Kremlin Dusk番外編
先生が好きでした。誰よりも好きでした。でも今はもっと惹かれてるコが目の前にいるんです。
先生は約束して下さいましたよね?
あの日、オレの想いを断ち切った雨の日に。
先生にとってオレの気持ちよりも大切な、世界で一番幸福な日に。
無意識に飛んでいた過去の風景から戻ったカカシは授業中だという事を思い出して自嘲気味な薄笑いを浮かべた。
『何を焦っているのか』と。
そう慌てずとも欲しいモノは直に手に入るのだから、心配する事など何もないのに何故焦るのかと。
せっせと問題を解く子供達はカカシの顔など見ていない。彼らが集中しているのは机上のテキストとその上を走る筆記用具の動きだ。いつもは何かしら余所見をしているのだが、今日は授業の始めに言い渡された補習を恐れ、いつにない集中力を発揮して果敢にも問題集の群れに立ち向かっている。
そのお蔭でカカシは存分に目的の人物を観察する事が出来るのだが、普段だって何食わぬ顔で眺め回しているのだから特別な事はない。ただ一つ役得と言うならば、それはこの教壇とここに立つに至った己の幸運な道程、そして「担任」という立場だ。
「よーし時間だ。ペン置いて答え合わせ始めるぞ。それが終わったら全員回収するから、後ろの席から前に回して一番前の奴が纏めて提出な。帰りまでには返すから、家で復習してこいよ。じゃー問一を~・・・春野」
指された生徒は起立して設問の答えを述べる。間違っていればカカシが指摘するが彼女の答えは完璧なもので、それを見越していた彼は頷き着席するように言う。
教室には三十人余りの生徒がいるが満足気な表情を浮かべているのはその八割で、残りの二割はガッカリした顔で溜め息を吐き赤ペンをクルクル回して弄んでいる。
カカシは白いチョークを摘んで黒板に解説をさらさら書き、板を数回叩いて全員に「分かったなー?」と言った。そして教室内の一点に視線を流して口元を緩めた。
「さあ~て、次の問題は・・・ん、渦巻に答えて貰おうかな?」
「!」
指されると思っていなかったのか、将又逆に名指しされる嫌な予感が当たったのか、ナルトはあからさまに驚いた顔をカカシに向けて立ち上がるのを躊躇っている。
けれど彼の周囲はニヤニヤ面白そうに笑ってつつき早く立つように促した。
「おいナルト、ご指名だぜ」
「分かってるってばよ」
後ろの席の犬塚キバが身を乗り出し口元に手を当てて、こそっと囁いたが教壇に立つカカシには聞こえない。
「どうした?早く立ちなさい」
「はい・・・」
のろのろ立つもテキストの問二解答欄は見事に真っ白で答える術がない。無関心な生徒は次の解答をぼんやり待ち、意地悪なカカシはナルトが困る姿を期待してゆったり笑みを浮かべ眺める。
一問目に丸を付け終えた奈良シカマルは欠伸を噛み殺していたが、教師の変化に気付いて眉を顰め一秒に満たない考察の後、答えを教えようと口を開いた。
「おい、ナル・・・」
「分かりません」
けれどナルトは友人の声を聞く間もなく潔く勉強不足を認めて着席した。カカシは一瞬呆気にとられたが苦笑して簡単に諦めてしまった彼を窘める。
「少しは考えなさいって」
「んな事言っても分かんねえもんは分かんねーし、答えられないってばよ」
若者特有の不遜さと屁理屈を広げた彼の周囲は沈黙していたが、一分も経たない内に其処彼処から笑いが漏れた。
「ぶわっはははっ!いいぜナルト~すっげーお前らしいっ」
「こら、犬塚」
「あははっほんとにな」
「笑かしてくれるよなー渦巻は」
「お前ら・・・」
「先生ーもうナルトの事は放っといて、次行っちゃって下さい!」
先程答えた春野サクラが笑いながら言った。
「お前達ねえ・・・」
憮然たる面持ちで溜め息を吐くが子供達は構いなしに笑い続ける。その中でシカマルだけが注意深く担任の様子を見ていた。
「仕方ない。時間がないからさっさといくぞー」
カカシの腕時計は残り時間が少ない事を示している。緊張していた子供達は先程の笑いのお蔭で随分リラックスした顔を見せるようになった。
だがそれも全問合わせ終える頃には十パーセントがどんよりした表情を見せてくれるだろう。
カカシは殊更真面目な顔で厳しい教師を装いテキストの三問目を読み始めた。
