「自分の免疫を信じて(潰瘍性大腸炎・ヘルペス途中経過)」
42歳2016年7月5日
42歳2016年7月5日
松本先生、松本漢方クリニックの皆様、藤田薬局の皆様、いつもお世話になりありがとうございます。私が松本漢方クリニックを受診し、翌日より一切のステロイドを断ってから一年が経ちました。現在も治療中ですが、奇跡的な諸症状の改善、体力回復と、ステロイドによる慢性肥満&ムーンフェイスの克服、その間の壮絶な闘病体験を報告させて頂きたいと思います。文才がなく、お許し下さい。
○大腸炎発症と、その「以前からの」ステロイド歴
発症は忘れもしない、38歳の誕生日だった。春とはいえ、ここはまだしばれる“北の国”である。一日10回以上の下痢、39℃の発熱、嘔吐、下血あり。二件目の町医者で即入院するが原因不明で翌日、札幌市の某医院に転院。「潰瘍性大腸炎」と診断された。何が何だか理解する気力・体力もなく、聞いたことも無い病名。「一生治らない病で、寛解と再燃を繰り返す。高額な薬での治療となり、特定疾患の手続きが必要。あなたの場合は全大腸型で重症。盲腸が糞石で腫れており危険な状態。破裂次第、即手術となる。将来は最悪、点滴をぶら下げて歩く生活になるかもしれない・・・」と告げられた。まるで「余命宣告」に感じ、部屋を出てすぐ母親の胸で泣き崩れた。「こんな娘でごめんなさい。もう一生食べられなくてもいいから、食卓で皆と一緒に居させてほしい。」と言ったと思う。母は強く私を抱きしめ、背中をさすってくれた。それから(その後、幾度の入院時も)毎日欠かさず、病院に足を運んでくれた。
そこからは全てが「人生初」である。長期入院、24時間の点滴で3ヶ月の絶食、IVH、採血一度に16本。何にも興味がわかず、じーっと天井のシミや点滴が落ちるのを見ては、泣けてくる日々。薬が効くまでは車椅子生活で、シャワーは禁止。「なんで?どうして?」悶々とする中、家族は必死で看病してくれた。
それまで幸か不幸か我が家は皆比較的健康体であったため、ステロイドの恐怖や免疫力低下による副作用という「病の連鎖」に危機感や疑問を抱くこともなく、違う治療法を調べる等の思考が無かった、というのが実情である。なんとも無知すぎる。その後大量のプレドニンで一時症状が緩和し、食事の匂いを嗅ぎに廊下へ出た。空腹感はないが食事の匂いで心が豊かになれた。主人はネットで調べたあらゆる大腸炎の治療やUCの闘病ブログ等をプリントアウトし、病床に運んでくれた。そこには「食事制限が大変、大腸切除やストマ(人工肛門)になる場合、再燃しない場合もあること、10年後には大腸癌になる確率があり定期的な検査が必要」と書かれていた。無知すぎる私は、恐怖心よりも「頑張って早く退院したい!」と闘志がわいた。恐ろしい、寿命をすり減らすような地獄でしかない治療とも知らずに挑んだ。自分で言うのもなんだが、純粋な私は「まだ若いし、治療したらちゃんと良くなるから頑張ろう!」と励ます看護師の言葉を真に受け止め、御礼を述べていた。最低最悪!大馬鹿ヤローである!反省してもしきれず、書いていてたまらなくむなしくなってきた。もう笑うしかありません!ワッハッハ!(松本先生、すみません。主人が先生の論文を読み、マネをするのです!でも、これで元気が出て励まされるのです!先生ありがとうございます!ワッハッハ!)
