History of Citizens Band Radio

重要なお知らせ

短波開拓史」「諸国の短波開拓新グーグル・サイト仕様への移行作業を完了しました。


標準電波の歴史」「GHQ/SCAP CCS」新グーグル・サイト仕様への移行作業を完了しました。

他のほとんどのページでは、いまだ壊滅的レイアウトですが、順次「新グーグル・サイト」様式へ改修いたしますので、気長にお待ちください。

明治の呼出符号」新グーグル・サイト仕様への移行作業を完了しました。

国際呼出符字列」新グーグル・サイト仕様への移行作業を完了しました。

→ リクエストいただきましたので、突貫工事で仕上げました。どうぞご利用下さい。

マルコーニ あとがき」新グーグル・サイト仕様への移行作業を完了しました。

→ 戦後の日本で流行った、マルコーニの評価『彼は何も新しいものを発見していない・・・』の、そもそも(起源)を調査してみました。

マルコーニ 1895-1897」新仕様へ移行作業完了しました。

→ オックスフォード大学のマルコーニのパラボラ・アンテナ(本物)へのリンク切れを修正しました。

とりあえず「マルコーニ 東日本観光」「マルコーニ 西日本観光」の2つのページを新グーグル・サイトの様式で作ってみました。どうぞご覧ください。

2007年1月に本サイト(History of Citizens Band Radio)を開設し、現在のURLへ引越してきたのは2012年12月6日でした。このたび「グーグル・サイト」 https://sites.google.com/site/~  のシステム仕様大幅リニューアルされることになり、仕方なく私も移行作業に着手いたしました。

2021年9月15日に、Google社が提供する「新サイト移行ツール」を使って機械的にデータを移しましたが、あくまで文章と画像の引っ越しを行っただけです新サイトのユーザー・インターフェースに合わせて、すべての設定を一から行わなければなりません。

ですが仕事が多忙で、当サイトのメンテナンスにどれほど時間を割けるのか自信がありません今しばらくはレイアウトなどが壊滅的な状態が続くかと思いますが、復旧までお待ちいただきますようお願いいたします。 

 

◆ 私が50年掛けて収集したCB無線の歴史を公開します

CB、CB無線、市民無線、市民ラジオ、シチズンバンド、簡易無線・・・いろんな呼び方をされてきた無線制度ですが、私は子供の頃からこの無線制度の歴史にそれはそれは強い関心を持ち、コレクションに没頭してきました。これをみなさんに公開させて頂きます。

1960年代の後半よりラジオの組み立てとBCLに夢中になっていた私は、大阪万国博が開催された1970年からCB無線に関する情報収集を始めました。大阪日本橋電気街南端に開通したばかりの阪神高速のガードがありました。その近くに小さな古本屋があり、「初歩のラジオ」「ラジオの製作」「CQ Ham Radio」 などの無線雑誌が格安で買えました。「QST」などもありました。こうして1970年代は主に古い無線雑誌から情報を収集していました。1974年、私の家の御近所さんであり国鉄天王寺駅交差点の西200m辺り(大阪市大病院の北向い)にあった(大変失礼ながら)レトロな建物の近畿電波監理局が、大阪城の横に建設されたピッカピカの合同庁舎に引っ越しました。

ほどなく電子系工学部の学生になりましたが、大学の図書館は宝の山でした。戦後の電波関係の統計や年鑑、資料がたくさんあり(学業の勉強はろくにしませんでしたが)、「簡易無線」に関することを目をキラキラさせて探していました。

友人が合同庁舎の近畿電波監理局と同じビルの農林省に就職したので、電監にはよくお邪魔しました。例えば(農林省フロアの友人を訪ねた帰りに)ノーアポで電監フロアに立寄って、「27.048や27.156MHzの無線操縦の周波数は使用実績があるのですか?」とやるものですから、本当に迷惑な奴(自分)でしたね。それでも電監職員の皆さんには、過去の書類を探して丁寧に説明して頂きました。デンカン(近畿電波監理局)は不法無線局を取締る「コワ~イ組織」というイメージだったのですが実際には皆さん本当に親切でした。

