「潰瘍性大腸炎・闘病手記」
主婦・家業手伝い 43 歳
2015 年 9 月 9 日
主婦・家業手伝い 43 歳
2015 年 9 月 9 日
2013 年(H25)10 月
春から娘を保育園に入れてようやく外で働きに出られるようになり、長年勤めていたのと同じ職種の金融機関で勤めるために過酷な研修期間を経て支店に勤めだして 5 ヶ月経った頃でした。
結婚相手の土地に嫁ぐために慣れ親しんだ関西を離れ、普段の生活でも土地柄の違いや言葉の違い、その他諸々で違和感ばかりの数年でしたが慣れていくしかない・・・と思いながらずっと過ごしておりました。仕事でも金融勤めが長かったとはいえ、やはり独身時代のそれと子育てをしながらパートとして働くことは全く違いました。自分のことだけでなく家族のこと、娘や義父、義母の病気などで急に仕事を休むことが発生しても、次に出勤した時には平謝りばかり。『長男の家に嫁いだら同居が当たり前』『急な休みが発生しても子供をみてもらえる人が居ないなら外で仕事しないほうがいいんじゃないの』『仕事するなら飲食店のランチタイムとかは』などがまかり通っているこの地域では、核世帯で金融パートをする方がおかしいという風にまで言われていました。
仕事そのものに関してというより、そういうこともありましたし、もちろん全員が全員そのような人ばかりではありませんでしたが、娘が生まれてからの数年で慣れたはずの土地柄ストレスがパート勤務開始によりさらに増幅したことは間違いありません。
それだけが原因ではないのかもしれませんが、気づいたらその頃から発するオナラに元気がなく(笑)しかも強烈に臭うではありませんか!!
2013 年(H25)11 月
どうしても続けたかったので、パート先では「何とか馴染もう」、「イヤミを言う人ともうまくつきあっていかなくちゃ」と何とか頑張っていましたが、相変わらず臭いオナラ期間は続きました。
さすがに家の中でもちゃんとトイレに行ってからオナラをする気遣いをするようになりました。そして、立派なぐらい大きくて快便だったのが、だんだんそんな偉大さもなくなり、柔らかく、少しずつ細くなってきました。
2014 年(H26)1 月下旬~2 月
臭いオナラは相変わらず続いているけれど、やわらかい便が出る頻度は減ってきたなぁと思いながら、そのまま日常を過ごしました。
そんな頃でした。車で小一時間のところに住む主人の父が突然倒れ、亡くなりました。大動脈解離でした。それから私たちの生活は一変!!まず、それはそれは大変な田舎のお葬式。村の組の方にたくさんお世話頂き、無事済ますことができましたが、見たこともない知らない親戚の方の多さ、田舎のしきたりに基づいてお葬式でやることの多さ。悲しみに明け暮れているヒマもありませんでした。その地から出てきてしまっている私たち夫婦にとっては、わからないことだらけ。生きている間に義父に言われていた沢山の言葉が、この時からジワジワと日々迫ってくる日が現在にまで続くことになります。
主人の妹の一周忌をつい2週間前に済ませたばかりの私たちは、本当に何とも言えない思いと、大きな喪失感に苛まれていました。家業をやっていることもあり、リウマチがひどく、外を歩くのもおぼつかなくなってきている主人の母を独りにしてどうしようか。生まれた時からそこにあったお店、そのお店を続けたい義母の気持ちを考えたら、私たちで何とか手助けしてやっていくしかない。生き甲斐のお店を閉めてしまったらもう生きる気持ちもどんどん無くなってしまうかも・・・。
そこから夫婦で協力して手助けしていこうと決めました。しかし、サラリーマンの主人は、(心の中では、もちろん私以上の大きな喪失感だったのだと思いますが)今までと何ら変わりなく普通に会社に行く日々を送るのみでした。それが精一杯だったのかも知れません。
