「潰瘍性大腸炎手記」
38歳2013年6月14日
38歳2013年6月14日
「潰瘍性大腸炎(クローン病)中間報告」
1.はじめに
私は今から17年前、21歳の時に潰瘍性大腸炎を発症しました。それから松本漢方クリニックを知るまでの間、病院での治療はもちろん、病気に効くといわれる物は色々と、本当に色々と試してきました。
それでも症状が改善することはなく、希望と絶望を繰り返してきました。一番楽しい年頃のはずなのに、暗闇の年月を過ごしてしまいました。もっと早く松本漢方クリニックを知っていればこんなに長い間暗闇の時を過ごすことはなかったかもしれません。私と同じような経験をしないよう、この手記が少しでもお役に立てれば幸いです。
(ただ、16,7年前のことなので記憶が曖昧な点があります。お許し下さい。)
2.発症
社会人になってから1年が過ぎた頃、友人と焼き肉を食べに行った時です。急にお腹が痛くなり、トイレに駆け込みました。今まで経験したことのない様な勢いの水様便でした。
その時は「あれ?肉にあたったかな?」ぐらいにしか思わず、痛みもすぐに治まったので気にしていませんでした。
ところがその後も下痢が続き、拭いた紙に血が付くようになりました。腹痛はなかったので、最初は痔かな?くらいに思っていましたが、だんだん出血の量が増えてきたので不安になってきました。
「ひょっとして大腸ガン?」その頃はまだ潰瘍性大腸炎という病名は聞いたことがありませんでした。
さすがに心配になり、休みを取って内科を受診しました。症状を伝え、肛門鏡で調べた結果「痔になってるね。出血もおそらく痔からの出血でしょう。しばらく様子をみましょう」との事。ホッと胸をなで下ろして帰りました。
しかし安心したのも、つかの間、だんだんお腹が痛くなってきたのです。下血の量も増えていき、これはやっぱりおかしいと思い再び内科を受診しました。内視鏡検査の結果は「潰瘍性大腸炎」。初めて聞く病名でした。「この病気は最近増えてきている。完治は難しいが薬でコントロールすることはできる。病気と仲良く付き合っていきましょう。」と言われました。検査の結果を聞いたとき、一番最初に考えたことは「あぁ。私も母を心配させてしまう身体になってしまった。」ということでした。というのも私には鬱を患っている兄弟がおり、そのことで母は大変苦労していました。当時父は仕事人間で家族のことは顧みず、家の問題はすべて母任せ。いわゆる機能不全家族でした。そんな家庭でしたので、私だけは母に負担をかけまいと自分なりに頑張ってきました。なので病気になってしまった時、自分の身体のことより母のことが先に頭をよぎったのです。
発症する前の生活はストレスまみれでした。家族の問題、就職したばかりで慣れないハードな仕事、職場の人間関係。そのストレスを発散するため、休みの日は友人と朝から夜遅くまで遊び、暴飲暴食。食事の質も悪く、ファストフードや加工食品など食べたいものを食べたいだけ口にしていました。よく父には「休みの日ぐらいゆっくりしなさい。」母からは「そんなものばかり食べていたら、体壊すよ。」と言われましたが、聞く耳持たず。本当にバカでした。こんなに自分の身体を粗末にしていて、おかしくならない訳がありません。そんな生活を続けていたせいか、時々脂汗が出るほど胃が痛むことがあり、その度に胃薬を飲んでしのいでいました。それから顔の右側一面に赤い発疹が現れ、慌てて皮膚科へ行くと「ストレス性の発疹でしょうね。軟膏と飲み薬を出しておきます」と、確かビタミン剤と消炎剤のような軟膏をもらって帰りました。
このようにもうずっと身体は悲鳴をあげていたのに、その度に身体は必死にけなげに戦ってくれていたのに、私は自分の身体のことにまったく無頓着でした。いえ、無頓着と言うより、抱えているストレスにどう対処して良いのか分からず、毎日無我夢中で、身体のことを顧みる余裕がなかったのだと思います。そのような経過があってからの発症でした。当然のことです。
3.辛く長い闘病生活
