余談:コーヒージテルペンの光と影

恐らく、コーヒーに詳しい人であっても、コーヒーに含まれるジテルペン、カフェストール(cafestol)とカーウェオール(kahweol)という化合物を知っている人は、日本では少ないと思われます。このようなマイナーな化合物にも関わらず、抽出法による濃度の違いなどといった、他のコーヒーの成分でも行われていないような、細かな研究が行われたのには実は理由があります。それを語るため、まずこのジテルペンについて少し解説をしましょう。

「ジテルペン」というのは、植物が作りだす二次代謝産物の一グループの総称です。植物が作り出す二次代謝産物には、植物の種類が違っているにも関わらず、良く似た構造を持つ成分が存在することが知られていますが、植物の精油成分や薬効成分などに、炭素数が5の倍数(C5)になっているグループが存在することが古くから知られていました。この中で比較的古くから知られていた、炭素数10(C10)の化合物に「テルペン」と呼ばれるものがあったため、このC10化合物を基本単位と考えて、「テルペンの仲間」を意味するテルペノイドと総称しました。テルペノイドは、C10をモノ(=1)テルペン、C15をセスキ(=1.5)テルペン、C20をジ(=2)テルペン…と、C10を一単位と見なして、それぞれに接頭語を付けて分類されます。つまり、コーヒーに含まれる「ジテルペン」は炭素数20個からなる化学構造を基本とした分子の総称、というわけです。なお、後にこのテルペノイドはイソプレンと呼ばれる炭素数5個からなる基本骨格に分けて考えることが可能であることが判明し、「イソプレノイド」とも呼ばれています。

テルペノイドにはさまざまな生理活性があるため、初期の薬学や化学においては格好の研究対象とされました。モノテルペンやセスキテルペンには、メントールやゲラニオール、ピネンなど、植物の香りの元である揮発性の精油成分になるものが多く、またC30化合物であるトリテルペンには、生薬である甘草(カンゾウ)の有効成分であるグリチルレチンなどの薬理活性成分が、またC40のテトラテルペンとしてはビタミンAとなるカロテンなどが含まれています。ジテルペンもテルペノイドの例に漏れず、生理作用を有するものを含んでいます。もっとも有名なのは、イチイの樹皮に含まれる抗がん成分タキソール(パクリタキセル)で、タキサン型と呼ばれるジテルペン骨格を分子内に有し、現在も臨床的に利用されている代表的な抗がん剤の一つです。

さて、このタキソールをはじめとして、1970年代から80年代にかけては、植物に含まれる成分の中から薬になるものを見つけ出すという研究が、薬学や医学の分野で研究の本流になっていました。また1970年代は、抗生物質の出現によって細菌感染症の脅威が弱まり、人々が「がん(癌)」の恐ろしさを認識しだした時期でもあります。現在、がんは「遺伝子の病気」とも呼ばれていますが、この頃は「化学発がん」と言って、ある種の化学物質が遺伝子に変異を起こすことで、がんを発生する機構が注目されており、この「化学発がん」のモデル実験に対して、植物から抽出してきた成分を作用させることで、がんに対する治療薬を見つけようという研究が行われました。タキソールもこのような実験から1971年に見つけられたものです31