私は良くも悪くも金融勤めが長かったため、相続手続きには期限があること、そして主人のような複雑な家柄では、それはとても大変な手続きになるとわかっていたので、義父の個人、お店の事業の名義書き換えなども多大な労力を要するので、早く取りかからないといけないとの思いでいっぱいでした。主人は「そんなに大変だったら僕がやるよ」と言ってはいるものの、そんな兆しは全くありませんでした。またこの時は私もパートを始めてから半年近く経とうとしていた頃でした。
実は 11 月、仕事中に配送業者が運んできた重い大きなダンボール数箱が、私の足に落ちて、松葉杖状態となるほどの捻挫の治療をしていました。そして 1 ヶ月以上経っても治らないけれど、休みにくいので仕事に出て(立ち仕事がメインの業務)、そんな状況下で法事やお葬式を済ませと、本当に次から次へと難問が降りかかり、心身もろともヘトヘト状態。自分でもそうは思っていたものの、でもまだまだ大丈夫!!と思っていたのですが・・・
この頃から、私の便は本格的におかしくなってきました。固形物、やわらかいものを含め、全く出なくなり、代わりに『痰』のような物がぽこぽことでてくるようになったのです。初めは白色でした。日によっては黄色っぽかったり、ピンクだったり、とにかく『痰』のようなものしか出ない状態が2週間以上続きました。頻度的には 1 日に 1~2 回。そしておならも出なくなっていました。おならが出るか!!と思ったら同時にこの『痰』のようなものが出てしまい、下着を汚すことも度々ありました。着替えの回数もとても増えました。これは絶対におかしい!!と、近くのかかりつけ医に行くと腸炎に効く薬4日分が処方されましたが、全く状況が変わらないことを話すと紹介状を持って大きな病院に行ってくださいと言われ、地域で一番大きい大病患者を扱う病院へ向かいました。
2014 年(H26)2 月下旬~3 月
検査に二週間待たされました。その間インターネットでいろんな言葉で検索をしては内容を確認していました。私の病気は『過敏性大腸炎』かもしれません。でもそうだったら町医者での薬で効いていたかもだし、もしかしての『クローン病』? でも症状がほぼ一致の『潰瘍性大腸炎』ではないだろうかとは思っていましたが、結果は案の定『潰瘍性大腸炎』でした。
ここから毎日の飲み薬と注腸が始まりました。初めて出されたのはペンタサ錠250mgを 1 日3錠でした。2週間ほどしても効果がないことを告げると、ペンタサ錠は500mgを1日6錠+プレドネマ注腸20mg60mlへ変更になり、まずは1週間の様子見。そしておかしな便がだんだん改善され、通常の便の形に戻ってきたように感じたので、薬がなくなる頃に再度診察へ行き、このまま同じ薬の処方をしてもらいました。さらに1週間分でした。
しかし、ちょうどこの薬を使い始めて10日~12日過ぎた頃から、だんだんとひざ、足の付け根など、下半身に痛みが走るようになってきて、痛みは日々ひどくなり、家の中でも立っているのがやっとでした。階段の上り下りは這いずって行うという風になってしまったのです。
またもや「これはおかしいっ!!ネットでみた副作用にこういうの書いてあった!!」と思い出し、すぐに次の日に予約ナシでの診察を受けに行きました。次の日になるとまた前日よりも痛みは激しくなっていて、車に乗り込むのもやっとでしたが、車がないとなんともならない地域なので、何とか頑張って運転して病院にたどり着き、車いすに乗せてもらってやっと診察を受けました。先生がおっしゃるには、そんなキツイ薬ではないし、副作用も私の反応事例はとても率が低いので薬のせいかはわからないが、それでも10日過ぎた頃だとその可能性もあるし、薬も合う合わないがあるので、では薬を変えてみましょうか、とのこと。3月の半ばから飲み薬もなくなっていたので、直腸型なので注腸のみで様子を見てみましょうということで、ここからペンタサ錠+プレドネマ注腸がペンタサ注腸1gに変更になりました。