それ以前にもっと恐ろしい事実がある。さかのぼること29歳から約9年間、私は不妊治療をしていた。大腸炎よりも数倍ステロイド投与年数が長い。本を一冊出版できるような壮絶な治療を繰り返し、何度か妊娠もしたが、結局私達は我が子を抱っこすることはできなかった。結婚し家族となり、当たり前のように赤ちゃんが来てくれるものと思っていたが、後に「普通」や「当たり前」などというものは実は皆無で、この世に生まれた偶然や奇跡と思える必然的な日々を与えられ、「この魂と肉体で生かさせていただいている」ということをこの身をもって知ることとなる。万物に感謝し、もっと丁寧に生きたいと思う。(が、まだまだ煩悩と葛藤している自分がいる。)
話を戻し、9年間の不妊治療の後半5年間は、受精卵を育てるべく、数日毎に量が増すHCG注射、クロミッド錠、子宮内膜を整えるプレマリン錠、着床率を上げるディファストン、頭痛が酷くいつもカロナールを服用、排卵を誘発するスプレキュア点鼻薬など、おびただしい量のホルモン剤とステロイド漬けであった。(書いていて具合が悪くなる。)胸が急激に張り、二の腕が太くなった。腹水が溜まり、お腹は臨月のよう。足が浮腫み、太ももの付け根が痛い。しまいには副作用のOHSS(卵巣刺激症候群)で入院し、家族に心配をかけてしまった。頑張っているはずなのに、こんなに切ないのは何故だろう?と悩む。ここまできたら、もう止めた方がいい。というかこれより早い時期にやめるべきだっただろうが、気付けなかった。
自分の体や心、命ひとつも大切にできない人間に、子の生命を守り育むことなどできるはずがないのである。(泣)悔やんでももう過去のことだが、嗚呼、これが人生の修行なのか。大腸炎の末期にようやく気付くなんて、ドアホ!すぎる(泣)
体外受精8回目で精も根も、涙も・・・そして貯金も尽きた!後悔せぬよう夫婦でとことん話し合い「出し切った」末の結果に、私達夫婦は互いへの称讃の涙を流した。残ったものは、「強い絆」と、「凍結卵」、すっかり別人と化した私の肉塊66キロだった。体はボロボロ、毎日酷い頭痛。しかし久々にパートを再開、仕事にやりがいを見い出し、精神的にも少し落ち着いた頃、主婦湿疹や帯状疱疹を次々に発症した。
○大腸炎の治療記録
<2012年4月13日~5月18日>
38歳4月に病名が判明。絶食、IVHで24時間輸液と点滴によるプレドニン投与。アサコール一日6錠。熱は38~39℃から2週間ほどで37℃台へ。下痢下血は15回くらい。徐々に7、8回程に減る。発汗が凄い。頭痛、腹痛あり。ブスコパン使用。症状が落ち着いた頃、副作用の少ない「G―CAP(顆粒球吸着療法)」を開始。全11回の内6回実施。血管が細く、太い針が入らない。6回目に至っては、動脈に差し込まれる。壁に飛び散った血液跡に、涙が出た。G―CAP開始と同時に、徐々にプレドニン減少。採血の結果、再びCRPが上昇。大腸カメラの結果、炎症が酷くS字結腸までで検査を断念。札幌医大への転院を提案される。下痢下血は5~6回。微熱。アサコール9錠。体重57キロ。体重減少するも、顔はムーンフェイス。転院前日、シャワー許可。水かポカリ、OS-1とアメは許可。主人と母が転院準備をしに来てくれた。筋肉も衰え急激に痩せたため、服がブカブカで驚く。札幌医大に向かう車窓から見える青空に、満開のさくらが映えていた。美しく懐かしい景色と、自宅に帰れない切なさに、涙がポロポロ流れた。
<2012年5月18~6月18日札幌医大へ入院>
4度目の転院。とうとう大病院まで来てしまった。前回G―CAPが無効だったことと、血管はもはや刺す場所がない。従って治療法はなるべく痛みのない、プレドニン投与と決定。錠剤で60ミリから開始。
