銀鈎
暗い水を湛える沼の畔、次から次へ流れる涙で両手を濡らす子供は「オイデ、オイデ」と囁く水際に一歩寄った。
『ソンナニ 哀シムノナラ コッチヘ オイデ』
魔物の触手の様に誘いの手を伸ばす長い葦がナルトの体に絡み付く。
「うっく・・・~~~うう、オレの居場所じゃねーもん」
孤独の果てにやっと得たカカシ率いる「第七班」はナルトの場所ではなかった。担当上忍の試験に受かり初の任務を終えて中忍試験に臨み、大切な仲間を得たと思っていたナルトはしかしそうではなかったのだと、イルカの様に自身を人として見てくれたカカシに思い知らされた。
「オレって必要ないソンザイなんだ」
誰にも必要とされず、誰にも愛されず、誰からも煙たがれるソンザイ。
普段は強がって元気に見せても心の内には決して癒えない傷を負っている。それはとても深く他人には理解し得ない溝。
「うっ、うっ、うぇ・・・そっち、行くってば」
また一歩小さな足が沼へ向かう。けれど最後の一縷、子供を逝かせまいとする力が引き止める。
「っつ・・・なんだってばよ?」
くん、と突っ掛かかった足元を見れば、誰が結んだものか「草結び」に青い靴の先が引っ掛かっている。
ガサガサガサ。
「!」
足を捕らえられて身動きできないナルトの背後から何かが草を掻き分けて迫り来る。
「ヒッ・・・やだ、いやだ。も、嫌だってば。オレに構わないで欲しいってばよ!」
ガサガサッ。
「うぇっ、来んな、ひっく・・来んなってばーーー!」
望む事さえ許されないのなら、もう何も期待しないから構わないで欲しいと願う子供に、それでもそれは無情に足を速めて近付いて来る。
ガサッ。
「ナルトッ」
「やだっ!カカシ先生何でえ?お、オレの事きら、嫌い、憎んでるって・・・くんなってば!!」
ナルトは力任せに足を引っこ抜きブチブチと草を切って足場悪い沼の周りを逃げる。
「ちょっ、こらっ逃げるな、人の話を聞けって」
「びえええっ、やだあ!カカシ先生嫌いだってば!」
「ナルトッ、聞けって!」
「うぎゃあああ、殺されるってばあ」
「誰が殺すの!なわけないでしょっ」
常備している忍具を手当たり次第ぽいぽい投げてくる攻撃を避けながら追い掛けていたカカシは、投げる物が無くなって焦るナルトに飛び掛かった。
「ぎゃああああ」
「コラッ!観念して静かにしろっ」
土の上で暴れ転がり汚れたナルトをこれまた泥だらけになったカカシが押さえ付けて長い腕の内に囲う。葦が群生する沼の周りは二人が暴れた箇所だけが禿げて、水を多分に含んだ土を露にしている。
「ふんぐーむぐぅっ」
深い緑色に顔を押し付けられたナルトは息苦しさに文句も言えず段々としおらしくなっていく。
「すこし落ち着きなさいって」
ナルトを襲った声色とは全く違う声が頭上から降りて金の髪や耳に浸透していく。
「ぐずっズズッ」
「ほら鼻拭いて」
カカシは手巾でぐずぐず啜るナルトの鼻を拭いて紅い目元を指で撫でる。予想通り涙に暮れていた子供は日の光を受け付けない暗い沼に入水しかけていて、追い着きそれを目にしたカカシの心臓は凍り付いた。そして同時に愛しいと、大事にしたいと思っていた胸がスッと冷えた。
こんなに大切に想ってるオレを置いて、お前は誰の手も届かないそんな暗い処に逝こうってわけ?そんなの許さない、そんなこと絶対にさせないよ。
「どうして逃げたりしたの?こんな所まで来て・・・死ぬ気だった?」
「だって!先生がオレを殺そうとしたからだってばよ!」
キッと睨む赤く変色した蒼い瞳は焼き付いたばかりのカカシが自分に向けた「憎悪」と「殺意」そして今まで信じてきた優しさが嘘だった「真実」を映し出す。
「違うよ・・・ナルト」
「っつ、だって、せんせーはっ!」
「あれはオレじゃない」
「そっそんなんっ・・・嘘・・・」
「ごめんね。巻き込むつもりはなかったんだけど・・・やっぱり辛い目に遭わせた。オレがナルトを殺そうとする筈ないじゃない。忘れた?いつも言ってるの・・・お前の顔見ないと眠れないって。ナルトの事、好きなんだよ?本当に好きなんだ」
「先生・・・それって」
「愛してるんだ。約束な、もうオレから離れすぎちゃ駄目だよ」
お前がいなくちゃ生きていけないから。
「好き」と「愛してる」がまだよく分からない子供の困惑した声を聞く前にカカシはサッとマスクを下ろして、渇いた唇をぷっくり水分を含んで柔らかい赤い果実にそっと重ねた。驚いてビクッと震えた体がまた離れていかないようにしっかり抱いて、見開いたままの蒼い目を睫毛が触れる至近距離から真剣な瞳で見つめ、口付けに「愛してる」をのせてナルトがまだ知らない大人の恋文を贈った。
