あの時手を離さなければよかった
「サクモさん!サクモさんっ・・・くそっオレが、オレが勝手に飛び出さなければ、油断しなければ!」
地面に倒れているサクモに縋り付き、深緑色のベストを両手が白くなる程強く掴んだミナトは自責の念に駆られて後悔の言葉を繰り返す。その姿を傍で見ているミナヅキとナガレも顔色を失くしてサクモを見下ろす。
「っく・・・あなたはいつもオレに手を差し伸べてくれていたのに・・・やっと気付いたんだ、この気持ち。まだあんたに伝えて無いのに・・・っ」
ミナトは己の無力と、素直になれず真摯なサクモの心に向き合えなかった不甲斐無さ、更に思い上がっていた自身を恥じて涙を流す。
間違っていた。全部この人の言う通りでそれを無視した為に他人を傷付けてしまったんだ。オレは・・・馬鹿だ。
サクモの顔を見つめるミナトの瞳からまた一つ涙が零れ何も言わない彼の頬に落ちた。
「うっ・・・うっ・・・サクモさん」
ミナトが、わっとサクモの胸に伏すと背後に立つ仲間の啜り泣きも激しくなった。辺りは悲しみの色に染まり死者を悼む鳥の鳴き声が降りた。
だが不意にミナトの頭に暖かい人の手が触れて心地よい低音が耳元で響いた。
「あーミナト君、そんなに心配してくれて嬉しいんだけど、っつ痛てて・・・」
「サクモさん!」
がばっと顔を上げたミナトの瞳は濡れて目許は赤く染まっていたが、蒼い両目は苦しそうに、けれど笑ってみせるサクモをしっかりと捉えた。
「サクモさん・・・・すいません、オレは・・・・」
昏い顔で謝罪しながら徐々に俯いていくミナトを制して、男は腕を伸ばし長い指先で金糸に隠れた濡れた頬を拭う。
「確かに・・・隊長命令に背いたのは規則違反だ。しかも・・・結果仲間を危険に晒し他人を傷付けた」
当然の厳しい科白にビクッと肩を震わせたミナトの頬を、しかしサクモは優しく撫でて
「あー・・・でもこれで君の心は手に入ったのかな?」
少しふざけた彼らしい笑みを漏らした。
そしてミナトも再び涙を浮かべた瞳を笑ませ小さく頷いた。
しかし時の流れとは残酷なもので時が移ろえば人も変わる。出会いがあればその後には別れがあり、国境での雨隠れとの戦いから数年後、配属された時のように火影の命でミナトはサクモの部隊を離れ、仲良い二人が揃った姿を見る事も稀になっていた。
「じっくり楽しめる所、行こうよ~ネ?」
それはいつもの誘い文句、そしてミナトがサクモに出会ったばかりの頃、彼の性格を嫌悪して幾度となく突っ撥ねた科白だ。
事務手続きを行う一室の片隅、背高いデスクの前で立ったまま書類に必要事項を記入していたミナトは懐かしさに頬を緩めてサクモを見上げた。
「相変わらずですね、サクモさ・・・・」
しかし久し振りに見た彼はかなりやつれて心身共に疲労の色を見せていた。その姿に鋭い痛みが胸に走るのを感じながら、ミナトはそれを相手に悟らせまいと怒った顔を作り、出会った頃のように彼を叱った。
「勝手に独りで行って下さいっ。サクモさん一人でも女の二人や三人引っ掛かるでしょう!?」
するとサクモの手が伸びてそっとミナトの鉛筆を握る手に触れた。その指先はゾッとする程冷たく、泣きたくなる位哀しい節ばったものだった。
「ね?ミナト君」
行こうよ、一緒に。
遊びに行こうと誘うサクモはミナトの正面、片肘を机に突いてその手の上に顎をのせ両目を細めて笑いミナトを見た。
悲しみを隠した柔らかい笑顔がミナトの蒼い瞳に焼き付いた。
それが前々日の事だった。
シトシト降る雨の中傘も差さずに暗黒の衣装で立ち尽くすミナトは陰気な空の下、同じ様に昏い人々の顔を眺めた。
「濡れますよ」