・アサコール9錠。絶食でIVH。水のみ可。OS―1は中止。歩行は廊下とエレベーターホールのみ。もの凄いムーンフェイスに家族が驚く。
・下血なし、水様便→泥便で3~4回。二週間後コンビニ(2階)までの歩行訓練と、シャワー許可。
・5月下旬、IVHが抜かれる。・絶食3ヶ月明けの流動食を開始。涙が溢れる。徐々に食欲が出て、やがて全粥「クローン食」という低脂肪低残渣の食事。
・SAA3.4、プレドニン25ミリ、アサコール9錠、プログラフ10ミリ、ビオフェルミン。フォサマック、固形便一日1、2回となり退院。以後、2012年6月~2015年6月の3年間に、計4回入院する。
(★印で表記)
<2012年6月~12月>
・プレドニン20ミリから2週間で5ミリずつ減量(11月に終了)。
・アサコール9錠(8月より6錠に減量)。
・プログラフ10ミリ。
・寛解維持薬イムラン50ミリ投薬開始~12月まで。
・ビオフェルミン(11月まで)。
・フォサマック(骨粗鬆症予防薬)。
★11月中旬~12月5日まで、イムランの効果が見られず悪化、入院★
<2013年1~6月>
・1月よりプレドネマ注腸20ミリ、ペンタサ坐剤1gを一日ずつ交互に開始。
・ロイケリン開始。
・アサコール9錠。
・ボノテオ(骨粗鬆症予防薬)。
・2月から、レミケード開始(6週間毎)。
★6月中旬~7月中旬まで、ネパールカレーを食べてから(?)調子が下降気味になり、SAA:44.6で入院★
<2013年7月~2014年9月>
・レミケード(8週間毎)。
・プレドネマ注腸(毎晩)。
・アサコール9錠。
★10月~医大病床満員につき、2週間札幌の医大系列某病院にて、投薬とペンタサ坐剤のみの無治療のまま待機入院★
★10下旬~12月22日まで、医大へ入院。レミケードも効果なしで、再びプレドニン60ミリより投薬開始。タクロリムス(プログラフ)投与★
<2015年1月~5月>
・プレドニン20ミリから徐々に減量。
・アサコール9錠、プレドネマ注腸、ボノテオ。
・2月からヒュミラ開始(2週間毎に、一回2本を自己注射)。
★6月に悪化し入院。もはや打つ手がない。大腸切除しかないと言われる★
大腸炎を発症して初めて、心底怒りがこみ上げた。週末帰宅を利用し、何とか大腸を切除しないですむ方法を調べようと考えた。実際、逃げ出す決意が固まったのは同室のおばちゃんの言葉だった。親戚が同じく「大腸切る」と言われネットで漢方治療を探し当て完治させたというのだ。私はおばちゃんと固い握手をして御礼を言った。
帰宅し『潰瘍性大腸炎完治』で検索。様々な漢方薬局や治療法があるようだったが、あまり納得せず。しかし、松本漢方クリニックのホームページと松本先生の論文を読んだ瞬間、これだ!あった!ここしかない!絶対行って完治させてみせる!と、おいおい泣いた。主人の帰宅後、松本理論を熟読してもらった結果、理解できた様子。私は何度も何度も読み返し、とくにNaokiさんのブログに助けられた。リバウンドも耐えるから協力して欲しいと主人に懇願。早速、航空チケットと宿を調べ予約してくれた。
翌日には札幌医大へ行き退院許可をもらう。外来担当医からは匙を投げられたが、入院担当医は寛大で親身、私の具合を心配し医大とのパイプ継続を約束。勿論、漢方治療の経過が興味深いことは明白ではあるが、それを含め診て頂けるなら有難いことである。今までのおびただしい量の免疫抑制剤と使用年数を思うと私のリバウンドは相当厳しいものだろうと予測。万が一の場合は手術願えること、定期的な外来受診を快く了承してくれた。後日、松本漢方クリニックのホームページを見たであろう主治医は、治療経過の資料を丁寧に作り渡してくれた。
