J1PP J8AA

J1AAのページでは我が国の1925年(大正14年)4月6日の日米初交信の話題と、そこに至るまでの逓信省通信局工務課無線係の活動を説明しました。

大正14年において合法的に短波の電波を発射していたのは以下の施設です。のほかに外地の大連無線電信局や、陸軍省でも短波研究が始まりましたが、まだ限定的で小規模なものだったようです。

本ページではJ1AAのその後の短波試験、逓信官吏練習所 無線実験室J1PPや朝鮮総督府逓信局 無線実験室J8AA、帝国海軍の短波実験を中心に、我国の短波帯開拓および実験用私設短波長施設の許可をめぐる逓信と海軍の駆け引きを紹介します。

序1)逓信官吏練習所無線実験室は逓信省通信局工務課の実験室だった

下図を御覧ください。逓信官吏練習所(官練)は組織的には大臣官房に属する施設で、要するに職員養成学校です。

ではなぜ学校が短波実験を?と疑問に思われた方も多いでしょう。短波実験は学校教育(授業)の一環として行なわれたのではありません。実は通信局工務課としての運用だったのです。

逓信官吏練習所(東京, 芝)
逓信省組織図(大正時代)

大正の逓信省において電波研究(基礎研究)を主管するのは、外局の電気試験所第四部(旧第二部無線電信係)でした。

そして官設無線局の設計・建設・保守を行っていた通信局工務課無線係と、電波技術の開発競争を繰り広げていました。

実験室を持たない工務課無線係がどこで研究開発(実用研究)していたかというと、それが逓信官吏練習所の中にある無線実験室でした。

逓信官吏練習所では逓信省内の各部局の専門家が教官を兼務しており、無線関係の教官でもあった佐伯技師や中上係長が、ここの無線実験室を事実上の工務課無線係の研究所にして実用開発を行っていました。

なぜそんなことができたかというと電気試験所が「基礎研究」機関であるため、その一方で「実用研究」の場も必要だという理由から、工務課無線係による運用が逓信省内で公認されていたのです。一般からの入学を受け入れていない時代には通信局の管下にあったことも遠因にあるかもしれません。

『・・・かような要求に対して当時逓信省の官吏養成機関であった逓信官吏練習所の一部を使用することになった。ここは大臣官房に属しておったからかなり強引ではあったが、他の部課のものを使用するよりも都合がよかったと聞く。・・・(略)・・・大きな役割を果たしたにもかかわらずその文献資料はここの所産としてうもれたものが多い。・・・(略)・・・新たなる産業が勃興する機運も確認され、長年の活動に終止符を打って、昭和3年以来逓信官吏練習所無線実験室は、本来の姿を取りもどし学生の実験に専念することになったのであるが・・・(略)・・・無線実験室永年の功績が消滅することを、はなはだ遺憾に思いあえて訴えた次第である。また長年にわたって実験用機器の製作や運用に協力せられたかたがたの報いられることのなかったご苦労をたたえ かつ ねぎらうものである。 (佐々木諦, "1971年に思う", 『電波時報』, 1971.5, 郵政省電波監理局, pp60-63)

わが国の無線界における官練無線実験室の輝かしい功績についてはJ1AAのページ(前半部)をご覧ください。J1PPのオペレーターであり官練教官でもあった佐々木諦氏は、公には知られないまま消えていった工務課無線係の無線実験室が存在したことを、晩年になって郵政省の「電波時報」を通じて世に訴えたのでした。私は佐々木氏の無念に多いに同調するところでありますので、本サイトでは大臣官房の官練が短波実験をしたのではなく、通信局工務課が官練無線実験室を使って短波実験を行ったと、ここに明示的に記録させていただきます。

序2)逓信省の主導的役割の終了

このように変則的な立場にあった官練無線実験室が、長く工務課無線係の研究・実験の場として使われいました。

特に大正時代までは、逓信省が無線技術を開発し、その成果やノウハウを民間業者へ移転することで、我国の無線産業成長を促すという政策がとられてきました。そのおかげで民間企業が技術力を付け、無線産業の基盤が確立し始めたため、1928年(昭和3年)ついに官練無線実験室はその役割を終え、本来の学生のための実験室に戻りました。 (下図[左]:技術科の数学授業、下図[右]:真空管の特性測定実習, 昭和10年ごろ)

逓信官吏練習所の授業風景

序3)臨時借用で、日台無線電話や国際中継放送試験

とはいうものの、やはり逓信省としても(電気試験所のように)自由に実験できる場が欲しかったのでしょうか?その後も臨時的に官練無線実験室を借用して工務局の実験が繰り返されました。

1929年(昭和4年)春に台湾と無線電話の伝播試験を行なったり、同年8月19日にはツェッペリン号が霞ヶ浦飛行場(霞ヶ浦海軍航空船隊)に着陸する際の、日本放送協会の生中継番組を、官練無線実験室J1PPが短波で同時中継しました。これが我国初の国際中継放送を目的とした「試験」だったといわれています。

1925年【注:1929年の誤記】ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が世界1周の途次、日本に立ち寄った際、着陸格納の模様を短波無線電話実験として、逓信官吏練習所実験室の1キロワット波長20mの仮組立送信機によって中継放送した。これは海外放送を予告する逓信省の打った捨石でもあった。(佐々木諦, 前掲書, 郵政省電波監理局, p62)

昭和四年八月十五日ベルリンを出発した飛行機ツェツペリン伯号が、世界一周の途中シベリヤ経由で日本を訪問することになったので、逓信省は落石、岩槻、検見川、銚子等の短波無線を総動員して最初の遠距離航空移動通信を行った。ツェツペリン伯号が八月十九日霞ヶ浦飛行場に着陸の際にはその状況を、逓信官吏練習所の五〇〇ワット短波電話送信機J1PPにより海外へ放送した。 (故小野孝君記念刊行会編, "航空機と短波で通信", 『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, p16)

わが国でも、一九ニ九年四月八日、最初の短波放送をやった。そのときは、ツェッペリン飛行船が日本に着陸する模様を、ドイツ向けに送ったものである。』 (関英男, 『エレクトロニクスの話 - ラジオから電子計算機まで』, 1959, 岩波書店, p33)

序4)呼出符号J1AA, J1PP, J8AAについて

本ページで紹介している大正末期に活躍した、逓信本省の実験局J1AAJ1PPや、朝鮮逓信局の実験局J8AAという呼出符号は国際的な無線規則にのっとったものではありません。我が国の逓信省が海外アマチュア局の呼出符号を模倣し考案したものです。

【参考1】 『アマチュア無線のあゆみ:JARL50年史』の p37には『まず官設のものとしては埼玉県岩槻町(現在の岩槻市)に岩槻無線局があった。これは対オーストラリヤの長波受信局であったが、J1AAという呼出符号で短波の送受信の実験を行っていた。』とありますが、これは正しくありません。岩槻受信局は大正15年4月1日の開局で、J1AAの数々の短波試験(ナウエンやボリナスの受信や対アマチュア通信)は(主として)岩槻受信所がまだ建設工事の真っ最中だった大正14年です。それに岩槻受信所は対オーストラリア受信ではなく、対外地(=植民地)受信局として帝国議会の承認を得て建設されたものです。

【参考2】 J1AAの説明で何がややこしいかといえば、所属(肩書き)が次々変わったことです。日米初交信をした時(T14.4)は本省通信局の実験局「岩槻無線」。海外のアマチュアと数々の交信記録を作った時(T14.4 - T15.3)は本省工務局の実験局「岩槻無線」。最後のごくわずかな時期(T15.4-T15.6)が外局である東京逓信局「岩槻受信所」の実験局でした。

そして5年の空白期を経て、昭和5年にロンドン軍縮会議の日英米の首相・大統領の交歓短波中継放送など、東京逓信局「検見川送信所」が短波中継の送信所としてJ1AAが復活しました。通信局「岩槻無線」→工務局「岩槻無線」→東京逓信局「岩崎受信所」→東京逓信局「検見川送信所」、このすべてに係わられていたのが、本省の中上豊吉無線係長でした。

序5)国際ルールによる呼出符号が決定

1927年のワシントン会議では実験局およびアマチュア局の呼出符号が「J+数字+文字」に決まりました(1929年発効)。

実験局呼出符号の指定基準を示す逓信省の公式資料は発掘できておりませんが、私がこれまで調査した残存資料や文献から、以下のような基準だったと考えています。

関東逓信局の管轄エリアを例に挙げると

に割当てる方針を決めたため、呼出符号「J1PP」による実験はこのツェッペリン号着陸の放送中継が最後だったようです。

序6)逓信官吏練習所に置かれた逓信省工務局のJ2AB

また1935年(昭和10年)10月24日から11月4日に、東京-大阪間の飛行機と陸上局(逓信官吏練習所無線実験室J2AB)の通信試験が行われ、J2ABは無線と実験(昭和10年12月号)の表紙を飾りました(左の人物の頭でコールサインが一部隠れていますがJ2ABです)。

飛翔中の航空局(飛行機)に呼び掛ける地上対手航空無線局(逓信官吏練習所)J2ABの送信設備で、型式はTV-401号、水晶制御・電力増幅式、空中線出力約400W、電話専用のもの。写真向かって左は電源部で、右は発振、変調、電力増幅、変調はバッファーでプレート変調を行い、この変調電力をもって終段電力管を励振している。終段電力管のプレート入力は約800W。このときの送信アンテナは高さ60m、スパン180m。鉄塔の中間へ水平ダブレット2組(5660, 6590kc/s)を架設した。なおテレフンケン・ライツ・マイクロフォンの前は担当の高瀬芳卿氏で、手前机上は日本電気製50W、航空機用電話送信機の一部である。 ("東京-大阪間の空・陸無線連絡試験", 『無線と実験』, 1935.12, 無線実験社, p2)

序7)J2AAは日本無線電信(株)小山送信所に

官練無線実験室がJ2ABならば、「ではJ2AAは誰なのだろう?」という疑問が当然湧き上がってきます。逓信省工務局は1930年(昭和5年)頃、J1AAの呼出符号で東京逓信局所属の検見川送信所を無線電話の実験フィールドにしていました。

その後、「実験局の呼出符号には数字の0と1を禁止する」というマドリッド会議の決定に従い、1934年(昭和9年)2月1日にJ1プリフィックスがJ2に変わりましたJ1AAは新呼出符号J2AAに変わったはずです

J1AAは大正末期に岩槻受信所で運用された後、1930年(昭和5年)から検見川送信所用で無線電話実験に使用されていました。検見川送信所でのJ1AAの実験は1934年(昭和9年)春に終了しましたが、そしてJ1AA→新コールJ2AAしばらくの間、検見川送信所用キープされていたのではないでしょうか。そのため1931年(昭和6年)の官練無線実験室での航空局との通信試験がにはJ2ABが用いられたものと推察します

なおJ2AAのコールサインは検見川送信所用としていつまでもキープされていたわけではありません。逓信省工務局が電離層反射に関する伝搬試験のために、1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)に掛けて日本無線電信株式会社の小山送信所でJ2AAが使われたことが、当時の電気学会で発表されています。

日本無線電信株式会社には中上豊吉氏が逓信省から天下りされてましたので、元部下たち(逓信省工務局)のJ2AA試験を快く引き受けたのでしょう。

1) 放送分野における官練無線実験室の貢献

官練無線実験室は無線技術のあらゆる分野の実用化実験を行っていました。そして開発技術やノウハウを民間会社へ移転する役割を担っていました。この仕事を強力に推進していたのが工務課無線係の中上豊吉係長で、真空管製造にまで手掛けたほどです。

それらはJ1AAのページで官練実験室の拡充と研究として触れましたので、本ページでは放送分野への功績にのみ絞って説明します。米国でKDKAが初のラジオ放送を開始した直後のことです。

幣原駐米大使から皇太子殿下【注:昭和天皇】に米国製無線電話機を献上することがあって、大衆は放送に非常な関心を寄せ始めた。逓信省は日本にも放送を導入するため、荒川大太郎技師(後に第4代工務局長 現協和電設(株)会長)を米国に派遣して技術調査を行い、かつ官設か、民営か等についての決定などに資することにしました。(佐々木諦, "1971年に思う", 『電波時報』, 1971.5, 郵政省電波監理局, p62)

官錬無線実験室では1925年(大正14年)3月の東京放送局JOAK 開局より遥か前から放送実験をやっていました。官練の教官を兼務していた工務課の荒川技師が米国の放送事情を調査し、さっそく官練無線実験室から放送実験を行ったのが1922年(大正11年)でした。

ちょうど荒川技師が渡米調査した時期はCitizen Radio(アマチュア無線家による放送行為)ブームの真っ只中でした。米国では生まれたばかりの「放送」が正しく発展していくように放送規則を整備し、アマチュア無線から切離す法改正が進められた頃です。

これと並行して大正11年には、逓信官吏練習所で放送を対象として仮に組み立てた自製の無線電話機によって芝公園から送信し築地逓信省内で聴取する実験を行って双方の仮装置を逓信大臣犬養毅氏に御覧に入れることになった。このときも稲田工務局長【注:当時は工務課長】が陣頭に立って説明された。(佐々木諦, 前掲書, p62)

官練実験室を整備増強し真空管の製造設備と技術を得た中上氏は、ここで真空管式送信機による無線電話を熱心に研究していました。それまでの電弧式送信機では変調を掛ける手段がなく、アンテナ回路に直接マイクを挿入する方式だったため、中上氏は真空管式送信機のグリッドより変調を掛ける方式を開発しました。終戦後のアマチュア無線再開運動にも尽力された、郵政省の石川武三郎氏が官練在学当時の想出を記されています。

大正11年から12年にかけて私が官練の無線科に在学中、放送無線電話の研究を同所内の研究室で行っていた。レコードで音楽放送をするのが授業中でも聞こえてくるので、私どもはそれに気を取られ、授業の方がソッチのけになることがたびたびのことであった。(石川武三郎, "私の歩んだ道", 『電波時報』, 1970年6月号, p30, 郵政省電波監理局)

1923年(大正12年)9月の関東大震災で逓信官吏練習所は全焼し、無線実験室の機材も全て失ってしまいましたが、この自作無線電話送信機のDNAは、のちのJ1PPへと受け継がれることになります。1925年(大正14年)に岩槻J1AAが短波電信の実験を行なったのに対し、官練無線実験室J1PPが短波電話の実験を行ったのは、ここが工務課の無線電話(放送)実験の聖地だったからでしょう。

2) 逓信官吏練習所無線実験室の定期実験放送 (大正13年)

1923年(大正12年)12月20日、放送用私設無線電話規則を制定するとともに、本格的な定期実験放送を工務課が実施することになりました。

逓信官吏練習所による官設実験放送(日本初)

米国の放送事情を調査した荒川技師(官錬教官)の指導の下、実務運用には小野技師(官錬教官)と佐々木技手(官錬教官心得)があたりました。 左図[後方]がGE社製送信機。中央は伊藤豊技師(教官)です。

その後荒川逓信技師は渡米中に購入したGE社製500ワット、海岸局用電信電話送信機を逓信官吏練習所に仮設置させて、同所の手によって放送用に改造、かつ、自製のマイクロフォン増幅器を組み合わせ粗末ではあるが、スタジオを急造するなどをさしずして定期的な放送を開始した。

これによって社会の反響を調べ、かつ放送局の設置基準および設備基準をも調査することになった。・・・(略)・・・NHKの前身ともいうべき芝浦仮放送所の送信機も東京市電気試験所が購入した前記GE社製と全く同一のもの、前記逓信官吏練習所における改造資料を基礎としたものであった。 (佐々木諦, "1971年に思う", 『電波時報』, 1971.5, p62, 郵政省電波監理局)

次のような記事もみられます。

逓信省では設備を大震災で失い、この様な試験設備の必要を痛感しておられたが、適当なものがなかったので電気局長の決裁を経てこれを譲ることになった。(高田実, 『鯨井博士と東京電気研究所』, 1936, 故鯨井恒太郎教授記念事業委員会, p157 )

『アマチュア無線のあゆみ:JARL50年史』のp38に『このJ1AAは電信局であったが、前述の逓信官吏練習所のJ1PPは電話局として運用された。この機器が放送機の輸入第一号で後JOAKの仮放送に使われた。』とあり、官練のGE社の送信機がJOAKの仮放送に用いられたと読み解かれた方がいらっしゃるかもしれませんが、補足させていただくと『この機器が放送機の輸入第一号で、これと同じ型番のものが、のちにJOAKの仮放送でも使われた。』という意味です。実際に東京放送局JOAKの仮放送(大正14年3月1日)は東京市電気研究所が購入したGE社の2台目の送信機を借用して行われました。

中上係長の部下の小野孝技師は、1924年(大正13年)春に技師に昇進するとともに官練の教官も兼務していました。逓信省を退官し、戦後はVHF帯による「警察無線の近代化の父」とも呼ばれた方です(JZコールサインの末尾や、New PrefixのページのJPプリフィックスも御覧ください)。

『・・・(略)・・・教壇に立つかたわら、練習所無線実験室で、佐々木諦技手と共に放送の実験を行った。当時練習所にはGE製一キロ中波送信機があったので、これを使って毎日朝から晩までレコード(無線電話発声盤と呼んだ)をかけたり「今日は晴天なり」を繰返して各地の受信状況を調べたのである。当時は全国で一〇〇件を超える放送局の免許申請が逓信大臣に提出されていたので、放送実施の技術的諸条件を調べたり、放送局の新設検査規程を作るための資料を集めるのがこの実験の主な目的であったが、小野さんが後年「日本の無線電話はTYK式から、放送は官練から生まれた」と語っている通り、この実験放送が露払いとなって、間もなく社団法人東京放送局が誕生し、翌年十四年三月芝浦で仮放送を実施する運びとなった。 (故小野孝君記念刊行会, "逓信時代", 『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, p12)