「ん~・・・っ!んうう、ふ・・・ぷはあっ、何すんだってばよ、カカシ先生!!」
「くくっ、愛してるって言っただろ?」
怒っている。けれど真っ赤な濡れた唇を拭おうとしないのは嫌悪を感じていないという事。或いはそこまで頭が回らないのか。
「だから!なんでそんなのオレに言うんだってばよ」
ナルトは怒鳴りながらカカシのキスを受けて胸は熱く、動悸は激しくなった自分に動揺する。まるであの嵐の夜のようだ。
オレの心はどうなっちゃったんだろう。
「ナルトだからだよ」
まだ分からないかもしれないね。でも、ハヤク キヅイテ。
楽しそうな口調と哀しそうな笑顔にナルトの頭は益々混乱する。けれど不可解な自分の気持ちの答えをカカシが知っている気がしてナルトは震える小さな唇を開いた。
「なあカカシ先生、オレ・・・なんでこんなにドキドキしてるのかな」
教えてくれる?このままじゃドキドキして、苦しくって眠れないってばよ。
ナルトはカカシの服を掴んで教えを乞う。けれど問われた大人の濃紺の瞳は瞬く事すら忘れて赤い果実を見つめていた。
「で、結局どういう事だよ」
納得がいくように話せとアスマは膝にナルトを乗せているカカシに迫った。彼にしては珍しく、同僚の自宅に押し掛けてまで突っ掛かるのはやはり自分だけが除け者にされていたという感があるからだろう。
「ちょっと、ムサイ顔近付けないでよね熊ちゃん」
ナルトとイイ所だったのに。
「ナルトだって気になるだろうが」
瞳を真っ赤に腫らした子供をこのままにしておいていいのかと問えば、カカシはその子を抱き締めてごめんねと囁いた。
「敵を欺くにはまずは味方からって言うでしょ。ナルトを巻き込んじゃったのは予想外というか・・・不本意なんだけど」
「取り調べたイビキからの話に拠ると奴はナルトに疑いの目を向けたかったらしい。だがそうはならなかった。そこで・・・だ、あの腐った上忍曰く「九尾びいきのカカシ」に矛先を向けた」
「そうだろうとはね・・・思ってたよ」
アスマとカカシはナルトの反応を気にしつつ話を進めていく。ナルト自身この件には多くの疑問を抱いているのだから、この際はっきりしておいた方がいいだろう。
「殺せば九尾が出て来るとは思わなかったのか?」
「そこまで頭が回る奴ならナルトを襲ったりしないよ。ま、どうせ追い詰められて自我を失ってたんだろーけど」
「俺が分からねえのはお前の行動だ。俺がナルトと一楽に行った帰り会ったおめえは本物か偽者かどっちだ?」
「あれはオレだよ。人攫いが大事な子を連れてるからさあ、吃驚しちゃったよ」
「誰が人攫いだ!外見はお前の方が怪しいだろ。それじゃ暗部と共に行動してたのは奴なのか?」
「半分はね・・・」
「半分~!?一体本当のお前はどこで何をしてたんだよ」
アスマは咥えていた煙草をポロッと床に落として素っ頓狂な声を上げ、カカシに汚さないでよねと嫌な顔をされた。
「召集が掛かった日をよく思い出せ、五代目は初めから忍の仕業だと思ってたんだ。それなのにわざわざ暗部と上忍連中を呼び出して恫喝したのは・・・・」
「おいおい・・・それじゃあ、犯人を焦らせて隙のない行動にミスを生じさせたってのか?」
「そういう事。オレはこの体とゲンマの姿を上手く使い分けて奴を探ってたんだよ」
カカシ先生がゲンマさんになってた?
ナルトは病院で思った違和感の原因を知って納得する。しかしその向かいではアスマが体を震わせてカカシを睨み付けていた。
「ちょっと・・・待てよ、おい。じゃあもっと早く行動すりゃシカマルは無事だったんじゃねえのか!?」
ガタッと派手な音を立てて椅子から立ち上がり、憤りを露にするアスマをカカシは黙って見つめている。生徒を想う気持ちはどの班の担当上忍も同じだ。彼の怒りは当然のものだ。けれどナルトはビクッと体を震わせてカカシの服を強く握った。
「シカマルには・・・すまないと思ってる。オレだって助けてやりたかった」
「ってめえ・・・なんで・・・」
「間に合わなかったんだよ!!オレが気付いた時には遅かった、手遅れだったんだ」
「発見したのはカカシか。その後、俺とナルトの前に姿を現したのか?」
「いや、オレは暗部から知らせを聞いて知った。お前達に会う前にシカマルに会って来たよ」
「おい、そりゃどういうことだ」
面会謝絶じゃねえのか?