翌日、母に話すと、いつになく恐い声で「本当にしっかり二人で覚悟したのかい?やるからには途中で諦めたらだめだよ!」とまるで不動明王のようで、恐くて泣かされた。さすが母だ!(何か知っているの?→ただ単に、韓国の宮廷医療ドラマ○○でのシーンを想像しただけらしい。汗)最後には応援すると言ってくれた。「よし!これで、旅立とう!脱ステロイド人生へ!」。
○松本漢方クリニック受診
2015年6月30日。腸子(大腸の調子の意味の「造語」でスミマセン!)は最悪、発熱38℃。松本漢方クリニックへの道のりは本当にキツかったが、松本先生に逢えると胸が高鳴った。空港到着も「フライト2時間遅れ」。松本漢方クリニック到着まで7時間半を要した。さすが本州!雨で蒸し暑い。待合は満員。漢方のよい香りとレトロな空間。受付の方の優しい関西弁に胸がキュンとなる(笑)。人生初の鍼灸は心地よく眠りそうになったが、しゃがれ声のエネルギッシュなシャウトで一気に目が覚めた。きっと松本先生だ!と興奮した。
名前を呼ばれ、診察室へ。先生がいない。看護師さんに案内されるも、近い!近すぎる!(爆笑)椅子の位置は、まるで松本先生とのカップルシートのように密着(笑)。松本先生が登場。私を診るなり「典型的なプレドニン肥満やな。はるばる北海道からご苦労さ~ん!」資料を見ながら「なんで今ごろ来たんや?6私の理論は読んだか?」私はこれまでの事情を交え、熟読してきた松本理論を答えた。「そうやそうや!あんたは賢い!あんたは心がきれいやな。○○君、書いといて~!」と握手をして下さった。(○○君?・・・って、ついたての向こうでせっせと資料をコピーして下さっている事務の方のことですか?)なんだかとても褒められ、手記で読んでいたようなお説教はない。数分の会話で私の心の中が見えているのだろうか?手記で読んだ通りだと驚く。主人も松本理論を聞かれたが、私とは違い冷静に答えており、先生が何度も「そうや!」と言っては、主人の方が私より強く握手をしてもらっているではないか。「したっけ、ズルいなぁ。」私は負けじと(何の競争?(笑))「不妊治療してたんか?何年?これが大腸炎の原因やー!」と少し怒り気味になった先生に、熱く事情を説明。松本理論を交えつつ、後悔や反省の弁も述べた。すると先生は「そうや!そうや!」と何度も握手してくださった。嬉しい!涙の私に「あんたは素直で心のきれいな人やな~。そんなに子ども欲しかったんか?そんなんわしがいくらでも産んであげるで!ワッハッハ!」と慰め、冗談で笑わせてくださった。(・・・?今何て?汗)」「・・・まぁ、色々事情はある。あるんやけどなぁ・・・」。看護師さんがさりげなくティッシュをくださった。「でもリバウンド相当きついでぇ?耐えられるか~?」私は相当な覚悟をしてきたこと、松本理論の中に「大変な事例があったが腸管に穴が開かずに済んだ」と読んだこと、万が一の時の対処(医大で手術し、戻ってくること)も述べた。私が言い終えるか終わらないかのうちに先生は手を差し出し、無言で深く頷き熱く固い握手をしてくださった。「あんたの免疫が治すんやで~!」最後に夫婦共にガッチリ握手、診察は終わった。(約25分間、松本先生への電話は鳴り止まず、2~3人の方と電話診療で熱くシャウトなさっていました。凄い!)手記で読んだ「絶対治るで!」とは、私は言われなかった。でも十分過ぎるほどの握手、温かい愛情を感じた。そもそも、治すのは『自分の免疫』なのだ。