3) 官練の定期実験放送に対するメディアの反応

『東京朝日新聞』より定期実験放送の記事を引用します。官練に立つ2基の無線鉄塔は、当時かなり目立つ存在でした。 

逓信官吏練習所の実験放送の記事

我国最初の放送無電局がいよいよ芝公園に出来上って目下試験準備中である。・・・(略)・・・ 而して許可の準備は何れの程度まで進捗しているか内々探って見ると、芝公園のあの高い高い鉄塔二基の下で極秘裡にやっている、此処のは米国でも一、二と云われている完全な一キロワットの放送用送話所で逓信省の中上、荒川両技師がヘビーをかけて昨年来工事進捗に努めた結果既に先月中に据えつけ工事が終り、茲一週間の後には全部の完成を遂げて一般に公表されるまでになっているのであるが、これが完成すると我国最初の放送無電局となるわけである。

併し逓信省はこの放送局を使って一般に放送するのではなく、これで近いうちに許可される民間放送局へ必要な場合送信停止を命じたり、注意したりする目的に使用されるのだそうで、つまり将来この局が放送無電局監督局になるわけであるから、一般放送局設置の許可されるのもいよいよ近いうちであろう。("我国最初の放送無電局成る", 『東京朝日新聞』, T13.4.9)

民衆の放送への期待が高まっていたところへ、定期実験放送が始まるということで話題となったようで、いくつか引用しておきます。

我が国ではこれまで無線電話の民間使用が禁止されていたために、その普及も発達も見なかった。そうしていつも欧米各国に一歩ゆずらねばならぬ悲しい位置にあったのである。ところが昨年の十二月二十日になって放送無線電話規則が発布され、いよいよ今年の六月から施行される事になった。そして芝公園内の逓信官吏練習所では無線放送の指導と、監督のために放送機を据えつけ、毎日午前十一時頃と午後三時頃の二回に、四百米位の波長で放送することになった。(伊藤永止, "はしがきとして:1ラジオ黄金時代", 『無線電話の話』, 1924年6月, 曠台社)

1924年(大正13年)4月15日より定期試験放送(11:00-12:30, 15:00-16:00)が公式にスタートしました。

我国最初の放送無電 ソレも逓信省で・・・・

各国では、コンナに進んでいるのに、我が日本の現状はと来ると、記すには忍びぬ有様は情けない。がしかし、四月十五日から、逓信省、芝公園に出来た一大放送局は、もちろん官設ではあるが、毎日、午前十一時から〇時半までは、ニュース。午後三時から四時までは、音楽を放送し始めたので、未だ解禁にならぬのに、早くも全国数千のラヂオフアンが、これに聞きとれて悦に入っている。(田村正四郎, 『ラヂオの知識とラヂオ商になる人の手引』, 1924, 実業之日本社, p23)

なお目下(大正13年7月) 放送を時々行っているものは逓信官吏練習所、逓信省電気試験所 及 著者の研究所位のものです。波長はいずれも3、400 メートル附近です。・・・中略・・・ついに無電解禁の日来る 逓信省では、かねて芝公園内逓信官吏練習所内に、官設放送用電話局を施設中でありましたが、いよいよ去る4月15日から公然試験をする運びになり、爾来、毎日午前11時半から零時半迄はニュース、午後3時より4時の2回目は音楽を放送し始めたので、未だ解禁にならぬのに、早くも見えざるそして隠れた聴衆はここを先途と、それより以前から毎日の様に試験をしている著者の研究所のものや、この練習所なぞを、聴取して悦に入っていましたがいつの間にか、一般の知る所となって、我も我もとたちまち、素人無線家になり済して今(本年7月)には全国を通じてその数万を算する様になりました。かかる情勢に鑑み、取締上、当局は徒に傍観して居られない立場となって、放送解禁の準備を急ぐ様になったのであります。(安藤博, "第4章 無線電話受信機の組立法と取扱注意、第8章 雑録", 『実用無線電話(機器の組立及取扱法)』, 1924年10月, 早稲田大学出版部)

ついに無電解禁の日が来た!!

逓信省では、かねて、芝公園逓信官吏練習所内に、日本最初の官設放送無線電話局を施設中であったが、電力一キロ半という完全な設備も、いよいよ四月十五日をもって公然試験をなす事になり、爾来、毎日午前十一時より一時迄、午後三時より四時迄の二回、音楽その他の一般放送試験を開始した・・・(略)・・・』 (田村正四郎, "ついに無電解禁の日が来た!!", 『無電ロマンス』, 1925年7月, 恵風館)

なお試験後期には、11:30-12:30にニュース、15:00-16:00に音楽を放送していたようです。 

4) 潮岬海岸局JSM、磐城無線電信局JAAとの伝播調査の交信

放送波の遠方への伝播状況を知るために、この送信機で調査交信も行われました。官練から中波電話で潮岬JSMを呼び、JSMは長波電信で応答します。同じく中波電話で磐城無線電信局(富岡受信所)を呼び、富岡からは原の町送信所JAAの長波電信で返答する方式です。ラジオ実験局と現業稼働中の海岸局とが交信できる大らかな時代でした。

芝の練習所では毎日「潮岬、潮岬、聞こえますか。聞こえましたら返事してください」、また「富岡、富岡、今から音楽を送ります」という声がきこえる。それは和歌山県の潮岬や、福島県の磐城無線局富岡受信所と通信しているのである。いづれも東京からは百哩以上五百哩の地点と立派に通話している事が分かる。しかし無線の通則として昼間より夜間の方が二倍も三倍も遠方に到達する・・・(略)・・・』 ("芝の逓信官吏練習所にある優良なる放送無線機械 GE会社1kWの電話送信機", 『無線と実験』, 1924.8, 無線実験社, p309)

5) 渡辺千冬 貴族院議員に叱られた官練放送実験局

日本無線JRCの創始者のひとり加島斌氏の記事を引用します。ここに登場する渡辺千冬氏は当時、貴族院議員でしたが昭和4年には司法大臣になられた方です。

大正十二、三年頃である。逓信省は試験のためGE会社の五〇〇ワット無線送信機を買入れ、これを芝公園の逓信官吏練習所へ据つけ、毎日レコードを送信したり、新聞記事などを読んだものである。その試験放送に従事する工手達はこれが面白くて新聞でさえあればその記事の内容がいかなるものであろうと、そんなことには頓着なく、すなわち政府反対派の新聞記事を平気で読み上げ「かくのごとき非立憲の内閣は宜しく速やかに倒さざる可らず」などなど放送していたが、誰もそれをとがめる人もなく、穏気なものであったが、たまたま渡辺千冬氏の令息がこれを聞いて、父君へ報告したので、千冬氏は大いに驚き、貴族院逓信部会で政府委員に質問したため問題となり、当局者は初めてこれを聞き、それは怪しからぬというので大目玉を食わせたものであるが、これまた二十有五年の今日においては峻厳なる放送取締規則のもとに一字一句に至るまで監督し、「カット」、「変更」、「中止」の連発でもって各放送局の現業員を毎日閉口させている。(加島斌, "日本無線電信界の今昔", 『ワット』, 1932.6, ワット社, p22)

文中「従事する工手」とありますが、実際には官練の学生が代わる々々、アナウンサー係を楽しんで(?)いたようです。まあとにかく、この事件が契機となり東京放送局JOAK開始にあたり、放送番組の事前検閲の方法について議論が進みました。 その意味からも官練実験放送は意義があるものだったといえるでしょう。

6) 官練実験放送の受信テストに電気試験所が協力

この実験に協力した電気試験所の『電気試験所事務報告 大正13年度』を引用します。

本試験は通信局が放送無線電話の実施に先たちてその監督方法、混信状況、通達距離等必要なる事項の実験並びに調査を施行せんがために東京逓信官吏練習所に装置せられたる米国ゼネラル電気会社製真空管式無線電話機を働作せしめて行いたる試験にして、波長は三七〇米乃至四二〇米の範囲にまたがり当所は聴取者の一としてこれに参加したるものなり。本試験は五月二日にはじまり七月一日を以て終る。(丸尾登/高岸栄次郎/吉田晴, "放送無線電話聴取試験", 『電気試験所事務報告 大正13年度』, p82)

逓信官吏練習所において十三年度頭初長期間にわたり一キロワット程度の無線電話送信試験を行いたる際に、これが聴取を行い放送実施上参考となるべき記録を採れり。すなわち各種方式の受信機により感度及所要増幅度、空中線高と受信強度の関係、明瞭度の変化等につき実験せり。(畠山孝吉/谷村功, "無線電話聴取試験", 『電気試験所事務報告 大正13年度』, pp39-40)

また既設無線局との混信状況もテストされました。官練の実験放送と電気試験所からの無線電話に、銚子無線電信局JCSと官練の波長300mの火花式無線電信が、度の程度影響するかを試験したもので、東京の電気試験所第四部では、官錬とJCSは混信なく分離できたが、平磯ではJCSの強い混信を受けました。

放送無線電話実施の暁には各種波長の発射電波により短波長無線電信公衆通信上にも混信を惹起すべきにつき放送無線電信電話に規定せる波長の範囲内において放送無線電話及無線電信相互間に及ぼす混信状況を実地試験せんとする通信局の計画に当所はその対手受信所として電気試験所及び逓信官吏練習所よりの真空管式無線電話ならびに銚子無線電信局及び逓信官吏練習所よりの瞬滅火花式無線電信を受信して各強度を測定せり。いずれの場合においても銚子局無線電信の混信は著しき妨害を与ふることを知りたり。試験は七月十一日に始まり十七日に了る。(高岸栄次郎/吉田晴, "放送無線電話に關聯する無線電信電話混信試験", 『電気試験所事務報告 大正13年度』, p83)

この官練無線実験室による実験放送は約半年で終了しましたが、これが露払いとなり、いよいよ東京放送局JOAKが始動するのでした。

7) 逓信省の標準電波を官練無線実験室が発射

1923年(大正12年)8月、海軍省の各無線局が所有する波長計の較正するために、海軍省は船橋送信所から標準電波の定期発射を始めました。また逓信省でも全国の逓信局にある波長計を同一基準で一斉に較正し、逓信省としてその精度を維持管理するために、1925年(大正14年)2月12-28日、逓信官吏練習所無線実験室から標準電波が発射されました。周波数は120kHz(波長2,500m)から750kHz(波長400m)の6波でした。電気試験所平磯出張所でもこの機会に、所有する波長計を較正したことが電気試験所事務報告(大正13年度)に記録されています。

大正十四年二月十二日より同月二十八日に亘り逓信官吏練習所は波長四〇〇米(750kHz)乃至二五〇〇米(120kHz)の六種波長の標準電波を送信しこれを以て各逓信局保管の波長計を較正するの試験を行いたり。当所(平磯出張所)もまたこの試験に参加して当所保管の波長計を較正したり。(畠山孝吉, "平磯出張所 標準電波による波長計の較正試験", 『電気試験所事務報告 大正十三年度』, p88)

『(逓信省)通信局に於ては地方各無線電信局用の電波計の指示を統一する目的を以って標準電波を発射することとなり当部(第四部)においては受信による該標準電波の波長値の較正に当たれリ。即ちヘテロダイン受信法により到来電波と局部発振振動とのビート消失点を求め局部発振波長を波長計により測定し電波の波長値を決定し得たり。なお標準電波受信により波長計を較正する二、三の方法を試み、いずれも実用上簡便に較正の目的を達成し得るを認めたり。(石川正一, "第四部 標準電波較正試験", 『電気試験所事務報告 大正十三年度』, p41)

 

1925年(大正14年)5月には、中井友三技手が電気試験所調査報告第十四号「波長計に就て」にまとめられました。この後も標準電波の研究がなされ、1927年(昭和2年)11月より東京無線電信局検見川送信所から標準電波の週一回(土曜日)の定期発射が正式スタートしました。それについては検見川とJ1AAのページをご覧ください。

8) 中上豊吉氏の東京放送局JOAK検査不合格事件

東京放送局JOAKの検定(戦後でいう落成検査)を担当したのが中上係長と荒川技師でした。

東京中央放送局は芝浦の仮放送設備によって業務開始を急ぐあまりに、開局予定日の二日前になってようやく電波検査を申請してきたのであるが、放送機の調整は不充分で機能は全体的に不安定であったのにかんがみ、中上技師は断固として不合格の宣言を下した。これは最初の放送電波が不安定であると事業の信用をそこない社会公共の不信を買うことをおそれたからであるが、このような措置は独り中上さんでなければできない放れ技であった。(佐々木諦, "放送局の指導と検査", 『中上さんと無線』, 1962, 電気通信協会, p89)

ですが東京高等工藝学校を間借りした仮設JOAKはかろうじて試験電波(音楽演奏)の発射が許され体面をつくろいました。

【参考】 この後、検査に合格し、3月22日より仮放送が始まり「放送記念日」となりましたが、愛宕山JOAKの本放送の開始は同年7月12日です。

9) 逓信省通信局(岩槻建設現場)が短波でアメリカの受信に成功

1925年(大正14年)3月といえば、ちょうど逓信省通信局が短波受信機を組み立てて、受信試験依頼があったRCA社のカフク局6XO(ハワイ, 波長145m)やボリナス局6XI(サンフランシスコ, 波長99m)の受信成功で盛り上がっていた頃でした。さらに波長を変えてみると80m付近で低電力の西海岸のアマチュア局の受信にも成功しました。この快挙に沸く通信局では短波長の不思議を広く国民に知らしめるべく、穴沢筆頭技手が無線と実験誌に短波受信機の製作記事を書き始めました。

3月の終わりには相当多くの各国のアマチュア局を受信できて、『時事新報』(4月10日)の取材に河原・穴鴨・小野・佐々木の4氏は以下のように語っています。

『・・・(略)・・・またこれまで日英間は殆ど受信されたことが無いのに四氏の手製機には英国ロンドンのブルコー氏所有呼符号二、ワイ、ジー局(2YG)と英国バーミンガム、ヘイット氏所有二、ワイ、アイ局(2YI)其外二、エン、エム局(2NM)など発射の短波長電波をハッキリ受信することが出来オーストラリアはセント、ボックス、ヒルのボーデン氏所有の三、ビー、キュー局(3BQ)のを受信しペルシャはバクダットからのを受けた。一番多いのは何と言っても米国で、カリフォルニヤは言うに及ばずテキサスニューヨーク等□素人から発射する百米突以下の短波長を夜は絶えず聞く、多くは米国各州に行われる各人の通信で「此間の手紙有難う」とか「明日の晩遊びに入らっしゃい」とかの個人同志通信が日本にいて聞かれたんだから四氏の喜びは天へも昇る思いだった。

英国の2YG2YI2NM、オーストラリアの3BQほかペルシャの電波も受信しました。穴沢技手が月刊『電気之友』("短波長長距離通信傍受の成績", 『電気之友』, 第52巻第609号, 1925.4.15, 電気之友出版, pp16-18)で受信局のリストを公表されており、J1AAのページで引用しましたので興味ある方はそちらをご覧ください。

10) 逓信省通信局の"米国の素人局が日本に聞える" 『無線と実験』4月号

無線と実験』大正14年4月号に通信局工務課の穴沢氏が短波長の記事を書きました。以下引用します。なお穴沢氏は国際会議の標準語だったフランス語が堪能で、1921年(大正10年)のパリ会議から日本代表の電波委員の一人として活躍された方です。

アメリカの素人局が、日本に聞こえるといった所で、別に大発見でも何でもない。米欧間では素人同志が、冬期になると、短波長電波を送ったり、受けたりしている事は、外国雑誌によく出ている事である。太平洋横断は、ただ距離が少し遠いというだけであって、聞こえるのは当然の事ではあるが、今迄日本に、アメリカの通信が聞こえたのは、大無線局の通信は問題外として、三百十二米を使用する「KGO」放送局を、昨秋初めて茨城県の平磯で傍受し、その後福島県富岡と埼玉県の岩槻でも傍受して確めただけであって、弱電力の素人局を傍受した記録がない。

素人局が大西洋を横断して、送受を行い得るならば、同様に太平洋を横断する弱電力の短波長通信も、行い得るはずだと、思われていたが、今迄それを実験してみる機会がなかった。

ところが、先日サンフランシスコ・ハワイ間の通信を百〇三米の短波長で、試験通信を行って居るが、日本でも聞いてみてくれと、米国無線電信会社から、依頼があったそうで、ちょうどよい機会であるから、短波長受信を試みるため、目下工事中の、岩槻受信局舎内に、きわめて粗末な仮装置を作ってみたところ、百〇三米のサンフランシスコ局の発振は、容易に受信し得るばかりでなく、一「キロワット」以下の(入力)電力しか、使用する事を許されていないはずの、素人局の短波長が毎夜聞こえてくる。予想したよりも良く来る。少なくも日本における、最初の記録ともいえようから、その受信装置の大略を記して、素人無線家の、実験の参考に資する事とする。もちろん、この装置は、仮に取急いで作ってみたものであって、これをもって標準とは出来ないが、米国素人局の短波長を聞く事が思ったほどむつかしいものではない事が、わかろうと思う。受信装置の接続は、図に示す通り・・・(略)・・・』 (穴沢忠平, "米国の素人局が日本に聞こえる", 『無線と実験』, 1925.4, 無線実験社, pp767-768)

