「潰瘍性大腸炎手記」
36歳2015年5月25日
36歳2015年5月25日
経過報告
1)発病までの生活
わたしが潰瘍性大腸炎だと診断されたのは1993年5月、中学3年生の時でした。診断が下される半年以上前から便と一緒に出血していることに気づいていましたが、痔だろうと軽く考えていて、そのうち治ると思って放置していました。そのうち白い粘液のようなものが表れるようになり、一向に治りません。ですが、普通の生活を送れていたので両親に相談することもありませんでした。中学校のクラブ活動でバレーボールをしていたのですが、毎朝早朝練習にも行き、放課後もクラブ活動をし、夜は塾にも通っていました。日曜日も毎週練習試合があったりしてクラブ活動をしていました。
そんな中、わたしの期待とは逆に症状は少しずつ悪くなっていました。どんどん出血の量も多くなり、便も形が無くなってしまいました。
中学2年生の時は教室が校舎の2階でしたが、3年生になり教室が校舎の3階になりました。この頃、3階まで階段を上がると目がチカチカしていました。かなり貧血が進んでいたようです。ですが、今までと同様にクラブ活動は休むことなく続けていました。というのも、わたしが通っていた中学校は全生徒何かしらのクラブに所属し3年間そのクラブを変わることなく続けなければならないというルールがありました。わたしにとっては、このクラブ活動がかなりのストレスとなっていました。楽しくバレーボールができていればあれほどのストレスは感じなかったと思うのですが、顧問の先生が本当に厳しく、試合で勝つことを重視されていて、スタートメンバーとそれに選ばれなかったメンバとの扱いにも差があり、わたしはいつもスタメンに選ばれたり選ばれなかったりで中途半端な実力しかないにも関わらず、“スタメンは諦めてほどほどにやって卒業しよう”とは考えられず、負けず嫌いな性格が自分を追い込んでしまっていました。
中学3年の5月、お腹以外にも耳の奥が痛くなり、尿にも血が混ざっているように感じて怖くなり母に話しました。その日はクラブを休んで家に帰り病院に連れて行ってもらいました。尿検査や血液検査をしてもらいました。検査結果がでたようで診察室に再び入ると、「すぐに入院をして下さい。今すぐ紹介先の病院に向かってください。」と言われました。この時点では何の病気かもわかりませんでしたが、ヘモグロビンの量が5になっていた為すぐに入院をしないといけなかったようです。
母に入院の用意をしてもらい紹介先の病院へ行きました。ベッドが空いているとの事で看護婦さんが車椅子で迎えに来てくださり、わたしのベッドの側には簡易トイレが置かれ、「トイレに行ってはいけません。この簡易トイレを使ってください。」と言われました。そして医師からは、「次に貧血で倒れたらそのまま心臓が止まることもあるから輸血をしないといけない」と言われました。ですが、そんなこと絶対にありえないと思いました。なぜなら入院の前日までクラブのみんなと一緒にグランドを走ることもできていたからです。貧血で倒れることはあるかもしれませんが、そのまま死ぬなんて絶対にないと理由はないですが確信があり、医師から心臓が止まると聞いても全く不安にも思いませんでした。輸血をすると他の重大な病気にかかることもあると知っていましたので、どんな事を言われても輸血は絶対に拒否しようと心に決めました。わたしが一度、輸血を断るとそれ以降は勧められることはありませんでしたが、両親には執拗に脅しともいえる圧力で、娘さんは輸血をしないと死ぬんです!という勢いで怒られたと後から話してくれました。
大腸の内視鏡検査をすることになりました。大腸全部に炎症があり、潰瘍性大腸炎という病気だと知らされました。治らない病気だと説明を受けましたが、その頃のわたしは治らない病気があるということを知りませんでしたのでわたしは治ると思って聞いていました。IVHの点滴をして絶食をすることになりました。その点滴の中に鉄のお薬を混ぜることになりました。鉄のお薬の点滴に加え、飲み薬としてサラゾピリンを毎食後に2錠ずつ、副作用のないお薬だから欠かさず飲むようにと言われました。その後しばらくして、看護師さんから「明日の朝からこの薬を飲んで下さい」と薄ピンクの錠剤を6錠渡されました。しばらく飲んでいると出血も治まり、便も形になってきました。小さいころからアトピーもあったのですが、アトピーも出なくなり綺麗な肌になりました。母とアトピーまで治るってステロイドが入っているお薬なのかな?と話していたのですが、これがプレドニンでした。どんな副作用があるのか医師から説明を受けたのは服用してからしばらく経ってからのことでした。今から思えば、どんな薬なのか知らないのに言われるがまま服用することも、医師が患者に説明せずにお薬を出すことも考えられませんが、当時のわたしはきっと、服用前に説明を受けていたとしても飲んでいたと思います。