潰瘍性大腸炎と診断されてからすぐ、2週間ほどの入院生活が始まりました。しばらく絶食し、一日中針を刺している状態の持続点滴。入院中は胃カメラや心電図などの検査があり、その後食事は八分粥から繊維の少ない低残渣食へ変わりました。その時に処方された薬はサラゾピリンでした。その頃はまだ粒が丸くて大きく、とても飲みにくかった覚えがあります。退院後は二週間に一度の通院。半年ぐらいは調子も良く、フルタイムで働いていましたが、半年後いわゆる再燃。入院はせずしばらく自宅療養。このころからフルタイムの仕事は大変になってきたのでパートタイムにさせてもらい、午後は休むという生活を半年くらい続けていましたが、職場が病院でしたので、院長も私の病気がどういうものかは知っており、ついに「仕事を一度辞めて、ゆっくり療養しなさい」とクビになりました。仕事を辞めてからは、失業給付金をもらってしばらく自宅で静養していました。
その後、病院で処方される薬がサラゾピリンからペンタサに変わりました。その時の説明では、「ペンタサは新しい薬でサラゾピリンより副作用が少ない」というものでした。最初の頃は一年に2回ほどの再燃で、一ヶ月くらい掛けて緩解というペースでした。
ただ、その後の再燃時の症状が激しく、一日に25回ほどトイレに駆け込み下血の量も多く、便器が真っ赤になりました。痛みが強烈で、痛みのあまり何度か嘔吐しました。ほとんどの時間トイレで過ごすような状態が続き、もちろん食欲もなく、無理に口にいれるとすぐ胃腸が反応してトイレに駆け込むという状態になり、再入院。症状が激しかったので、医師からはプレドニゾロンを勧められました。ステロイドは怖いという知識はありましたが、この時の激しい痛みには勝てず、心の中で罪悪感と諦めのようなものを感じながら飲みました。効果はてきめんでした。あれほど辛かった痛みも、1,2日の服用で治まり、下血もなくなりました。激痛から解放された喜びと同時に、これほど劇的に効果が現れるステロイドに恐ろしさも感じていました。
退院してからは、しばらくプレドニゾロン、症状が軽くなればペンタサが処方されました。このころの食事は体調がまずまずの時は油や刺激物、冷たい物を避けた普通の食事、調子が悪いときはエンシュアリキッド(半消化栄養剤)を食事代わりに摂っていました。ただ、このエンシュアは甘ったるい味付けがなんとも飲みにくく苦痛でした。
発病して2,3年経過したある日、突然左の顔面が動かなくなり、神経痛が出ました。病院へ行くと「顔面神経麻痺」と診断されました。同時に左の耳が聞こえなくなる「突発性難聴」も発症、その後激しいめまいで一人ではまっすぐ歩けない状態になりました。立て続けに激しい頭痛があり、我慢が出来ず鎮痛剤を飲みました。こんな状態でしたから、私の体の中で何が起こっているんだろう?なんでこんなに苦しい思いをしなくてはいけないの?友人達は元気に毎日を過ごしているのに、なんで私だけ?と自分の人生を恨んでいました。今なら、すべて体中の神経節で増え続けていたヘルペスウィルスを、回復し始めた免疫が攻撃しているための症状と理解できますが、そのころの無知な私は、ただただ辛い症状としか認識できなかったのです。
4.病院にさよなら
発病して5,6年、相変わらず症状の激しいときはプレドニゾロン、普段はペンタサを服用していましたが、その薬もだんだん効かなくなってきました。プレドニゾロンの入った液を注腸する処置もしましたが、耐えられませんでした。腸にまんべんなく行き渡らせるために、横になって体をゴロゴロ動かしてくださいなんて言われましたが、液が入ったとたんトイレに駆け込んでしまい無理でした。さすがに医者も困ったようで、「あまりこれは処方しないのだけど…」と気の進まない様子ではありましたが、免疫抑制剤(イムラン)を勧めてきました。知識の乏しい私でも、これはさすがに飲んではマズイと思い、その薬は捨てました。
それ以降その病院へは行きませんでした。その後、点滴を受けに近くのクリニックへは通っていましたが、2003年を最後に通院はやめました。発病してから7年も経っていました。しかし幸いなことに、通院していた7年の間、医師から手術を勧められたことはありませんでした。
5.自分で治す!
