「潰瘍性大腸炎手記」
21歳2014年2月15日
21歳2014年2月15日
<潰瘍性大腸炎発症>
2012年3月のこと、私は一浪して大学に合格しました。それからというもの、家族に祝ってもらい、親戚にも祝ってもらい、また、予備校や通っていた高校の先生方にも祝っていただき、将来の輝かしい大学生活に思いをはせながら、嬉々として日々を過ごしていました。しかしある時「ここの所腹の調子が悪いな」と思うようになりました。しかしもともと私は腹が強い方ではなく、緊張したりするとすぐに腹に来るので、「これから死活環境が大きく変わることを思うと、意識していなくても体がびっくりしているのだろう、まあすぐにおさまるか」としか思っていませんでした。
実際、腹の調子が悪いというのも、少々下痢気味というくらいで、生活に支障をきたすようなものではありませんでした。そもそも、下痢が激しくて日常生活が妨げられるということが想像もできませんでした。
今から思えば、今までは勉強によるストレスに備えるため、脳下垂体からの指令で副腎皮質からコルチゾールのようなステロイドホルモンが出てきて免疫の機能がおさえこまれてしまった、そしていざ大学に合格してストレスから解放されてステロイドホルモンが出なくなると、逆にIgGやIgMが作り出されて免疫の働きが上がるものの、ステロイドホルモンの影響でAID遺伝子の働きが抑え込まれてIgGやIgMからIgEにクラススイッチできず、IgGやIgMが病原体を攻撃するように免疫細胞に働きかけるだけでなく、体内に入りこんだ化学物質にまで攻撃を加えてしまい、しかも化学物質はいくらでも入ってくるから、化学物質と免疫の戦いが大腸で繰り広げられ、大腸に炎症が出てきた、という理論が成り立つのでしょうが、その時、そんなことは思いつくわけもありません。
(ここまで書いてみて、自分が松本先生の理論をぼんやりと理解したつもりになっていただけだと気が付いた。いちいち論文やほかの方々の手記を見ないと、まともに理論を文章化できない。しかも、ここまで調べても、まだ理解できているのか不安が残る)。
<大学生になってからの一年>
そのまま、少し腹の調子が悪いけれどそれを意識するほどでもない、というような状態で大学の入学式を迎え、授業も始まりました。授業はどれも難しいけれど受けがいがあって心躍るものであり、また大学に入ったからには何かスポーツを始めたいと思い、いろいろなサークルや部活をまわって、最終的に馬術部に入って、さらに大学生活への期待が高まっていました。
ところが、腹の調子は良くならず、むしろ5月くらいから、一日に腹痛でトイレに行く回数が15,6回に増え、便に血が混じるようになりました。それでも、周りに心配をかけたくないから症状のことは言わず、「まあたかが下痢だ」という思いもあって、病院にもいかずにすごしていました。最初は、「放っておくだけだ」という思いがあったのですが、段々と腹痛はひどくなり、便も渋って、血の量も多くなり、「我慢しなければならない」という思いにかわっていきました。
さらに、授業中や部活中にトイレに行くことも多くなり、周りからは変な目で見られて、本当にどうにかならないものだろうか、と思っていました。しかし、その時でさえ、「まあ下痢だから食生活を改善すればどうにかなるし、そんなに気に留めないでいいか」と考えていました。ストレスを避け、化学物質さえ取り込まなければよかったのでしょうが…。そのような状態で長期休暇に入りました。
そういう状態が続くと、最初やる気と希望にあふれていても、下痢が続いてだるさもあると、無気力と絶望に変わってしまうもので、さらに体調が悪いのだから仕方がないというあきらめや驕慢にも近い思いや夏休みがひまであるということも相まって、ほとんど活動しない日々が続きました。そしてその状態のまま後期の授業に突入すると大変で、遅刻や欠席も多くなりました。
部活も同様でした。特に体調が悪い日は一日に10回ほどトイレに行くこともあり、便がほとんど血であることもたまにあり、そうなると一日中家で寝ていることになりました。そのようにつらい思いをしながらもやはり、「下痢くらいで騒ぐのはどうなのだろうか」とおもって、腸によいとされる食べ物を食べたりするだけで、病院に行こうとは思いませんでした。そのようにして正月を迎え、後期の試験もどうにか乗り越え、長期休暇に入りました。
その間は、部活にはいくものの、やはり腹痛やだるさからくる無気力と絶望に襲われ、なかなかうごけませんでした。そして3月の終わりくらいになると、「さすがに病院に行った方がいいな」と考えましたが、それでも、「そこで悪い結果が出たら周りに迷惑をかけるかもしれない」と考えてためらっていました