また無線従事者の申請の時のことです。いちおう電子系学科の学生でしたので1アマまでは合格しましたが、その写真が写真館でポーズをとった、やや斜に構えたものでした。"やや"です。いつものように書類を持参したのですが、対応係官が「困るんですよね。正面に身体を向けてないと。」とおっしゃいます。机の横に積み上がった受理書類に目をやると、確かに皆さん真正面のようです。しかし私の電話級の写真は坊主頭に詰襟の学生服、電信級と2アマは普段着のセーター姿。今回アルバイトしてやっとの思いで買った一張羅のスーツ姿の写真にダメ出しされ「うーん」と固まる私に、(貧乏学生に同情されたのか?)最終的には受理して下さいました。

そんなこんなで寛大な大人の皆さんに甘えつつ、私も社会人として踏み出しましたが、既に大学在学当時からアマチュア無線やCB無線での交信行為への興味も薄れだし、最終的に資格だけは取っておこう的なノリの1アマ受験でしたので、和文50字/分の3分間受信の試験には苦労しました。ついに和文QSOの経験は皆無のままで幕を閉じてしまいました。そして、益々CB史研究にのめり込んでいきました。

 

実はそろそろ就活を意識しはじめる頃、私の周辺で2技(第2級無線技術士)を取得した学友が現れ出しました(極少数ですが1技も)。あせった私も職業無線系の資格を取得をしておこうと思いましたが、どうやら "付け焼刃" で2技合格は無理そうです。

また通信士系のライセンスだと、3通(第3級無線通信士)ですら「欧文普通語100字/分、欧文暗号80字/分、和文70字/分の3分間」の試験ですから、やっと1アマに合格した私にはあまりにも高い壁でした。そこでモールス試験のなかった電話通(電話級無線通信士)を受験しました。しかし私はこの資格をナメ切っていて、こともあろうに電気通信術(朝日のア、イロハのイ)をほとんど練習せずに受験したのです。

いやあ、大馬鹿者でしたね。自分。(受信はともかくとして)送信で「田んぼのタ」とか「カナダのカ」とか、日頃いい加減な事を言っていた癖が一気に噴出してしまい、もうヨレヨレです。その場で不合格を悟り、不真面目だった我が受験姿勢を深く、深く悔やみました。幸い1技の方は社会人になってから取得できましたが、通信士系資格の方には、学生時代のこの「不合格事件」がトラウマになり、もう近寄る気にさえなれません(笑)。

そういえば就職で常置場所を東京に変更したのですが、住所の記載ミスで免許状が届かず、ほったらかしにしていました。何年かして再免許の時期が来たため仕方なく関東電波監理局に「私のコールサインは何でしょう?」とマヌケな訪問したことがありました。事情説明など、手続きには相当時間が掛かるだろうと覚悟しての訪問だったのに、3分間を待たずして迷子の免許状を受取れたのには驚きました。きっと郵便局から返送された免許状は、きちんと整理し保管されているのでしょうね。それにしても免許が切れる直前になり、初めて自分のコールサインを知った人は全国広しといえど、そういないでしょう。(いやぁ、全然自慢になってませんね。でも結局じゃま臭くなって免許更新はしませんでしたが・・・)。

 

1980年代には主に公設図書館での日本国内の文献調査と、1950年から1960年代のアメリカの科学雑誌や無線雑誌をあさるようになりました。日本国内の雑誌書籍では、私が知りたいCB無線のルーツにはたどり着けそうもないことに気づき、アメリカに目を向けはじめたのです。私の上司は元Voice of America の技官だったので、アメリカ製無線機や測定機の昔話を聞かせていただくのが大好きでした。アメリカの古い雑誌は上司との絶好の会話ネタにもなりました。