病院での治療に限界を感じ、自分でなんとかしてみようと、いろいろ調べ試してみることにしました。病院へ通っていた頃も、図書館や本屋へ行って調べてはいましたが、どれも気の滅入るような情報しか載せられておらず、ストレスになるのでやめていました。(当時、家にはインターネットができる環境はなく、情報源は図書館か本屋のみでした。)潰瘍性大腸炎にいいといわれるサプリメントや健康食品などいろいろ試してみましたが、私には効きませんでした。途方に暮れていたとき、本屋でA先生の「病気は免疫で治せる」というような本を見つけました。松本先生はこの方を免疫学者の風上にも置けないと批判しておられますが、当時の私にとって、この本は唯一の明るい希望でしたのでA先生の本を買いあさって読みました。そして先生の理論に基づいて、薬は一切やめて、副交感神経を刺激する物をいろいろと試し、ストレスを溜めないように気を付けていました。
6.大きな試練
そんな時でした。家族の中で一番元気だった母が病気で倒れたのです。余命は3ヶ月と告げられました。青天の霹靂、頭が真っ白になりました。それから母の辛い闘病生活が始まりました。
当時父は仕事で忙しく、兄弟も鬱で看病など出来る状態ではなかったので、私が母の入院する病院へ片道1時間半掛けて通い看病していました。これまでの人生の中で、一番辛い日々でした。心も体もボロボロで、免疫もかなり抑制されていたのではないかと思います。体はヘトヘトでしたが、ほとんど潰瘍性大腸炎の症状は出ていませんでした。母が亡くなった後は、燃え尽きてしまったのか生きていることが虚しく、何もする気にならず無気力状態でした。母がいてくれたことでなんとか繋がっていた家族もバラバラになりかけていました。ケンカが絶えず、またストレスの多い生活になっていました。自暴自棄になって、再び暴飲暴食をしていました。
7.4度目の入院と諦め
2006年、首が腫れ、動かすと激痛が走るので首にコルセットをはめ、トイレと食事以外はほとんど寝たきりの状態になってしまいました。この状態でも病院へは行きませんでした。行けばまた消炎鎮痛剤などを出されるに決まっている。不信感でいっぱいでした。寝たきりといってもこの頃潰瘍性大腸炎が再燃していて、首の痛みにうめきながら何度もトイレに行っていました。その時、お尻に痛みを感じたのです。40℃近く熱が出て、だんだんお尻が腫れあがり、痛みでトイレへ歩いて行けなくなり救急外来へ運ばれました。
肛門周囲膿瘍(痔瘻)でした。応急処置の切開ではコップに一杯分の膿が出ました。そのまま病室へ運ばれ入院。抗生剤の点滴を受けました。あれほど嫌だった病院へまた戻ってきてしまったとガッカリでした。二週間ほど入院し、その後も何度か膿が溜まり、外来で処置を受けました。2008年、口の周りが真っ赤に腫れ、小さな水疱がぽつぽつと出来ました。皮膚科で口唇ヘルペスと診断されました。
2010年、今度は肋間神経痛と坐骨神経痛を発症しました。布団から起きあがるのにも激痛が走るので、30分以上かけて起きていました。当然トイレに間に合うはずはなく、大人用のおむつをしていました。とても惨めでしたが、次から次へと襲う痛みにもうヘトヘトで、戦う気力もありませんでした。その間、神経痛に効くといわれる漢方薬を薬局で買ってきてもらい服用していましたが、坐骨神経痛には効かず動けないので、今まで拒んでいた痛み止めを飲んでしまいました。この頃の体重は35kgにまで減っていました。
