「潰瘍性大腸炎手記」
44歳2012年6月27日
44歳2012年6月27日
<完治の希望>
2011年、5−6月にかけて1ヶ月半私たち家族はオーストラリアのパースの郊外で過ごしていた。子供が寝静まった夜、リビングルームでパソコンに向かっていた私は「潰瘍性大腸炎完治」で検索をかけた。
というのも、仕事柄、2011年3月11日に起こった東日本大震災の後、救援物資、人材の送り出し等のボランディアに力を傾けるうちに、治まっていた大腸炎の症状がでるようになっていたからである。その中で震災前から決まっていたオストラリアへの出張があった。いつものようにサラゾピリンの経口薬、座薬をもっての渡豪となり、症状がなかなか改善していかない中、十分だと思っていたサラゾピリンの座薬をわざわざ日本から送ってもらわなければならないところまできていた。1966年に発病してからというもの、なにかというとこの病は私を煩わせてきた。そして、その夜、オーストラリアに来てまでその症状に悩ませられる、なんともやりきれない思いを抱えつつ本当にこの病は治らないのだろうか?どうなのだろう、とおぼろげながらに思っていた。
今にして思えば、日本全体の環境の変化、個人の生活の変化、そして、国の変化とストレスがかかっていたのだと思う。そして、身体は自然な反応をおこした当然の結果だったのだと思う。
検索の数ページ目にヒットしたのが松本漢方クリニックのホームページだった。漢方薬、針、灸等東洋医学の助けを借りつつ身体の免疫をあげつつ、必要ならば西洋薬も使用しつつ、様々な難病に取り組んでおられるお医者様。というのが第一印象だった。
私は以前から身体は心とつながっているので、その両方を扱い、身体も臓器ごと、器官ごとではなく、ホリスティック(全体的)に扱う医療の必要を感じていた。しかし、なかなかそのようなお医者様には出会うことができない現状にどうにかならないものかと思うことが多かった。しかし、この先生はそのような医療を目指しているように感じられた。しかし、医院の場所は大阪の高槻。住んでいる千葉から実際に通院するのはなかなか難しいとも思われた。
それと同時に、自分は果たしてこの病気から本当に治りたいと思っているのだろうかということも無意識のうちに心の深い部分では感じていたように思う。しかし、その後、しばらくはその思いに向き合うことはなかった。
<診断1996年から>
結婚して間もないある朝私は腹痛に悩まされていた。そのしばらく前から腰の痛みがよくならず、おかしいと思っていた。正露丸を飲んでも腹痛は一向によくならず、数週間前に検査を受けた病院に電話してどうすれば良いかを聞くと、来院するように言われた。実はその数週間前、痔のような症状があるために、近くの比較的大きな病院を勧められて大腸ファイバーの検査を受けていた。1週間後に結果を聞きにくるようにと言われていたのに、忙しさにかまけて放っておいたのだ。
妻に運転してもらって病院に行くと外科部長の先生が診察してくださり、先日の検査の結果「潰瘍性大腸炎」という診断がなされている旨を教えてくださった。その意味もよくわかるはずもなく、入院するかどうかのやりとりがあり、ともかく痛みがとれればとの一心で入院をお願いしたのを覚えている。しかし、これはあくまでも診断された時なのだ。よく考えると結婚する前にも同じように痔のような症状があった時期があったことを思い出すことができる。
独身時代、楽しみといえば、夜、英語の勉強と称して、ビデオ鑑賞をしつつコラを飲み、ポテトチップスをたべることだった。珍しいコーラがあれば買ってきて飲み、空き缶を部屋に飾っていた。夕食は味噌汁とキムチとご飯。昼はハンバーガーなど栄養バランスを全く考えない食生活をしていた時期もあった。食べられるときにはたくさんたべておけとばかりに暴飲暴食は日常茶飯事だった。本当に身体の健康のことには無頓着だった。職場では数人の上司がおりどうしても尊敬することが難しい方の無茶ぶり、無理難題につきあっていくストレスをそうやって発散させている面もあったと思う。その時に、トイレに行くと紙に血がつくことがあった。両親に相談するとお風呂に入るようにとのことだったので、なるべく風呂に入って身体を冷やさないようにし、身体を動かすようにしてストレスを解消するようにしているうちに症状はよくなっていたのだ。
外科部長の先生の言葉を待合い廊下で待っていた妻に伝え、バタバタと入院の手続きをしたあの時から私たちと病との本格的な戦いが始まった。と言っても、偽の戦いだったと15年後に明らかになるのだが。