入院から1ヵ月経った頃、点滴の量を少なくしてお粥を食べさせてもらえるようになり、プレドニンの量も少しずつ減っていき、プレドニンの量が3錠になった頃、2ヵ月で退院となりました。
2)再燃と緩和を繰り返す
わたしは「もうこれで治った」と思っていました。しかし、退院後1ヵ月も経たないうちにまた出血し始めました。退院後、ストレスのある生活をしているわけでもなく、お薬は欠かさず飲んでいました。なのにどうしてまた再発するのか理解できず、本当にショックでした。この病気が治らないというのは再燃と緩和を繰り返すということなのだとようやく理解できました。次の診察で、またプレドニンの量が増え症状は治まりました。その後、何度もプレドニンの量が減るたびに再燃し、またプレドニンの量が増えるという繰り返しが2年程続きました。
初めての入院後、退院してからしばらくはその病院へ通院をしていましたが、2週間おきに同じ曜日、同じ時間の授業を休まないといけないため、家の近くに土日も診察がある病院へ転院させてもらいました。最初、院長先生の診察を受けに行きました。すると意外な事実がわかりました。土曜日と日曜日を内視鏡検査の日とされているのですが、その内視鏡の検査をするために京都大学病院の潰瘍性大腸炎専門チームの先生が来られているとのことで、これからその先生の診察を受けたらいいと勧められたのでそうすることにしました。それから約10年間、京大の先生にお世話になることになりました。
京大の先生に診てもらうようになってから暫くして、たぶん高校生の時だったと思うのですが、サラゾピリンからペンタサという新しいお薬に変えようと提案されました。ずっと飲み続けても体に害がない良いお薬だということでした。朝昼晩の食後に2錠ずつ飲むことになりました。高校3年生のころにはプレドニンは飲まなくてもよくなっていたと思います。
3)二度目の入院
短大の英文科に進学しました。入学直後から来年は就職活動をしなければ、という空気がありました。ストレスを与えないように頑張ろうと注意しながらも、運良く第一希望の会社から内定をもらえました。その後、憧れていたイギリスのランカスター大学に通いながら1ヵ月のホームステイに参加しました。初めての海外生活、とても楽しくてもっと長く住んで言語も習得したいという気持ちで帰ってきました。
帰国後再び調子が悪くなりました。検査の結果、直腸付近のみ炎症がある状態でした。朝昼晩2錠ずつ飲んでいたペンタサを3錠飲んでも改善しなかったため、ステロイドの注腸を行いましたがだんだん悪化していき、二度目の入院となりました。二度目の入院は3ヶ月間でした。またプレドニンを服用し少しずつ量を減らしていくという治療でした。今回は副作用で頬がパンパンに大きく赤くなりました。久しぶりに出会った祖母からは「この子、どこの子や?」と言われるほどに別人になりました。
4)三度目の入院
短大を卒業し初めての社会人生活が始まりました。二度目の退院後からは順調にお薬も減らせていましたが、働きだして暫くしてからまた再燃です。7月に三度目の入院となりました。今回の入院は今までとは違った形になりました。これまでお世話になっていた京大の先生が、若いころからステロイドを服用していることを心配して下さり、わたしの症例が白血球除去療法の治験の対象になるということもあって大学病院で治験に参加しないかと提案して下さいました。白血球除去療法ならステロイドの副作用で顔が腫れないということもあり、参加することに同意しました。この時、プレドニンを1日20㎎服用していたのですが、その量は継続したままで白血球を除去するのを1週間に1回、合計5回行うことになりました。途中でも辞めたくなれば止められるというものでした。除去した直後1日~3日くらいはトイレの回数も出血の量も減ったのですが、1週間後にはまた元通りを通り越し少し悪化しているかも知れないと感じる状況でした。ですが、顔が腫れない治療だということで微かな希望を持って最後まで試しましたが、わたしの場合は効き目はありませんでした。
三度目の入院6ヶ月目に入り今後の治療方針について話し合いの場があり、免疫抑制剤のイムランを1日1錠、プレドニン、ペンタサと併用して飲むことになり退院しました。この話し合いの途中でわたしは気分が悪くなり退室したのですが、その後の医師と両親のみでの話し合いの場では「大腸を全部取ったらこんなことにはならないから切除したらよい」と言われていたそうです。ですがそれだけはしないで下さいと両親がお願いしていたそうです。あの時、切除なんてしなくて本当に良かったですし、医師からそんなこと言われていたなんて今まで知らなくて良かったです。