体調が落ち着いてきた頃、東洋医学で治療ができる病院を探しました。県内の2カ所に通いましたが、どちらの医師も私の病名を効くと顔を曇らせました。「病院の薬はいま何も飲んでいないの?」と聞き、「難病だからねぇ。漢方は体調のよい期間を長く維持することはできるかもしれないけど、根本治療は出来ないよ。」と言われました。ガッカリしましたが、何もしないよりは良いかもしれないと半年ほど通っていました。その間またお尻に膿が溜まり、近くの病院で処置を受けました。痔瘻の手術を勧められましたが、断りました。この時ステロイドの注入薬が処方されましたが、もうあきらめの心境で使ってしまいました。今思えば、東洋医学の医院に通いながら、他の病院で処方されたステロイドの薬を使うという矛盾した行動をとっていました。
8.松本漢方クリニックとの出会い
2012年3月。半年通っていた医院の医師が倒れ、閉院することになりました。医院からは、東洋医学(漢方内科)を標榜している病院のリストを渡され、他の病院を探して下さいといわれました。しばらくいろいろ調べてみましたが、これといったところがなく半分諦めていました。7月に再燃し、食事が摂れなくなったので近くのクリニックへ毎日点滴に通ってなんとかしのいでいました。
なにか突破口のようなものはないのか、このままずっとこんな生活を繰り返していくのか…。ネットでなんとなく半分冗談のつもりで「潰瘍性大腸炎完治」と入力し検索したところ、松本漢方クリニックがヒットしたのです。8月26日のことでした。
「見つけた!!」私の求めていたものが、松本漢方クリニックのホームページにあったのです。先生の理論や手記を貪るように読みました。私の中ではもう諦めていた「治る」という言葉を見つけたときは本当に興奮し、思わず家族に「いい病院見つけた!この病院に行ってみる!」と言っていました。読んでいくうちに、根本的な原因は化学物質であること、本来ならIgEという免疫を使ってアレルギーとして排出するものを、ストレスや間違った治療でIgEの働きを押さえ込んでしまったことで出せなくなった化学物質をIgGという免疫を使って排出しようとしているのが、潰瘍性大腸炎などの症状なのだと理解しました。
また理論や手記のコメントには生き方や心の持ち方などがかかれており、いかに心が自分の体に影響を及ぼすのか、治癒に大きく関わるのかと言うことが綴られていましたが、その通りだと思いました。というのも、母の闘病中に精神免疫学の本を少し読んだことがあったのでほんの少しだけ知識があったのと、自分自身の考え方がほんとうにストレスを抱えやすいものだったので、まるで自分のことを言われているようでなんだかおかしくて、笑ってしまいました。
9.松本漢方クリニックへ
こうなったらいてもたってもいられなくなって、今すぐ行きたい!と思いましたが、そのころは一日のトイレの回数が15回ほどあり、毎日点滴とおにぎりをほんの少し口にするだけだったので大阪まで行く体力があるか不安でしたが、幸い家から高槻までは2時間ほどで行ける距離だったので、日にちを決めて、少しでもトイレに行かなくても済むように、前日は食事は摂らず点滴を受けるのみにして臨みました。
9月4日、道中フラフラでしたが、久し振りに乗る新幹線にウキウキしていました。そして無事になんとか松本漢方クリニックにたどり着きました。
10.松本漢方クリニックでの治療
初めてお会いした松本先生はとても元気な方で、笑顔で迎えてくれました。今までかかった医師はみな無表情な方が多かったので新鮮でした。何度も「治るでぇ、治すのはあんたの免疫や!」と言い、握手をしてくれました。今までにないことでしたので、これだけでも免疫が上がったような気がしました。詳しい症状を伝えると、「あんたは潰瘍性大腸炎やなくてクローンやな。ま、病名なんてなんでもええんやけどな。」と言われました。何度も痔瘻を再発していたので、外来でかかっていた時の医師に「クローンかもしれないね」と言われていたので、ああ、やっぱりそうなのだと思いました。
