味覚受容メカニズムの解明の歴史

味物質は、水素イオン(H+)や食塩(NaCl)のように、水溶液中で極めて小さなイオンとしての形をとるものから、甘味タンパク質などのように、複雑な化学構造を持った高分子のものまで、非常に多数かつ多種類に及びます。味細胞は、この多種類の味物質を受け止めて、それぞれ特異的に「どんな味か」を認識し、その情報を味神経に伝える役割を持っています。この、味覚の最初のステップ、すなわち味物質を認識する機構は、「味覚受容」と呼ばれます。

我々の体を構成している細胞のほとんどには、味細胞などのような感覚器官の細胞でなくとも、細胞の外側にある、細胞にとっての栄養源や、細胞の増殖を促す分子(増殖因子)を感知する機構が備わっています。これらは一般に細胞表面、すなわち細胞膜上にある特定のタンパク質によって行われており、これらのタンパク質は「受容体(またはレセプター、receptor)」と呼ばれます。細胞外の特定の分子(リガンドと総称される)が受容体に結合すると、細胞内部にその信号が伝えられ、細胞はその信号に応じてさまざまな活動を起こします。リガンドと受容体の結合は、しばしば「鍵と鍵穴」の関係に喩えられる特異的なもので、その受容体の形に合った、特定の立体構造を持ったものだけがリガンドとして働くのです。

味覚の場合も同様に、味物質が引き起こす味には特異性があることなどから、これらと同じようなメカニズムで知覚されるのではないかと、古くから考えられてきました。この味覚を感知する受容体のことを「味覚受容体」と呼びます。味物質には非常にたくさんの種類がありますが、甘味や旨味などについては、さまざまな実験結果から、このような典型的な「味覚受容体」が存在するだろうと予測されていました。その一方、酸味や塩味など、小さなイオンによって起こる味覚については、イオンチャネルと呼ばれる、それぞれのイオンを特異的に細胞内に取り込むための膜タンパク質が、味覚受容体と同様な形で働くのだと考えられていました。

これらの受容体、またはイオンチャネルが、それぞれの味物質を認識すると、そのシグナルが味細胞内に届きます。味細胞は、自分の細胞内に分泌顆粒という小胞を持っていますが、このシグナルによって、分泌顆粒は味神経と隣接する細胞膜の方に移動します。最終的に分泌顆粒は細胞膜と融合し、その小胞の内部に含まれていた物質が、味細胞と味神経細胞の隙間(味覚シナプス)に放出されます。この物質(神経伝達物質)が、今度は味神経細胞表面の受容体に結合し、さらに次の神経に信号を伝え……ということを繰り返して、最終的に脳に「味覚」の情報が伝えられる——これが、味覚受容の基本メカニズムだと考えられてきました。しかし、実際にこのモデルが正しいかどうかの証明はきわめて困難なものでした。従来の生化学的な実験方法では、これを証明するためには、まずその「味覚受容体」となるタンパク質そのものを、ヒトなどの舌から分離精製して来なければなりません。しかしもともと味細胞の数が少なく、そのタンパク質の量も極めて少ないため、解析に十分な量が取れません。また味覚受容体は細胞膜上に存在する膜タンパク質ですが、細胞外に分泌されるものや細胞質に溶け込んでいる水溶性のタンパク質に比べて、膜タンパク質ははるかに精製が難しく、また精製できても、その本来の機能が失われてしまって解析できないということがしばしばあります。このため、分離精製がうまくいかなかったのが最大の原因です。さらに、苦味についてはこれに加えて、本当に受容体があるのかどうかも疑われました。ヒトが苦味として認識する化合物は数百種類にのぼり、5つの基本味の中でも例外的に多く、その立体構造もばらばらで一貫性がありません。仮に受容体モデルでこのことを説明するためには、少なくとも数十種類の苦味受容体が存在しないといけないことになります。苦味だけでこんなにたくさんの受容体を持っていると考えるよりは、苦味は受容体に頼らない別のメカニズムで認識されると考える方が無理がないのではないか、ということから、膜電位モデルと呼ばれる別の仮説が立てられ、これが「より確からしい」と考えられていた時期もありました2。しかし1990年代になって、分子生物学や遺伝子工学の分野が飛躍的に発展すると、この状況が一変しました。1991年に、味覚と同様にそれまで全くの謎であった、嗅覚受容体遺伝子が発見12,13されたことをきっかけに、動物のフェロモン受容体などの感覚センサーの遺伝子が相次いで発見されました。そして、甘味や旨味、苦味に対するそれぞれの味覚受容体や、また温度や辛味、酸味の感知に関わるものとしてTRPチャネル(transient receptor potential channel、一過性受容体電位チャネル)などの遺伝子が発見されたのです。さらに遺伝子工学の手法を用いて、特定の味覚受容体だけを欠損したり、過剰に発現させたりした遺伝子組換えマウスなどの新しい実験モデル動物も作製され、味覚受容のメカニズムの解明が大きく進歩しました。また、ヒトゲノム計画によって2000年にはヒトの全遺伝子配列の解読が完了し、それまでに知られていた味覚受容体と類似する遺伝子が、ヒトゲノム上にどれくらい存在しているのかも明らかになりました。その結果、ヒトには30個近い苦味受容体の遺伝子が存在していることが判明し、元々考えられていた「受容体モデル」が、苦味でも味覚受容のメカニズムとして正しかったということが証明されたのです。

酸味や塩味の受容に関係すると考えられてきた「イオンチャネルモデル」については、まだその遺伝子が特定できていないため、2009年現在はまだ完全な証明には至っていません。ただし酸味については、その候補遺伝子がマウスで一つ報告され、実際に遺伝子組換えマウスによる解析も行われました。近いうちに同様の酸味受容体が、ヒトでも発見されることが予測されます。これ以外の酸味や塩味の受容メカニズムについても、おそらく今後数年のうちには明らかになっていくことでしょう。

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