2014 年(H26)3月下旬~4月
3週間ほどが経ち診察の時期がきました。便は、便なのか何かがわからないような状態で血が出たり、また水溶性の便が出たりの状態になっていました。回数的には1日に5~6回、ひどい時で10数回ぐらいでした。そのことを話すと、飲み薬も追加しましょうとのことでアサコール400mg、1日6錠が加わることになりました。
2014 年(H26)5月
また1ヶ月ほど続け、その間血便が出る回数はめっきり減り、粘便もなくなってきて軟便ぐらいにまでなってきていました。たまに固形便も出るようになり、便秘になったかのように感じるときもあれば治ったのかな!と思うほどの普通の便が出ることが数日続くこともありました。
また診察の時期がきたのでその状態を話し、「アサコールが合っているようですね・・・このまま少し薬を増やして抑えていきましょう!」と言われました。アサコール400mgは6錠→9錠へと変更になりました。ペンタサ注腸1gは変わらずの毎日です。
私は「なんだか薬漬けになっていくのがイヤだなー」と思い、「状態が良くなってきつつあるので薬は極力飲むのを減らしたいし、注腸ももうしなくてもいい気がするんですけどだめでしょうか?」と聞きました。先生は「そうですね、ただこの病気は今は抑え込む、抑え込む・・・の対処法しかないのでお気持ちはよくわかるんですが、腸内の炎症がこれ以上広がらないようにする為にもお薬は飲んでもらって、注腸は必ずしてください。どちらかというと注腸の方が大事です。」と言われたのです。
西洋医学から見たこの病気に関する情報しか知らなかったこの時の私は、先生にこう言われると「はい・・・」としか言えませんでした。言われるがまま、薬の服用と注腸で、症状がその時よりもひどくならない状態が長年続くようにしていこう!と思っていました。
2014 年(H26)5 月下旬~6 月
飲み薬が9錠に増えてから1ヶ月が経ち、またもや診察の時がきました。3月からは本当に食べ物に気を使ってきましたし、牛乳、コーヒー、お菓子類、パンは食べず、生野菜は避けたほうがいいとは言われていたので温野菜を中心に食べていました。そんなこんなで、ほとんど普通便が出る日々になっていました。大きさも立派で、悪くなりだして手の指ぐらいしかない時もあった頃がウソのように、そして「もう治ったんじゃない?!」と思うような毎日を過ごしていました。
このことを先生に告げ、もう薬もナシ、注腸もナシでいってみます!!と元気よく言ってみたものの、「んーーー、お気持ちはとってもわかるんですけど、お薬は続けて頂かないと今の状態の良いのがキープできるかどうかは・・・悲しいですけどこれは難病なんで、そう簡単には治らないんです。なのでお薬は続けてくださいね。」と。『難病』その言葉を聞かされるとショックなんですね。こんなに元気なのに私は『難病患者』なんだ。一生なんだな つらいな、この状態の良いのは気休め?!また悪い状態のときがやってくるんだよね・・・この「あなたは『難病』なんです」の言葉を他の誰より、お医者さんから言われると本当に悲しくなります。6月末日の診察でした。今度の診察は2ヵ月後。薬もいっぺんに2か月分の処方です。注腸だけでもダンボール2箱!!こんな大量にかさばる薬を持って帰るのは初めての経験でした。
2014 年(H26)7月~8月
