余談:幻の「コーヒーエクソルフィン」

いきなり「クロロゲン酸ラクトン」と言われても、おそらくほとんどの人はこれまで聞いたこともなかったものだろうと思いますので、ここで少し脱線して、この化合物にちなんだ余談をしましょう。

科学雑誌 "Nature"(ネイチャー)と言えば、科学者だけでなく、一般の方にとっても名前を聞いたことがあるだろう、科学雑誌の横綱クラス、大御所中の大御所ですが、今から20年以上前、このNatureに衝撃的なタイトルの、一つの論文が掲載されました。そのタイトルは、"Coffee contains potent opiate receptor binding activity." (コーヒーにはオピオイド受容体と強く結合する物質が含まれる)、1983年に発表された論文です13。「オピオイド受容体」と言われてもピンとこないかもしれませんが、これが、モルヒネなどのいわゆる麻薬が結合する受容体だと言われたら、この論文のインパクトがわかるかもしれません。つまりカフェイン以外にも、脳に作用する成分がコーヒーには含まれていて、しかもそれは「麻薬」と同じような働きをするのではないか、という考えにつながる論文だったのです。

なぜこのような研究が行われたかというと、その発端はさらにもう少しだけ時代を遡ります。その当時だけでなく、現在に至るまで、アヘンから取れるモルヒネは非常に恐ろしい習慣性と依存性を持った麻薬であると同時に、終末期医療などでは未だに代わるもののない、もっとも効き目の強い鎮痛薬として、医療の現場で使われつづけています。しかしその副作用の大きさから、何とかしてモルヒネに代わる、副作用の少ない鎮痛薬の開発が求められ、そのためには、その鎮痛メカニズムの解明が必須の研究だったのです。

多くの研究の結果から、モルヒネは脳神経にあるオピオイド受容体と結合して鎮痛や快楽を生じさせているということがわかったのですが、この研究はさらに大きな一つの発見につながりました。それは「脳内麻薬物質」の発見です。ヒトや動物の脳内には、元々、このオピオイド受容体と結合することができるペプチドが存在し、これが何らかの知覚と連動して神経細胞から分泌されることで、我々はさまざまな知覚刺激に対して「快楽」を感じるのだ、ということが明らかになったのです。この神経ペプチドは1975年に二つの異なる研究グループによって発見されましたが、現在一般には、その片方のグループが名付けた「エンドルフィン endorphin」という名前で呼ばれています。"endo-”とは「中の、内の」を意味する接頭語で、"-orphin"は、モルヒネ morphineの語尾にちなんだ言葉であり、「内在性モルヒネ(様物質)」という意味の言葉です。我々の脳の中には、もともとは別に「モルヒネのために」用意された受容体があるのではなく、むしろエンドルフィンという脳内麻薬物質のための受容体があり、モルヒネがたまたまそこにくっつけるような構造をしているのだと考えられています。

ところで自然界には、さまざまな生物がいて、その生物はそれぞれ自分自身でさまざまなペプチドやタンパク質を作り出しています。ならば「脳内のモルヒネ様ペプチド」があるのなら、我々が食物として摂取しているものの中にもこれと似たような「体外のモルヒネ様ペプチド」もあるんじゃないかというのも、それほど無理のない考えだと言えるでしょう。そして実際に、小麦に含まれるグルテンや、牛乳に含まれるαカゼインなどのタンパク質を分解して出来たペプチドから、オピオイド受容体と結合する活性があるものが見つかり、"-orphin"に「外の」を意味する接頭語 "exo-"をつけて"exorphin"、「エクソルフィン」という名前が付けられました14。このうち、小麦のエクソルフィンは、小麦を焙煎したときにも微量生じることから、同様に「焙煎する食品」であるコーヒーにも同じような「コーヒーエクソルフィン」が存在するのではないかと考えられ、そして実際に1983年のNatureで、それが発見されたと報告された、というわけです。もしこれが本当ならば、コーヒーを飲むと頭が冴えるといった中枢神経興奮作用や、あるいはコーヒーに習慣性があることなど、コーヒーのさまざまな活性がこのエクソルフィンでも説明できるのではないかと考えられました。またその一方で、それまで食品からエクソルフィンが見つかってはいたものの、実際にその食品を食べたり飲んだりすることで、その物質が脳に到達して作用するかどうかは未知数だったため、コーヒーがその実例になるのではないかということで、エクソルフィンやエンドルフィン、ひいてはモルヒネや痛覚のメカニズムなどを研究している研究者からも注目されたのです。

ところが、結論から先に言うと、これらの期待はすべて「幻」になってしまいました。まず一つ目の反証は、「コーヒーエクソルフィン」と思われる物質は、試験管内(in vitro)の実験では直接オピオイド受容体と混ぜたときには結合するものの、実際にマウスに投与して生体内(in vivo)での活性を見るとオピオイド受容体に作用していないというもの15で、「食べても脳には届かない」ということを示唆するものでした。そして、さらに決定的になったのは、Natureにこの物質の存在を報告したグループが活性本体を見つけた結果、それは当初予想していたペプチドではなく、イソフェルロイルキナ酸ラクトン——つまりクロロゲン酸ラクトンの一種だったと報告した16ことでした。これによって、コーヒーには期待されていたような「エクソルフィン」は存在しなかったことが明らかになり、エクソルフィンやエンドルフィンの研究者の関心は薄れていきました。また、コーヒー以外の食品についても、食物中のエクソルフィンが本当に、食べた後に消化を免れて脳に直接入り込んで作用できるのかということを証明できなかったため、エクソルフィンは本当に麻薬様の物質として機能するのかどうかが疑問視され、エクソルフィンそのものについての研究も、とうとう花開くことのないまま、現在に至っています。

このような経緯で、「コーヒーエクソルフィン」は幻に終わってしまいましたが、一方で、このときに見つかっていたクロロゲン酸ラクトン類が、コーヒーの苦味成分としてもっとも重要なものの一つだったとは、恐らく誰も予想しなかったことだと思います。また、イソフェルロイルキナ酸ラクトン以外のクロロゲン酸ラクトン類について追実験が最近になって行われた結果12、以前とは逆に生体レベルでも作用するのではないかという結果も報告されており、今後この化合物に関する研究がどのような展開を見せるかについて、まだ当分は目が離せないといった状況です。

前(クロロゲン酸ラクトン類)< >次(ビニルカテコールオリゴマー)