1990年代になると、(元々高周波回路の設計畑を歩いてきたのに)NTSCベースバンド信号処理などの回路設計をしていた私に、運良くラジオ放送用のある測定器を設計する仕事が廻って来ました。そしてどうにか試作機も完成し、アメリカに売り込むことになりました。

まずアメリカのラジオ電波事情を把握しなければと、ニューオーリンズで開催されるNAB(全米放送事業者協会)Radio Show に行くよう命じられました。初めての海外出張で心細く、しかも日本からの直行便がないのでトランジットも不安一杯でしたが、無事到着できて、ミシシッピー川の畔のホテルに泊まりました。ベッドの枕もとには目覚し時計兼ラジオが装備されていて、ラジオファンの私はすぐさま飛び付きました。夜中の三時頃まで夢中でワッチしていましたが、ミシシッピー川は放送局のWコールとKコールの境界線で面白かったです。朝起きれるか心配でしたが「ボォ~」というミシシッピー川の観光用蒸気船のうるさい汽笛で目が覚めました。日本人など全く見かけないニューオリンズの街でしたが、NAB Radio Show の会場で「日本の方ですか?」とお声掛け頂いた「FM大阪」の某技術部長、本当にありがとうございました。見知らぬ土地で不安一杯の心が救われました。

その1年後にはニューヨーク、マンハッタンのルーズベルトホテルの一室にラジオ受信機とスペクトラムアナライザーなど機材をセットして私の作業場にしていました。元BCLマニアの私には朝から晩までラジオが聞き放題(もちろん測定)が仕事とは、なんという幸せなことでしょう。ちなみにこのNYのルーズベルトホテルは1945年秋に「Citizen Radio 25周年記念行事」が行われたホテルだったことを10年ほど後で知り驚きました。

また、レンタカーに電界強度測定器を積み、アメリカの東海岸や西海岸のラジオ電波を測定し、電波マップを作っていました。西海岸で測定していた、ある日の夜の出来事です。たまには日本食を食べようと相棒とサンフランへ向かって国道を北上している時、ノイズの中から弱いながらも聞き覚えのあるサウンドにダイアルを廻す私の手が止まりました。日本の演歌です。深くゆったりとしたフェージングですが、サンフランに近づくにつれはっきりと聞こえるようになりました。60年代のグループサウンズや、クリーム、グランドファンク、レッド・ツエッペリンといったハードロックに加え、日本の70年代フォークで育った世代なので演歌など全く興味なかったのですが、このサウンドが私の心の琴線に触れたようで、こみ上げてくる来る熱い想いに、つい職務を忘れ聞き惚れてしまい周波数などの記録はありません。ただしサンフランの局ではなかったようです。

私が心から信頼する相棒はサンノゼのRF用ICを設計する会社からの転職者で、サンノゼの街を良く知っており仕事の合間にジャンク屋に案内してくれました。すると1960年代前半のビンテージCBトランシーバーや古いCBマニュアルなどが山積みで、私のCB無線情報収集魂が再び燃え上がりました。

やがて米国現地法人がニューヨーク(マンハッタン)のグランド・セントラル駅のすぐ近くに立ちあがったのですが、歩いて数分のところにNY州立図書館があり、ここでも新たな情報をいくつも収集できました。

2000年代になるとインターネットの普及のお陰で、あまり体を使わなくても情報を得れるようになりました。これまで収集してきた情報と情報の隙間を埋めることが出来て、便利な時代になったものだと心から思います。ただインターネットで得た情報は、真実と誤解が入り混じって、参考にはできても断定には使えないというのが正直な感想です。「どこのサイトでもそう書いてるから、多分正しいだろう。」と思ってしまいがちですが、みんなが伝言ゲームのように転記しただけでそれは誤りかも知れません。インターネットで得た情報には、なるべく政府系の公的な資料で裏付けを取るように努力はしていますし、重要な部分では引用文献を明示するようにしました。