通信局工務課は日本初の米国素人局の受信成功を誇り、発表したかったのと同時に、上記のような書き出しのあと、短波長受信機の回路図とその製作方法を解説しました。『素人無線家の実験の参考に資する』としていることから、この時点では一般の短波受信に問題はないと考えていたようです(後述しますがこれは6月号で一転しました)。

最後に受信状況に触れています。

このような簡単な装置でも、サンフランシスコからハワイに送信する電報は、手に取るように聞こえてくる。サンフランシスコ局の発振装置の詳細については、いまだなんら発表されたものがないので、不明ではあるが、十五「キロワット」の真空管式を使用しているとの事である。サンフランシスコ局ばかりでなく、そののちは毎日アメリカ西海岸の素人用短波長無線電信が、これに劣らず聞こえてくると、目下同地にいて、多忙中に時々受信を試みている、河原猛夫氏から通知がある。なにぶんにも傍受は片手間にやっているのであって、また材料もそろっていないところで、充分の研究を続ける暇をもたないが、専門に改良を加えたならば、アメリカ東海岸や、欧州各国の、短波長素人局も、傍受し得るように思われる。(穴沢忠平, 前掲書)

【参考】穴沢氏は受信局リストを月刊『電気之友』("短波長長距離通信傍受の成績", 第59巻第609号, 電気之友社, 1925.4.15)で公表されています。J1AAのページ参照。

11) 逓信省通信局の稲田工務課長が素人無線を紹介

穴沢氏の記事(pp767-768)の手前のページ(pp765-766)では、上司である稲田工務課長が素人無線を解説をされています。 

ちょうどJOAKの放送開始時期で、日本でも電波の不思議に大いに注目が集まり、アマチュアによる受信機組立てがブームになっていました。それを当時の日本では「ラジオ(=無線)ファン」とか「アマチュア無線家」と呼んでいました。

そこで日本のアマチュア研究家を刺激して、アメリカのように民間の力をもって短波研究を加速させてはどうかとする、逓信省工務課の思いが見え隠れしています。

12) 京都帝国大学の短波実験施設の許可を軍へ打診(3月18日)

1925年(大正14年)3月、逓信省通信局工務課では岩槻受信所建設現場において海外アマチュアの短波が次々と傍受できることに驚いていました。

そこへ京都帝国大学より短波を含む実験施設の申請が出され、逓信省としても大学機関による短波の研究を支援すべく、許可の方針に決しました。ちなみに戦前の日本では、逓信省・海軍省・陸軍省のいわゆる「電波三省」による合議制で、電波を監理していました。ですから「私ども逓信省では京都帝大に短波を許可するつもりですけど、海軍省さん、異議ありませんよね?」と同意を得なければなりません。

3月18日、逓信省通信局は京都帝国大学より受領していた短波長を含む実験施設の申請に許可を与える旨、海軍省軍務局長に「陸上官庁用無線電信無線電話施設の件」 (信389号, 照会, 大正14年3月18日)で照会しました。許可する波長帯は短波長の100-150mを含む、320-330m, 690-710m, 1550-1650mの4種類でした。

【参考1】もちろん同様に照会が、逓信省から陸軍省に対してもなされています。

【参考2】戦前の日本では、国立大学なら官庁用無線施設で、私立大学なら私設用無線私設です。

13) 京都帝大の短波許可に海軍省が賛同せず!(3月27日)

1925年(大正14年)3月18日、京都帝大の短波を含む無線免許を照会しましたが3月27日に海軍省軍務局長より逓信局通信局長へ「陸上官庁用無線電信電話施設ノ件」(軍務二第72号の2, 大正14年3月27日)で、「短波を除いて異存はない」との回答がありました。

大正十四年三月廿七日 軍務局長

逓信省 通信局長宛

陸上官庁用無線電信無線電話施設ノ件

信第三八九号照会 京都帝国大学総長申請ノ本件ニ付テハ 左記波長ヲ除ク外 当省ノ関スル限リ異存無之候

右回答ス

使用電波長 自 「メートル」 至 百五十「メートル」

つまり短波長の100-150m(周波数2.0-3.0MHz)の許可を除くよう求めてきたのです。この海軍省の反対は、(まだ逓信省の岩槻受信所建設現場のJ1AAが送信実験する前ですので)逓信省と海軍省との、短波周波数獲得権益の争いでもなさそうです。

J1AAのページで紹介したとおり、かねてより海軍技術研究所で試作中だった短波の送受信機がほぼ完成し、4月よりその通信実験を実施しようとしていたため、「場を荒らされたくなかった」のでしょうか?

14) 1925年(大正14年)4月6日、通信局のJ1AAが米国の6BBQ局と交信成功

1925年(大正14年)4月4日、岩槻受信所建設現場に仮設した逓信省通信局工務課の短波実験施設J1AA(波長79m)が開局し、4月6日には米国カリフォルニア州のフランク・マシック氏(6BBQ)と交信に成功しました。

左の写真は大正14年4-5月頃に岩槻J1AAで撮影たものだと小野孝技師が電気雑誌『OHM』(1925.11)で紹介されました。送信機の写真は『日本無線史』にも使っています

逓信省の短波実験開始の直接的な動機は、ドイツ郵政庁からのナウエン局の受信要請ですが、稲田工務課長のもとには、米国の学会からアマチュアによる短波帯大西洋横断通信の成果を学術的に検証しようとの誘いがありました。この時、逓信省工務課は欧米のアマチュア活動を調査研究したようです。

工務課内にアマチュア活動への正しい理解が下地としてあったからこそ、岩槻仮設短波施設によるアマチュア通信への参入が、スムーズに実行されたわけです。

アマチュアが何たるかを知らなければ、たとえアメリカのアマチュア局が岩槻で聞こえたからといって、稲田課長や中上係長が「ではこちらからも呼び掛けてみよ」と軽々しく言うわけがありません。

15) 京都帝大の実験施設に短波(2-3MHz)許可ならず

1925年(大正14年)4月15日、逓信省は京都帝国大学に無線電信(呼出符号JBMB, 波長690-710m, 1550-1650m)、無線電話(呼出符号 "京都帝大", 波長320-330m, 480-490m, 590-610m, 1550-1650m)を許可しましたが、海軍の要請にしたがい短波(波長100-150m, 周波数2-3MHz)の使用は却下されました。戦前の電波三省(逓信・海軍・陸軍)による合議制でしたので逓信省が従いました。

しかし逓信省通信局としては海軍省の反対は想定外の事態だったようです。海軍の反対回答(3月27日)から半月以上経過した4月15日の免許ですので、水面下での折衝努力もあったと推察します。なお官報には免許より3日後の4月18日付けで告示されました(逓信省告示第626号)。

【参考】官報告示日は無線施設の免許日とは一致しません。通常免許から数日あとに官報告示されました。

4月6日、逓信省内では通信局工務課の岩槻局J1AAが短波で米国との通信を成功させるなど「神秘の短波」に注目が集まり、さらなる短波研究の必要性が強く認識されていました。そこへタイミングよく京都帝大から短波(波長100-150m, 周波数3-2MHz)の申請があったのに、まさかの反対にあったのでした。

まだこの時点では、なぜ海軍省が京都帝大への短波許可を反対したのか真意を掴みきれていませんでした。後述しますが、この京大短波拒否事件の1ヶ月後に、海軍省は浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)の短波申請にも反対し、我が国の短波開放は窮地に立たされるのです。

16) IARU 国際アマチュア無線連合の結成大会(1925年4月)

1925年(大正14年)4月14-18日、フランスのパリにおいて国際アマチュア無線連合(IARU: International Amateur Radio Union)が結成されました。5月28日付けの『東京朝日新聞』が詳しく報じています。16日から日本代表として陸軍の四王天延孝少将(当時)と、在仏大使館の宇佐美珍彦書記官のおふたりが参加しました。

大会最終日にはIARUとしてアマチュアの無線電話の国際補助語をエスペラント語とする(15, 16日の)勧告案に対して、宇佐美書記官が流暢なエスペラント語で「日本では英語の習得が困難でその普及が充分ではなく、より習得がやさしいエスペラント語を支持する」との演説を行いました。

戦前の日本では、軍用電信法および無線電信法により、陸軍大臣・海軍大臣・逓信大臣がそれぞれ所管する無線局の許認可権を有していた関係で、無線関係の国際会議にはこの三省から政府委員を選出していました。ちょうどジュネーヴの国際連盟軍事委員会の日本陸軍代表として四王天少将がパリに駐在勤務していたため、急きょ三省の代表として同少将が外務省の宇佐美書記官とともに出席されたものと想像します。

【参考】陸軍省、海軍省、逓信省の各大臣が自分の所管する無線局の許認可権を持っていましたが、その前提としてこの「電波三省」による合議制により無線施設の可否を決していました。

17) 岩槻でナウエンPOX/ POWの受信試験開始 (42mより26mが良好)

逓信省の短波受信機が完成したため、ドイツ郵政庁と逓信省の最初の共同実験が1925年4月20日午後9時より3日間行われました。毎時初めの30分間、ナウエン局POX(波長26m, 2kW)と、POW(波長42m, 7kW)が日本に向け送信し、岩槻にてその受信強度を測定しました。

まず20日22時から26mのPOX局が聞こえ始め、2時間おくれて42mのPOW局も受信できました。そして21日の朝10時までPOW局が聞こえたのに対し、POX局は朝11時まで聞こえました。

つまり半分以下の出力しかない26mのPOX局の方が、先に聞こえ始めて、後まで生き残り、これは3日とも同じ結果でした。また電波の強さも3日目の3~6時を除き、常に26mのPOX局の方が強力だったことも、工務課関係者に大きな衝撃を与えました。そして周波数と通達距離の関係を解き明かすことが最大の命題となりました。

18) 海軍初の短波通信試験を東京湾で実施

逓信省の短波実験に少し遅れを取りましたが、海軍技術研究所(東京築地)において、谷恵吉郎・中田豊蔵氏らが昨年暮れより試作に着手した、波長60~70m(4MHz帯)出力10W送信機と受信機が完成しました。

1925年(大正14年)4月23日、その通信試験を行う日がきました。

これを技術研究所の第二汽艇に搭載し、築地の実験室との間に通信試験を行った。同汽艇は浜離宮から出港し、東京湾口に向け発進したが、観音崎沖まで連続通信可能の成績を得、艦内通信機として充分使用可能なことが確認された。 (電波監理委員会編, "第九節 短波の出現と無線施設の整備", 『日本無線史』第10巻 1951年, 電波監理委員会, p75)

この短波長実験に関しては1925年6月26日付けの海軍技術研究所の『研究実験成績報告』第一号 (谷恵吉朗/中田豊蔵, "短波長応用に関する研究報告(其の一)", 1925.6.26, 海軍技術研究所)に詳しく報告されているとらしいですが、残念ながら私は読んでおりません。

19) 大連無線電信局沙河口受信所(関東庁)でのJ1AA受信試験

1925年(大正14年)4月6日に米国と初交信を成し遂げた岩槻受信所建設現場の工務課実験局J1AAはその後もカリフォルニアの複数のアマチュア局との通信に成功していました。

ちょうど同年6月1日開局予定の大連無線電信局JDP/JDA(旧:大連湾無線電信局)の改修工事の総仕上げや、大連中央放送JQAKの開局準備のため、通信局工務課の荒川技師が関東庁へ出張することになっていました。通信局工務課ではこれを好機ととらえ、岩槻(送信)ー大連(受信)間の伝搬特性の測定を計画しました。大連が岩槻、大阪についで三番目の短波試験受信拠点となったのです。

4月23日11時より24日13時までの26時間、大連無線電信局沙河口受信所建設現場にて岩槻のJ1AAが発射する79m波を受信しました。大連では夕方17時より感応し、19時半から早朝5時までほぼ最大感度を維持したものの、夜明けとともに急激に弱くなり、朝7時半にはついに不感となりました。公衆電報を多く扱う昼間には通信できないことが確認されたため、この時には短波で公衆通信を行うのは不向きだろうと解釈されたようです。

この沙河口に於ける試験では米西海岸のボリナスKEL(波長95m)も合わせて受信し、その試験成績を電気学会雑誌で発表しています(大正15年7月)。

20) RCAボリナス局(サンフランシスコ)の高調波(47m, 19m)の方が良好

逓信省の短波研究は3月上旬にRCA短波実験局のカフク局6XO(ハワイ, 波長145m)とボリナス局6XIサンフランシスコ, 波長99m)を受信できたことより始まりました。

この両実験局6XO, 6XI)は翌4月より、実用公衆通信を一部扱うようになったため、実用局のコールサインである、カフク局KIO(ハワイ, 波長90m)、ボリナス局KEL(サンフランシスコ, 波長95m)も使い始めました。 【参考】数字+Xから始まるアルファベッド2文字または3文字は実験局の呼出符号

ボリナスKELの波長95m(3MHz)を受信していた岩槻J1AAは不思議な現象を発見しました。KELが23時30分(ボリナス時間では朝6時30分)以降、急激に衰弱し聞こえなくなるのに、KELの第二高調波47.5m(6MHz)に受信ダイアルを合わせると、その後まだ1時間は受信可能だったのです。さらに第5高調波19m(15.8MHz)を受信すると14時(ボリナス時間で21時)まで聞こえました。またこれらの短い波長帯は空電妨害が80mよりも少ないことも分かりました。これは波長をもっと短くすれば、伝播状況が改善するとの示唆を通信局に与えるものでした。

21) アマチュア達が80mから40mへ移り始める

米国のアマチュアに80m,40m,20m,5mの短波バンドが商務省より正式に与えられたのは1924年(大正13年)7月24日です。それまでは中波の200m(1,500kHz)に貼りつくように運用されていましたが、短波の開放により同年秋頃より一番低い波長80mから実験が始まりました。1925年(大正14年)になり、季節が冬から春へ、そして春から初夏へ向かうにつれ波長80mは空電が増え、また通信に適する時間帯も短くなってしまうことに皆が気付き始めていました。

しかしながら波長40mを試してみると思いのほか調子良く、アマチュア達は波長80mから40mへ移りはじめていました。(短波ハムバンド誕生から1年経っていないのですからアマチュアは)まだ誰も1年間の四季を通した短波帯運用をしたことのない時期です。これは見落されがちですがとても重要です!

このように1925年(大正14年)4月ころより、アマチュア局は波長80mから40mへ移ってゆきました。そして日本のJ1AAも世界のアマチュア達と「波長大移動」という共通体験を持ったのです。この年は最適な周波数を求めようとアマチュア局・商業局・軍事局の短波試験が一気に活性化しました。

22) 岩槻J1AAの送信機を3バンド(79/39/23m)型に改造


J1AAの送信機は官練無線実験室にあった波長400-1000m(200W)中波送信機を、佐々木技手が岩槻局の短波実験のために波長79m(100W)へ改造したものでしたが、これをさらに波長79m/39m/23mに改造しました。これらの波長が選ばれたことから、J1AAは海外のアマチュア局(80m/40m/20m)と交信することを当初より目的としていたことが分かります。

岩槻J1AAの周波数を高い方へ変更した理由をまとめると次の四点でした。

1) 独ナウエンはPOW(波長42m)よりも、POX(波長26m)の方が良好

2) 米ボリナス6XI, KEL(波長95m)は基本波よりも、第二高調波や第五高調波の方が良好

3) 暖かくなるにつれ、岩槻J1AAと西海岸のアマチュアとの通信可能時間帯が短くなってきた

4) アマチュア達が80mから40mへ移り始めた

この時期に官練無線実験室にも短波送信機を置くことになり、まだ岩槻J1AAが手掛けていない波長20mが選ばれました。

23) 4月下旬、J1AAが波長40mで米国の9ZT(のちのW6AM)と交信に成功

岩槻J1AAもアマチュア達の流れに乗って波長40mへ移動するため送信機を改造し、4月下旬にミネアポリスの9ZTと23mでの日米初交信に成功しました。左図が実際に岩槻J1AAに届いた9ZTのQSLカードです。サイン直下に4-23-25とのタイプが見えますので1925年4月23日でしょうか。

短波長においてその性質は甚だしく異なるを知り得たるをもって、通信能率の増進及通信時間の延長をはからむるため、米国素人無線に使用を許可されつつある40メートル及20メートル送信機を組立て、四月下旬40メートル電波長によって、米国ミネアポリス州 9ZT局と最初の交信を遂げ、長距離通信上の好成績をおさめたり。

かくして夏期に近づくに従い、80メートルは漸次交信時間短縮され、かつ空電妨害を増したるにより、通信の困難を覚ゆるに至り、米国素人無線においても40メートル波長を使用するもの漸次多きを加へ、岩槻においてもまた5月上旬以降専ら40メートル以下の試験に改めたり。(中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p696)

9ZT(Don C. Wallace)は1910年代に9BU, 9DRのコールサインで活躍、1920年代には特別アマチュア局9ZTのライセンスを得て、さらには実験局9XAXの許可も受けたパイオニア中のパイオニア・ハムです。1930年代からはW6AMのコールサインになりました。1986年5月に逝去されるまで世界的に有名なDXerで、彼の広大な敷地のロンビック・アンテナ群など日本でも話題になりました。1985年にこの偉大なパイオニアの逝去は地元紙ロサンジェルス・タイムスの記事になった程です("Radio Pioneer Don C. Wallace, 86, Dies", Los Angeles Times, May 27, 1985)。そのW6AMが若い頃、岩槻のJ1AAと40m帯での日米初交信に成功いたわけです。