その頃の私は結婚式の準備、結婚式、結婚生活、教師試験受験、職場の責任の増加、職場での人間関係の悪化等のストレスが重くのしかかっていた。そんな中で症状は悪化し、入院を通してそれらから一時的に離れることを余儀なくされた。中心静脈を通して高カロリーの点滴がなされ、2週間ほどで症状が安定したので退院した。しかし、それから何度か入退院を繰り返した。結局結婚当初就いていた仕事は1997年の春で辞めざるを得なくなった。様々な要因が重なったが、病も一つの原因であった。
<金沢で>
2001年、私たち家族は石川県で1年間、他の仕事の関係で滞在することになる。そこでも体調が悪化し、国立病院に入院した。前年にも体調を崩し、千葉で入退院を繰り返していた私は仕事で石川に行ったと同時に紹介状をもってその病院に行ったのだが、そこの先生はステロイド剤を使用する方針だった。結局、その一年間は経口剤としてプレドニン、1クール3回のパルスを行い造影しつつ直接大腸の患部にステロイドを注入。中心静脈からの高カロリー点滴を鎖骨下部にポートを埋め込み調子の悪い時は常時点滴を専用ベストにつけて携帯式のポンプもつけて自宅で交換を行った。今考えると恐ろしい治療をしていたものだ。日常生活をおくることができるためという理由ではありつつも、病院に依存しなければ生活することができないような治療方針で、ステロイドの増減のみで痛みや症状をコントロールしようとしていた。それは、まさに松本先生がいうところの医療業界、薬剤業界癒着型金儲け主義医療の最たるものだった。よく学びもしなかった私はとにかく仕事に早く戻ることができるようにと、対処療法による症状の改善という目先の利益のみを追い求めていた。
金沢では、妊娠中だった妻、そしてまだ2歳だった息子には随分寂しい思いをさせてしまった。入院につぐ入院、退院してきても体調が悪いなか北陸三県を飛び回る生活。そして、その中でも娘が誕生したことは大きな励ましだった。仕事の面でも多くの人たちに協力をいただいた。そして多くの迷惑をかけてしまった。結局、その仕事は、体調が理由で退職することになった。
<再び千葉へ>
体調の安定しないまま家族とともに千葉に戻った私は、引っ越しすると間もなく千葉の大学付属病院外来を訪問した。担当の先生は、中心静脈高カロリー点滴の入ったベストを着て、ポートを付けた私の姿にあ然とした顔をして、「なぜ、病院から自立できないような治療をするか。」とご立腹の様子だった。そんな言葉を身体もだるい、ステロイド漬けのぼーっとした頭で聞いていた。ともかく、ペンタサを使って症状を安定させ、ステロイドを離脱していく方針が示され、そこからまた、新たな治療が始まった。その先生は潰瘍性大腸炎の世界では名の知れた方だった。
それからしばらく入院生活をする中でポートをはずし、ステロイドの離脱をし、ペンタサに切り替えていくようにした。離脱はうまく行った。が、その一年はほとんど下痢が止まらなかった。下痢がつらいのでどうしようもなくなり、以前から母に勧められていた、光線治療研究所のコーケントーから出ている光線治療の器具をつかって身体を暖めて免疫を上げるようになった。するとみるみる症状が緩和するようになりほどなく下痢が止まった。こんなことならば、母の勧めを聞きもっと早く光線治療をすればよかったと思った。この治療は器具さえあれば、自宅で治療できるので助けられた。
<小康状態>
この後、しばらくの間、ペンタサ、サラゾピリンを使いながら、症状がひどくなったときには座薬を使いながら、調整をすることができていた。しかし、冒頭に述べたような経緯でまた、症状を自分で調整することが難しくなったのが2011年の秋のことだった。
<転機>
2011年の秋、自分の中である一つの心理的な転機が起こった。それは、一言で言うならば、完全ではないが「ありのままの自分を受け入れはじめる」経験だった。それまで、自分で自分をとても低く評価していた。そのような思いは私がなにかをする度に首をもたげてきた。また、仕事を辞めなければならない状態になるときにも、何事も中途半端にしかできない自分というレッテルを貼って自己憐憫に陥っていたのだ。しかし、その奥には同時に自分はもっとよくできるはずだ、という高慢な思いが潜んでいて、その理想には到底とどくことがないと謙虚に受け入れることができなかった。理想と現実のギャップの中で苦しんでいたのだ。おそらく、そのような思いにさいなまれて自らにストレスをかけることで自分の身体をも痛めつけていたのだ。その時に身体からは副腎皮質ホルモンが出まくっていたのだと思う。