イムランの効果は早い人で2ヵ月、遅い人で半年くらいかかるとの説明がありましたが、効果が現れ始めたのは(炎症反応が下がりだしたのは)10ヶ月後でした。この退院してからの10ヵ月間が発病してから一番最悪の時でした。三度目に入院した時よりもかなり悪化しての退院でした。先生からは重症よりも悪い状態で劇症だと言われていました。自覚症状も劇症の名の通り最悪でした。トイレの回数も1日に20回以上行く日もあり、外出した時には常にトイレの場所をチェックしていました。半年でイムランの効果が現れるはずだからと忍耐し治療を続けていましたが期待を裏切られ、診察の時にどうして効果が現れないのかと聞いても、「イムランは効果が出るのに時間がかかるお薬だけど体に優しくていいお薬なんだ」と。今、結果が出ていなくてもおかしな状況ではないし、この治療方針を変更する必要はないという返答でした。
そんな時、母が“ノニジュース”というものを見つけてきて飲みなさいと言ってきました。母の話では末期の癌でも完治させるとか言っていて、あやしいなと思いながらも飲まないと本当にうるさいので飲み続けていました。すると次の診察の時には炎症反応が下がっていて、飲み出して以降、炎症反応は下がる一方でした。お腹の調子も下痢も治まり出血も治まりみるみる良くなりました。飲み出したその月からトイレの回数も1日に1回になりました。わたしの感覚ではイムランではなく、このノニジュースの効果だと感じました。
このノニジュースとの出会い以降、約10年間、ペンタサでさえ飲まなくてもよくなりました。たまに出血をすることもありましたが、その時だけノニジュスをいつもよりたくさん飲むといつも良くなりました。それで通院も年1回だけ、特定疾患受給者証更新の手続きのための検査を受けに行くだけでした。このような訳でわたしはノニジュースへの信頼を強めていきました。
5)松本漢方クリニックとの出会い
2013年2月
ボランティア活動をするため会社を辞めネパールへ行きました。
2014年6月
足の側面に小さなこぶができ触れると痛い。治ってはまた違うところにできるの繰り返しが始まる。足首にも捻挫したかのような痛みがでるが1週間ほどで治まる。
2014年7月
一時帰国後、再燃。ノニジュースでさえ効き目がありませんでした。ネパールの環境に慣れて、ネパール語も上達し言語のストレスも少なくなってきて、やれやれと感じていたと思います。
2014年8月
派遣の仕事を始める。
大腸の内視鏡検査の結果は自覚症状通りでした。きっとまたステロイドの治療になるだろうなという状態でした。今までお世話になっていた京都大学病院の先生は出世されて、もう来られなくなっていました。その先生の代わりに京都大学病院からまた違う先生が来られていました。その先生は、検査の結果を見て、「市民病院を紹介するのでそちらに行くのがいいです。ここでは治療できません」と言われました。前の先生は、ここの病院でも入院させてくださって、来られるのは週に1回ですが、何かあったら京大に連絡をくれたらいいと言われて治療をして下さったのですが、わたしは今や指示通りに薬も飲まず不真面目な患者になっているので、この病状から救ってあげたいと思ってもらえなかったようです。最終的に、「転院するかどうするかは、院長先生と相談して決めてください」と言われて、次の院長先生の診察日を教えられました。院長先生とは以前にお話をしていて、院長先生の希望としては京大病院に行って治療方針を決めてもらって来てほしいというものでした。わたしは乗り気がしなかったんですが、とても心配してくださっていて「安陪総理を見てみろ。あんな激6務をこなせてるんや!それができるのはバックに最高の医療スタッフがついてるからや!またネパールで頑張るんやろ。そのためにも京大に行ってきてくれ」と言われていたのです。ですが京大の先生にとっては、わたしなんかは京大レベルの患者ではない、市民病院で十分だという感じでした。
市民病院に行ったところで、過去に経験した治療の繰り返しになることは目に見えていました。ステロイドや又は新しいお薬を服用した当初はすぐに良くなりますが、またすぐ悪化することでしょう。こんな治療はもう受けたくないと思いました。どうせ転院させられるなら院長の診察までに納得のいく病院を自分で探そうと思いネットで検索しました。「潰瘍性大腸炎名医」と入れてみました。色々出てきましたがどれも違うと感じました。母も探してくれていて、母は「潰瘍性大腸炎完治」で検索をしたようで松本漢方クリニックがヒットしました。わたしは緩和と再燃を繰り返すうちに“完治”なんてことは思いの中から排除されていました。一生付き合わないといけないということを十分受け入れる事ができていました。母はなんて積極的なんだと思いました。発病当初は完治すると思っていたのに忘れていた言葉でした。