注腸は毎日やっていたものを1日やり忘れたことがあったのですが、それを機に、やはり注腸は以前に違う名前の薬剤でしたが副作用がひどかったこともあったので、先生から毎日行ってください、とは言われたけど、忘れたから、いいかもう・・・という気持ちになってきて、そのうち3日に1回。1週間に1回という感じで使わないので減らなくなってきました。
飲み薬もよく考えたらこんな大きい粒のもの、しかも毎食後に3錠ずつ、これを一生続けていく。でも治らないんだよね・・・そんな思いを持ちながら、飲み薬だけは毎日飲んでいました。食事も何が良くて何がダメかは調べたものに書いてあることはあくまでも参考程度にして、結局その人によって大丈夫なもの、ダメなものは違うので、自分で自分の身体と相談しながらでした。
この2ヶ月間は最初は固形状の便、そして柔らかくなって、8月になるとだんだん便がまた柔らかくなってきて、しかも手の指ぐらいの細いものになり、よく見ると出てきたものに筋がついていて、腸の途中のどこか細いところをくぐったから押されたカンジ?と思ったりして、でも押されてついているスジだなーというのはわかるし、なによりこの小指ぐらいしかない便になっていることにまたショックを受けました。そして下痢になる回数も増えてきて、また血便か出る頻度が増えてきました。そして便も少し黒く見える時がありました。でも自分でもなんでこうなってきたのは察しがついていました。
7月下旬から10日ほどの予定で両親が泊まりにきていました。一筋縄ではいかない家族問題に加えここ数年で老々介護状態に発展しているため、少しでも違う空気をとの思いで連れてきたのですが、見事にその思いも覆される出来事ばかりで私の悲しみのストレスがまたどんどん蓄積していったのです。
8月末。前回から2ヵ月後の診察がやってきたので、体調はそのようである事を話しました。ちょうど発症してから半年なので再度大腸カメラでの確認をしましょうとの事でした。その日はまた1か月分の薬を処方されました。注腸もしてないし、薬局でもらって帰ろうかどうしようか相当迷いましたがそのままもらって帰ってしまいました。
2014 年(H26)9月初旬
かかっている大病院ではなく、その近くにある開業医さんでカメラを受けることになりました。そして一週間後の結果。「あなたもう直腸型じゃないよ、S字結腸にまで拡がってるよ!!」とのお言葉。とてもショックでした。6月ぐらいからネットでいろいろ調べていました。病気は本当に治らないのか、薬漬けになる以外何かあるんじゃないか・・・思いつく言葉をそこかしこに検索してはひっかかって出てくる言葉に『潰瘍性大腸炎完治』とか、『潰瘍性大腸炎は必ず治る』とかがあり、食い入るように読み、いろんなところにサーフィンして、漢方治療をしてみようか、との思いがその頃からだんだん出てきていました。
なので、炎症が拡がっているとわかり、すぐさまこのカメラをしてくださった開業医の先生に、「先生のところは漢方治療をされていますか。できればこの炎症を抑えるのに使う坐薬もステロイドが入っているでしょうから使いたくないんです。すみません。」と伝えました。西洋医学の病院に通い、出される薬でも抑えられずにこうやって炎症が拡がるぐらいなら、まだ見込みがあるであろう東洋医学的なものに切り替えて治療をしていきたい意向を伝え、私も本格的に漢方治療に転向しようと決心した時でした。
2014 年(H26)9月中旬
主人とその時5歳の娘を連れて家族で高槻の松本漢方クリニックへ向かいました。私の住んでいる所からは車で片道3時間ぐらいのところなので、まだ通える範囲。本当にネットで見つけた時すごく嬉しかったおぼえがあります。