同じく黒い衣装を身に纏った子供が差し出した傘の下に黙って入り、少年の隣に立ったミナトはポツリ零す。
「すまない事をしたね」
「・・・・」
「オレは・・・」
「どうしてオレに謝るんですか?」
その言葉に驚いて銀髪の子供を見下ろすと、少年はその歳に不似合いな大人びた顔で冷静な瞳をミナトに向けていた。
「カカシ・・・」
その通りだ、カカシに謝った所でこの想いはあの人には届かないのだ。
「身内の者が来たので、失礼します」
傘をミナトの手に残し、スッと一礼して離れて行った小さな背を呆然と見送る上忍はゆっくり動く人々の中で独り取り残されていた。
誰に挨拶をし、どんな会話を交わしてどうやって自宅まで帰ったのか分からない。玄関に畳んだ傘を手から滑るように落としたミナトはただ体が覚えている事をしているだけのようだった。
「サクモさん、どうして・・・」
あれは一緒に逝って欲しいという事だったのだろうか。
分かっていた。あの頃とは違う、今のあの人は里から蔑まれて女だって寄って来なかっただろう事くらい。
「でも、どうして」
今更だ。全て遅すぎた、もう時は戻せない。
けれどこの胸を掻き毟る様な痛みはどうしようもなく身を焼き焦がす。
「痛い・・・・・痛いよサクモさん」
ミナトは薄暗い寒い部屋の壁に縋り付きゆっくり床に崩れ落ちてゆく。衣擦れの音がして壁を背に座り込んだ男の頬を冷えた心とは反対に熱い涙が静かに伝う。
もう、会えないのだと漸く分かった。
「っつ・・・馬鹿っ・・・」
右手で顔を覆い左手で口許を押さえ嗚咽を殺そうとするが、落ちる涙は滂沱となり黒い布に染みを作る。
あの時、手を離さなければよかった。
雨は悲しみを抱いた人々の頭上に降り注ぎ全ての悔恨と思い出を共に流していく。
ミナトが居た所には木の葉が舞い降りそれは小さな石の上にも落ちて、吹いた風によって再び空に上がり何処か遠くへ運ばれる。風は何かを慰める様に草地を撫でていき、時は人の心に関係なく通り過ぎる。
そして又、激動の世で後々まで語り継がれる災厄の日を迎えるのだ。
END
+α 記憶の奥底に沈んだ慕情
カカシは先を歩くナルトの後ろ姿に四代目の面影を見てふっと遠い雨の日を思い出した。まだカカシがミナトの弟子になる前、父親の葬儀の日だ。
焼香に訪れた数少ない人々は傘を差すか軒下に身を避難させているのに、彼は雨を避けもせず濡れてまるで幽霊のような立ち姿で遠くを見ていた。
「濡れますよ」
カカシが差し出した傘を素直に受け取ったがその顔に日頃の明るさはなく陰りが彼を支配していた。
「あなたが何を考えていたかなんて思うのは・・・今更ですよね」
暖かい陽が作り出したナルトの影を目で追って、沸き起こる慕情を心の底にそっと仕舞う。
「先生!」
ナルトが振り返り手を振る。
「カカシ先生早くっ」
『カカシ早くおいで』
いつだろう伸ばされた手をカカシは素直に握り返せなかった。子供時代、同期の者達よりも早く上忍になった彼を周りの忍達は一人前の大人扱いをし、子供らしさや我が侭を認めようとする者はいなかった。けれどそれはカカシ自身が作り出した周囲と隔てる壁の所為もあったかもしれない。
常に冷徹さを保ち他者を近付けさせない。
だからミナトが本当のカカシを認め手を差し伸べてくれた時、その事に心底驚きまじまじとその手と眩しい笑顔を眺めてしまった。
「カカシ先生~」
同じ笑顔だ、と思う。
あの時は護れなかった。
護られる側だった。
けれど今は。
「聞いてんのー?遅いってばよ!」
「すぐ行くよ」
カカシは遠い記憶を胸の内に仕舞い再び彼の人に会う日まで忘れない事を誓う。そして自分の手で護ると決めた子供に向かって一歩踏み出した。
END