(今思えば、たいした事はないという考えに加え、このような思いが常に根底にあり続けたために、病院へ行かなかったのかもしれない。しかしそれは周りへの気遣いのように見えて限りなく偽善に近いもので、偽善が、無理して頑張っている自分はすごい、という自惚れを生み出し、病気を放っておくことになったのだろう。早いうちにそのような驕った心持を捨てて病院にでも行っていれば、早いうちに潰瘍性大腸炎であることがわかり、さらに早く松本医院を見つけていたであろうに。結局は、我慢することでストレスがストレスを呼び、病気がひどくなったのかもしれない)。
そうこうしているうちに4月に入って新学期が始まりました。しかしそこでも、体調がよくないので、授業中にトイレに行ったり、授業を遅刻・欠席したりしていました。そしてついに病院へ行く決心がつき、まずは大学の中にある診療所へ行きました。しかしそこの先生はあまり印象がいいとは言えず、診断も素人からしても疑問に思うものでした(その時の診断は、下痢で腸内細菌が2流れてしまったから、腹の調子が悪い、というものであった。原因と症状を取り違えた、本末転倒とでもいうべきものである)。
それでも、ビオフェルミンなどの薬をもらい、とりあえず健康的なものを食べるように心掛けました。しかし、5日ほどたっても一向に良くならず、家の近くにある診療所へ行くことにしました。そしてそこで初めて、潰瘍性大腸炎かもしれない、と言われました。そのとき、血液検査や便培養を行うことになり、さらに内視鏡検査の日にちも決めることになりました。検査の後、一週間で結果が出るから、その時来るように言われ、次回の予約もして、家に帰りました。しかし、次にその診療所へ行くことはありませんでした。4月の終わりごろ、部活へ行く途中、ついに倒れてしまったのです。
<入院生活>
倒れて大学病院に運び込まれた直接の原因は貧血でした。しかし、医者にここ最近の症状を話すと、「炎症性腸疾患の可能性がある」といわれ、また、「それによって腸管からの出血が激しくなっているかもしれないから、検査して、治るまで入院だ」ということになりました。そして胃と大腸の内視鏡検査を行った結果、全大腸型の潰瘍性大腸炎であり、サイトメガロウイルス(普段は潜んでいるが、時期を見計らって出てくる、ヘルペスウイルスみたいなやつ)に感染してもいる、ということがわかりました。内視鏡で大腸を見た結果も、大腸が激しく傷ついており、よくここまで放っておいたものだな、としみじみ思いました。病気についての説明は、家族も呼び出され、一生治らない病気だから、地道に付き合っていくしかない、ともいわれました。しかし、そこでさえ、一生治らないという実感がわかず、まだ病気を甘くみていました、「まあ腹痛程度だから、大学病院で適切に治療を受ければすぐに復帰できるだろう」と。
ここで、潰瘍性大腸炎が一般的にはどのように治療されるのか、病院の先生から受けた説明を、自分で調べたことなども含めて書いていきましょう。
治療には内科的治療と外科的治療があります。内科的治療は薬の服用や点滴であり、外科的治療は、炎症が内科的治療ではどうしようもないほどひどくなった時に行われる、大腸の全摘出手術です。内科的治療について、初めはペンタサ・アサコール・サラゾピリンといった5-ASA製剤を使います。これらは、好中球などの免疫細胞に働きかけて炎症やアレルギー反応にもかかわるロイコトリエンという物質の働きを抑制することで炎症を抑える薬のようです。
(あとで先生に、これは免疫を抑える薬なのか、ときいたら、それは違う、と言われたが、よくよく調べてみると、免疫を抑えるものだった。そもそも、炎症を抑え込む時点で免疫も抑え込まれているのだろうが。)そしてこれらは、炎症性腸疾患の基本薬で、常に飲み続ける必要があります。
5-ASA製剤でよくならない場合は、ステロイド服用や血球除去療法に移ります。ステロイドは、遺伝子に働きかけて免疫を抑制する物質で、漫然と使い続けると、ステロイド依存になって、すこし抜いただけで症状がひどくなるようです。また、血球除去療法は、炎症を引き起こす白血球などを取り除いて炎症のもとを断つことにより、治療する方法です。それでもよくならない場合は、イムランやレミケードといった免疫調整剤を使います。これらは、免疫細胞自体に働きかけたり、細胞間の伝達物質であるサイトカインに働きかけたりして、免疫を強力に抑えることで治療します。