通う前に松本漢方クリニックのサイトを熟読し、理論にとても納得し腑に落ちるものがありました。医学的な言葉は私にとってはすごく難しいところもありましたが、それでも、難病やガンは自分で作ったもの、先天的なものや高齢者以外では難病になるのは自分のせい、言葉だけみるとキツく感じるかも知れませんが、なるほどーと、その説明の文章を読んでスッっと腑に落ちるものがあり納得したのです。
今までどの病院に行っても曖昧な言葉で片付けられていたことが、自分の免疫がすべてだということ。これなんだ、あーそうかー!!納得っ!!松本先生はたくさん説明の文章をお書きになって教えてくださっているけど、確かにこれは大変だ!!そして素人にイチから説明するのはとても面倒だろうから、病院の先生がいちいち説明してくれるわけないか。「何ででしょうねぇ~」っていう曖昧な言葉で終わらせるわけか、と。
初めての診察は若先生でした。「あなたは見たカンジからしてもこの病気もまだ軽い方ですね、大丈夫です。必ず治ります!もしかしたら潰瘍性大腸炎じゃなかったかもしれないですよ!!」との強いお言葉を頂きとても嬉しくなったと同時に頑張って治すぞ!!もう『状態のいい時期を長く続ける』とかじゃなくて、みっちり完治してみせる!!と私もそれをやっと信じて踏み出せた時でした。
2014 年(H26)10月
漢方治療が始まり、毎日のお灸と週末の薬草風呂もしてから2週間が経った頃です。下痢や細い便が出たり、1日に多い時では7~8回と、トイレに行く回数も増えてきていました。そして 10 月 3 日、家での昼食時、自分ひとりなので前日の夜の残りのチャーハンを食べたのですが、ちょうど2時間半位経った頃にものすごい吐き気におそわれました。その吐き気は『気持ち悪いけど、出したくても出ない』というもので本当に苦しかったです。水を飲んでも飲んでも、出るのはほんのちょっとづつ。なのでその気持ちの悪い状態と闘うことが翌日の午前中まで続いたのです。冷蔵庫に入れていたので大丈夫なはずなのですが、そのチャーハンが悪かったのか、それとも私の身体がだんだん変化してきていて、添加物だとか今まで身体に溜まった化学物質を排出する為にそうなったのか。こんなに激しく苦しい思いをしたのは後にも先にもこの一日だけですが、今振り返ると、吐き出すのに半日以上もかかるほど勢いもなくなっている身体になっていたんだと思います。リバウンドはかゆみが出るという形であらわれるのかと思っていたのですが、私の場合はまさしくこれが変わろうとしているリバウンドだったのだと思います。そこから一気に体調を崩し、というかリバウンドが始まりました。おしりからも滝のような、まるで大腸検査の水を2リットル飲んだ後の状態が1~2日続きました。何も食べられず、というか食べたい気持ちも無くなり、ポカリスエットなどの水分のみでした。徐々におかゆなどにしていきましたが、ずっとずっと下痢は続きます。トイレの回数も一日に10回以上に増えていました。3日後あたりからまた漢方を飲むのを再開できるようになり、食事もやわらかいものや消化の良いものにしていきましたが、トイレの回数や状態などはこのまましばらく続きます。血便の量も増えてきましたがそれが2週間も続くと慣れてきてしまうほどでした。そして下痢がひどい時には家の中でトイレに間に合わずもらしてしまうことも何度もあり、大人用のオムツを買って対処するようになっていました。トイレ回数の多さと突如襲ってきて間に合わない状態。外に出ることはこわくて出来なくなり、毎日の娘の幼稚園の送り迎えもママ友や主人にお願いするという日々が2週間以上続きました。食べ物も粗食にしていましたし、この頻度の下痢の回数で体力は本当に消耗していったと思います。
2014 年(H26)11 月