24) 4月下旬、J1AAがオーストラリア(メルボルン)と初交信

オーストラリアの日刊The Age 紙(1925年4月28日)が同国メルボルン在住のアマチュアが日本に新たに出現した短波実験局J1AAと交信したことを報じました(左図)。

Calls were also exchanged between a Melbourne station and J1AA, a new experimental station which has recently been erected in Japan. ("Further Short-Wave Success", The Age, Apr.28, 1925) おそらくは日本以外の国で「J1AA」という文字が露出した最初の例ではないでしょうか。

この直後にもオーストラリアでの受信報告例があります。図は日刊The Daily Telegraph 紙(1925年5月2日)の読者からの受信・交信レポート欄からの引用です。

1925年4月25日に汽船SanonomaJ1AAと交信しているところを受信したと、3名の読者から報告されています。うち二人は7BQ7CSのコールサインを持つオーストラリアののアマチュア局でした。なおJ1AAと交信していたという汽船Sanonomaについては詳細不明です。

25) 米村磐城無線電信局長の「短波長通信に就いて」 無線と実験5月号

無線と実験5月号で磐城無線電信局の米村嘉一郎局長が岩槻J1AAの短波実験について書かれました。対米公衆通信(ハワイのカフク局)を受け持っている磐城無線局の長として、当然J1AAの小電力日米通信成功を看過することはできず、将来の短波長の導入の可能性にも言及されました。

現今太平洋横断の長距離通信では、大電力長波長を使用する発電機式全盛の時代であるといって差支はない。・・・(略)・・・その使用し得べき波長帯(電波長の範囲)が狭きに失し、やがて空間は奪掠争闘のちまたとならなければならない。そこで最近研究されているものは、比較的小電力による短波長通信である。・・・(略)・・・しかしながら、短波長は昼夜の空中状態から受ける影響が長波長に比して著しく大である。・・・(略)・・・一日中の若干の時間でも、これを実用に供することが出来れば、電力節約上および運用上その利益非常に大なるものがある。

米国ラジオ・コーポレーションで現在使用しているのは、タッカートン(ニューヨーク)南米間およびサンフランシスコ・ハワイ間であって、日本でも試験してもらいたいとの申込が度々あって、目下埼玉県岩槻に建設中の逓信省の無線電信受信局で、工事のかたわら試験をしている。(米村嘉一郎, "短波長通信に就いて", 『無線と実験』, 1925.5,  無線実験社, p23)

このあと岩槻におけるサンフランシスコ・カフク両局の受信状態を紹介したあと、磐城局(長波350kWと400kW)の送信時間の1/4は、短波15kWに置きかえられる可能性がでてきたと述べておられます。

 

<アマチュア無線の聞き方を読者に指南>

さらにアマチュア局も多数受信できたとし、詳細にレポートされました。実は驚くべき事に、記事の2/3以上はアマチュア無線の受信の仕方を指南する内容だったのです。

 

◆呼出符号と波長

呼出符号に「6」の数字を冠する太平洋岸の加州のみならず、「7」の数字を冠するワシントン州や、遠く「5」の数字を冠する、メキシコ国境に接するガルフ地帯にまで及んでいる。その他、米国東部のニューハンプシャー州、英国、仏国、ペルシャ、豪州のものまでもかなり強く聞こえるということで、波長はいずれも百メートル以下 三、四十メートル以上のものである。 (米村嘉一郎, 前掲書, p24)

◆ARRL

さてこれら無数に感応する局のうち、米国のアマチュア局の通信は、主として、アメリカン・ラジオ・リレー・リーグに属するものであって同連盟の規約に基いて各種の通信を交換しているものである。米国がいかに自由の天地であるとはいいながら、これらのアマチュアがこの種の連盟を組織して、盛んに通信を交換し、局を有せざるか、またはその他の理由の為めに、受信人へ送達し得ざる場合には、短波アマチュア局から郵便に附する等の方法を探っているということは、これを日本の我々から考えれば、まさに政府専掌権の侵害であって国家の通信系統を紊乱するものであるが、さりとて何という無頓着であろうか。(米村嘉一郎, 前掲書, p24)

郵便・電報と並び、無線電報も無線電信法により国家の専掌事業であると定め、逓信省の対米公衆電報の営業組織の一端を担っている米村氏の立場としては米国のアマチュアが公衆電報を取扱っていることに大きな抵抗があったのは仕方ないことでしょう。

しかしその一方では関東大震災復興予算との関係で、大電力無線局の建設を国家予算だけで賄うのは困難だと判断され、対米・対欧公衆通信は官・民出資の特殊会社で行うことが決まりました。米村氏はこれも時代の流れと、冷めた一面もあったではないでしょうか。実際、半年後には名門磐城無線電信局は、新会社への政府からの現物出資という形をもって引き渡されてしまうのでした。

【参考】大正14年2月に第500回帝国議会へ「日本無線電信株式会社法案」が提出。可決され同年3月に公布。

そもそもこのラジオ・リレー・リーグ(ARRL)なるものは、会員たるアマチュア間の通信を統一指導するために組織された、一種の連盟で、その規約、通信の法則なども制定されて、立派な通信組織をなしている。(米村嘉一郎, 前掲書, p24)

このようにARRLにより米国アマチュアが規律正しく運営されていることを高く評価しています。この記事から1年後に、日本にもアマチュア無線連盟が発足しますが、逓信省では「過激なラジオファン」達の無秩序な混乱よりも、自前組織による統制を望んでいたふしがあります。

◆通信方法

いま自分の局名符号を「9ZT」とし、カナダのトロント行きの電報があって、手近にこれを取次ぐべき局名が判明しないと仮定すると、「9ZT」は次のような呼出をする。

CQ Tronto (三回) cu 9ZT (三回) CQ=探呼符号、cu=米国よりカナダを呼ぶの意、9ZT=自局の呼出符号

これを聞きつけたとすると次のように返事する。

9ZT (三回) uc 9AL (三回) uc=カナダより米国への意

 

そこでこの両局は感度の良否等を確めてから電報を送受するのであるが、その送る順序のごときは大体、普通の商業電報の送受と同様である。呼出に際し、彼ら両局名符号の中間に挿入される符号は次のようになっている。A=Australia、C=Canada、F=France、G=Great Britain、I=Italy、M=Mexico、N=Netherland、O=South Africa、P=Portugal、Q=Cuba、R=Argentine、S=Spain、U=United States、Z=New Zealand

 

いま仮に、米国の「1AW」局から英国「2KW」を呼ぶとすると、

2KW (三回) gu 1AW (三回)

フランスの「1BQ」局がカナダの「8AB」を呼ぶとすると、

8AB (三回) cf 1BQ (三回) となるわけである。

もし米国内のみの通信の場合には、中間符号は単に「U」の一字を用いるのである。

 

しかして、「CQ」なる文字三回と中間符号と自局名符号三回からなる一連続をさらに三回発振する。例えば「9ZT」局が自局より南方にある某局を呼び出さんとする時は、

CQ South (三回) u 9ZT (三回)

CQ South (三回) u 9ZT (三回)

CQ South (三回) u 9ZT (三回) のごとくである。

米国のアマチュアは毎日午後八時より同十時半までの間と、日曜日に、その地方の教会の礼拝時刻とには発振を禁ぜられているけれども、その他は自由である。電波長は百五十メートルより二百メートルの間と、七五メートルより八五・七メートルの間、三七・五メートルより四二・八メートルの間、一八・七メートルより二一・四メートルの間、四・六九メートルより五・三五メートルの間が許されている。原則としてアマチュア局は他の商業通信用局と交信することは出来ないのである。

前に掲げた各国の略符号中に日本が入っていないのは、なんとなく肩身が狭いような気もするが、しかしながら、かくのごとき通信系統を我国において承認することは、我国の国法が許さぬところで、ここにあらためていうまでもない。(米村嘉一郎, 前掲書, p24,42)

 

日本の「過激なラジオファン」達は、まだ中波で無許可運用を密かに楽しんでいた時代だけに、米村氏の短波長の海外アマチュアの記事は先鋭的で、4月号の稲田課長や穴沢技手の記事とともに、ラジオファンに大きな衝撃を与え反響を呼びました。おそらくはJ1AAの河原氏が、前勤務地である磐城無線電信局の米村氏へアマチュアの通信法を伝授されたものと想像しますが、もともと米村氏は1923年(大正12年)に通信局の荒川技師とともに米国の放送事情の視察をしており、アマチュア無線事情を良く知る方でした。

この記事で散々アマチュア無線を紹介しておきながらも、最後を「我国では認められません」と締めくくらざるを得ないところに、当時の実情が伝わってくるような気がします。 

26) ドイツのナウエン局(POX, POW)との第二回受信試験(5月5-8日)

1925年(大正14年)5月5日から8日までの3日間、ドイツ郵政庁と日本の逓信省の第二回受信試験が昼夜連続で実施されました。

今回の試験はPOW局とPOX局での差がないことを確認するために、POWが波長25mを、POXが波長26mを発射しました。岩槻受信所ではそんなに両局大差なく受信できました。

27) 5月中旬、米国アマチュアの受信状況から、あらためて夏期40mの有効性を確認

空電季節に向へる五月中旬、桑港(サンフランシスコ)6RW局の電力50ワットを有する80メートル波長によるものを受信するに、空電多くついにその符号を聴取し得ざりしに、同夜同程度の電力をもてせる波長40メートルの桑港6EX局のものは容易に受信し得たり。また数日後6RW局もまた波長を40メートルに短縮せるを聞くに、空電減少し受信容易となりたり。(中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p696)

28) 逓信官吏練習所無線実験室のJ1PP完成

1925年(大正14年)4月に、佐々木技手が官錬実験室用の短波装置J1PPを製作しました。そして翌5月よりJ1PP短波実験が始まりました。ちなみに佐々木技手は3月に中波送信機を岩槻の短波送信機J1AAに改造された方でもあります。

大正十三年の終わり頃から翌十四年にかけて、埼玉県岩槻受信所(建設工事中)で我国最初の短波による無線電信の実験が、外国のアマチュア局を相手として行われ、大成功を収めたが、大正十四年四月から十二月迄逓信官吏練習所において我国最初の無線電話の実験(電力一キロ)が行われた。前者は穴沢忠平・河原猛夫の両技手が実務を担当し、小野技師は側面から指導する立場にあったが、後者の実験は主として小野技師が担当指導し、逓信技手佐々木諦等が実務にあたった。(故小野孝記念刊行会編, "逓信時代", 『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, pp12-13)

官錬無線実験室にも短波送信機J1PPを据付けた理由ですが、まず第一に岩槻J1AA逓信省より遠くて不便なこと。第二の理由としては来年3月末には岩槻の新築工事が完成し、この施設を東京逓信局へ引き渡ため、建設を担当した自分たち逓信省(通信局工務課)の手から離れるからでしょう。

29) J1PPがJ1AAの国内短波伝播試験に参加

J1PPの運用は1925年(大正14年)5月上旬からでした。 しかし官錬無線実験室の短波受信環境はあまり良くなかったようです。

1925年(大正14年)5月中旬、逓信省は国内短波伝播試験を行いました。北海道の落石無線電信局JOCに短波受信施設を建設し、埼玉県の岩槻J1AAが発射する波長39mと23mの電波をおよそ1時間おきに受信し電界強度を記録しました。5月20日午前11時から翌21日午前11時までの両波の電界強度の変化グラフが『電気学会雑誌』(第46巻第456号, 1926.7, 電気学会)で発表されています。

また先の4月1日より営業を開始したばかりだった鹿児島無線電信局JKBにも短波受信施設が建設され、この国内短波伝播試験に受信局として参加しました。下図(地図)で分かるとおり、ちょうど岩槻J1AAの北側で落石JOCが、南側で鹿児島JKBが受信測定を担当しました。

またこの試験では官練J1PPも波長20mの無線電信を発射して岩槻J1AAを補佐しました。

『・・・(略)・・・また五月上旬より東京市芝区内逓信官吏練習所にも20メートル送信機を仮設し(東京市内にては目下亜鉛張りの建物軒を並べ居る事に起因し、吸収甚だしく、又電力線その他よりの誘導妨害等のために微弱なる電波の受信は不能)、岩槻と共に五月中旬より、近距離なる国内受信試験を行わんがため、北海道落石および九州鹿児島に短波長受信装置を携行せしめ、数日にわたり40メートルおよび20メートル電波長にて試験を施行せり。(中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p696)

このように逓信省のもっとも初期の短波実験拠点は、逓信省通信局工務課所属岩槻J1AA・官錬J1PP、(前述した、4月に実施された遼東半島大連の沙河口での短波受信テストを別とすれば)札幌逓信局所属の落石JOCと、熊本逓信局所属の鹿児島JKBでした。

【参考】 なおJ1PPはこの国内短波伝搬試験のあと、AM変調器を追加し「無線電話」の実験に専念するようになったようです。

30) 1925年(大正14年)5月12日 ・・・逓信省官制中改正で工務局が独立

逓信官制中改正で、臨時電信電話建設局は廃止。通信局は郵務局(小包・郵便事業)、電務局(工事・保守を除く、有線・無線事業)、工務局(有線・無線の工事・保守)の三局に分割されて稲田工務課長が初代工務局長に昇進しました。工務課無線係の中上係長はというと、新しくできた工務局電信課無線係の係長になり、そのまま東京無線電信局(岩槻受信所や検見川送信所)の建設を続けました。また稲田氏の上長の畠山敏行通信局長は、新しくできた電務局長のポストへ横滑りしました。

これ以降、岩槻J1AAや官練J1PPは通信局工務課から工務局電信課の所属となりました。

31) 海軍技研と 真鶴無線電信所の通信実験(5月19-23日

また4月23日に東京湾で短波試験を行った海軍省でも、短波試験の動きがありましたので紹介します

5月19日~23日の5日間、海軍技術研究所(東京築地)と海軍の真鶴無線電信所間の80kmの間で、昼間・夜間ともに数Wの小電力で通信できることを確めました(4月23日の試験機器使用)。真鶴無線電信所は水雷学校の通信練習所でもあり、海軍技研に次いで2番目の海軍の短波研究の拠点となりました。

このとき同時に以下のように受信試験も実施しました。

同時に自作の短波受信機を以て外国の短波送信を傍受し、KEL(ボリナス)、KIO(カフク)、WRQ(マリオン)、VIS(シドニー)、PKX(マラバル)、及びJ1AA(岩槻)等の諸局の通信試験状況を明瞭に聴取し得て、諸外国の短波通信の進歩発達の程度を良く知ることが出来た。(電波監理委員会編, "第九節 短波の出現と無線施設の整備", 『日本無線史』第10巻, p76, 1951年, 電波監理委員会)

 32) 米海軍の短波試験局NRRLを偵察傍受(5月26-29日

 帝国海軍は5月に太平洋で実施される米海軍大演習に大きな関心があり、見学と称して偵察艦船(特務艦鳴門・隠戸・佐多・早鞆)を演習水域近海へ送り、訓練の様子や通信内容を傍受していました。

米海軍の旗艦シアトルにはアマチュア団体ARRLからシュネル氏が乗組み、海軍短波実験局(呼出符号NRRL)を開設し、電波長と通達距離の関係を解き明かすべくテストが行われ、ARRLおよびそのメンバーを挙げて海軍に協力しました。ちなみにシュネル氏(Schnell, 1MO)は1923年11月27日に、世界初の短波長大西洋横断通信(対手局:フランスのDeloy, 8AB)を成功させた短波通信試験の第一人者です。彼は4月14日の出港より7ヶ月間に渡るオーストラリア航海の間、ARRLのトラフィックマネージャーを休職し、海軍大尉として乗船し海軍からの協力要請に応えたのでした。

その軍艦シアトルNRRL局の短波試験の様子を現場海域へ艦船を派遣する迄もなく、(日本において)つぶさに傍受できたこと、また海軍とアマチュアが友好的に短波の試験を行っていることは、帝国海軍にとって大きな驚きだったことでしょう。(アメリカでは第一次世界大戦で徴兵されたアマチュア達が、無線通信兵として活躍したことを議会にPRし、戦後のアマチュア再開を果たしたという歴史があります。)

『・・・(略)・・・同年五月二十六日から同二十九日の間、主としてNRRLを中心として行われていた米国海軍の短波通信実験の状況を察知することが出来た。内外の短波通信に対する懸命の研究状況は逐一傍受により、知ることが出来、これに刺激されて、海軍でも昼夜兼行短波通信の調査研究を進め、その進歩発達に努力した。 (電波監理委員会編, "第九節 短波の出現と無線施設の整備", 『日本無線史』第10巻, p76, 1951年, 電波監理委員会)

なおNRRL試験の傍受の詳細については海軍技術研究所の大沢玄養氏が「海軍研究実験成績報告」("大沢玄養, 米海軍無線電信に関する報告, 1925.7"および"大沢玄養, 米海軍に於ける短波長の通信状況に関する報告, 1925.8.10")でまとめています。

33) 浜松工校への短波許可を海軍・陸軍へ打診(5月21日

1925年(大正14年)4月23日に大成功を収めた海軍技研による短波長通信試験により、海軍省は短波長電波に非常に強い関心をみていました。浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)より逓信省に短波長の実験が申請されたのは丁度その頃でした。