母から松本漢方クリニックの話を聞かされた時、正直、「漢方?針?お灸?ほんまにそれで良くなるん?」と思いましたが、松本先生の論文を読んでいるとこれは本当にその通りだと確信できました。それでペンタサを服用していましたが、その日から飲むのを止めてその週のうちに受診に行きました。松本漢方クリニックに行く前に、市民病院には行かずに松本漢方クリニックに行くことをかかりつけの院長にも伝えるため診察に行きました。すると、「松本先生は西洋医学の医師なのか?」と質問されました。わたしは「たぶんそうです。」としか答えられませんでした。その時初めて、漢方や鍼灸というのは医師免許が無くても開業している人がいるのだと知りました。「紹介状は書くけど、こっちにも診察にきてな。心配やから」と言われました。なので、松本漢方クリニック受診初日は少し不安な思いで出かけました。
6)松本漢方クリニック受診
2014年8月13日:初めての受診
下痢を抑える漢方と出血を抑える漢方、漢方風呂を処方してもらいました。松本漢方クリニックでは鍼灸もしてもらいました。鍼灸は通院のたびに受けました。家でのお灸の仕方も教えてもらいました。家では母がしてくれて、ほぼ毎日続けました。針は家の近くでいいところが見つからなかったので、通院の時だけ(2週間に1回)松本漢方クリニックでしてもらっていました。
2014年8月14日
頻繁に尿意が起こり、体がだるくなり、手首が痛くなり、お腹も張ってきました。
2014年8月15日
6月に起きたのと同様に足の側面にこぶができ、それが今回はどんどん大きくなって足首から下全体に膨れ上がり靴が履けなくなりました。足首もアキレス腱が切れるのではないかと思うほど痛くなり、続いて膝にも痛みが広がり、そのうち全身の関節が痛くなりました。頭痛もありました。漢方風呂に入りました。夜になると熱がでるようになりました。38.5度ありました。
2014年8月16日
引き続き足の痛みは増していき、歩くのにも腕で体を支えて足首と膝に体重を乗せないようにしないと痛みが強くて歩くことができませんでした。熱は39.3度ありました。足が痛くて車も運転できない状態でしたので派遣の仕事をお断りしました。2014年8月17日足首の痛みの最高潮でした。父の登山用の杖を借りて家の中を移動していました。
2014年8月20日
関節の痛みを取る漢方と抗ヘルペス剤を飲み出しました。関節の痛みを取る漢方は飲むとすぐ2~3時間後には関節の痛みが消えました。この日から夜の熱が40度を超えるようになり、夜になるとお腹が燃えているように熱くなり激痛が襲ってきました。この激痛は5分ほど痛みが続くとしばらく引いてまた襲ってくるのです。この腹痛に関してわたしなりの対処方法が発見できました。激痛が来た時、なぜか理由はわかりませんが、母が水を飲みなさいと言ったのです。こんな腹痛の時に飲めるわけないやんと思いながらも、頑張って飲んでみると、不思議なことに我慢できる程度にまで痛みが和らぎました。高熱のせいで真夏なのに寒くて寒くて毛布が必要でした。微熱が出た時に飲むようにと出して下さっていた抗生物質が1週間分ほどでしたので、この熱も1週間で治まるんだろうと素人判断で考えていましたが、微熱どころか高熱が1週間を過ぎても引かないため、まさか高熱で脳に障害が出るのではないかと不安になってきました。わたしは、あまりにも体力を消耗してしまい皆さんの手記を読む元気もなかったんですが、母は同じ経験をした方がいないかと必死に手記を読みあさっていました。しかし多くの人は熱は出ても微熱程度でそんなに長引いている方はおられないと悲しそうに言っていました。お腹の激痛は本当に恐怖で、激痛が襲ってきたときにすぐに水が飲めるように、家の中でもペットボトルに水を入れて持ち歩いていました。高熱とお腹の激痛がいつまで続くのか、わたしは自分の免疫に殺されてしまうのかとも思えてきました。水と漢方くらいしか喉を通らなくて毎日みるみる痩せていきました。
2014年8月26日
母は前にお世話になっていた病院でIVHの点滴をしてもらいに行った方がいいかもと言い出しました。わたしもこのまま体重が減るならそうした方がいいと感じました。でももう一日考えてから決めようと思っていました。