それにしても、本当に有難い。人の心や性格を見抜ける人は居るとしても、会ったばかりの他人をここまで思いやり愛情を注げる人間は、そうはいないと思う。ましてや松本先生のような『患者自身の免疫力で治す=真実の医療』を率先し、たった一人で日本や海外にまで広げてこられたとてつもないドクターは、日本全国いや世界中のどこを探してもいないと思う。夫婦共々すっかり松本先生の大ファンになったのである。
※握手の回数:私8回、主人7回。勝った!!(松本先生の握手会か!(笑)」
<採血結果>
2015年6月30日リンパ球:13.5、CRP:4.48、血沈:66TARC:549、IgE:25、単純ヘルぺス:0.3、水痘ヘルペス:27.8
<症状>
39.5℃の発熱、寒気、頭痛、下痢下血5~6回、腹痛、耳鳴り、たまにめまい、ダルさ、寒気、多汗。体重55キロ。
<処方薬>
煎じ薬(②③:断痢湯~下痢止め)(④⑤⑥:芎帰膠艾湯~出血止め)、アシクロビル16錠/日、フロモックス、フラジール4錠/日、漢方風呂、紫雲膏と黄色の軟膏。
・松本治療をスタートした3日間は頭痛が酷く、38~39℃の熱が下がらなかった。大量の汗と寒気。
・煎じ薬(②③断痢湯:下痢止め)なんとも表現し難い、ファンキー!な味(笑)。(④⑤⑥:下血止め)は甘い。
・お灸は、毎日欠かさず主人がしてくれた。ネットでスモークレスタイプを見つけ購入。所要時間約40分。
・漢方風呂は、浴槽の三分の一程度湯をはった中に漢方湯の入った漬物袋を入れて浸かった。梅や赤シソに似たよい香りで温まり、美肌になった。準備と後片付けに結構な手間と時間を要する為、主人が担当。
・1週間程で下血と腹痛がおさまり、水下痢→泥便に改善。早い回復に驚く。寝汗がすごい。
ある朝、両足首から下が腫れており歩くと痛い。5月下旬に温泉での転倒が原因?プレドニンをやめ免疫UPしたため、今症状が出てきたのか?翌日は更に腫れ痛み、歩行困難となる。椅子に座ると足が下がり痛みが増すため、座ってもいられない。近くの整形外科にてレントゲン撮影。骨折やひびは無し。
<処方薬>
煎じ薬(⑧⑨:治打撲一方湯)を処方、「氷で冷やしとき!」とのこと。
・ジップロック2つに氷水を入れタオルで巻いたものを、両足に巻く。朝夕取り換える。
・食欲なし、たまに吐き気。家事ができない私を心配し、母と妹が何度も食事を作り届けてくれた。姪っ子も来た日は、皆で漢方生薬をティーバックに詰めてくれた。トイレは自力。
・半月で腫れが引き、徐々に歩けるようになった。関節が固くロボットのように歩いていた。
・キッチンに立てる時間は10分が限度。主人の運転で短時間買い物に出かけることができた。
・リハビリは家の中で階段を上り下り。漢方風呂でストレッチやマッサージもした。
1ヶ月を過ぎた頃、「両手の甲と掌に湿疹」ができた。潰すと糸を引くような透明の液が出る。松本先生「それは半クラススイッチや!出たなぁ!」とのこと。嬉しくて更にやる気が出る。
・朝夕2時間ずつ「紫雲膏タイム」を作った。日に日に湿疹が増え、手全体が腫れ、痛痒くなった。
・まもなくして手首から指先までの皮膚が黒っぽく変色した(不妊治療の黄体ホルモンが原因)。まるで怪獣の皮膚のよう。
・湿疹はやがてかさぶたになり、円形の皮が自然とむけ落ちた。無意識のうちに手の甲を掻いており、目の前が真っ白だったこともある。
・水仕事ではゴム手袋着用。
・漢方風呂に入るとよく皮がむけ皮膚が綺麗になった。約7ヶ月程、出ては治まりを繰り返し、一年たった今はすっかり皮膚がきめ細やかになり潤いが出てきた。最近は湿疹が出ても翌日には自然に皮がむけ、気付くとなくなっている。黒っぽく変色した手は、以前より薄い小麦色になってきた。
・8月~9月。家事を少し頑張った日や買物に出た日の翌日などは、足首が腫れる→引くを繰り返した。
・寝汗が大量。