先月からの状態はずっと続きます。でも、そんな時は身体が変わっている時なんだ!!と自分に言い聞かせました。不要なもの、今まで溜まったものを排出しているんだ!きれいに掃除してくれてるんだ!!と。体力消耗のしんどさは確かにありました。そして人間ですから、あまりに下痢ばかり続いて血便もたくさん出ると不安に苛まれることもあります。でもそんな時は、「自分の免疫が治すんやぞ!」という松本先生の言葉を思い出し、自分で西洋医学の抑制のみの投薬がイヤになって止めたことを思い出し、自分の免疫の力を信じて日々を過ごしていました。
そして11月下旬に入ったころに、10回以上のトイレが10回未満に減ってきました。1日にして数回ですが、この数回減ったことでもだいぶ身体がラクなのと、明るい兆しが見え気分が少し晴れやかになるのです。
2014 年(H26)12 月
先月下旬から、水状態の下痢から進歩したような普通の下痢?や粘膜状の便が増えるようになりました。粘便は潰瘍の粘膜がはがれて出てくるのでしょうか。とにかく水状態の下痢が減ってきて形に近づくかのような状態になってるかも?!と、うれしくなってきました。
12月も半ばになると、勢いはありませんがおならが出ることがちょこっと増え、そして普通の下痢→泥状態 とまたよい兆しが。そして12月25日、1年以上ぶりに普通便(やわらかめの固形便)が出たのです!!本当にうれしくて涙が出ました。こんなにうれしいクリスマスプレゼントはないと思いました。その日の夜、ちょっとお寿司を食べてしまったからか、翌日、翌々日とまた粘便でしたが、そこからはまた、一日に粘便と固形便が少し出るという日々が続きました。年末年始を嬉しい気持ちで迎えられて本当に嬉しかったです。だんだんと良い方向へ向かっている!!と確信めいたものを感じました。
2015 年(H27)1月
年末からこの一ヶ月間、ほぼ毎日固形の便が出る日々でした。1月30日に診察を受け、このことを話しました。あなた自身の力が治したんですよ!との言葉を頂き、とてもうれしくてその場でうるっときてしまいました。そして1か月分の漢方を出して頂きました。一ヶ月後もこのままだといいなと思いましたが・・・
2015 年(H27)2~3月
2月2日、粘便や血便をともなう粘便がまた出始めました。トイレ回数も多いときで一日5~6回。つい数日前のことがウソのようにそこから1ヶ月以上もその状態が続きます。特に何をしたということもないのです。思い当たることといえば1月下旬に義父の一周忌があったということ。思えばこの2年前の義妹のお葬式から始まった嫁ぎ先の不幸ごとのたびに、自分の意識ではまったくそう感じてないはずなのに、身体がものすごいストレスを抱えている。やはり今回もそうなのか。
2月下旬からは毎日のように血便が続き、また気持ちはドンと落ちました。先月1ヶ月の良好期間はなんだったんだろうとさえ思いました。食べ物も病気をしてからは特に添加物などの化学物質には気を使っていましたので、やはり上に書いた身体が敏感に感じてしまうストレスしかないと思いました。
3月の半ば以降から血便は無くなり、泥状態のものへと変化していきました。血便がなくなるだけで気持ちがだいぶラクになります。そして診察に行きこの事を告げたのですが、先生も「なんでや!」とビックリしておられました。思い当たることをお話しし、自分自身がこうもストレスを受けやすいんだということにつくづく嫌気がさし悲しくもなってきました。でもそう思っていても仕方ないし、1、2月の血便がなくなっていることからしたら今は快方に向かっているときだと強く思うことにしました。
2015 年(H27)4月~6月、そして現在に至るまで
4月半ばからまた粘便とたまに泥状の物が出る、の繰り返しになりました。よし、いい方向に向かっている!前と同じ現象だ!!