逓信省電務局では前回、京都帝国大学の短波長の使用が海軍に協賛されなかった経験から、異例の慎重さをもって海軍省の短波長許可の同意を求めました。照会において「彼らは技術力もあるし、ダミーロードも持っており、貴省の無線施設に混信を与えることはない見込みだ」(下記赤字部分)と補足説明があるのは極めて異例であり、逓信省電務局が何としても短波帯50-80m3.75-6.00MHz), 100-150m2.0-3.0MHz)許可の賛同を海軍省から得ようとしていたことが伝わってきます。

電業第七九号 照会 大正十四年五月廿一日

逓信省 電務局長

海軍省 軍務局長殿

陸上官庁用無線電信無線電話施設ノ件

浜松高等工業学校長ヨリ左記官庁用無線電信無線電話施設承認方申請有之当省二於テハ承認ノ見込ニ候ヘ共貴省御支障ノ有無一応致度及御照会候

追テ使用電波長ニ関シテハ実験者ハ相当技術者ニシテ且ツ空中線疑似回路ノ設備ヲモ有スルモノナレハ殆ト混信妨害ヲ生セサルヘキ見込ニ有之為念

一 施設者名 浜松高等工業学校長

二 施設ノ目的 無線電信無線電話ノ学術研究及機器ニ関スル実験

三 機器装置場所 浜松市沢 浜松高等工業学校構内

四 装置方式 真空管式

五 使用電力 無線電信 三百「ワット」

   無線電話 百五十「ワット」

六 空中線 丁型 高サ二十二「メートル」

七 使用電波長 自 五十「メートル」 至 八十「メートル」

   自 「メートル」 至 百五十「メートル」

   自 三百二十「メートル」 三百三十「メートル」

34) 海軍省が1.5MHz以上の不許可要請「浜松工校 短波却下事件」1925年6月4日

5月27日に逓信省から海軍省に打診された浜松工校への短波許可の件ですが、6月4日の海軍の回答(軍務二第128号の2, 大正14年6月4日)は「当面波長200m以下(周波数1.5MHz以上)の短波長は許可しないで欲しい」というものでした。この海軍省からの1.5MHz以上の不許可要請はわが国の短波開拓史上、とても重要な出来事だったと言えるでしょう。

大正十四年六月四日 軍務局長

逓信省 電務局長宛

陸上官庁用無線電信無線電話施設ノ件

五月廿一日附電業第七九号ヲ以テ御紹介相成候 首題ノ趣了承 本件ハ電信電話共使用電波長二百米以下ニ対シ当分許可セザルトシ御取計リ得度 其他異存無之候

右回答ス

これを受けて逓信省電務局は浜松高等工業学校に呼出符号JBXBで波長320-330m(周波数909-937.5kHz)だけを許可しました。通例ですと免許日に海軍と陸軍に許可したことを「通牒」するのですが、畠山電務局長も相当頭に来たのか、官報告示(6月22日)を済ませたあとの6月24日になって軍部へ通牒(電業639号)したほどです。

海軍省のかたくなな短波開放拒否に対して、逓信省の稲田工務局長は産・学・官・軍の四者による無線研究団体を設立し、短波研究の必要性をとき、ソフトランディングさせる方向を模索し始めました。

35) 謎の日本JUPU局はアメリカ人アンカバーか?

さてここで時間を半年ほどさかのぼり、アマチュアの短波進出に海軍省が難色を示したり、逓信省内の一部でもアマチュアの活動を敵視する人達が生まれるきっかけとなった「JUPU事件」を紹介します。

1924年(大正13年)1月6日のワシントン・ポスト紙に以下の見出しで衝撃的な記事が掲載されました。

TACOMA  AMATEUR PICKS UP MESSAGE SENT FROM TOKYO

● First Time in History Radio Has Spanned Pacific on 2-Way Short Wave. UNKNOWN SENDER GREETS MOTHER Message Traveled 4,760 Miles; Hardly Copied Till Interruption Comes.

また遅れて『QST』誌の2月号でもビッグニュースとして取上げられました。

当時の逓信省通信局は『QST』誌をはじめとする海外の無線雑誌・書籍を定期購読していましたので、さぞ驚いたことでしょう。おそらく海軍技研も同じだったと思われます。その内容は次のようなものです。

1923年(大正12年)11月26日午前1時ごろ米国ワシントン州タコマのCharles York氏(7HG局)が東京のJUPU局と短い交信に成功したと報じられました。JUPUのオペレーターはアメリカ人でイリノイ州ケンブリッジに住む母親へのメッセージの託送依頼をするものでした。中波アマチュア時代ですので波長は200m(1,500kHz)です。

このJUPU7HGの交信は混信とノイズで途絶えてしまいましたが、大西洋横断通信成功(1923年11月27日)の前日で、日本との太平洋横断通信が(準備周到の大西洋横断通信よりも)1日先に成功してしまったのですから、米国アマチュア界で大きく話題になりました。正体不明のJUPUの情報提供を求める記事が、その後も1924年の4月号, p45(Who is JUPU?)5月号, p58(Still looking for JUPU)、1925年の5月号, p40(JUPU -- Japanese Station)と掲載されましたが、結局JUPUがいかなる局かは解明できませんでした。

36) アマチュアがスパイを?(海軍省)、電報ビジネスを破壊?(逓信省)

QST誌上ではいわゆる英雄的扱いですが、日本は違った意味で波紋を広げました。日本では誰にも許可していない短波長で、外国人(アメリカ人)が勝手に日本の領土内から米国と公衆電報を直接やり取りしようとした点です。公衆電報を独占ビジネスとする逓信省としては由々しき事態です。

本来なら日本からイリノイに住む母親宛の公衆電報料金を逓信省が「売上げる」べきところを、アマチュア達が勝手に無料で電報中継するのですから!逓信ビジネスを破壊する行為です。また軍部では外国人によるスパイ通信を恐れたようです。この「JUPU事件」が逓信ビジネスに携わる一部の人達や、軍関係者がアマチュア無線家(個人無線研究家)を信用しなくなった一因となりました。

しかしこの事件はやがて沈静化します。1924年(大正13年)ジェネラル・エレクトリック社より、サンフランシスコ近郊オークランドの同社のラジオ局KGOを逓信省で受けてくれとの申込がありました。同年8月30日午後6-8時にKGO(波長312m, 周波数962kHz)は平時の3倍の3KWに増力し日本向け特別試験放送を送信し、仙台逓信局所属の磐城無線局、東京(外大崎)の電気試験所、茨城の電気試験所平磯出張所が当時研究中の最高水準の設備でその受信に挑戦し、平磯だけが受信に成功しました。平磯と東京の電気試験所の受信装置はほぼ同等の仕様で、都市雑音が少なく太平洋に面した平磯だからこそ成功したと考えられました。それほど日米直接通信は難しいものなので、QST誌に登場したJUPU(東京, 200m)の記事は信憑性に欠けるということで落ち着きました。

ということでせっかく沈静化していたのに、この半年ほどあと、岩槻J1AAによる日米初交信が短波実験に火をつけたのです逓信省の現業部門からは電報ビジネス崩壊への危惧が、また海軍省ではスパイ活動および混信妨害等への懸念で、短波アマチュアの排斥がささやかれ始めました。ただし同じ逓信省でもJ1AAJ1PPを運用していた工務局のメンバー達は短波の一般開放には肯定的でした。

37) まるで逓信省工務局編「アマチュア無線受信の手引き」、無線と実験6月号(短波受信は許可制)

前述しました逓信省の稲田工務課長の「アマチュアによる短波の有効性発見」、穴沢技手の「短波長受信機の製作記事」、米村磐城無線局長の「海外アマチュア無線事情と通信方法の紹介」の記事は、いわゆる日本のラジオファンに大きな衝撃を与え、無線と実験編集部に全国から多くの質問が寄せられたようです。穴沢氏は無線と実験6月号で再びアマチュア無線の記事を書きました。

米国の素人局が日本に聞こえるという題で四月号に短波長受信機の試作を紹介したところ、右受信機各部の詳細について種々の質問があり、かつまた案外わが国においても外国を傍受してみようという熱心家が多いようであるから、再び短波長の受信について注意すべき点を記述して参考に資する事とする。

まず外国の素人局を傍受する目的で受信機を装置するには政府の許可を得なければならない。これはいうまでもない事であるが、許可を要するや否やというような質問をよこされる方があるところを見ると、この点をまずご注意しておく必要があると思う。(穴沢忠平, "短波長受信に就いて", 『無線と実験』, 1925年6月号, 無線実験社, p202)

今回の穴沢氏の記事は上記のように始まりますが、4月号では受信許可について一切触れずに、今さら急に「短波の受信には許可がいる」とのことです。当時は放送(JOAK)の受信は許可が必要(免許制)であると東京逓信局が一生懸命啓蒙活動していました。

穴沢氏は本当のところ、短波の受信が「放送の受信」にあたるとは考えておらず、4月号に執筆した記事「米国の素人局が日本に聞える」において素人無線家の実験の参考に資する』と短波受信機の製作記事を書いたところ、自分が勤めている逓信省内の一部の部署から「受信は許可制だろう」と異論が出たようです。そういう身内から起きた批判に配慮して、上記「6月号の言葉」になったのでしょう。

【参考】当面短波の受信はグレーのままで、翌年7月(電業第748号)になり「要許可」として確定(短波開放の通達参照)

6月号で「短波受信の免許が必要」としながら、申請方法など一切説明せず、記事は4月号の受信機の組立て方の補足と、(別に5月号の米村氏と競いあっているわけではないでしょうが、穴沢氏も中間符号をはじめ) アマチュア無線のコールサインの説明や交信電文の実例まで挙げて、まるでラジオファンに短波を煽るかの記事です。身内組織からの批判はあっても、読者に短波の面白さを伝えることを貫きました。

ゆえに今のところ欧米の素人局を聞こうとするには電信符号が読めないと何にもならない。対手は素人といってもかなり正確にゆっくり送っているから一分間五十字位のシグナルが読めれば充分面白く聞くことができる。なお一般の無線電信に使用する国際略号表なども盛んに使用し、またオペレーターの慣用略号なども盛んに利用する。次の例はシドニーと四〇米で連絡した時に更に二〇米でも午後二時の昼間試験を頼んだ時の先方の答えである。

Ok u QSA as locals. We send card. Yes can tune 20 mtrs. Hv wked nkf and 2 yanks on 20 in daylite. Cant wk test on sat as I hv test wi gb at that time. Hv mi QSA b Maclurcan agnes St Strathfiald Sydney. How abt 1 pm tmw ur time that is 2 pm hv. Think better if I call fr 14 mins then u call fr 15mins that wl gv time fr trying two way befor other test. Will QRX ur 20 mtrs nw but if I dont hv u will not QSL u asI want to go to be des will c u tmw. (穴沢忠平, 前掲書, p203)

J1AAのページの最後の方でも、穴沢氏のこの記事を引用していますのでそちらもご覧ください。

38) ラジオ電気商会の楠本哲秀氏 (のちのJLZB)

無線実験社は穴沢技手の短波受信機の記事(4月号)が大人気だったからか、5月号には「超短波長 送受話装置の実験」 (瀬谷春路, 無線と実験, 1925.6, pp116-122) という記事を発表しました。これは編集部の瀬谷春路氏の記事ですが、海外文献からの引用要約のようで、受信機と波長5-10mや波長2-25m, 50Wの送信機を紹介しており、執筆にはラジオ電気商会のアメリカ帰りの技師、楠本哲秀氏が協力したのではと私は想像しています。

ラジオ電気商会は東京帝大の赤門前(本郷)の赤門ビルディング内にある、伊藤賢治社長が経営するラジオ受信機製造販売会社です。同じ赤門ビルには伊藤社長の無線実験社もありました。(JOAKの放送開始でラジオ受信機の販売が絶好調で)ラジオ電気商会の方は増床につぐ増床を重ねていました。一方無線実験社はフロアの片隅に追いやられるし、研究室はラジオ電気商会の出荷検査室にとられてしまうというありさまです。このラジオ電気商会の会社訪問記を無線実験社の山村氏が書かれていますので引用します。掲載は6月号ですが記事には「5月20日記」とあります。

 『アメリカ帰りの楠本技師

米国カリフォルニア大学の理工科を修めて最近に帰朝した楠本君は三階の一室を研究室としてスーパーヘテロダインの組立てに専念している。近々同商会より発売するスーパーヘテロダインは極めて優秀のものであるとの事である。(山村, "ラジオ電気商会工場を観る", 『無線と実験』, 1925.6, 無線実験社, p242)

翌月の無線と実験(7月号)に楠本氏は『ローロッス ノーロッス? プッシュフォーマー』という自身が開発した高性能受信機の記事を個人名で寄稿されました。この記事紙面の中に囲みで三葉電機製作所の広告があります。どうやらラジオ電気商会を退職して、自宅でラジオの製造や部品販売を行う三葉電機製作所を起業されたようです。

さらに同氏は「超短波無線送受装置(上) 配線とデータの部」 (『無線と実験』, 1925年8月号, 無線実験社, pp389-403) で、15ページ、50の回路図・実物写真を使い米国のアマチュア達(9ZT, 6XM, 6CNC, 6TS等)の短波送受信機を紹介しました。そして『以上、発振回路十数種、受信回路数種を示しました。次号からは私の実験中に最も結果の良好であったものに付いて、製作方法ならびに実験上の経験について少し詳細に述べることにいたします。』と結びました。同氏には無線実験社技師という肩書が付きました

10月号「無線実験社中野研究所成る 超短電波に関する実験(Ⅱ)」 (『無線と実験』, 1925年10月号, 無線実験社, pp682-692) は次のように始まります。

このほど以来起工中であったと書くと、えらくどうも大きく聞こえるが、私の研究所の片隅に本社の研究室を設けること。これには例の超短電波実験のために家屋そのものの構造からして改造するところがあった為、すなわち床・壁ならびに屋根に特種の材料と工作法とを利用することだ。それが昨今ようやくにして完成。いよいよトランクの底から取り出したパーツで実験にかかる。向う(留学していたアメリカでは)では五百ワット(二百五十ワット球二個)でやっていたのだが・・・。その虎の子のようにして持参したバルブが無残にも二個ともフィラメントがポッキリ。二百二十ドルを今さら円に換算してもおっつかない。仕方がないから(それでも我国随一の超短電波局がJ1AAの百ワットだからね。ちょっと遠慮したかたち)百ワット(五十ワット球二個)でやることにする。発振電波長も五米以下とも考えたが、岩槻無線局と歩調を合わせる必要上、ひとまず四十ないし二十米用のものを作る。・・・(略)・・・電波長二十米で先刻、岩槻と交信、成績良好との報があった。・・・(略)・・・』

自宅にて三葉電機製作所を起業した楠本氏は、無線実験社の社外技師のような契約をされたのでしょうか。短波実験を目的として自宅を改築し多数のアンテナを建て、三葉電機製作所の片隅に「無線実験社中野研究所」を立ちあげたようです。アメリカから持ち返った真空管などを使い短波送受信機を組立てる、11ページからなる記事です。おおぴらに岩槻J1AAと試験交信したことも明かされているのには驚きです。こんなことが許されるはずがありませんね。ついに東京逓信局が動きました。

39) 東京逓信局からお目玉を喰らった「無線と実験」編集部

無線と実験10月号の短波実験の記事の最後には『 (以下次号) 』となっているのに、実際には記事はこれっきりでした。東京逓信局から注意を受けて、無線実験社中野研究所の短波実験は中止になりました

1955年(昭和30年)に誠文堂新光社の『無線と実験』誌編集部が「30年前のラジオを語る」という企画座談会を催しました。そこで元編集長だった古沢匤市郎氏が次の様に話しています。

古沢 アメリカの話のついでに楠本哲秀氏のことをちょっと。あるとき(東京逓信局監督課の国米係長から)呼び出しが来たのでいってみると「楠本氏が電波を出している写真と記事をなぜのせたのか」というわけ。それについては始末書が出ているが、私は実はこのころ前にお話ししたように「無線と実験」の編集から離れていたが発行人は私の名義になっていたので、私の知らないうちに始末書を編集部で出していたわけです。そのため逓信局の課長に何を聞かれてもチンプンカンプン。係長の国米氏は始末書と私の答えが違うので困るじゃないかといわれる。しかも楠本氏宅を無線と実験研究部として誌上に紹介してあるから、一層具合がわるいわけでした。どうにか収まりましたが、楠本氏はアメリカでライセンスをとっていた短波のアマチュアで大したものでした。("座談会「30年前のラジオを語る", 『無線と実験』, 1955.10, 誠文堂新光社, p102)

【参考】今では正規の私設実験の許可を受けている安藤博氏(JFWA, JFPA)もアンカバー時代に新聞に取上げられ、それを見た東京逓信局の国米課長が安藤宅を訪問してきて違法行為だと注意を受けました。しかし逆にそれが縁となり、安藤氏は国米課長に正規免許取得への便宜を払ってもらったということがありました。

 

楠本氏が日本に帰国後使っていたアンカバーのコールサインは今となっては不明です。とても残念です。英国のWireless World紙(1925年9月16日)の読者からの受信レポート欄に、イングランド・レディング在住R.C.Bradley氏より、7月31日から8月11日の20-80m帯受信報告があり、ここに日本の「J 2 I I 」なるコールサインが見られます。これが楠本氏かどうかは分かりませんが参考までに。