・下血なしの泥便、たまに固形便。この頃、別の症状が現れる。吐き気が凄く、食欲不振。煎じ薬を吐いてしまうこともあった。
・MAX67キロだった体重は50キロに減量、ほぼ標準体形に戻った。
・ムーンフェイスだった顔はみるみるうちに元に戻り首がほっそりして、急激に痩せたためか顎下の皮がタプついた。鎖骨が出ている。(私じゃない!いや、これが本来の私だ(笑))。
・張っていた胸は萎んで軽くなり、二の腕や太ももも筋肉が無くなってはいるが細くなり、皮が余っている。
・標準体形になれたことは本当に喜ばしいことなのだが、栄養不足のため、メンタルにも影響が出てきた。
とにかく今までやっていたことが殆ど出来ない。だるくて漢方風呂も断念。煎じ薬も飲むのに時間を要し、飲んでも嘔吐。居間の真ん中で寝たきり状態。ちょっとしたことで涙が溢れ弱音を吐き、一人になるのが怖くて主人を困らせた。迷惑をかける罪悪感から、生きていてもいいのか?私はなんのために生きているのか?迷惑かける位なら死んだ方がマシだと毒を吐くようになっていた。松本先生から「ドアホ!食べなあかん!あんた死ぬでぇ!もう札幌の大病院でも行って点滴でも何でもしーや!!」とお叱りを受けた。そんな折、また別の症状が出てくる。手先と足のふくらはぎから下全てに、痺れてが出た。
・24時間ジリジリしていて、何かに触れても感覚が鈍い。例えて言うなら、長時間正座した後に足が痺れる、感覚が無くなってくるのと似ている。
・眼の奥が痛い。時々パチン!と音がして痛みが出て、白目の端から充血が始まっている。血管が切れる音だろうか?恐ろしい。松本先生は「それはヘルペスや!アシクロビル16錠に増やすか。煎じもヘルペスの出すから!」痺れは徐々に増し、アシクロビルが20錠でも変わらず、24錠まで増えた。
<処方薬>
煎じ薬(⑩⑪:治打撲一方湯ヘルペスの免疫を上げる)。目やにの薬も貰う。
・指がピリピリと痛くてペットボトルの蓋など開けられないし、錠剤をパチンと押し出すことも出来ない。
・湯水に触れるとビリっと痛み、箸もスプーンも持ちづらい。割り箸は痛くて無理。
・足先の感覚がほぼないので、靴下も靴も自力で履けない。
・ろれつも喋りもぎこちなくなり、脳神経がどこかやられてしまったのではないかと感じた。いよいよ死ぬのかな。そう思い泣いてばかりいた。体重46キロ。
<札医大での採血結果>
総蛋白5・9、アルブミン2.5、ヘモグロビン2.82、リンパ球数1058、CRP0.29、SAA17.1、赤沈80
担当医に「今すぐ入院」と言われたが断り、「輸血か点滴を」と言われ、点滴をしてもらう。以降、しばらくビタミンと鉄剤を飲む。今後は自宅近くで点滴出来るよう、ソーシャルワーカーに手配。「脱ステロイドで漢方治療をしている」旨を伝えたところ、自宅から近い2件は断られたものの、市内の車で15分の町医者が承諾してくれた。そんな姿を見て、母は「実家に戻っておいで」と言った。この頃、主人も(言葉には出さないが)私の介護にかなり限界が来ていたと思う。週末は迎えに来てもらうことにして、私は両親にお世話願うこことなった。ある意味「出戻り娘」である。正直、20年ぶりの実家暮らしは予想以上に自分も両親も取り巻く環境や生活スタイルが変化しており、3週間が限度であった。しかしながらこの実家期間があったからこそ、私は今、こうして生きる気力と体力を取り戻すことができた。居候2週間でも、4週間でもダメだった。3週間だからこそ良かった。両親に感謝である。妹も姪っ子を連れてご飯を作りに来てくれた。父は朝食作りと布団敷きをしてくれた。主人は一人で頑張っていてくれた。「家族の協力が絶対不可欠」とは、こういうことなのか。身をもって証明できる。