2014年8月27日
夜の熱が出なくなりました。それだけでも体がだいぶん楽になったのでIVHの点滴はしなくてもいいと感じました。これまで熱のせいか食事ができなくて水8分くらいしか喉をとおらなかったので体重が減ってしまい顔からも骨が浮き出ている状態でした。髪もその期間(食事ができなかった期間5mm程)茶色い毛が生えてきました。エレンタールも処方してもらっていましたが、すごく甘くて飲みにくく漢方も飲まなければならないので水分だけでお腹がいっぱい、もう食べられないという状況でした。ですが、熱が出なくなるとエレンタールを飲みつつも少しずつ食べられる量が増えてきてお菓子まで食べられるようになりました。次の診察に行った時にこれまでのことを話すと、「よう12日間も頑張ったなぁ!君は、ヘルペスウイルスに打ち勝ったんや!でも、なんで電話せぇへんかったんや!?なんでもかけてきたらええねん!」と言われました。これからはもっと気軽にお電話しようと思いましたし、そうしていればあんなに不安な気持ちにならずに済んだのにと思います。それに「免疫が自分を殺すことはない!」とも言われました。そう言われれば、そうだなと納得できました。自分を守る免疫ですから自分を殺すことは絶対にないと言い切れます。ほんとうにあの時電話をしていればよかったと後悔です。
2014年9月1日
出血の量が減ってきました。
2014年9月3日
便の回数が1日5~6回に減ってきました。
2014年9月4日
アトピーが肘の内側と首に少しでてきました。
2014年9月7日
ふと気が付くと視力が回復していました。学生の頃は2.0あった視力が就職してから0.7にまで落ちてしまったのですが、いつもぼやけて見えていたものがはっきりと見えるようになっていました。
2014年9月9日
便が少し形になってきました。今まで熱があって漢方風呂に入っていなかったのですが、漢方風呂を再開しました。週に2回欠かさず入りました。
2014年9月19日
アトピーが背中・胸・わき腹・お腹にでてきて痒くて眠れなくなりました。
2014年10月18日
松本漢方クリニック診察夏に日本に帰ってきた時点で再度カトマンズへ帰るチケット(11月10日の便)も購入済みで母と友人は1週間の観光のために同じ便のチケットを購入済であることを話しました。しっかりと治してから行くことを勧められました。確かにそうした方がいいと思うので、友人が観光で行かれる予定なので、とりあえず一緒に行ってわたしもすぐに帰ってこようと計画を変更する予定でいました。
2014年10月末
アトピーが顔のあごや目の周りにまで出はじめる。
2014年11月1日
松本漢方クリニック診察。カトマンズからまたすぐ帰って来ようと計画を変更していたんですが、院長先生から意外な診断をいただきました。「潰瘍性大腸炎の方はもう調子がいいから、あとはアトピーが出てしまえば終わりなだけやから、ネパールは日本みたいに添加物ないやろ?向こう行った方がアトピーようなるから、転地療法や思って行ってき。1年でも行っておいで。でもな免疫寛容おこさへんから日本帰ってきたらまたアトピーでるで。でもなそのこと手記に書いたらいいねん。松本先生の理論通りでした。いうてな。」「綺麗な顔でネパール行きたいやろ?今から出発までの1週間毎日漢方風呂入り。頭まで浸かるんやで。」と言っていただき、それから出発までの8日間のうち6日は漢方風呂に入りました。今まで週に2回だけでしたが毎日続けて入ると、体に溜まっている化学物質が一気に出てきてくれている気がするうえに、お肌は突っ張ったりせず傷の治りも早く気分も調子もよかったです。
2014年11月7日
松本漢方クリニック診察。先週の血液検査の結果は栄養状態も良くなっていて炎症反応もないとのこと。28日分の漢方と塗り薬をいただき予定通りカトマンズへ出発することができました。8月に診察に行ってからたったの3ヶ月でここまで回復するなんてこんなに幸せなことはありません。21年間の持病と付き合う生活は何だったんだろうと思います。松本先生に心から感謝しています。ステロイドを飲まなくなってから10年が経っていましたからリバウンドもそんなにないだろうと素人解釈で治療に臨んでしまったので予期せぬ激しいリバウンドでわたし以上に家族には恐ろしい思いをさせてしまいましたが、家族の協力があったので治療をすることができました。また夏頃に帰国し今度は元気にお金も稼いで再度ネパールでのボランティア活動を楽しみたいと思います。2015年の夏には松本先生に診察をしてもらいに行くつもりでいます。その頃にはアトピーも治まって完治の報告が書ける事を願っています。