しかし、他の副作用が心配されやすいものでもあります。さらにそれでもよくならず、症状がどうしようもなくなったら、いよいよ外科的治療で、大腸全摘出となります。炎症を起こした大腸を取り除き、小腸に膨らみ(回腸嚢という)をつくって大腸の代わりにする手術を行います。(初めに先生からこれらのことを聞いて、血球除去療法や免疫調整剤を使うのは感覚的に拒まれた。できれば5-ASA製剤で何とかなってほしかった。また、ここまで治療法が出来上がっているというのに、原因がよくわかっていないというのはどういうことなのか、よくわからなかった。しかし、病気でぼんやりしているので、どうしようもなかった。)
こうして、潰瘍性大腸炎の治療が始まり、まずは、ペンタサの服用から始めて、しばらく絶食をしつつ様子を見ていくことになりました。すると、一週間で、トイレに行く回数が10回から5回に減って、調子がよくなってきたので、食事を再開することになりました。その時の食事は、重湯やゼリーといったものでしたが、全然食べていない自分にとっては嬉しいものでした。しかし、食事を始めた次の日には、ひどく気分が悪くなり、トイレに行く回数も急激に増え、(一日20回はいっていたと思う)全く動けない状態になりました。CRPや白血球の値も異常に高くなっていたのです。
先生は、急に食事をはじめて腸が刺激されたからだといっていました。そこで、絶食に戻して薬もペンタサからアサコールに変えてようすをみることになりました。しかしそれでも調子は良くならないので、ついに嫌がっていた血球除去療法を受けることになりました。(私の場合、腸がサイトメガロウイルス感染を起こしていたので、ステロイドは使用されず)これは週二回、全部で10回ほど、腎臓内科で行われるもので、人工透析に近いものです。
巨大な針が刺され、一時間動けないのは相当な苦痛でした。それでも、一回目の治療でなんだか治っているような感じになったので、その時は希望を持っていました。さらに、しばらくは食事をとれないので、心臓の近くまでカテーテルを通して高カロリーな栄養をとれるようにもしました。(IVHという)しかし、突然CRPの値が高まり、血球除去療法は2回で終わることとなりました。そしてついにレミケードが登場するのです。
(実はこのころから、松本医院に行った方がいいのではないかとうすうす感じていた。潰瘍性大腸炎の疑いがいるといわれてから、母親がインターネットで検索して見つけてくれたのである。当初は、先生の論文を読んでも、眉唾物だと思ってあまり気に留めていなかったのだが、追いつめられると、感覚的な4ものであったが、行くべきだと感じられた。)
<レミケード>
結局、血球除去療法でもよくならなかったので、レミケードによる治療が担当医から薦められました。そのときは、家族も呼ばれました。レミケードは、マウス由来のたんぱく質とヒト由来のたんぱく質をバイオテクノロジーによって結合させることにより生成される薬剤であり、炎症サイトカインのTNFαの働きを抑えることで潰瘍性大腸炎の治療を行います。TNFαは、潰瘍性大腸炎に限らず、クローン病や関節性リウマチ、乾癬の時にも増加しているので、それらの膠原病の時にも使える画期的な治療薬であるそうです。
しかし、副作用として、アレルギー反応や結核などの感染症が心配されるので、事前にアレルギー予防のためにステロイドを点滴したり、ツベルクリン反応の検査を行ったりします。(実際、自分がそれであった)また、プログラフ(タクロリムス)の使用も検討されたようですが、もともと腸管がサイトメガロウイルスに感染しているため、T細胞(骨髄で作り出された前駆細胞が胸腺で分化成熟したもの。サイトカインを出して、他の細胞を活性化させる)の働きを抑えかねないそれは使わないこととなりました。
レミケードの使用が提案された時、免疫を抑えるということでためらいはありましたが、世界中で125万人の人が治療に使っていて、絶大な効果がある、と聞いて、苦痛から解放されるのだと思うと、レミケードを使うことのためらいもなくなりました。そして、5月の後半に一回目の点滴治療が行われました。レミケードは、初めに点滴してから2週間、4週間、8週間、8週間・・・という感覚で継続的に点滴を行い、一回当たり2時間ほどかかります。
しかし、いざやるとなると、ステロイドの点滴を事前に投与したり、心電図をとったりする(アレルギー反応で危険な状態になった時、すぐ対処するためらしい)ので、「本当に大丈夫なのか」と思い、恐怖感がわいてきました。しかし、後には引けないので観念して、点滴が始まりました。その間は、相当につらいものでありました。レミケードだけでなく、栄養剤の点滴もうっており、心電図もとっていたので、管だらけで全く身動きが取れないのです。それでも2時間耐えて、点滴は終わりました。