・10月~12月、手も足もビリビリ痛み夜に寝られない。じっとしていられず、寝返りを繰り返す。
・鼻水が喉にからみつき黄色。咳が出る。
・便はほぼ固形便。
<処方薬>
アシクロビル24錠、煎じ薬(②③)、(⑩⑪)、フラジール。
<医大での採血結果>
総蛋白6.3、アルブミン3.1、CRP:0.10以下、ヘモグロビン9.1、リンパ球数960、SAA2.7、赤沈20
○12月6日5カ月ぶりに、松本漢方クリニック受診
<症状>
・手足のしびれ、足首の関節がたまに腫れる。
・鼻炎、眼の奥が痛く時々充血、耳鳴り、たまに下痢気味と臭いガス。
・手の半クラススイッチは冬場で激しくなっていた。手の甲の色:小麦色(変化なし)、生理痛が若干重い。
2度目の診察では、医者のお父様が書かれた手記を渡された。私は手記を欠かさず読んでいたため、私の気持ちも全くその方と同意の旨を述べた。先生は「あんたは賢いから~、治すのはだれや?」「私の免疫です!」すると、握手。ちなみに、治療費の話題にふれてこなかったが、あくまで我が家の場合をザックリと述べる。
・北の国からの旅費(往復一人分、一泊二日):交通費4万、宿1万、計5万。
・アシクロビル24錠×30日分=7.2万円、プラス、各種煎じ薬、フラジル、鼻炎薬、漢方風呂、お灸等。毎月定額を親に前借りしています。感謝です。
<松本漢方クリニックでの採血結果>2015年12月6日
リンパ球15、CRP:0.54、血沈27、MMP3:78.1、TARC735、水痘帯状ヘルペス14.9
<札医大での採血>
リンパ球数1179、CRP:0.59、SAA16.6
夏に寝たきりだったとは思えないほど体力気力が回復、運転や料理もできるようになる。食欲が戻る。大晦日のおせち料理を母と分担し、うま煮と紅白なますを大量に仕込む。長時間キッチンに立ったので手足が痺れ、足首は痛かったがリハビリである。
<2016年1月~2月>
1月上旬、インフルエンザになり、時間外ではあったが辛くて堪らず松本先生に電話する。「大丈夫やで!絶対、熱下げたらアカンで!またいつでも電話しいや~!」優しい先生の声が、スーっと全身に染みわたった。
・熱39.5℃も、4日後には36.8℃まで下がる。
・喉の痛みと痰はしばらく残る。体重43キロ。
・2月、抜け毛の量が多少多く感じる。
・鼻炎がひどくなる。
<処方薬>
煎じ薬(⑫⑬⑭:神応養髪丹)、太虎堂の小青竜湯エキス。発芽玄米も、レシピ通り作り食べた。
<3月、札医大での採血>
リンパ球20.6、CRP0.18、SAA15.2
・手の痺れがほぼなくなった。
・指先のみ多少痺れを感じるが、ペットボトルや缶詰の蓋も開けられるようになった。割り箸も持てるようになった。
・湯水も、手の感覚が戻ったことで体感温度が分かる。
・物に触れてもその質感をほぼ正確に感じられるほど回復。
・髪の質が良くなっていた。
・足の痺れは変わらず。だが、手が回復し5本指ソックスや靴も自力で履けるようになった。松本先生も喜んでくれた。
最近よく「声で誰だかわかるで!○○さん北海道からご苦労さ~ん!それにしても君の声は明るい~~」と褒められる。大変嬉しく喜ばしいことで、恐縮である。(誰かに聞かれているかと思うとちょっぴり恥ずかしいが。)しかしここまで元気になれたのも、松本医療にたどり着き、自分の免疫を信じてコツコツ戦ってきたからこそである。
<処方薬>
煎じ薬(②③下痢止め)、(⑩⑪治打撲一方湯、ヘルペスの免疫を上げる、リウマチの変形による痛みをとる、打撲の炎症と痛みをとる)、・たまに下痢気味になり下血あり。ペンタサ注腸のやり過ぎで直腸のクラススイッチが遅れている?