そうそう、この引用文献というのも曲者で、いくら書籍名が明示されていても、その書籍の記述が正しいとは限らないからです。特に雑誌では誤植や筆者の誤解が含まれていることがままあります。また参考文献を明示しつつ、自分の言葉で書く場合には、どうしても自分の解釈が割込みますので、本サイトでは私の言葉ではなく、原文のままを引用掲載したりもしてみましたが、これは結構労力がいるもので、一部に留まりました。

 

1945-1952年の7年間の日本の統治者であるGHQ/SCAPが(日本の独立で)本国へ引き揚げる際に、日本の電波行政の代行機関(逓信院BOC・逓信省MOC・電波庁RRA・電波管理委員会RRC)とやり取りした膨大なドキュメントを本国へ持ち帰っており、それが機密解除され、米国国立公文書館にて公開されていました。私が知りたかった占領軍のアマチュア無線家は(本国アメリカで新設された)11m Band(第1期:27.185-27.455MHz, 第2期:27.160-27.430MHz, 第3期:26.960-27.230MHz)を日本でも運用したのか?簡易無線のコールサインはなぜJKシリーズになったのか、それもなぜ20番という中途半端な番号から指定されたのか?第一号はさらに不思議なことに(20番からではなく)JKX22,23 でした。そういった疑問解消のヒントは米国国立公文書館のRG331分類で公開された書類より得ました。

重要なトピックスにはGHQ/SCAP(CCS)や逓信省MOCのドキュメント番号等を明示しておきました。すべて米国国立公文書館で公開されている、日米それぞれの行政機関の公式ドキュメント番号(含む日付)ですので、もし読者の皆さんの研究発表における、出典元の明示に利用されても充分耐えうるものです。

(この作業で他の無線局の資料も自然に集まりました。それらは「5. Callsign」で公開しています。日本の公文書館では占領時代の逓信関連のドキュメントはほとんど残されておらず、アメリカ経由で日本のことを知るとはなんたる皮肉でしょう。ただし大正から開戦までの公的資料は日本の国立公文書館によります。)

 

このようにいろいろ私なりに確度を高めるように注意して、40年以上に渡る私のCB情報コレクションを公開しました。しかしそれでもまだこのサイトのトピックスには、誤りや私の誤解釈が含まれていることでしょう。本サイトから情報を引用される場合は、本サイトの該当ページへ直接リンクを貼っていただくと非常に嬉しいです。今後、もし誤りや新たな情報発掘があれば随時修正しますので。(雑誌記事の誤りなどに振り回された経験上、今度は自分が誤情報の発信源になるのが嫌なものですから)

◆ これまで公開をためらっていた「ある理由」があった

CB無線の歴史上のハイライトがいくつかあります。私は最も重要なのは以下の3点だと考えています。

① 1945年のCitizens' Radiocommunication Service創設に関するもろもろ

② 1960年代前半に起きた、「FCC」と「疑似アマチュア無線を楽しむCBers」との大戦争

③ 1970年代中期のアメリカでの爆発的ブームと衰退

 

ですが、③はまだ歴史として扱うにはこなれてない気がしますので、基本的にはこのサイトでは取り上げません。いや自分がリアルにこの時期をCB無線と共に過ごしたため、記憶が生々しくてとても「歴史」(昔の事)として扱う気分になれないというのが本心です。

私は1980年代に、1960年代のアメリカの科学雑誌を調べているときに、はじめて②の大事件を知りました。そして衝撃を受けたのです。FCCはCB無線を使った擬似アマチュア無線行為(CQを出したり、仲間とラグチューを楽しんだり、DX通信を狙う)は法令違反であるとして規制しました。そしてCB愛好者団体はFCCを相手取り訴訟問題に発展しました。