そしてその日は快調に過ごせたので、「レミケードを続けてもいいか」と思えるようになりました。しかし、次の日には今まで通りの症状に戻り、腹はなるし、痛みも出血もある状態でした。それでもCRPは下がっていたので、レミケードをやめようとは思っていませんでした。
そして6月に入ってから、もう一度レミケードを点滴して、治療の効果を確かめるために、5月初め以来の内視鏡検査も行いました。検査の時、カメラに映る映像を見ていたのですが、出血はあるし、白く腫れている部分もたくさんあって、前よりもひどくなっているのではないかと思いました。
検査の結果は、レミケードによって前よりもよくなっており、白く腫れている部分に関しては、クロストリジウムディフィシル(腸内で日和見感染を起こす細菌)による偽膜性腸炎の疑いがあるということでした。また、生検で、サイトメガロウイルス感染はなくなっていることもわかりました。(レミケードの治療と並行して、抗ウイルス剤も点滴していた)そして、その後の血液検査でも良好であったので、食事を再開することになりました。
しかし、いざ食べてみると、トイレに行く回数は増え、気分も悪くなり、2日ほど動けなくなりました。そしてその時、「このまま病院にいても治らない、松本医院しかない」とひらめき、苦しみながらも先生の論文やいろいろな方の手記を読みました。読んでいると、以前読んだときには感じられなかった、感動や希望が湧いてきて、気分も盛り上がり、「これしかない」と確信するに至ったのです。
(そもそも、病院にいるうちに、入院する前よりも悪くなっているのではないかと思うようになり、どのくらいの時間で治るのかと聞いても、個人差がある、でうやむやになり、常々不安に思っていて、食事をはじめた時に悪化したことが引き金を引いた。先生方は献身的に治療してくださるのだが、効果は得られないし、得られたとしてもすぐに消えてしまう。だから、表向きは先生方を信頼していても、心の奥深くでは、これではだめだ、何か行動を起こして対処しなければ、という思いがあったのだろう。それが、ひらめきにつながり、論文や手記を読んだ時の感動や希望につながったのだろう。また、治療、治療と書いていて、松本先生はそれを批判されるかもしれないが、どうしようもなくひどい状態で入院してきた自分に対する病院の先生方の心遣いをおもうと、治療、と書きたい気持ちになるのである。)
<松本医院、そして退院へ>
レミケード治療もだめで、「松本医院へ行くしかない」と思った私は、親と相談して、病院から外出許可をもらうことにしました。そして、平日にもかかわらず、両親は仕事を休んで、松本医院へ連れて行ってくれました。車で向かう途中、「腹が痛くなりませんように、なりませんように」とずっと思っていました。病院の前で車から降り、ふらつきながらも階段を上ると、(この時体重は50kg。入院した時は60kgあった。栄養が点滴だけで、まともに食べていないため。)「ステロイドは使用しません」という看板がみえてきて、ついに到着しました。
扉を開けると、漢方のにおいがして、なんとなくくつろげる感じがしました。なかには10人くらいの人が入っていて、「これはだいぶ待ちそうだな」と思いました。受付では、ヘルペス抗体価に関する文章が渡されたので、待っている間、それを読んでいました。そこには、ヘルペスに関して常々言っている先生の意見が、医学的に受け入れられないということで否定されたことや、それに対する反論が書かれていて、先生の自信と熱意が伝わってきました。それが読み終わると、潰瘍性大腸炎の手記を読んでいたのですが、途中で診察室の方から大声が聞こえてきたので、自分の身を案じてしまいました。そして自分の番が来て、緊張しながら診察室に入ると、そこには若い先生がいました。あれっ、と思っていると、その人は松本二世だということであり、4月から二人体制になったということのようです。
