています。もしかしたら、本当に一種類の苦味細胞が何種類もの苦味受容体を持っているのではなく、(甘味受容体などのように)複数のT2Rを持っているが、それらの組み合わせによって、一つの苦味細胞の表面に出ている受容体は結局一種類だけなのかもしれません。これについては将来の研究によって明らかになるでしょう。

また苦味物質の中には、苦味受容体のどれと反応するかわからない、あるいは少なくとも「苦味」であることは確かなのに、どの受容体とも結合しないものというのがあることがわかっています。味覚受容体の項目の表で受容体が「不明」として書かれたものがこれにあたり、実はコーヒーにとって重要な苦味成分であるカフェインも、どの受容体とも反応しない苦味物質だと考えられています。このような苦味物質がどうして苦味を生じさせるかについては、いくつかの仮説があります。

一つは、これまでに知られていないタイプの苦味受容体がまだあるのではないか、という仮説です。例えば、哺乳動物ではまだ見つかっていませんが、ショウジョウバエではカフェインと反応する苦味受容体の候補としてGr66aというタンパク質が見つかっています20。ただし、この仮説だけで、受容体が不明な苦味物質についてすべて説明ができるかどうかは疑問もあります。

もう一つの、そして現在有力視されている仮説は、苦味物質の種類によっては受容体を介さずに苦味を感じさせるもの(非リガンド性のもの)があるのではないか、というものです。例えば毒や薬として働く化学物質の中には、味細胞以外の細胞に対して、細胞内に直接浸透して入り込み、そこで細胞内の酵素などを阻害したり、活性化したりすることで作用するものがあることが知られています。これと同様に、ある化学物質が苦味細胞に入り込み、苦味受容のシグナル伝達経路の過程で、受容体よりも下流で働けば、それは苦味受容にも影響することになります。つまり、苦味受容体にリガンドが結合していなくても、結合したときと同じシグナル伝達の流れを生じさせるような作用をする化学物質であれば、それが苦味として認識されるのです。例えばキニーネやテトラエチルアンモニウムなどの苦味物質は、細胞膜にあるカリウムチャネルを阻害する作用を持ち、これによって苦味細胞の膜電位を変化させることで活性化します。またキニーネには、苦味受容体の下流に連結しているGタンパク質を直接活性化する作用があり、これによって苦味を生じるという説もあります。カフェインについては、味細胞内のホスホジエステラーゼ(PDE)という酵素を阻害することにより、細胞内のサイクリックGMPの濃度が上がることで、苦味細胞を活性化しているのではないかという説があります21。ただし、こちらの仮説にも疑問点は残っています。前述のように、苦味細胞と甘味、うま味細胞には発現している受容体の種類だけにしか目立った違いは見つかっていません。だから受容体よりも下流に作用する化学物質であれば、甘味やうま味など別の味反応も誘導するのではないか、という疑問が考えられます。もっとも、これについては味覚の中ではもともと苦味に対する感度が最も高く、鋭敏に反応するものであることから説明が可能かもしれません。味覚の感度が異なる理由には、(1)それぞれのリガンドと受容体の親和性の違いから、低濃度の味物質でも強く反応する、(2)味細胞から味神経への伝達以降の情報伝達がより強く行われる、という二通りの機構が考えられます。受容体の親和性だけでなく、味神経からの伝わり方にも違いがあって、苦味神経が他の味覚よりも鋭敏に反応しているのであれば、非リガンド性の味覚物質が、苦味物質として感知されることの説明が可能になります。また仮にそうであれば、苦味物質の中には「嫌な味として忌避される」苦味神経に最も強く反応する一方で、「好きな味として誘引される」甘味やうま味神経にも弱く反応しているという可能性もあります。ヒトが大人になるうちに、本来は忌避していた苦味を嗜好するようになるメカニズムはまだよくわかっていません。その大部分はむしろ、より高度な脳での学習や経験に依存すると考えるのが適切でしょうが、ひょっとしたら、こういう神経の末梢レベルでの機構も関わっているのかもしれません。

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