翌月の楠本氏の記事は「最新ローロッスデザイン 二球レフレックスキットの組立法」(『無線と実験』, 1925年11月号,  無線実験社,pp38-41)でした。

今回本社で青写真製作法刊行を発表し、その実地試作を自分が受け賜わることに成った。・・・(略)・・・写真による製作法を私が毎号書きます。』と始まりましたが、楠本氏の記事はこれを最後に見かけなくなりました。

40) 6月上旬、GE(ジェネラル・エレクトロニクス)社6XG局と42m交信試験

かねてより、米国GE社の王府(カルフォルニア州Oakland)6XG局(ラジオ局KGO内にある実験局)より42m波で岩槻J1AAとの相互通信実験の申し入れがあり、それが6月上旬に実施されました。工務局の短波実験施設岩槻J1AAといえば、対アマチュア通信ばかりが取り上げられますが、実は米国の企業実験局との交信試験も行っていたのです。

オークランド6XGの電波(250W)は岩槻では、日本時間の17時から入感しだし、21-22時にピークを迎え、24時を最後に聞こえなくなりました。同時期の西海岸方面との通可能時間帯が、80m波だと19-23時だったことから、40m波の優秀性が証明されました。また岩槻J1AAの電波(100W)もオークランドへほぼ同様の状況で届きました。

 オークランド6XG(オーナーKGO)と岩槻J1AAの交信実験は『無線と実験』誌の岩槻訪問記にも登場します。

この四十米の受信機の右手には、上部に大きくJ1AAと墨太に書いた局名を頂いて四十米の発信機がある。球は二百五十ワット四個が並んでいたが、あとで配線図第四図を見せて頂いて、二個は整流球で二個だけが発振球であることが分かった。この機械は毎週土曜日にアメリカのKGOと通信の試験をするそうで、それがアメリカの素人局に聞こえ、かの地アメリカが、発信機の写真を送ってくれとか、詳細を発表してくれとか、ほかの信号が分からない位強くJ1AAが入るが一体どんな装置で誰が扱っているかなど、アマチュア間の評判になっているのだそうである。(岩槻訪問記, 『無線と実験』)

41) 1925年6月2日、海軍技術研究所の研究部電気班が電気研究部に昇格

1925年(大正14年)6月2日の海軍技術研究所の制度改革で、無線を研究していた電気班が電気研究部に昇格し、短波の研究にも一層力が入りはじめようです。

この日には横須賀在泊の軍艦長門と、築地の海軍技研との間で短波同時通話試験が行われています。

42) 岩槻J1AAを見学して、短波無線機を試作した有坂磐雄氏(のちのJLYB)

『日本アマチュア無線外史』(岡本次雄/木賀忠雄共著, 電波実験社, 1991, p17)に岩槻受信所を建設していた穴沢忠平技手の以下の発言があります。同書がKDDより出版された、座談会"短波無線通信の黎明期を語る"の記録から引用したものです。

岩槻で送信機をつくり、アマチュアとして、J1AAをつくって通信しました。・・・(略)・・・そのようなことがだんだん知れわたり、私どもも雑誌などに、どういう実績を得たか、ぼつぼつ出したところ、当時の軍部、陸、海軍をはじめ、たくさんのアマチュアまでが実物を見にたずねてきた。

穴沢技手が証言されている岩槻J1AAを見学した海軍関係者の一人が、のちの昭和2年3月1日にJLYBの許可を得られた有坂磐雄氏です。

『丸』1961年11月号(旧日本軍の秘密兵器の特集号)で、有坂氏が海軍レーダーについて執筆されました。大正14年、J1AAを見学し短波無線機を組立てたことにも触れられていますので以下引用します。

 『生涯を賭ける心意気

大正十三年ごろ、無線界では短波が話題のタネとなり、逓信省では岩槻無線電信所に仮製の短波無線電信機を置き、アメリカと試験通信を行っていた。海軍でも海軍技術研究所で研究をはじめていたが、まだ兵器となるに至らず、そのうち米海軍が、太平洋の演習にほとんど短波のみで通信をやったことが明らかになり。連合艦隊における短波無線電信機の要求はまことに急なるものがあった。

とうじ私は少尉で、第二艦隊旗艦金剛の通信士だった。司令部から岩槻に派遣され、見学の機会があたえられ、徹夜で通信状況および機構を見学したが、あまりにも機構がかんたんなので、帰艦後、各艦の工作力をもってすれば、容易に仮製しうることを報告した。

艦隊では一刻もはやく、短波の通信訓練をしたい意向だったので、艦隊の命令で各艦とも、ほぼ同型のものを仮製することになり、まもなく約二十組ばかりできあがって、ただちに艦隊の短波通信訓練が実施された。(有坂磐推雄, "特集2「私が完成させた電波兵器航空レーダーの秘密」", 『丸』, 1961.11, P37, 潮書房)

なんと有坂氏らは岩槻受信所建設現場のJ1AAを見学し、河原技手より短波送信機や受信機の説明を受け、さらに実際に海外との通信の様子を徹夜で見学していました。そして設計ノウハウを伝授された有坂氏は、艦隊に戻るとさっそく試作を始めたのでした。海軍内では海軍技研が先行して短波を研究していましたが、そこに連合艦隊が加わったのです。つまり連合艦隊の短波は逓信省(J1AA)式の流れを汲むものだったようです。

そしてこの無線機こそが、「電波と共に 有坂磐雄伝」(岡本次雄/木賀忠雄共著, 電波実験社, 1980)にある、有坂氏の作「仮称・四戦隊式無線電信機」だと思われます。

 

その年末に、艦隊で各科の研究に関係した人が。司令官の表彰をうけたが、私も短波実験の一助手として末席にくわえられた。とうじはほんとうになりたての少尉だったので、身にあまる光栄に身をふるわせ、そして一生涯通信に努力したいと決心したのだった。(有坂磐雄, 前掲書)

この表彰を受けたことは、翌年逓信省が有坂氏にJLYB局を許可するさいに、海軍の許諾を得るための推薦にも利用されました。それについては改めて書きます。

43) 海軍技研の短波研究とは異なる系譜の連合艦隊の短波実験

海軍軍司令部の降旗中佐がフランスのアマチュア無線家の活動を帝国海軍に伝え、連合艦隊内で短波熱をあおった結果、有坂磐雄氏らの岩槻の見学が実現し、そして艦隊内で短波実験機の試作に至りました。その短波試作機については、『日本無線史』第10巻でも触れられているので引用しておきます。

大正十四年の春、当時海軍中佐であった降旗敏が、欧米出張から帰ったが、その欧米出張中、仏国において海軍造兵大尉名和武の協力を得て、彼の地における短波通信の状況を調査したる視察報告を行った。その要点は次のごときものであった。

欧米の無線界で盛んに行われているのは、素人無線が数W程度の、きわめて小規模の短波無線をもって、夜中ではあるは、極めて遠距離数千浬の通信を行っている事で、その接続方式は色々あるがメニー式は極めて簡単で、誰でもすぐに製作できる。これは素人無線として・・・(略)・・・

この視察談により連合艦隊の無線関係者を刺激し、当時連合艦隊の通信参謀海軍少佐青柳宗重、第二艦隊の通信参謀海軍少佐妹尾友之はさかんに艦隊の短波熱をあおり、短波通信の実験を促進した。すなわち第一、第二艦隊旗艦、その他少数のものは、極めて簡単なメニー式のバラックセットを自作し、教えられた通り電波を発射したが、実際の通信に妨害を与うるおそれがあるので、主として遠距離受信に努めた結果、欧米等の短波を聴取することができ、ついにはこれを艦隊告示に発表し、昨夜の受信通数何通、最大遠距離何千浬等、各艇競って吹聴するようになった。かくて海軍の全般にわたり部品をもって短波受信機を自作し、遠距離受信を競争的に行うようになった。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第10巻, 1951, 電波官吏委員会, pp76-77)

海軍技研の短研究とは別の流れによる短波実験が連合艦隊の中で大いに奨励されましたが、それは海軍短波の主流にはなりませんでした。しかし有坂氏は短波の研究に努めるうち、海外アマチュア通信を聞き、その魅力に取りつかれたようです。翌年夏には個人的な趣味として逓信省へアマチュア局の開設を申請するに至りました。

44) 独ナウエン局の第三回受信試験(6月16-20日)

ドイツのナウエン局との第三回試験でも、夏季に向かう中、40mより26mの優秀性が確認されました。

ナウエン局の受信試験は、その後毎月これを行いたるが、五月五日より連続三日間受信せるものは第五図のごとく、また六月十六日より同二十日まで連続受信試験を行いたる結果は第六図のごとくにして、この試験により確められたる事実は、数百キロワットの大電力をもてせる同局、長波長13000メートルおよび18100メートルのものよりも、40メートル以下の波長をもてせるものは数キロワットの小電力なるにかかわらず、通信可能時間は短しとするも、感応時間におけるその感度ははるかに強勢にして、空電および混信妨害少なく、長波長に比し数等優る受信状態を得たることなり。

また呼出符号をPOXとして送信せる同局の26メートル(その後、呼出符号をAGAと改称したり)受信感度は一日中、十三時間にもおよびたるに、40メートル電波を使用せしPOYは午前四時に感じたるのみにして、他は不感に終わりたり。

すなわち26メートル電波は夏季に入るもその感度減退せず、なお同局が南米ブエノスアイレス局へ送信中の商業通信を岩槻にて傍受を続けたるも第六図程度の感度ありて、同局発振の40メートルのものよりも受信感度良好なるは、確実なる事に属す。 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, pp700-702) 

 

この第三回実験には電気試験所平磯出張所も参加しました。こちらでも26mの優秀性が確認されています。

その結果によれば四〇米電波は感なきも、二六米電波は午前零時前後より午前九時前後まで感度ありたり。(高岸栄次郎, 畠山孝吉, 川添重義, "1.独逸POX放送電信受信試験", 『電気試験所事務報告書 大正十四年度』, 電気試験所, pp86-87)

45) 電気試験所平磯出張所で短波受信試験を実施(6月17-19日)

1924年(大正13年)に超短波6mの研究に着手したものの諸事情で研究中止していた電気試験所平磯出張所では、逓信省通信局の実験局J1AAが日米通信成功したとの報に接し、短波長の研究を再開しました。手始めに短波受信機を組上げ、6月17日より受信試験を実施しました。無線と実験誌の山村記者が6月25日に平磯出張所を取材しています。

『・・・(略)・・・スーパーショートウエーヴレシーバーで二十六米ないし四十米を聞くという。六月十七日から三日間徹夜で所員一同、総がかりで研究された。これは海岸の小山の上にある移動式受信所に据付けて、五尺正方形二線式のループアンテナをチェーンでもって室内から自由に回転し得るようにして、三日間徹夜で研究した結果は米国の素人無線発信局で6AWT6AAT、官公局NPMNGM、独逸POX、豪州の素人無線2YI等、他にたくさんあるがいちいち記録しなかったと、これは川添氏、畠山氏、市川氏等と海岸の芝生に座っての話。(記者 山村生, "茨城県名所のひとつ 平磯電気試験所を視る", 『無線と実験』, 1925.8, 無線実験社, pp488-489)

平磯出張所の短波受信試験は順調にスタートしました。最初の受信機は波長26-40m(周波数7.5-11.5MHz)でしたが、QST誌でARRL主催のMid Summer Testであることを知っていたため、ただちに20mや5mを受信する準備に入りました。

46) 東京海軍無線電信所の完成(1923年4月)

海軍船橋無線電信所(千葉県)が通信量の増大で処理限界に達しつつあるため、船橋局を送信専用局とし、また東京日比谷に受信専用局を新設して、海軍通信の効率化を図ることなりました。

1923年(大正12年)4月に受信専用局として、日比谷公園に隣接する海軍省構内に無線局(当初は受信専用)が開設され「東京海軍無線電信所」と命名されました。これに伴い従来の「海軍船橋無線電信所」は、「東京海軍無線電信所」に所属する「東京海軍無線電信所 船橋送信所」改名されました。

東京海軍無線電信所の無線鉄塔郡は現在の中央合同庁舎第五号館(東京都千代田区霞が関1-2-2、厚生労働省, 環境庁)付近にありました。

高さ60mの自立鉄塔3基(横河橋梁製作所製)、建設中(大正11年)に東京市の市政調査会より帝都の美観を害するため撤去されたしと申入れがありましたが、海軍省副官がこの抗議は当を得ないものと反論して、建設を続けたことでも有名です(写真は日比谷公園から見た景色)。

47) 東京海軍無線電信所で波長30, 50m試験(6月17日より)

かねてより海軍技術研究所で製作中だった短波送信機がついに完成しました。

出力五〇〇Wの短波送信機が完成したので、これを船橋送信所に装備し、大正十四年六月十七日 三〇米、五〇米で送信実験を行い、佐世保軍港在泊特務艦佐多と、寺島水道に仮泊中の軍艦金剛とを相手に通信試験を行ったが、確実に通信を行うことが出来た。(電波監理委員会編, "短波の出現と無線設備の整備", 『日本無線史』第10巻, 1951, 電波監理委員会, p77)

この実験は東京海軍無線電信所 船橋送信所(千葉県:送信専用)と、東京海軍無線電信所(東京日比谷:受信専用)にて行われました。

さらに日本無線史第10巻によると、第二回目の試験が6月29日に実施され、有明湾へ移動し在泊中の軍艦金剛、佐伯湾在泊中の軍艦山城、呉軍港に在泊中の軍艦陸奥を相手したが、前回より一層良好な結果を得ました。

7月1日(第三回目)と7月13日(第四回目)には、軍艦山城(佐伯湾在泊)、軍艦陸奥(呉軍港在泊)と、陸上施設である佐世保無線電信所および呉無線電信所と通信試験を行い良好な成績を収めました。

日本無線史には明言されていませんが、これらの通信試験は船橋からは30m,50mで送信し、少なくとも軍艦からは通常の海軍の長波長電波で応答し、それを日比谷で受けたものと思われます。なお1925年(大正14年)には船橋に続いて、佐世保海軍電信所にも短波送信機が施設されましたが、この実験に間に合ったかどうかは不明です。

47) J1PPの無線電話が鹿児島JKBで受信される(6月26日)

5月中旬に無線電信で短波実験を開始したJ1PPは、AM変調器が追加され、6月下旬より無線電話の実験に着手しました。

これ以後、電信は岩槻J1AA、電話は官練J1PPという分担が与えられたようです。なにしろ官錬無線実験室こそが我国の放送(無線電話)研究発祥の地ですから。

1925年(大正14年)6月26日にはついに鹿児島JKBにて官錬J1PPの声が受信されました。この快挙は社団法人日本ラヂオ協会の機関誌「ラヂオの日本」創刊号の内外時報欄で報じられました。

逓信官吏練習所においては、本年六月二十六日約五〇〇ワットの電力を使用し、二〇米の短波長をもって無線電話の実験をなし、これを鹿児島にて受信したるが、昼夜共明瞭に聴取するを得たりという。("内外時報", 『ラジオの日本』, 1925.11, 日本ラジオ協会, p65)

【注】 後述しますが日本ラヂオ協会は産・学・官・軍の電波関係者で創設された無線知識の啓蒙普及団体で、逓信側からは稲田局長・中上係長・荒川技師らが役員になっています。

48) 日本初の短波帯無線電話の明瞭度は今ひとつ

日本初の短波帯無線電話とはいうものの、『日本無線史』によると明瞭度は全然ダメだったようです。

大正十四年六月、芝公園内逓信官吏練習所に装置した三〇〇W級の小規模電信送信機(波長約二〇米)に陽局変調装置を取付けて、最初の国内短波電話実験を行ったが、鹿児島からは時々電話を解することが出来る程度との回答に接した。(電波監理委員会編, "短波電話の創成時代", 『日本無線史』第一巻, 1925, 電波監理委員会, p334) 

また電気学会雑誌』にも日本初の短波帯無線電話に関する報告があります。

『(J1AAの)40メートルも20メートルも、多少の変化はあれども、昼夜を通じて(北海道の落石JOCと)通信可能なり。鹿児島においては、むしろ昼間の方感度良好なりとの報に接したり。当時官吏練習所において簡単に20メートルの送信機をグリッド変調法によって、無線電話による送話を試み、鹿児島において真空管一個をもって聴取せるに、人声はその音声を認知し得る程度なるも、レコードをもって放送せる音楽は聴取充分なりき。 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p696)

この後も逓信官吏練習所無線実験室J1PP

1954年(昭和29年)8月27日、本放送を始めた日本短波放送NSBの取締役技術局長河原氏(元J1AAオペレーター)が、NSB開局を記念して郵政省の『電波時報』に寄稿された記事を引用します。

日本で短波放送の実験を行った時期は極めて古く、逓信省工務局では大正14年6月芝公園の逓信官吏練習所実験室に出力300ワット、周波数15Mcの送信機を据付け てJ1PPの呼出符号により、毎日「本日は晴天なり」を繰返し放送したのを始めとする。この放送を鹿児島、京城(ソウル)、台北(タイペイ)等の無線局で傍受し、また米国のアマチュアからも「聴えた」との報告を受取ったので短波放送の可能性が確認された。(河原猛夫, "短波放送の普及対策", 『電波時報』, 1954.10, 郵政省電波監理局, p46)