診察がはじまるとまず、なぜこの病院に来たのか、と聞かれました。そこで、内心不安に思いながらも、手記を読んで感じたとおりに、「免疫を上げることによって病気を治したいから」と答えたところ、「よくわかっているな」と言われました。そのあと、最近の症状のことを話していると、隣の部屋から誰かはいってきました。松本先生の登場です。先生を見るまでは、「ごつい感じの人なのかな」と思っていたのですが、実際はすらっとしていて温厚そうな人でした。また、情熱と信念を感じる人でもありました。診察の間、「君は賢そうだからわかっている」「病気は必ず治せる」と言って握手してくださいました。いろいろな人の手記に書いてある通りで、ああ、この先生なら大丈夫だな、と思いました。それから鍼灸(ツボとは血流が滞りやすい場所であり、症状に応じてそのツボを刺激すると、血流がよくなって、症状が改善するらしい)をしました。鍼灸の先生には、「若い人もいろいろ他ストレスを抱える時代になっているのだね」などといわれ、まさにその通りだと思いました。松本医院を出てから、薬局で漢方をもらい、ひとまず病院へ帰りました。
病院に帰ってからすぐに、母親が私の下宿に寄って漢方をたいて持ってきてくれました。ためしに少しだけ飲んでみると、とても苦かったので、息を止めて、味を感じないようにしながらどうにか一気に飲みました。そしてそれからは、病院から出る薬は飲まずに、松本医院で出された漢方とベルクスロン(抗ヘルペス剤)とフラジール(抗生物質)を飲む生活をしばらく送ることとなったのです。すると、今までは水のようであった便が固まってきて、腹が鳴るのも消えてきたのです。そこで、このまま病院にいるよりも、「実家に帰ってじっくりと療養した方がいい」と確信し、退院する決心がついたのです。
その後病院の先生には、松本医院に行ったこと、漢方での治療を希望するので退院をしたいことを伝えました。そして、また家族が集まり、先生と話をすることになりました。その中で先生の言っていたことをまとめると、次のようになります。
・病院では、潰瘍性大腸炎に対する基本的治療を行っている。
・漢方を使うのは自由だが、自分たちは漢方の専門でないため、それで悪くなった時の治療はできない。
・ペンタサやレミケードがあっていて、腸管炎症を抑えることができ、状態としては良くなってきている中で治療をやめてしまうのはもったいないばかりでなく、また炎症を引き起こしかねず、そうなると、例えばレミケードの場合、中和抗体が形成されてきかなくなってしまうこともある。
・松本先生が、完治するというのは、違和感がある。というのも、現代の医学において潰瘍氏大腸炎の完治というものはなく、完治というのは外科手術によるものでしかない。また、漢方での副作用もありうるだろう。
・漢方による治療をするというのは、先のことを見据えて言っているのか心配だ。その時は、十分な返答ができませんでした。しかし、少なくとも今な7らば、漢方は免疫を上げることによって炎症を取り除き、異物の排出を促すが、現代医学では、免疫を抑えて異物の排出を阻害するので、見かけは治ったように見えるが、実は症状が治まっただけで、すぐに免疫は回復して症状が出てくる、というようなことは思いつくでしょう。(調べてみると、潰瘍性大腸炎をはじめとする膠原病に使う薬は、たいていサイトカインや免疫にかかわる遺伝子に働きかけるというシステムであるが、結局は対症療法に過ぎないのだと感じられた。松本先生の言うように、化学物質が原因であるということを認めることからしか、膠原病の治療は発展できないのではないだろうか。)
そして、話し合いの末、退院することが決まり、その週には退院したのです。「よし、これからが治療の本番だ」と思っていました。病院を出てから、松本医院へまた行き、先生の励ましをいただき、意気揚々と実家へむかいました。こうして実家での療養生活は始まるのですが、それは過酷なものでした。
<療養生活>
6月末に退院しても、体重は50kgくらいしかなく、下痢も一日十回は続いていたので、下宿には戻らず、実家に帰って療養することになったのですが、療養から二日もすると、下痢の回数が増え、胃が痛くなって気分が悪くなり始めました。そしてそれが続き、トイレに行くのと食事のためにテーブルに着く以外では動くこともなく、ずっと苦しんでいました。これも、病院生活で抱え込んでいたストレスから一気に抜けた結果として起こったものなのでしょう。病院での生活ではステロイドホルモンが出で免疫が抑制されていたところ、退院して急にステロイドホルモンが出なくなったので、その反動として免疫が上がり、腹痛と吐き気が同時におこることとなったのです。
