焙煎と脂質

脂質はしばしば「深煎り豆に多い成分」と見なされることがあります。実際、深煎りにした焙煎豆を保管していると、その表面に油がしみ出してテカテカに光ってくることは良く知られています。この傾向は、確かに焙煎の進行と関連しており、焙煎度が低い浅煎りや中煎りの豆ではあまり見られません。しかしながら実際は、焙煎によってコーヒー豆中の脂質の含有量が増えるということはありません。むしろ、トリグリセリドやジテルペン系化合物などの主要なコーヒーの脂質は、焙煎による影響が少なく、含有量の変動も少ないことが知られています。

焙煎度が上がったときに豆に含まれる脂質の量が「一見」増えたかのように見える理由は、焙煎によって豆組織が破壊されるためであることがわかっています2。コーヒーの脂質は、もともと豆の内部に閉じ込められた状態で存在していますが、焙煎によって豆組織が燃焼し、細胞の構造が破壊されると、自由に流動できるようになります。豆組織の破壊は焙煎度に応じて進行するため、焙煎から時間が経過した深煎り豆では、脂質が内部から表面にまで染み出てくるのです。またコーヒーの抽出時には、豆表面の脂質が物理的に剥がれて抽出液中に混じってくるため、抽出液中に混じってくる脂質の量も、深煎りの方が多くなります。つまり、脂質の量そのものはあまり変化がないけれども、豆組織の破壊によって脂質が流動しやすくなることが、焙煎によって脂質の抽出量が増える理由の一つだと言えるでしょう。

その一方、矛盾して聞こえるかもしれませんが、抽出液中に見られる油滴の量については、むしろ浅煎りの方が深煎りよりも多く見えることも多々あります。これは深煎り豆においては、「泡のもと」となる界面活性作用のある成分(ビニルカテコールオリゴマーポリマーなど)が多く生成することによると考えられます。例えば、水に油を一滴落とした場合と、石けん水に油を数滴落とした場合を想像するとよいでしょう。脂質全体の抽出量は深煎りの方が多くても、界面活性物質によって抽出液中に分散されることで、表面に浮かぶ油滴の量は少なくなると予想されます。