この戦いはおよそ6年ほど続いたあと、最終的にはFCCが少々妥協して、7つのチャンネルに限っては「擬似アマチュア行為」を容認する規則改正となりました。自分が学生のころアメリカのCBは23chもあって、うらやましく思っていたのですが、実は1970年代に40chに増波されるまでは「擬似アマチュア無線」用のCBはなんと日本より少ない7chだけで、しかもその7chでさえEスポ交信が禁止(150マイルズルール)されていたのです。

しかし当時の日本の趣味の無線雑誌は意図的にこの事実を伏せたのか、それとも記事の筆者が知らなかったのかは分かりませんが、あれほどアメリカで大問題になった訴訟事件なのに日本では伝えられませんでした。

最近まで、歴史的事実だからといってそういうマイナーな話題を提供しても、CB仲間から支持されないばかりか、せっかくの昔の楽しい想い出を台無しにするような気がして、私はCB史のコレクションの公開をためらっていました。みなさんがこのサイトを読めば読むほど、つまらない気分になるだけなような気がしたのです。(いや実際その可能性がありますので、昔のCB無線の想い出を大切にされている方は、当サイトのCB無線の歴史をお読みにならないほうが良いかもしれません。)

携帯電話(いわゆるガラケー)の裏には、写真のような証書が貼ってあったのを覚えてますか?

つまり、これも立派な無線局ですよね。

今では「携帯電話は電車の中で通話しないで下さい」とか、「優先座席付近では電源をお切り下さい」とか、そういったもろもろのルールを電波関連の規則で規定するのではなく、社会のルールに委ねていますが、もし昭和の電波行政当局(郵政省)ならすべて規則化(無線局運用規則)したのではないだろうか?そう思ったりもするのです。

しかしCB無線制度を作った元FCC委員長E.K. Jett氏は1945年(昭和20年)に既に言っていました。FCCはCBの運用規則には介入せず利用者団体の自主ルールに任せると。(1945年のページ参照)

◆ 「電波は誰のもの?」という投げ掛けをテーマとします

しかし合法/違法を含め日本のCBブームが去って既に四半世紀が経過しようとしています。私もそうですが、このサイトをご覧になっておられるCB愛好家の皆さんもそれなりに年を召され、あの頃はあの頃として、歴史を冷静に受けとめてもらえるのではないかと思うようになりました。

 

それともうひとつのきっかけは、十数年も前になりますが、母の法事で久々に親子4人揃って大阪へ帰省したときのことです。神戸に遊びに行こうということになり、大阪から阪神電車に乗りました。私たちはバラバラで座席に座っていたので、「甲子園球場が見えるぞ」とか、「次の駅で降りるぞ」とか、先導役の私が家族にメールをしていました。その時ふと思ったのです。「自由に電波を使えて、なんて便利なんだろう・・・」と。

 

1944年にAl Gross氏とE.K. Jett氏が語り合った、一般市民が生活の中で自由に電波を使える制度(Citizens Radio Service)とは、今こうして携帯電話で実現している、これだったんだ!そう思ったのです。彼らはCitizens Radio制度は電話だけではなく、ラジオテレタイプやファックスでも(手送り電信を除き)よしとしましたが、それが現代の携帯電話の文字メールとして、あるいは写真添付として、一般市民へ解放され実現しているではないか!そう思ったのです。

 

もちろん私にも、学生時代に仲間と交信することに夢中になった時期がありました。もしあの頃の自分のままならCB無線と携帯電話を同列で語るなどあり得なかったでしょう。でも無線交信の趣味から離れて40年もの時が経過していることもあり、そういう捕らえ方が浮かんだのだと思います。

電波は誰のもの?100年間も論じられ続けたテーマですが、CB無線史を「電波は誰のも?」という観点から紐解けば良いのではないか。そういう思いに至り、ここに私のコレクションを公開させていただくことにしました。

  まえさきひろし (東京都)