ナルトも乾いた瞳をカカシに向けて次々と現れる疑問に許容量目一杯の頭を傾げる。
「大怪我はしてるけど流石は奈良家だよ。影真似の術を使い熟してるな。知略と術の使用、その点ではサスケに並んで・・・いや抜きん出ているか」
「カカシ、分かり易い様に説明してくれ」
一転呆けた表情のアスマにカカシは三日月の笑みで「だいじょーぶ」と言う。
「面会謝絶にしたのは更なる危険を避ける為だったんだよ。もしシカマルが無事だと知れば再び襲いに来るかもしれないからな。それにはあいつ自身気付いてて、暗部が見つけた時も「やられた振り」を上手くしていたらしい」
「っは・・・マジか」
生徒が無事だと知って脱力した男は元の通り椅子に座って、自身を落ち着かせる為にポーチを探って煙草を取り出した。けれど咥えた一本の煙草になかなか火が点かない。その様子をカカシは露になっている片目を細めて見ている。
『今だから言えますけど、初めはカカシ上忍がやったんだと思ってたんスよ。呼び出された時も相手はカカシ上忍の姿だったすから。でも途中で奴の動きに違和感覚えて、カカシ先生じゃ無いって分かりました。でも遅かったんス。俺もまだまだって事ッスね』
「奴は切れるシカマルがいつか自分に辿り着くんじゃないかって思ってあんな行動に出たんだろう。頭の良さが徒になる・・・だがそれで身を護ることも出来たのさ」
「ああ、そうだな」
頷いたアスマは火が点かない煙草を指に挟んだままその手を膝に置いて、柄にもなく涙が零れそうな顔にそれを誤魔化す曖昧な笑みを浮かべた。
晴れた日最高の「ゴミ拾い」Dランク任務。
毎度の事ながらブーブー文句を言いつつ、任務に励む子供達を遠くから観察していたカカシは一人の青い姿に近付いた。
「サスケー、お前さあオレを疑ってたでしょ?」
「・・・カカシ」
屈んでいる少年は成熟には程遠い殺気を流して下から担当上忍を睨み付けた。勿論、修羅場を潜り抜けて来たカカシには全く効果は無い。
「そんなものホイホイ出すんじゃあなーいの。サクラやナルトに気づかれたらどーする」
「アンタが犯人じゃないにしても危険な事に変わりはねえ」
「クククッサスケちゃん、オレは班の仲間は大事にするよ?それがどんなに憎たらしい奴でもな」
「ふん・・・」
「ちゃん」付けされたサスケは腸煮え繰り返る思いだったが、言い掛けた文句を引っ込めて再びゴミ拾いを始めた。気分は悪いが目の前の男に本気で敵うとは思っていない、そこまで自惚れてはいない。
「がんばってね~」
エロ本を開いて元居た場所に戻って行くカカシのその言葉が今日の任務に向けられたものでない事は分かっている。
「チッ」
「サスケく~ん、こっち終わったわよー」
「サクラちゃん早ッ」
手を振って己を呼ぶ女の子とそれに反応する金髪の少年。自分の殺伐とした胸中には相応しくない長閑な風景にサスケは眉を顰め、しかしフッと笑みを唇にのせて立ち上がった。
子供達を見守るカカシは退屈な任務にも拘らずどこか楽しそうに平穏な景色を眺める。
「ホーント、予定外だよ。あいつがナルトを殺そうとするなんてさ、許せる訳ないでしょ?」
使える男だったけど仕方ないよね。
ナルトを虐めてた奴等も当然の罰。
でもこれで平和になったよね?
『あ、カカシお疲れさん。例の事件か?こんな時間まで大変だな』
『はははっ五代目も人使い荒いよね。ご苦労様。ところでさ、ちょっと頼みたい事あるんだけど』
『なんだ?』
『手伝って欲しいんだ・・・・』
『カカシ?どうして写輪眼ッ・・・・何を!・・・・』
『ネ?』
『ああ、何でも手伝う』
『じゃあ奈良シカマル、よろしくね』
トイレと寝台しかない白い部屋の隅、男はひっそりと眠っている。壁に付いている染みはこれまでここに収容された者達が遺したものだ。
「オイ、取り調べだ。出て来い」
看守は格子の鍵を開けて起きるように促す。だが一向に動く気配の無い男に痺れを切らして部屋に踏み込んだ。そして毛布にくるまった彼の肩に手を置いて看守の忍は動きを止める。
「うっ!!た、大変だ。火影様に報せなければ!!!」
看守はまだ全容が明らかになっていない取り調べの途中、犯人が獄中で不審な死を遂げた事実を報告すべく慌てて駆け出して行く。
白い四角い部屋には静寂が訪れ眠りについた上忍を包んで再び訪れる騒がしい足音と怒号を待つ。
喜びはないが、悲しみや哀れみは一切無い。
今はただ静かに。
END