私は自己を受け入れ、ありのままの自分をそれで必要十分と思うことができる経験をさせていただくことができた。5パースで松本漢方クリニックを検索した時から、自分の中にある劣等意識が取り扱われることができれなければ、この病気を完治させることに取り組むこともむなしいのではないかとおぼろげながらに思っていた。なぜならば、いくら身体的な治療を施しても心がそれに向いていくことがなければ、途中で止めてしまい、完治を目指すことは難しいだろうとうすうすわかっていたからだ。
その転機を通して私は、この病の完治のために取り組むことができる希望が与えられた。そして、体調が次第に悪化してきていた私は、2011年の10月、ついに松本漢方クリニックの戸をたたくことになった。
初めて来院した時、先生から「15年間も闘病してなぜ、今になって僕の所に来たの?」と質問された。その時には、話すと長くなるので、「色々と思うところがありまして。」とお茶を濁したのだが、実は先のような経緯があったからだった。
治療を始めてから気づいたことがいくつかあるが、自分にとっての重要な気づきの一つは、私にとって、この病は一つの逃げ場、隠れ家、安全地帯になっていたのではないかということだった。子供の頃からの心理的な葛藤の中で未成熟な部分があり、だれかから気遣ってもらいたい、やさしくしてもらいたい、究極的には愛してもらいたいという深い欲求が自分のうちにあって病気になり、他の人からの注目を集めることでその深い部分にある思いを満たそうとしていたのではないか。また、なにか人生や人間関係で都合の悪いことが起こると感じた時にそこに逃げ込むことで現実からの厳しさから逃れられると無意識に思っていたではないか、と思うようになった。
しかし、私は、自分を受け入れてくださる大きな存在、すべてを知っていて下さる方、自分で病気に逃げ込むことをせずとも守ってくださる方の存在を再確認し、その方が実は大変だったときにも一緒にいてくださったのだと実感することができるようになったのだ。それまでも実感していたのだが、より深いレベルで体感することができるようになったのだ。もう、病気に逃げ込む必要はない、ここから解放されてもよいと思うことができるようになった、それで、私は松本漢方クリニックの門をくぐることができたのだ。
現在、松本漢方クリニックにおいて加療中である。ご存じのように松本先生は100年に一人の医学会における逸材であろう。そして、医学会、薬学会、関係省庁を敵に回して人間の本来持っている免疫力を引き出すために私たちのために戦って下る貴重な方だ。そのような方と出会うことができたことを本当に感謝している。6そんな方だから当然敵が多い。そして、人によってはみずからの病状に改善が見られる前に加療を中断し、先生の方針を公然と批判しておられる方もあるようだ。それらの方々にはそれぞれの事情があるのだろう。それぞれのケースに違いはあるだろうし、経緯も違う。それにも増して違いがあると思えるのはそれぞれの心のあり方なのではないかと思う。
先生は絶えず「自分が自分にストレスをかけてはならない」「病気は自分の心で治すのだ」と口をすっぱくして言っておられる。結局のところ自分がなおるかなおらないかはどれだけ、自分の心の状態を平和に保てるか否かにかかっている。当然周りの状況は変化するし、難しい人もでてくる。ある人にとっては、松本先生自身が難しい人になってしまうかもしれない。しかし、松本先生を変えることは私にはできない。私たちは他の人を変えることはできないのだ。しかし自分たちの心のあり方、受けとめ方を変えることは出来る、かもしれない。
同時にそこで注意しておかなければならないのは、完治ということにあまりにも固執してそれを絶対化してしまうこともまた、不必要なストレスを自らにかけてしまうことになるということだ。だからあくまでも結果はゆだねることにしたい。さて、医院を訪問してから10ヶ月がたった。2012年5月末現在で血液検査のデータは全く問題の無い状態にまで癒された。しかし、それでもなお、従来の心の持ち方から解放されることは容易ではなく、症状が落ち着くまでには至っていない。先生からは、「君が病気を治すのだ。」とお励ましの言葉を頂いた。私の闘病に終わりの日がくると信じつつ。乱文にお付き合いくださり感謝します。
松本先生語録(少しダミ声で、関西弁)
「千葉の遠いところからようこそ」
「自分を受け入れなあかん」
「ストレスをかけたらあかんで」
「カッカしない」(診察室の先生の目の前の標語)
「今一番困っていることはなに?」
「なおしてあげるよ〜。正確にはあなたの免疫力がなおすんや。」
「アホか!」
「ありがとう」これらの言葉は患者を真摯に思いやるゆえに出てくる先生の言葉である。