そうなると寝込んでいるだけではなく、食べることもできず、体重は減っていき、ついに46kgまで落ちてしまいました。その時食べていたものは、ゼリーを一日一個といった感じで、漢方も十分に飲めませんでした。こうなると、完全にネガティヴなことしか考えられず、「ああ、胃か腸が破れてしんでしまうのか」とか「どうせ食べられないのならもう一度頭下げて病院に戻って点滴でも売ってもらおうか」などとかんがえて、ついには「このまま腹痛と吐き気が続くのは嫌だからいっそのこと死んでしまいたい」とも考えて、どうやれば死ねるかを本気で考えていました。しかし、結局死ぬこともできず、どうしようもなくなっているときにふと、「死のう死のうと思っておいて死ねないなら、もう少し生きてみるか」と考え、もう少し粘ることにして、漢方を飲み始めました。すると、吐き気が治まり、食事ができるようになると、「よし、この調子で病気を治してやるぞ」と一気にポジティヴになることができました。
すると、腹の調子も心なしかよくなってきたように思え、トイレに行くか食事をするか以外で動いていなかったのが、本を読んだり、運動をして体を動かしてみたりする8ようにもなりました。さらに、治りを早くしようと思って、免疫や内臓の機能を上げたり、循環をよくしたりする方法はないものかと思い、灸以外にもいろいろなことをやってみました。(肝臓と腎臓を温める、梅肉エキスを食べるなど)すると、どれかが当たったのでしょう、実際に便の回数が一日10回から5,6回に減り、水っぽかったものに塊も出てきたのです。
それが9月の初めころであり、そのとき、「よし、これで下宿に帰れる」とおもい、9月の半ばに松本医院へ行き、診察してもらうとともに、下宿へ帰れるかどうか聞きに行ったのです。そこでは、「前来た時より元気になったな」といわれ「必ず治るから」と握手をしていただきました。そして、自分で大丈夫だと思ったら帰ってもいい、ということだったので、次の日には帰ることとなったのです。(やはり、病気がよくなり治るかどうかは自分の心持次第で変わるのではないかと思う。心で体調を完全に左右できれば、と思うが、そこまでの篤実さもないので、完治するまでにはもうしばらく時間がかかりそうだが、病気であることに悲観的にならず、日々を楽しく過ごしていくことで完治できれば、と考える。)
<下宿に帰ってきて>
下宿に帰って2週間ほどで授業が始まり、復活できたことも喜びと、これからの学校生活への希望が湧きあがってきました。初めのうちは、普通に授業を受けていました。しかし、学校生活においてはいろいろなストレスがあるもので、すぐに腹痛が起こり、学校を休んではいき、を繰り返していました。
そんな中で、帰ってきてから一か月ほどたったある日、突然体がかゆくなって、体の各所に蕁麻疹みたいなものが出てきました。最初はあわてましたが、すぐに「ああ、これがクラススイッチなのだな」と納得しました。その蕁麻疹は全身にわたるものから体のごく一部にしか出ないものまでさまざまであり、毎日でつづけました。そして今でも続いています。
そして年末にもう一度松本医院へ行き、診察と鍼灸、血液検査をしました。そこで帰るときに、今までには感じられなかった、よし、治るぞ、という気持ちが出てきました。これも、病気に対する感じ方が変わったことの表れでしょう。こうして今、便の回数は一日3,4回で、時々腹は痛くなるものの、よい生活を送っていて、手記を書くに至っています。
<最後に>
ここまで手記を書いてきて、やはり自分が潰瘍性大腸炎にかかったのは、自身の生活によるものであると感じることができました。そして、それを治すためにも、生活をゆっくりとくつろいで過ごせるものに変えて、また、こころの持ちようも、なるべくポジティヴなものにすることで免疫を活性化させていくしかないでしょう。しかしそのためには、周りの人の支えが必要で、さらには、一年くらいの期間を費やすような覚悟が必要です。
自分の場合も、実家でゆっくりと休むことができたので、治りが促進されたということがあります。さらに、4月から今まで治療は続いているので、一年は費やしているといっていいでしょう。そうする中で、病気を気にせず過ごせるようになり、ついには、「ああ、いつの間にか治っていた」と感じられる時が来るのではないかと思っています。
自宅での療養中に読んでいたある本に、病気を病気と思うのではなく、それを通していろいろなことを学べる学習機会なのである、というようなことが書いてありましたが、まさにその通りで、自らの至らなさと、周りの人への感謝というものを学べたように感じます。
先生にせかされても、もたついてなかなか進まず、ご迷惑をおかけしましたが、こうして完成しましたので、全国にいる患者に、少しでもためになるように、この手記を送らせていただきます。(完治したあかつきには、もっとスマートな手記を書きたいものだ。)