ちなみに京城での受信は1925年の夏ごろ、台北での受信は翌1926年になってからだと思われます。

【参考】 下図はJ1PPのQSLカードで、米国の実験局W6XKに宛てた、1931年(昭和6年)のものです。データ欄を見ると「1926 at」と印刷されていて、手書きで「31」年に代えて使用されているのが分かります。

このカードはJ1AAとJ1PPの共用カードとして、1926年(大正15年)に印刷されました。「QSL de」までが印刷済みで、そのあとに「J1PP」または「J1AA」を手書きして使うようになっています。J1AAのカード

これが印刷される前(大正14年)にどんなカードが使われていたのでしょうか?いつか発掘される日がくると良いですね。

49) J1AAが20mでアルゼンチンを受信(6月26日)

官練実験室J1PPが鹿児島と波長20m(15MHz)で試験していた1925年(大正14年)6月26日、これを見守っていた岩槻J1AAが偶然アルゼンチン局をキャッチしました。15MHzという高い周波数では初めてでした。

左図、『無線タイムス』の記事を引用します。なおタイトルには"通信"とありますが、受信です。

埼玉県岩槻町の岩槻無線電信局を利用し逓信省が欧米各国の無電局と、短波長無線電信の通信試験を行いつつあることは屡報(るほう)の通りだが、去る(6月)二十七日、同省工務局に達した報告によると二十六日同無線局では、南米アルゼンチンといえば我国を去る実に一万八千キロメートル、日本の里程に直して約四千五百里の彼方(かなた)だ。

何しろかかる遠隔の地から発信した、しかも二十メートルという短い電波が我国の無電局に感じたのは全く今回が始めてのことなので同省では大喜び、我国無電界の誇るべき新記録だといっている。なおこの成功に力を得た同省では一両日中に独逸(ドイツ)ナウエン(我国より約九千キロメートル、約二千二百五十里)と短波長二十メートルの無電通信試験(これを一口にいうと、日欧間短波長の無電連絡試験)を行うことに決定した。("アルゼンチンとの通信に成功した岩槻局", 『無線タイムス』, 1925.7.5)

逓信省は去る6月16-20日にナウエン局の波長26m(11.5MHz)の受信試験に成功したばかりですが、波長20m(15MHz)と比較したいと考えたようです。

50) 「短波アマチュア開放」方針と実験用波長帯案 (逓信案, 7月1日)

さて6月4日の浜松工校への短波許可に海軍が同意しなかった事件に怒りが収まらなかったのか、稲田工務局長が反撃に出ます。免許事務は新しくできた電務局の担当ですが、無線に関する一切がっさいはこれまで工務課がやってきましたので、「無線のことには工務局長としても一言申すぞ」ということでしょうか。

1925年(大正14年)7月1日、欧米ではアマチュア局の活動が電波研究の発展に大きく貢献しており、稲田工務局長は、『逓信省は官設・私設を問わず実験および学術研究を目的とするものには施設者の希望に添っていく方針にある』と、海軍省へ伝えました(逓信省, 信222号)。もちろん希望者がいればアマチュアも許可する方針であり、J1AAの実験開始からわずか三ヵ月後に逓信省がこのような考え方を示したことは、アマチュア無線史上でも特筆されるべき出来ごとだと考えます。

そして同時に逓信省が免許できる実験用周波数をあらかじめ海軍に了承させておく作戦にでました。

信第二二二号 大正十四年七月一日

逓信省 工務局長

小林海軍省電務局長殿

無線電信電話使用電波長割当ニ関スル件

六月四日附電務局長宛軍務二一二八号ノ二ヲ以テ御回答ヲ得候電波長使用ノ件ニ関シ二百米以下ニ対シテハ御異存ノ趣ニ就テハ差当リ浜松高等工業学校官庁用無線電信無線電話施設二付キテハ二百米以下ハ承認セサルコトニ取計置候然ル所最近無線科学ノ研究及実験ニ関シ電気学ヲ専攻スル専門学校及民間無線事業者ヨリ其施設ノ許可ヲ得ントスルモノ続出スル傾向ニテ斯業ノ迅速ナル進歩ト完全ナル発達トハ官民ノ協力一致ノ研究ニ待ツヘキモノ多々アリト認メラレ候ニ付キテハ当省ハ今後モ官庁用及私設無線電信無線電話施設ノ使用電波長ニ関シ機器ノ実験及学術ノ研究ヲ目的トスルモノニ対シテハ可成施設者ノ希望ニ添ハシメ度方針ニ有之尤モ之カ為メ軍事並ニ其他通信ニ支障ヲ生スルカ如キ場合ハ取締適当ノ措置ヲ為スコトト可致候間電波長ニ関シ別表ノ通リ予メ御諒解ヲ得置度支障ノ有無御同報ヲ得度候

 <別表>

実験用官庁用私設無線電信電話使用電力及電波長

一 送信装置方式 持続電波式

一 送信電力 (電信電話共)五百「ワット」以下

一 電波長 左記ノ内 必要ト認ムルモノヲ査定許可ス

    百米以下 波長帯 五〇 乃至 八〇米

     単一波長 一五ニ五三五四五八五、及 乃至ノ内適当ナルモノ

    百米 乃至 千米 波長帯 一二〇 乃至 一五〇米三二〇 乃至 三三〇米四八〇 乃至 四九〇米

    千米以上 波長帯 一六〇〇 乃至 一六五〇米一九〇〇 乃至 二〇〇〇米

ある意味では我国初のアマチュアバンド創設の逓信省案といえるかも知れません。

成案のきっかけとなった「浜松高等工業学校への短波拒否事件」は、日本の短波開拓史を語る上で外すことのできない出来事といえるでしょう。分かりやすいように周波数に換算すると下表のようになります。

(1925.7.1, 逓信案)

51) 稲田工務局長の短波開放方針に対する海軍の反応

これに対して海軍軍令部の降幡中佐と艦政本部の服部中佐は『二百米以下の波長中で将来海軍で使用を考えているを除き、一般研究者に開放するを可とする』との意見で、自分たちが22-28m(10.71-13.64MHz), 43-47m(6.38-6.98MHz), 52-56m(5.36-5.77MHz)で実験中なので、逓信案の50-80mを60-80mに、単一波長の25mと45mを、30mと48mに、また120-150mは余りに広すぎるので140-150mと主張しました(最終回答は7月29日で、これについては後述します)。

さらに『民間無線事業者の範囲を制限し、いわゆる一般の「ファン」にはこれを許可せざるを可とす』との意見で、一般ファン(アマチュア無線)は許可しない様に求めてきました。つまり短波を研究したい企業や学校は認めるが、個人研究家への開放に反対しました。

52) 7月15日、産・学・官・軍による「日本ラヂオ協会」発起人会が開催

産・学・官・軍の協力により我国の無線研究推進、知識普及を目的とする「日本ラヂオ協会」(有楽町栄町3-5)の発起人会が7月15日に、東京電気倶楽部で開催されました。

日本ラヂオ協会設立趣旨

近世科学上に於ける一大発見たる電波の利用は今や疾風迅雷の勢をもって世界を風靡し、思想上に経済上にその波及するところ限りなく社会状態は為に一大変化を来しつつあり

いわゆる無線電信となり、あるいは無線電話となりて、実にくるべからざる福祉を吾人に与えつつある而已ならず、さらに進で実験および文字の伝送に至る等電波の利用は多々益々その範囲の拡大せられ、吾人の夢想し得ざりし事柄をも着々実現せしめて、その止まる所を知らざるありさまなり

難然此広大無辺なる科学の威力をいかにして益々複雑となる世態に応じて社会人類の利用活動に資すべきやに至りては、万人の協力に俟てその手段方法を講ずるに非らざれば、その恩恵はあるいは隔靴掻痒の感なきを保し難かるべく、あるいはその結果は却て吾人の期待に反戻して社会を誤ることなしとせす、即ち下名等僭越を顧みず、外に世界の大勢を察し、内に我国の現状に鑑み、ここに掲題の団体を設立せるゆえんにして、その主旨はラジオの事業に関係ある者はもちろん、学者、研究家、篤志家等、官途にあると民間にあるとを不問、同好者一切を網羅し、もって電波の応用に関する知識の普及、交換、研究、利用、発達に遺憾なからしめんとするしだいなり。庶幾たは諸賢本協会の趣旨に賛しふるって入会せられん事を

会則草案の審議と、選挙により以下19名の役員が選出承認されました。

後日、庶務幹事に伊藤敬一(大阪放送局技師長)、編集幹事に鳥養利三郎(京都帝大教授)、千葉茂太郎(東北帝大教授)、深井宗吉(海軍技術研究所造兵中佐)、計画幹事に神野金之助(名古屋放送局理事)、福田勝(神戸高等工業学校教授)、荒川文六(九州帝大教授)、木村駒吉(大阪放送局理事)の各氏が追加選出されました。

とにかく日本ラヂオ協会に海軍電波関係者の参画を得ることができ、アマチュア無線も含めた短波の民間利用に関する討議の場が形成されたことは大正14年の大きな成果のひとつだったと言えるのではないでしょうか。

日本ラヂオ協会の業務として「出版」がありましたので、逓信省工務局としては「無線と実験」誌へのアマチュア無線関係の出稿を差控えるようになりましたが、これが逆に「無線と実験」誌を過激路線へ走らせたのかも知れません。

53) 7月25-26日、電気試験所がARRLのMid-Summer Test に受信で参加

電気試験所平磯出張所ではARRL主催のMid-Summer Testを受信するために準備していましたが、第一回(7月18/19日, 波長40m)には間に合わず、第二回(7月25/26日, 波長20m)からの参加でした。なお大正14年度の電気試験所事務報告によれば、送信試験も行ったとあります。

  当時、平磯に勤めていてこの担当をした畠山孝吉氏が、昭和10年になって書かれた回想記事を引用します。

『大正十四年、七月の下旬に、ARRL(これはアメリカの素人無線家達の団体であります)では、二十米の波長で世界的に通信試験を行うということがARRLの機関雑誌QSTに出ておりましたので、私共もこの試験に参加致しました。・・・(略)・・・この頃は短波の受信は、平磯出張所構内ではほとんど受信場所のいかんに関係しないということがナウエン局についてわかっておりましたので、今度の試験も平磯出張所構内のステー網の中にあります受信室内に受信機をおきました。そしてアンテナは受信室の天井に張りました長さ約十米の室内アンテナでありまして、・・・(略)・・・

受信機は再生検波に低周波増幅二段という当時における標準型のもので、随分熱心にダイヤルを廻したのでありましたが、結局この受信機で受信致しました局はJ1AA唯一のみ(この頃のJ1AAは今の岩槻受信所にありました送信機の呼出符号であります)。しかし記録によればこのJ1AA局もわずか十分間の受信時間中に波長は次のように三度変化しておりました。すなわち22.9米 → 21.5米 → 22.9米。

そして音色は独逸(ドイツ)ナウエン局の受信音を清音とすれば、これは濁音と申すべきものでありますが、あの頃清音の受信音を与える局は極めて少数で、濁音の送信機こそ当時における普通の形式であったのかも知れません。大正十四年頃の送信機は、ナウエン局のごときも自励発振器でありましたから、これと同じ形式のJ1AA局の波長が変化したとて、何も不思議はなく、あのバラック式送信機を眼前に思い浮かべております私には、波長の安定を要求する方こそ無理のように考えられて参ります。

私共はただ今申しましたJ1AAの他に米国の素人無線局6CGWを非常に弱く受信いたしましたが、これの音色たるやはなはだ悪しく、それはちょうど蛙(カエル)の鳴くような音でありました。・・・(略)・・・本試験に関する報告の結言の一節に「・・・これを要するに、当所においてはARRLの二十米試験に参加せりと思われる局はJ1AAの他これを受信し得ず。・・・(略)・・・もしオーストラリア、ハワイ、米国加州の素人局にしてこの試験に参加しおらんには、多分受信可能なるべきも、なんら感応なきは、あるいは参加せざりしものなるや」、短波の受信は送信電力には無関係?であるという当時の考え方が、この一節の中にはっきり表れておって、大変面白いではありませんか。』 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(三)", 『ラヂオの日本』, 1935.6, 日本ラヂオ協会, p44)

平磯出張所の6月の波長25-40m受信試験で、ドイツのナウエン局がアンテナにはあまり左右されず良好に聞こえた経験から、今回も室内アンテナとしたことが敗因だったかも知れません。このARRL 20m Test にJ1AAが参戦していたことが判りますが、その詳細は不明です。それにしてもJ1AAの信号が濁音だったという当時の報告書は興味深いところです。

54) 7月28日、岩槻J1AAが波長20mで6BURと初の昼間交信に成功 ・・・2020年2月26日更新

ついに日本人も噂の「昼間波」(日中に遠距離通信可能な電波)を実体験する日がやってきました。

岩槻J1AAでは独ナウエン局の受信試験より40m波よりも20m波がより優秀と推測されたため、1925年(大正14年)6月頃より波長20mのアマチュア通信も傍受を始めていました。

1925年7月28日14時、J1AAはついに20m波によるアメリカのアマチュア局との昼間交信に初成功しました。相手局は西海岸ロサンゼルスから南東へ20kmほどのウィッテイア(Whittier, California)に開設された6BUR局(L. Elden Smith氏)で、左写真が実際に岩槻に届いた6BURのカードです。彼はウィッテイア大学(Whittier College)の学生でした。

 

左図[左]は米国の無線週刊誌 "Everybody's Radio Weekly"(1925年10月31日号, p9)です。読者からの交信・受信レポート欄に6BURがJ1AAと昼間に交信できたことが投稿されています(左図[右])。

 

これは日本初の短波による昼間遠距離通信です。J1AAの功績として「初の大西洋横断通信」(対6BBQ、波長79m、1925年4月6日)と並ぶ、画期的な記録がこの「初の昼間太平洋横断通信」(対6BUR、波長20m、1925年7月28日)です。昔より「夜間になると上空に電波を反射するヘビサイド層(電離層)が形成されて遠距離通信ができる」、すなわち「昼の遠距離通信は不可能」というのが無線界の常識でした。それを打ち破って、マルコーニ氏が「昼間波」を発見したと聞いてはいるものの、いまだ日本では誰もが昼間遠距離通信を体験したことが無かったからです。

 

J1AAの昼間通信成功の快挙は日本の電気学会でも報告されました。

『40メートル電波に比し、26メートル附近の波長によるものが夏季において、いちじるしく優秀なる成績を示したるをもって、一層その附近の電波長による試験に力をいれたる結果、豪州2CM局が送信電力50ワット、波長約20メートルを送って英国を喚呼中のものを昼間感受し、なお20メートル附近を使用する米国西海岸の数局を同様昼間傍受しえたるにより、当方も20メートルにて送信を続行中、七月二十八日午後二時、米国西海岸6BUR局との通信連絡に成功せり。

その時の6BUR局と岩槻局間の電波到来経路を検するに、昼間5時間、夜間2時間の割合にて、20メートルは昼間通信に適するを見るべし。これと同時に豪州(日本との時差一時間)よりも、岩槻局の20メートルを昼間傍受したりとの報に接し、この事実を確証せられり。』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p702) 

 

このように4月4日に80mで開局し、4月6日に6BBQとの交信成功により始まったJ1AAの短波交信試験は、はやくも4月下旬には40mへ移り、さらに7月下旬には20mへ移ったのでした。

 

ちなみに同じ7月28日付けで南米チリ1EG局から岩槻J1AAへカードが届いています。【注】 カードのCH. 1EGの「CH」の文字はチリを示す国際中間符号と呼ばれるものであり、呼出符号はあくまで「1EG」です。「CH1EG」ではありませんので念のため。

このカードはJ1AAへの受信報告ではないだろうかと思われます。

55) 7月29日、海軍省より稲田工務局長への返答

稲田工務局長の短波開放方針(7月1日)に対する返答が、海軍省より1925年(大正14年)7月29日にありました。

大正十四年七月 日 軍務局長

逓信省 工務局長宛

無線電信無線電話使用電波長割当ニ関スル件

七月一日附信二二二号ヲ以テ御照会相成候首題ノ趣了承 短波長無線通信ニシテハ目下海軍ニ於テモ之ガ実験研究中ニ有ル其使用波長ノ関係モ有之候条実験用割当波長ハ別表中左記ノ通変更ノ上差当リ官庁及民間事業者中ノ純研究者ニ限リ之ヲ許可セラル様御取計ヲ得事希望ト有之候

追テ海軍使用波長ノ関係モ有之今後右の単波長ノ一般割当ニ際シテハ一応御教義ノツトニ御取計イヲ得事

百米以下 波長帯 五〇 乃至 八〇米 ヲ 六〇 乃至 八〇米 ニ改ム

単一波長 二五米 ヲ 三〇米 ニ 四五米 ヲ 四八米 ニ改ム

百米乃至千米 波長帯 一二〇 乃至 一五〇米 ヲ 一四〇 乃至 一五〇米 ニ改ム

四八〇 乃至 四九〇米 ヲ 四五〇 乃至 四六〇米 ニ改ム

千米以上 波長帯 一九〇〇 乃至 二〇〇〇米 ヲ廃シ 一三〇〇 乃至 一三五〇米 ヲ加フ

ここで注目したいのは『差当り、官庁および民間事業者中の純研究者に限り、これを許可せらるよう・・・』の部分です。すなわち海軍省は短波長をいわゆる無線ファン(アマチュア無線家)には許可しないで欲しいと申し入れてきたのです。

海軍からの逓信管轄の実験用周波数の変更案は次の通りです(赤字が変更になった部分)。

(1925.7.29, 海軍案)

