願えるのならもう一度キスを
静かな部屋の開いた窓から入り込む風に空色のカーテンが揺れる音が聞こえる。
白い紙に書かれたたった一行の言葉にナルトの瞳は揺れ、瞬く事を忘れてその文を何度も読み返し、幾度考えても理解できない内容に彼の手は震えて確実に流れていく時の中で立ち尽くした。
「ナルトにはオレが必要だよな?」
長い足を組んでソファに座る男は右腕に抱いた恋人の太陽色の髪を玩びながら確認するように聞いた。
問い掛けられたナルトは少し躊躇しておずおずとカカシを見上げ小さく頷く。
「あ、ああ。オレってばカカシ先生好きだってばよ」
笑みを見せればカカシは安心したように穏やかな顔でナルトの頭を撫でる。けれどそれとは対照的にナルトは俯いて相手には見えないところで曖昧な表情を浮かべた。
ナルトがカカシと付き合い始めたのは去年の誕生日だ。それまで全く考えてもいなかった男から好意を示されて、一時は驚いたが気恥ずかしさと経験した事のない喜びが混ざり合って、気づいた時には首を縦に振っていた。元々第七班に所属していた時からカカシを慕っていたのもあって、付き合い初めから二人は相性よくうまくいっていた。そしてついには一緒に暮らすまでになった。
だが一日、一日と過ごす内関係は変質していき、更にナルトが子供の頃からライバル視していたサスケの存在が不安定な心にひびを入れ、二人の想いの違いを決定的にした。
ナルトにはカカシに言えない悩みと秘密がある。
ひとつは今のようなカカシの態度だ。年上の男は日頃から深い愛情を示すが、ナルトは滅多に自分から甘えたり恋人らしい仕草をしたりしない。告白したのもカカシからで彼はいまひとつ物足りなさを感じているようだ。その為か時々こうしてわざわざ尋ねてくる。
それがナルトは嫌だった。
そしてもうひとつは・・・・。
「あ、次の任務サスケと一緒なんだ・・・久し振りだってばよ」
任務の受付所で班員の構成など詳細な情報に目を通したナルトは嬉しそうに頬を緩ませた。最近暗部から上忍として通常任務に異動した友人は付き合いの長い最高のライバルだ。プライベートではよく会い、昨晩も一緒に呑んだばかりだが任務は別になる事が多い。
「サスケ・・・」
ナルトは様々な感情が入り交じった顔で友人の名を口にする。この顔をカカシが見たら何と言うだろうか。本来恋人の前で見せる表情を別の男の名を呼んで浮かべる。不誠実だと罵られるかもしれない。けれどナルトはもう随分と前からある感情を抱いて、かの男と付き合っているのだ。相手もまた、同じ気持ちで。
できるならば死する時は彼の隣がいいと望んでいる。それほどまでにこの想いは深い。
「なに、ニヤけてやがるウスラトンカチ。俺に惚れ直しでもしたかよ」
「サスケ!」
思いに耽っていて背後の気配に気付かなかった。ナルトは友人を見てウスラトンカチと言うな、と決まり文句を叫ぶ。
「くくっ、こんな所で騒ぐな馬鹿。だからウスラトンカチってんだよ」
「サスケ~ッ」
「ここじゃ落ち着かねえ。別の場所行こうぜ」
居るだけで目立つナルトと自分に向けられた多くの視線を流し目で見た彼は顎をしゃくって先に歩き出す。
「あっサスケッ。待てってば!」
ナルトはポケットに手を突っ込んだその後ろ姿が誰かに似ている気がしたが、首を激しく振り殊更明るい声を上げてサスケに飛び付き肩に手を回した。
「なあっあそこ行こうぜ!新しい甘味処!」
「てめえ・・・俺が甘いもの駄目なの知ってんだろーが」
「ニシシッ今日こそはサスケに団子食わせるんだってばよ」
「ふざけんな。俺はあんなもの食わねえからな。お前が食え」
「えっサスケの分もくれんの?ラッキー!サスケ~大好きだってばよー」
「ったく現金だな」
サスケは一瞬眉を顰めたものの、隣で素直に喜ぶナルトの姿に苦笑する。
「大好き」その言葉を貰うまでに随分と長い時間を要した。出会いは最悪。ライバルという枠組みの中で最高の友人関係を築いたが、いつしか自分の想いは友人のレベルを超えて相手に向かっていた。
好きだと自覚したのは里抜けする直前だ。けれど大きな目的の前に想いは伝えられず里に戻ってからも変わらず、相手は別の男のものになってしまった。それから激しい後悔に襲われてある折、確か仲間達と酌み交わして珍しく酔っていた時だった。二人きりになった帰り道ポロリと募っていた感情を吐露した。
『好きだ』
今でも告げた後のナルトの顔が思い浮かぶ。自分も同じ気持ちだと大きく頷いてくれた。
相手の心は全て自分にあると自負しているが、未だに別の男が手を繋いでいる。
サスケはその男を思い浮かべて唇を噛んだ。
『奴さえいなければ』
都合よく消えてくれないものかと考える。
「サスケ!着いたぜ」
「あ・・・ああ」