カカシは当初、自らの選択ではあったがこの職には向いていないと思っていた。それでもなぜ諦めなかったのかと聞かれれば答えは恩師にあるのだが今となっては全く関係ない事だ。この仕事を続けている理由は別の問題であり、それを他者に問われてもカカシに答える気はない。
いま彼が注目しているのはそんな事ではなく、生徒に返し終えたテキストの結果だ。一冊だけ手元に残っているがそれを返すのはホームルーム後の補習でと決まっている。
解散を告げるカカシは心底驚いている。立ち上がり教室を出て行く子供達は生き生きとして授業中とは正反対、まるで別人のようだ。
「今日は遊ぶぜ~」
「んじゃお前んちで集合」
「俺部活の後で合流してもオッケー?」
「いいよ!またあとでな!」
「さんきゅーっ」
「ねえねえ!駅前に新しくできたショップ寄ってかない?」
「うん、いこいこっ!」
「待ってー私も行きたいっ」
「じゃあ皆でいこーよ」
「サクラ早く!」
「分かった、いま行くから」
「じゃあ・・・ナルト補習がんばってね~」
「ご愁傷様だなナルト~がんばれよー」
そう・・・なんと居残りはナルトただ一人だったのである。
「渦巻だけ赤点とはねえ」
カカシは意外にも自分が教える立場に向いている事を発見して皮肉なものだと嗤った。
補習を始める前にカカシが一度、職員室へ戻るとナルトが懐いているイルカが入れ違いに出て行くところだった。日頃から積極的に話し掛ける相手ではないが、別段敵視している訳でもない。人畜無害の平凡な男、初めて顔を合わせた時抱いた印象はそんなもので、暫くして彼が渦巻ナルトと仲良い事を知ったが、不快に思いはしなかった。何しろカカシにとって大事なのはナルトが勉学に励み、心身共に成長して無事に卒業する事だったからだ。
ある事が決定してしまうまでは―――――。
「やあイルカ先生」
「こんにちはカカシ先生」
「これから部活ですか?」
「ええ、カカシ先生は・・・」
「補習です」
にこやかに答えるとイルカの顔色が面白い速さで変化した。常々思っていたが分かり易い男である。
目を開き一瞬息を止めたイルカは身を乗り出してカカシに聞く。
「まさか・・・!またナルトの奴ですかっ」
「ははは。ご名答ですねえイルカ先生」
「そりゃーもう・・・ハア、あいつときたらこの間の小テストでも・・・」
彼がナルトについて話し出すと長い。
会議中発言を求められてもこれほど話さないだろうに、熟々喋り続けカカシを呆れさせる。喋り掛けない一因はこれであったりするのだが、恐らくイルカは気付いていないだろう。
「やればできる子なんだと思うんですけどね。ね、カカシ先生」
相手が「NO」と答えるなど思っていない顔だ。
「まったくです」
「ですよね!」
にっこり頷けば相手も同じ様に返してくる。二人は数秒そのまま向かい合っていたが、貴重な時間は刻々と過ぎてゆくのだ。能天気な会話をしている場合ではない。
カカシは表情を一切崩さず自分の手首をつんつん、と指差して満足気な顔に問い掛けた。
「それよりイルカ先生そろそろお時間では?」
「あっ!」
「でしょう?」
「いや、本当だ、うわっやば・・・そ、それではカカシ先生またっ!」
時計を見るなり慌てて頭を下げピューッと走り去る後ろ姿に笑いが込み上げる。
「ぷっ、ほんと~に分かり易い人だねえ」
カカシはクスクスと笑いながら自分のデスクまで歩いて行った。
イルカが出て行った職員室はがらんとして、いつもいる学年主任の姿もない。みんな受け持つ部活動や委員会、会議への出席で忙しいのだ。カカシは数枚のプリントと教科書、先程のテキストを一纏めにしておき、鍵が付いている引き出しの一番上を開けて中からパスケースを取り出した。開いて定期券ではなくその隣の写真に目を向け、一人の男と彼が抱いている赤ん坊を見つめて密かに笑う。
「貴方には感謝していますよ、ミナト先生」
瞳に愛おしさと仄暗い欲望を滲ませ無言の一瞬を過ごした後、写真の表面、子供の顔を指先でゆっくり撫でてパスケースを閉じ元通り仕舞った。
自然に、何もなかった様に荷物を脇に抱えデスクから離れる。
「さ~て」
そろそろ行こうか。
あのコが待っている教室へ。
END