<札医大での採血結果>
リンパ球数1135、CRP0.10以下、SAA4.5
○2016年4月26日4カ月ぶりに、松本漢方クリニック受診
今までで一番体調が良かった受診。予定時刻に伊丹空港に降り立つと、なんと気温は27℃!比較的カラっとしていて暑いのは嬉しいが、どさん子にとって脅威なのは、北の国ではありえない程の「冷房」の効き具合である。当日下痢気味だった私は冷房対策として、インナーに上下とも冬用ヒートテックを着込んで参上!鍼灸の先生に、「何枚着てるんですか?暑くないんですか?」と聞かれ、「あ、暑いです!冷房対策しすぎました(苦笑)」と二人で笑った。久々の鍼である。長旅で歩き腫れた足首に鍼灸していただいた。痛みが引き、関節がやわらかく動いた。
松本先生とご対面。「北海道からご苦労さ~ん!」私はあらためて、寝たきりの時期から復活した治療の成果と、御礼を述べた。先生はニコっとして「そうかぁ。君はどうしてウチを信じたんや?」・・・私は松本理論に感銘を受け「ここに行けば完治する!」となぜか強い確信を持ったことを話し、最後に「自分の免疫を信じて」と言い終わるか終らないかのうちに、先生の綺麗な手がサっと目の前に!・・・やったぁ!すかさず握手です!ありがとうございます!主人も「よぅ支えて頑張ったなー!」と褒められ握手して頂いた。
今回こうして元気な姿で、先生に直接御礼を言うことが出来た。「それを手記に書くんやで!書いてな!待ってるで~!」診察時間は15分程。ベテラン看護師さんも、一緒に笑顔でお話して下さった。毎回優しく接していただきありがとうございます!
<松本漢方クリニックでの採血結果>
2016年4月26日リンパ球20.7、CRP:0.05以下、血沈11、MMP3:63.9、TARC:656、水痘帯状ヘルペス15.3、EBウイルス20.0以上、サイトメガウイルス2.0未満
<帰宅後まもなく、『ブドウ膜炎』>
免許の更新にて左右の視力が全然違うことに気付き焦るが(検査は○)、眼科の診察結果、眼鏡使用で(右目0.5、左目1.5)、『ブドウ膜炎』と診断。やっと、やっと出てきてくれた!私の免疫がヘルペスウイルスを見つけ出したのです!免疫ありがとう!
<処方薬>
煎じ薬(⑬⑭⑮:洗肝明目散~ブドウ膜炎、胸膜炎、虹彩炎、角膜炎、結膜炎、緑内炎に効果)を処方。症状的に特別日常生活に支障をきたしているわけではないので、せっせと煎じ薬を飲み、完治させたいと思います。
<医大での採血結果(6月3日)>
リンパ球21.8%(一年前は13%でした、恐!)、CRP:0.12、SAA:6.1
<現在の薬>
煎じ薬(⑩⑪⑫ペルペス)、(⑬⑭⑮ブドウ膜炎)、アシクロビル24錠、鼻炎粉薬、たま~にフラジール。
・腸子(食事制限一切なし):泥便たまに固形便、たまに下血、一日4~5回。
・足の痺れ(膝から下)があるものの、ゆっくり登山も出来ています。
最後に、松本先生、松本漢方クリニックの皆様、藤田薬局の皆様、「大腸切除」と言われた私がここまで回復できましたことを、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございます!またこの場をお借りして、今まで手記やブログを通して貴重な闘病記録を残してくださった(今後も書いて下さる)皆様に、感謝申し上げます。
免疫を高める松本医療(=漢方)が、一刻も早く日本の医療界における標準治療となり、アシクロビルこそが保険適用になる医療界の実現を願うのは、今松本医療という真実の治療を身をもって体験し、病が快方へ向かっている私達、また完治された方々だからこそ強く実感しているところであります。まさにこの真実の医療を広められるのは、全国、海外に散らばっている私達患者であり、その突破口がこの手記であると考え、なんとか書くことができました。
そして北海道はもちろん、せめて東北にでも松本漢方クリニックと同じ医療を志している医師が居てくれたなら、新幹線も開通したことですし、もっと頻繁に通院できるのにと願います。したっけそれがダメなら、東京でもなまら有難い!(でも松本先生とお会いできないのは正直寂しい。だからやっぱり大阪に行きます!「ドアホ!そういうことやない!」とまた怒られそうですが・・(笑))
今後も完治に向かって、明るく、いつも笑顔と感謝の心を忘れずに、自分の免疫を信じて頑張ります。今後とも、よろしくお願い致します。