顔を上げるとナルトが暖簾を手で上げて笑っていた。
『大好きだってばよ』
どうせならガキの頃から言って欲しかった・・・と思っているのは秘密だ。
「・・・・てるよ・・・ト」
「・・・・」
「・・ルト」
「・・・・」
「ナルト!」
「え?あ!」
ナルトは吹き零れそうになっている目の前の鍋を見て慌ててコンロの火を弱める。
「どうした?最近よくボーッとしてるよね?」
新聞を読んでいた男はそれを折り畳んで椅子から立ち上がりナルトの顔を覗き込む。
「あ・・・あははっごめん!なんでもないってばよ!ここんとこ任務キツくて。ばあちゃん容赦ねえからさあっ」
「そう?」
「はははっ」
ナルトは鍋の中身を菜箸で滅茶苦茶に掻き混ぜて頭を掻く。カカシはナルトは五代目のお気に入りだからねえ、と呟いてリビングに戻る。
「そうそう、新しいベッド見に行くの明後日でいいよな?」
「あ、そっか、買い換えるんだっけ・・・うん明後日・・・明後日・・・・あ!」
カカシとの約束以外予定は入れていなかった筈だと考えて、ある事に気付き口を開けた。
「?」
「やば」
サスケとの約束の日だってばよ!
「どうしたの?」
「え・・・あ・・・えと」
「オレとの約束、忘れてなかったよな?」
「う、うん!モチロンだってばよ。カカシ先生と出掛けんの忘れる訳ねーじゃん。無理やり任務入れられちゃってたような気がしたけど・・・大丈夫だってば!一日勘違いしてた。次の日だったってばよ」
「ふ~ん。じゃあいいね」
「あははっ」
ヤバイ!すっげー拙いってばよ。
ナルトはバクバク跳ねる胸を押さえてサスケへの言い訳と、どうやって伝えたらいいか考える。もうすぐ太陽が子午線を通る。今日は出掛ける予定がないと先程カカシに言ったばかりだ。急用を思い出したと言ったら怪しまれるだろうか。
「オレってば馬鹿」
だからウスラトンカチって言われんだってば。
こうやって相手に悪い印象を与えまいと誤魔化すのは罪だ。
いつまでもこの中途半端な状態ではいけないと思うが、今のカカシの様子では簡単に別れてくれない気がする。
「オレが悪いんだってば」
でもどうしたらいいか分かんねえ。
サスケ、ごめんってば。
「はあっはあっはあっ」
ラッキーというべきか昼食を食べた後、高ランクの任務続きで疲れていたカカシはうつらうつらし始め、ナルトが食後にと淹れた珈琲を持って行くとソファで気持ちよさそうに眠っていた。眠りは深いようで、呼んでも体を揺すっても起きない。これはチャンスだと思ったナルトは玄関を出る時心の中でこっそり謝り、走ってサスケの許に向かった。
帰った後、万が一起きていても調味料を買い足しに行ったとでも言えばいい。
「いつもの所にいてくれってば」
サスケはいつも二人きりで会う場所に時々独りで立っていることがある。今日もいるとは限らないが一応行ってみる。そこにいなければ任務かあの馬鹿でかい屋敷だ。
「サスケ!」
「よお、ナルト。そんなに慌てて、俺に会いたかったのか?」
辿り着いた丘にサスケは立っていた。いつも通りだ。
「ばっ・・・」
からかうサスケに会いたかったかと聞かれればその通りで、ぐうの音も出なくなる。
「俺も会いたかったぜ」
「サスケ」
クールぶっている男からいきなり素直な言葉を聞かされて文句の言葉が止まる。
「聞こえなかったか?俺も」
「き、聞こえたってばよ!そ、それよりサスケ」
それより明後日の、と慌てて肝心の用事を言い掛けたナルトの頬をサスケの指が撫でて目を細め唇を寄せた。
「ナルト」
「サスケ・・・・」
ナルトは少し戸惑ったが、彼の動作に流されてゆっくり腕をサスケの背に回して目を伏せた。二人きりの時は必ずしているように唇を重ねて深く交わる。この時もそうなる雰囲気だった。しかし、
「へぇーいつもこうやって会ってるの?」
唇が重なる寸前、突然男の低い声が割り込んでナルトは身を固くした。
「カカシ先生」
「カカシ」
「ナ~ルト、道案内ごくろーさまね」
「な・・んで」
「オレ、寝てなかったんだけど?ナルトが出掛けてくから、ちょーっと気になって」
男はさわさわと葉を揺らす木の下で腕を組んで片目を細める。
とんでもない油断だった。ナルトは上忍が追跡のプロである事をすっかり失念していた。
「先生・・・ごめん!悪いと思ってる。けど、オレやっぱりサスケが」
「あらら、駄~目じゃない。ナルトはオレと付き合ってるんだから、ネ?」
木蔭の下で笑うカカシの表情が恐ろしく歪んだ。
「お前はオレの手を取ったんだ」
「で、でも・・・」
「でも。ま、そうだなーオレが行く事になってる次の任務・・・サスケ君が行ってくれるなら考えてもイーヨ?」
「「!」」
「Sランクだけど、それだけの覚悟がなきゃナルトは渡せない。任せられないな」
どうする?