このような時代の中、コーヒージテルペンが最初に注目されたのは、1982年のことでした32,33。この頃、食品中に含まれている化学発がん物質がさまざまな消化器のがんを起こす原因だと考えられており、体内でこれらを無毒化するための酵素、すなわち解毒酵素を活性化することで、発がんを防止できるのではないかと考えられていました。そこで、代表的な解毒酵素であるグルタチオンSトランスフェラーゼ(GST)の活性を増強する物質を検索していたところ、コーヒーに含まれるジテルペンの脂肪酸エステルが発見されたのです。これはカフェストールやカーウェオールにパルミチン酸がエステル結合した、パルミチン酸カフェストールとパルミチン酸カーウェオールでした。これはいわば「コーヒーから抗がん剤の候補が見つかった」ということにあたります。なおしばしば誤解されますが、このような研究の目的は「だからコーヒーを飲めばがんになりませんよ」という結論を出すためのものではありません。これらの薬学的な研究の目的は「抗がん剤として使えるものを見つけ出す」ことであって、「コーヒーの薬効を解明する」ことではないのです。重要なのは、新薬として使えるかどうかということになります。残念ながら、コーヒーから見つかったこれらの「抗がん剤候補」については、動物実験の段階までしか研究が進まず、実際に実用されるまでには至っていません。しかし、この頃がもっともカフェストールやカーウェオールにとって光輝いていた時代であったかもしれません。

ところが、これらのコーヒージテルペンに対する評価は、あるときを境に一変します。それは1994年のことです。この頃、コーヒー飲用と血中コレステロールとの関係について、医学的な論争が行われていました。コーヒーを飲んだ直後に血中コレステロールの中でも俗に「悪玉コレステロール」と言われるLDLが増加する場合があります。現在は、この現象は一過性のものにすぎないことがほぼ明らかになっていますが、当時はこのことから、コーヒーを飲みつづけると高脂血症になりやすくなるのではないかと疑われていたのです。ところが実際に疫学的な調査を行ってみたところ、あるグループが行った調査では、確かにコーヒーを飲むとコレステロールが増加したけれど、他のグループが行った調査では変化が認められないということが相次ぎ、議論はますます混乱していました。

そんな中、『"コーヒーの謎"の終焉』"End of the coffee mystery"と題打った一報の短い論文が発表されました34。コーヒーに含まれているコーヒージテルペン、カフェストールとカーウェオールが、この一過性の血中コレステロール上昇を引き起こしている犯人であり、その濃度がコーヒーの淹れ方によって変動するために、国ごと地域ごとでよく用いられている淹れ方の違いによって、疫学調査の結果がばらついているのではないか、という内容の論文でした。そこでこの研究結果を受けて、さまざまな淹れ方で実際にコーヒージテルペンの濃度が比較されたというわけです。実際、コーヒージテルペンの抽出量が多い北欧での疫学調査の結果は、コレステロール上昇を支持するものが多いなど、ジテルペンの抽出量の差が、コレステロール上昇活性の違いと関連していることが明らかになりました。

その後、コーヒージテルペンによって血中コレステロールが上昇する理由も解明されました。これらのジテルペンはGSTを活性化するだけではなく、肝臓にある別の酵素であるコレステロール分解酵素の働きを阻害する作用も持っていることがわかりました。この作用によって、本来ならば分解されるはずだったコレステロールが体内に蓄積する結果、血中コレステロールの濃度が一過性に上昇するのだということがわかったのです。つまり、これらの研究結果によって、それまで「抗がん剤候補」であったカフェストールやカーウェオールには、「血中コレステロール上昇の犯人」という、別の烙印が押されることになったというわけです。

現在はというと、これらのコーヒージテルペンによる血中コレステロール上昇の作用メカニズムがわかった段階で、この作用は一過性のものであって、高脂血症のような長期的疾患の原因には結びつかないだろうということが判明しました。そして、その後も複数の疫学調査が行われた結果、この予測は概ね正しいだろうという結論に達しつつあります。このことから、普通のコーヒーに含まれている程度の量であれば、コーヒージテルペンをことさらに「悪玉成分」として摂取を避ける必要はないだろう、という結論に至っています。特に我々が日本で普段飲んでいるコーヒーのほとんどは、そもそもジテルペン含量はそれほど多くはありません。またその一方で、これらのコーヒージテルペンの活性酸素除去作用などに関する研究も行われており、これらが有用に活用できないかという研究も続けられています35。コーヒージテルペンに関する研究の推移は、一つの化合物が薬学的、医学的に見ると、複数の側面を持っているということの好例だと言えるでしょう。