診察の前に鍼をし、採血を済ませ、漢方の煎じ薬を2週間分と抗生剤と抗ヘルペス剤、二種類の軟膏と入浴剤をもらい、夜遅くに帰宅しました。体はとても疲れていてヘトヘトでしたが、心には明るい希望の光が一筋差し込んでいました。その日の夜はぐっすり眠れました。翌日の朝、さっそく漢方を煎じて飲みました。今まで飲んだ漢方の中で一番苦い味でしたが、慣れていたのでそれほど抵抗なく飲むことが出来ました。驚いたのは、飲んだ翌日から下血が止まったことです。それまで少量ながら、3ヶ月近くも下血が続いていました。それが一日で治まったのです。一日15回以上あった下痢も、徐々に減り、5日後には5回にまで減りました。
効果を実感し、俄然やる気が起きてきました。それから毎日お灸をし、近くの鍼灸院で週一回のペースで鍼をうけ、漢方風呂に入りました。心が大事と、昔読んでいた心の問題と向き合う本などをまた読み始めました。
11.10ヶ月経過して
現在、松本漢方クリニックでの治療を始めて10ヶ月が経ちました。その間何度かリバウンドがありましたが、症状が出ても免疫が回復している証拠と理解してからは、前のように落ち込むことはなくなり、冷静に受け入れ対処することができるようになりました。痔瘻の膿が溜まりはじめ熱が少しあるときは抗生剤を服用し、神経痛の兆候が出はじめたら抗ヘルペス剤を飲めば、すぐに治まるようになりました。体重も最低だった頃から10kg増えました。
松本漢方クリニックにかかるまでは、症状が出はじめると一ヶ月は家で寝込むことが年に何度もあったのが、今はリバウンドの症状があっても寝込むことなく、日常生活を送ることが出来ています。本当に松本漢方クリニックに出89逢えて感謝しています。
12.おわりに
私は17年もの間、潰瘍性大腸炎(クローン病)と戦ってしまいました。でも今までの自分の人生を振り返って、その時間を後悔しても元には戻りません。これからどうするかです。
私の一番の問題は考え方です。褒められることのなかった家庭環境と自分自身の努力で何かを達成するという経験をしてこなかったせいか、私は自尊心が低く、すぐクヨクヨ悩み、自分自身で自分を認めることができないので、周りからの評価で自分の価値を決めてしまうような考え方をしていました。いつも周りの空気をよみ、イイ子でいる。周りから認められている人を見ると羨ましくて仕方がない。そんな何年もかけて身につけてきてしまった思考パターンを変えていくのは、私にとっては本当に地道な努力と根気がいります。くせになっている思考パターンに流される方がずっと楽だからです。それでもこの問題に立ち向かわなければ、完治はないと思っています。
よく例えられますが、漢方や鍼灸などで免疫をあげるアクセルを踏んでも、免疫のブレーキとなる考え方をしていては、何も動かないからです。心の問題、今まで使ってしまった薬の影響などを考えると、治癒まであとどれくらいかかるか分かりませんが、それまでは松本先生をはじめ看護師さん、鍼灸の先生のお力を借りながら、諦めず取り組んでいこうと思います。これからもよろしくお願いいたします。
ここまで読んでくださりありがとうございました。私の手記が読んでくださった方の力になるか分かりませんが、松本先生の理論とほかの方の手記をよく読んで、納得されたならご自分の責任で治療を受けて下さい。選ぶ自由と責任は自分自身にあります。