カカシの鋭い視線がサスケを貫きナルトは慌てて首を振った。カカシが言う事だ、きっと裏がある。無事で戻って来られる訳が無いと思った。
けれどサスケはナルトの手をそっと離してカカシに頷いた。
「本当に、オレがあんたの代わりに行けばナルトから手を引くんだな?」
サスケはずっと、子供の頃から慕うナルトを良い事にじゃれ合う二人を引き離しナルトを奪い、勝ち誇った顔を見せるこの男が気に食わなかった。
「サスケ!」
「ああ、約束する。そうなればオレも諦める。ナルトの幸せを考えれば仕方ないさ」
一転、物分かりの良い顔で肩を竦める男にナルトは益々不安を抱いた。
「何て顔してんだよウスラトンカチ、俺は大丈夫だぜ。てめえこそ帰って来たら・・・覚悟しとけよ?」
サスケはニヤッと笑ってナルトの肩を掴んだ。
「でも」
ナルトは声を潜めて掴み掛かる勢いでサスケを睨んだ。
「カカシ先生の言う事鵜呑みにすんのかよ!きっと危険な任務だぞ」
「ふん、俺を嘗めんなよ。伊達に暗部いってねーよ」
「サスケ・・・」
ナルトは不安を顕に心底心配する顔で「馬鹿だってば」と小さく呟き俯いて頭をサスケの胸に押し当てた。
カカシはその二人の様子を離れた所から冷めた目で眺めていた。
サスケが里を出てから一ヶ月、連絡は一つもない。
ナルトの不安と恐怖は頂点に達した。やはりカカシの言う通りにはすべきでなかったと後悔が募る。
「どうしたのー?そんなにそわそわしちゃって、サスケが心配?」
「心配しない方がおかしいってば!なあ、先生、サスケ無事に帰って来るよな!?カカシ先生約束守ってくれるんだよな!?」
ナルトは窓の外を眺めているカカシに必死に問い掛ける。だが無表情だった男は哀れなものを見る目でナルトを笑う。
「くっくっ・・・馬鹿だねえナルト」
「カカシ先生?」
「オレがナルトと別れる訳ないでしょ」
おかしそうに、馬鹿にしたように笑ったカカシは寄り掛かっていた壁から身を起こして、死んでも離さないとナルトの耳元で囁きキッチンで珈琲を淹れながら心底面白そうに笑い続けた。
ナルトは耳に響くその声に激しい怒りを感じて体を震わせる。握った拳が痛い。
「それに~サスケだってもう帰って来ないよ。今頃お空でオレ達を見下ろしてるんじゃないかな?くくっあの任務かなり危険だったんだけど・・・馬鹿正直にオレの代わりに行ってくれて。はははっ」
「なっ!」
蒼白な顔でカカシを見ると彼は元の通り無表情でナルトを見返した。
「酷いってばよ!」
「酷いのはナルトでしょ?これに懲りて余所見はするなよ。犠牲者を出したくなかったらね」
「っつ・・・」
逃げられない。
この男からは離れられないのだ。
ナルトは唇を噛んで俯いた。
自分はとんでもない悪魔の手を握ってしまったのだと分かった。
一週間後、サスケが参加した班の安否を捜索していた暗部が里に送った一通の死亡通知だけがナルトの手元に遺った。
END