5月、時々下痢になったり、粘血便も1、2回出ましたが、それ以外は普通便の日々。
6月、ほぼ毎日固形便。そして快方のバロメーターである便秘ぎみになる、というのも当てはまります。もうここまできたら病気は治ったんじゃないか!!と勘違いしてしまうぐらいのことを思っていました。食べ物もトイレも、生活が病気がわかる前となんら変わりないのです。4月からずっと行けてなかった松本先生のところへ報告に行かなくては!感謝の気持ちを話しにいかねば!との思いで6月末、病院へ向かいました。
しばらく間のあいていた状態での来院に先生は「なんで久しぶりに来たん?」とおっしゃいました。主人と自分の親の両方の介護をしていることや、その中で入退院があったりしたこと、少し遠方に嫁いだのでその往来にも日にちや時間がかかったりなどいろいろ事情があり、自分のことは常に後回しになるのでなかなか来れなかった、そのことを話すよりも先に、「治ったかのように状態が良くなっているのがずっと続いていることがうれしくて、その報告に来ました!!」ということだけを話しました。(この時に処方された漢方は今までのものとは違うものになり、食前のものだけになりました。)「誰が治したんや!」との言葉に「先生です!」と言いそうになったのですが、以前に「誰が治すんやっ!!」との問いに、同じことを言ったら「ちゃう~~~っ!!アホか~~っ!!オマエわかってへんのうっ!!」と言われた事を思い出し、恐縮しながら「ワタシです」と答えました。先生は、はにかんで笑ってくれたかのように見えました。でも私は、怖く感じても、先生の叱咤激励のおかげで今の状態があるんだと思っているので、先生に治してもらったようなものだと思っています。
診察のときや電話の時にものすごく怖かった時もありましたが、それは私が無知過ぎて、無知からくる質問を投げかけ過ぎて先生を怒らせていたんだと思います。松本漢方クリニックのホームページを見て、先生の理論を読んで、難しい言葉もたくさんありましたが、先生の診察を受けようと決めたことは間違ってなかったと確信できます!
『病気は自分で作ったもの、そして作った病気は自分で治せるもの』
理解力に乏しいワタシでもその考えは理解できました。松本漢方クリニックのホームページに出会ってなかったら、病気になったら先生の言うとおりの診察と投薬を受け、言われるがまま身をゆだねる人生をこの先も送っていたと思います。病院の先生は『先生』だから、とっても難しい勉強をして、試験を受けてお医者さんになったのだから、そんな賢い方々に医療部門はお任せ!!と思っていたけど、松本先生のホームページに出会って、松本先生と会って見事にその考えが覆されました。自分の身体のこと、家族の身体もちゃんと自身がわかってないとダメだ!!しいては無料だからって何でもかんでも子供にワクチンを打たせたり、すぐ病院行って薬飲ませるのもいかがなものか!!という風に考えが全く変わりました。五十肩だからって、旦那が肩に注射を定期的に打ちに行ってたのも自信を持って止める意見が言えるようになりました。本当にそれに気づかせてもらえたことだけでも大きな財産です!
そして『潰瘍性大腸炎』を告げられた時のショックと、あと何年この腸が持つのかとか、びくびくクヨクヨしていた気持ちが、『大丈夫!自分の身体だから自分で責任もつ!免疫力を向上するふうに日々考えて生きていくのだ!!』と思えるようになりました。
血液検査では『炎症値が高いので他の難病因子があるよ』言われていますが、他の病院ではそんなことまで調べてくれないので、そのことも大いに有難いことだと思っています。自分の体質はそうなんだと、わかっているかわかっていないかだけでも随分と取り組み方や気持ちが違ってきます。そして私の場合は確かに人よりもストレスをとても受けやすい方だと自分でもわかっているので、そこから病気を作らないようにせねば!!ということも気づかせて頂くことができました。
松本先生はじめ、若先生、お灸の先生、そして毎回血を採ってもらいながら不思議とホッとする気持ちにしてくださる注射の看護師さん、そして明るく接してくださる受付の方々、みなさんに感謝の気持ちでいっぱいです!本当にありがとうございます!
まだ漢方治療中ですが、このままずーっと大腸が元気な状態を保ってくれる日々が続くことを願いながら、他の難病にもかからないように免疫力強化を頑張って、日々過ごしていきたいと思います。
本当にありがとうございました!!
コメント(医学には西洋医学も東洋医学もありません。唯一あるのは、自分の遺伝子に刻まれている、自分の免疫医学だけなのです。免疫を下げて病気を作り、免疫をあげて病気を治すしか道はありません。歴史が始まって以来、資本主義が世界を支配していますから、医療も知らず知らずのうちに完璧な算術医学になってしまったのです。少なくとも金より大事な命を預かる医薬業は、公務員と同じく社会主義にすべきなのです。)