逓信省がこの案をそのまま受け入れたわけではなく、申請の都度協議する従来の方法が継続されました。たとえば9月に許可された早稲田大学と日本電気の私設無線電話は波長320-330mと480-490mで、480-490mは7月1日の逓信案の波長でした。

同じく9月に許可された新潟県立小千谷中学と函館高等女学校の波長140-145m(2.07-2.14MHz)は7月29日の海軍案よりもさらに狭い帯域です。この2.07-2.14MHzは学校用の実験周波数として定着していきます。

56) 短波長の一般開放に対する海軍技研・大沢氏の見解

『無線実験』(8月号)に『本誌が斯界の諸名士にあって質問したる回答 「アーマチアー短波長送受公許に対する問題」 』という記事がありますので、その中から賛成意見の高岸栄次郎氏、反対意見の大沢玄養氏の意見を引用します。

高岸氏は逓信省工務局(J1AA/J1PP)に後れを取るまいと電気試験所で短波実験(JHBB)を始めた方。海軍技研の大沢氏は米海軍とARRLが協力し実施した短波伝播試験の様子を傍受分析された方であり、おふたりともアマチュアが何たるかはもちろんのこと、アマチュアの功績を熟知した上での意見です。

 

◆電気試験所平磯出張所長 高岸栄次郎

『アーマチアー自ら健実なる基礎の上に躍進的発展を期せ

時勢の進運はインターナショナル・アマチュア・ラジオ・ユニオンをし勇ましい呱々の声をパリに挙げしめた。その会議に日本から顔を出すには出したが真のアマチュアが出席しなかった事は日本の現状が未だこれを許さなかったにしても遺憾に堪えない。ユニオンの目的は各国アマチュアの送受信の進歩統一、ラヂオの技術進歩国際的諸会議における利益代表および必要と認めらるる方針に向ってのすべてのラジオ・ファンの活動発展なりという。しかして既に活動期に入っている。しかして日本は今まですべての方面で立遅れのために何れ程自分を毒して来た事であろう。今度の問題丈は我国のラヂオ・アマチュアの世界的位置向上発展のために、この世界的一大潮流にたくすの好機をとり逃したくないものである。ついては我国のアマチュア自ら健実なる基礎の上に躍進的発展を企図し今日の時勢に退歩せざらんことを望むや切なるものがある。』 (高岸栄次郎, "アーマチアー短波長送受公許に対する問題", 『無線と実験』, 1925.8, 無線実験社)

 

◆海軍省技術研究所 大沢玄養

『先づ管制を研究して

私が最近感受した短波長の通信は随分に多いその局数はすでに百をもって数えるありさまである。それの大部分は米国のアマチュア-で西岸加州はもちろん東は大西洋沿岸、北はカナダ方向のものもあり、ほとんど全米にわたりて散在しているようである。しかして以上感受した通信のうちで実用信もかなりあるが、その大部分はいまだ実験信文のみである。さすがは米国なりと称せざるを得ない。要するに短波長の遠距離通信は案外に早く実現せんとする勢いであることを最早一般の認むるところである。

以上の経験より本問題を考えれば、我国においても今日アマチュアーにこの短波長送受を公許するということは、一面においては確かにこの種の通信の実用期を促進せしむることともなり、またファンの熱を向上せしめ我ラジオ界に一層の活気をみなぎらしむる因ともなり至極結構なことと思うが、併しまたそこに考えを要することは単に一旦これを公許するとなると多数のアマチュアーの実験のために一方における実用信を妨害するような結果を招来することはないかを憂うる点である。ただ幸いなことには短波長なるがゆえに多少の波長差があればこれを分離同調さすことは比較的容易であるから、その管制の方法は比較的難しい問題でもなかろうが、要するに私の考えとしてはこの問題は速やかにこれを公許するということは近き将来に所する取締方針が確定しない間は考えものだと思うのである。

ゆえにこの種の送受は早晩実用期に入ることと信ずるから種々の方面を調査し、まずもってその管制方法等を考究し置くことは、目下の急務のように考える次第である。』 (大沢玄養, "アーマチアー短波長送受公許に対する問題", 『無線と実験』, 1925.8, 無線実験社) 

57) 逓信省工務局の実験局J1AAが、ARRL主催「Mid-Summer Test」に参加

J1AAは80m→40m→20mと順調に高い周波数に向って実績を積んでいました。そして夏季は周波数が高いほどコンディションが良いとの仮説のもとに、5m Band の送信機と受信機を組立てました。当時の米国のアマチュアバンドは20mの次は5mだったからです。左の写真はJ1AAの送信機ですが、世界のアマチュア達と交信してきた短波送信機ではなく、1925年(大正14年)夏に製作した5m Band(60MHz)送信機です(右下は波長計で手前が電鍵)。

 

米国西海岸のアマチュアと20mで交信したあと5mで送信し、それを聞いてもらう方法をとりましたが、予想に反して5m Bandの電波は西海岸まで飛ばないようで行き詰っていました。そこでちょうどARRLが主催するMid Summer Testが8月1日・2日に5m Bandで行われるので、J1AAとしてこれに参加することにしました。つまり逓信省工務局の実験局J1AAが、アマチュアの通信試験イベントに参戦したのです。

『なおまた八月上旬米国ARRL(American Radio Relay League)主催の夏季短波長試験に於いて5メートルの短波長送受を試みたるが、この試験は不成績に終わりたり。その原因の奈辺にあるやは疑問中の疑問たり。』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p697)

 

残念ながらJ1AAの5m送信機はついに誰とも交信実績を挙げることはできませんでしたが、周波数が高いほど良いといっても、20m(15MHz)と5m(60MHz)の間に遠距離通信用の上限周波数があるかもしれないないと予見されました。

しかしアマチュアバンドは20mバンドの次が5mバンド(まだ10mバンドのない時代)なので、アマチュア通信に頼っても上限周波数は探れません。20mより短い波長の研究は独郵政庁との共同研究(日本側は受信担当)によるほかありませんでした。 (工務課の伊藤豊技手がRCA社との技術者交換研修で9月15日より翌年2月11日まで渡米することもあり) 秋になり、河原技手は岩槻の建設現場から本省に戻り、小野技師と佐々木技手が担当している逓信官吏練習所無線実験室J1PPの完成に向けて協力するようになりました。

J1AAが世界のアマチュア局と活発に交信したのは1925年(大正14年)4月から9月頃までの半年間だったようです。アマチュアの小電力遠距離通信の発見が、短波帯の下半分(15MHzまで)の開拓に貢献したことは、当時の無線関係者が一様に認めるところですが、短波帯の上半分(15-30MHz)にはアマチュアバンドがなく、こちらを開拓したのは各国の官設や商用の実験局です。とはいうもの結果的に下半分の方が利用価値が高かったため、短波開拓史におけるアマチュアの貢献が揺らぐものではありません。

58) 8月1-2日、電気試験所平磯出張所がARRLの5mテストにもチャレンジ

ふたたび電気試験所第四部の畠山氏が平磯にいた頃の回想を引用します(5mの記事は2回に渡りました)。

『前に申しましたARRL二十米試験と同じ目的で、二十米試験に引続いて八月一日からこの試験が行われましたが、真面目にこの試験に参加?したということは、今から考えますと無茶を通りこしておったということが出来るかも知れません。何しろ日本で米国の、しかも素人局から出す五米の短波を受信しようとしたのであります。そしてこれもただ、短波というものは小電力で遠距離通信が出来るということのみを知っておった故であろうと思われますが、今から見れば誠にお気の毒ともいいたくなるでありましょう。』 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(三)", 『ラヂオの日本』, 1935.6, 日本ラヂオ協会, p44)

 

『受信成績は? もちろんダメでありましたが、しかし当時この試験に参加された現平磯出張所長 中井友三氏の手記を見ますと、時々はビートが聞こえたようでありました。・・・(略)・・・いずれに致しましても、今でこそ超短波、超短波と申しましても、その性質や発振器、受信機等の研究は誠に至れり尽せりでありますが、今からおよそ十年も前に五米の受信機を組立てて、しかもこれでアメリカの局を受信しようと致しました勇気のほどは・・・(略)・・・』 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(四)", 『ラヂオの日本』, 1935.6, 日本ラヂオ協会, p40)

59) 8月3日、軍艦多摩に短波無線機(50m, 35m)を据付けて実験することを通牒

1925年(大正14年)7月9日、帝国海軍は9月に行われるカリフォルニア州アメリカ合衆国加入75周年祭に儀礼艦を送ることを決めました。選ばれたのは呉に係留されていた軍艦「多摩」(前年12月1日解役されて予備艦になっていた)でした。

「多摩」では大急ぎでサンフランシスコまでの航海の準備を進めていました。その最中に事件が起きました。駐日大使のバンクロフト氏が7月28日に軽井沢で病死されたのです。幣原外務大臣の発意により、加藤内閣はバンクロフト氏の遺体を特別列車で東京まで運び、8月6日に聖アンドリウス教会(芝区栄町)で最高の礼を尽くした葬儀を行ったあと、帝国海軍の軍艦「多摩」でサンフランシスコまで遺体を丁寧に運ぶことを決めました。

1925年(大正14年)7月31日、海軍技術研究所ではこの航海を短波の長距離伝播試験の絶好の機会として捉え実験計画を起案しました。そして8月3日に「無線電信短波長通信試験に関する件」(軍務2機密第105号, 大正14年8月3日)が海軍省軍務局長より発せられました。下記海軍公報部内版(第1357号)を御覧ください(クリックで拡大)

 

  試験は軍艦「多摩」(6MHz, 8.6MHz)が、「東京海軍電信所」(5.7MHz, 7.9MHz)および「海軍技術研究所」(6MHz, 9.4MHz)間で定時交信しながら太平洋を往復する計画でした。日本無線史には以下のように記録されていますので、「東京海軍無線電信所」とは千葉の船橋送信所のことではなく、東京日比谷の海軍省内の受信所に短波送信機を据付けたようです。

『予定より出発を繰上げ八月六日午後三時横浜港を出帆することになった。そのため実験装置の組立据付は昼夜兼行で行いようやく間に合わせた。実験は五〇〇W短波送信機と受信機を、軍艦多摩と海軍省内の東京無線電信所および海軍技術研究所の三カ所に装備し、・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, "短波の出現と無線設備の整備", 『日本無線史』第10巻, 1951, 電波監理委員会, pp77-78)

 

呉を出港した「多摩」は途中で横須賀に立寄り、東京築地から来た海軍技術研究所の係員により、(海軍技研が6月に完成させた)出力500Wの短波送信機と受信機および空中線を設置・調整しました。そして水雷学校から訓練生が乗船したあと、8月6日午前に横浜港へバンクロフト氏の遺体を迎えに行きました。

 

この実験には佐世保海軍電信所も受信局として参加しています。その報告書に当時の短波帯の様子が伺える箇所がありますので引用しておきます。受信機は佐世保海軍工廠無線試験所で作られたものです。長波局や中波局の高調波妨害が激しかったようですね。

『所見 二、 ロ、

混信、高調波および短波の混信は相当多かりしも大抵の場合は分離受信するを得たり。高調波は本所送信(主としてM式十五吉, 九千二百米)、海岸局、船舶局の火花送信、その他放送電話のごときもの多数にして、短波の混信は五十米付近よりも三十米付近において多かりき。』 (佐世保鎮守府参謀長, "軍務二機密第105号に対する無線電信短波長通信試験受信記録", 大正14年10月19日, 佐鎮機密第17号-184)

60) アマチュア界で活躍する J1AA ・・・ 8月4日、アルゼンチンBA-1と交信成功

1925年(大正14年)8月14日、J1AAの交信距離記録はぐんぐん伸び、ついに地球の裏側の南米アルゼンチン(BA1)とのQSOに成功しました。

『その最大通信距離の記録は八月十四日、本邦より一八〇〇吉米離れた、アルゼンチン国、ブエノスアイレス市のBA-1という局と行われたもので、ここは陸上では本邦から最も遠い地点であるからこれ以上の通達距離はないわけである。もしちょうど日本とは地球の反対側に集中するとも考えられ、また電波が進んで行く道は大部分が海であるから、従来ブエノスアイレスは長波長の場合でもいい成績を得ておったのである。』 (荒川大太郎, "岩槻に於ける短波長試験成績", 『ラヂオの日本』, 1925.12, 日本ラヂオ協会, pp71-72)

 

交信記録はつながったその場で分かります。しかし最大到達距離は受信報告書を受け取って始めて、「こんなところまで届いていたんだ」と分かる類のもので即時性がなく、1~2ヶ月も経った頃に喜びがやってきます。秋になってから、海外雑誌の読者の受信レポート欄にJ1AAを聞いたとする報告を見付けたり、受信報告書が届きました。

逓信省工務局では交信記録よりも、東海岸ニューヨーク2AMJ局や、倫敦(ロンドン)の6LJ局から来た、J1AA受信報告に強い関心を抱きました。

【参考】現在のアマチュア無線では聞こえたDX局を呼んでも、交信に至らなかければ単なる「失敗」ですが、通信の世界では一方通行の回線もあり、相互交信しなくても、ただ届くだけでも大きな意味を持っていました。従って最大交信距離以上に最大到達距離に関心があったようです。

『それ(アルゼンチンのBA1)よりも距離の近い紐育(ニュ―ヨーク)や倫敦(ロンドン)とは陸地が多く、また電波の道が北極地方を通るので、長波長においても本邦と通信するのに最も至難の場所とされておった。短波長も同様でまだ通信した記録はないが、しかし空中状態の悪い八月九日に紐育(ニューヨーク)のu6AMJ局で岩槻が受信され、また同月十九日には倫敦(ロンドン)のg6LJ局で受信されたという情報が手もとに達している。当方でも同時刻に紐育や倫敦を受けているので、更新の可能なることは予想されている。』 (荒川大太郎, 前掲書, p72)

 

大阪毎日新聞(大正15年10月6日)に『倫敦まで感じた 日本の超短波長 確実に成功を認められる岩槻新無電所の試験』という記事があるので一部引用します。文中の「ニューユークの素人局」とは、上記の2AMJ局です。

『岩槻の送信装置はわづかに数百ワットに過ぎないからその通達範囲も前記米国、豪州、南米方面だけしか応答を得ないが、最近季節の関係か、ニューヨーク市の素人局にも感応し、また八月十九日発行のワイアレス・ウォールド誌によるとロンドン市の素人局にも感応したいといはれ漸次長距離にも達することが判明した。』 ("倫敦まで感じた", 『大阪毎日新聞』, 1926.10.6)

 

大阪毎日新聞が伝えた 英国の無線誌Wireless World(8月19日号)には、S. K. Lewer氏(6LJ)が8月4日pm11:00GMTにJ1AAを受信した報告しています。

『SHORT WAVE SIGNALS FROM JAPAN

Mr. S. K. Lewer (G6LJ), of West Hampstead, London, has picked up signals from a Japanese amateur station which, judging from the call sign, is the first to be licensed in that country.   This station, J1AA, of Tokio, was heard on weak C.W. at 11 p.m. (G.M.T.) on August 4th, transmitting on about 42 meters. 』 (S. K. Lewer, The Wireless World, Aug.19, 1925, p222)

 

下記左図がその後、岩槻に到着した受信報告書ですが、8月5日24:00GMTです。また同じく英国(サウスウェールズ)の6YS(下記右図)からも受信報告が届きましたが、この写真では8月何日かはよく分かりません(August 1?th, 1925)。

 【注】 右カードのG6YSの「G」の文字は英国を示す国際中間符号と呼ばれるものであり、呼出符号はあくまで「6YS」です。「G6YS」ではありませんので念のため。

61) 日本海軍の短波試験の大ピンチを救った、ロサンゼルスのアマチュア無線家

1925年(大正14年)10月17日、軍艦「多摩」の出光萬衛門艦長より、海軍省軍務局長、海軍水雷学校長、海軍技術研究所長に「短波長通信試験実施経過成績ならびに所見」(10月10日付)が提出されました。

 

この報告書の第三節、第二項「実験経過概要」から全体像を引用しますが、特に下表の9月2日の赤字の部分にご注目ください。(判別不能の文字は●としました)

 

1925年(大正14年)8月6日15時、短波の実験機材を設備した軍艦「多摩」は横浜港を出ましたが、自慢のスーパーヘテロダイン受信機が動作しないことに気付きました。レーナッツ方式の受信機で実験を続けたものの、 ホノルル(ハワイ)から桑港(サンフランシスコ)に向かうに連れて、日本の電波を受けるのが難しくなってきたのです。こんな大掛かりな短波実験はそう何度も行えるものではないので、さぞや担当通信士は青くなったことでしょう。

スーパーヘテロダインの再調整と、新たな受信機の製作に取り組みましたが思うように性能を出せず、周辺のアマチュア無線家に短波受信機の修理や調整方法の助言を受けようと西海岸のアマチュア局と交信を始めました。

『極力桑港、羅府方面にある素人無線家と交際し、優秀受信機の見学研究に努めたり。散港出港前、羅府某素人無線家より短波受信機を譲り受け、九月二日以後これを使用し・・・(略)・・・東京電信所および技術研究所の送信を受信し得たり。』

この捨身の作戦は大成功で、技術的アドバイスだけでなく、短波受信機そのものを譲ってもらうことにも成功したのです。軍艦多摩の通信士は散港(サンペドロ)から羅府(ロサンゼルス)のアマチュア無線家の自宅を訪問したようです。

 

第四節、第七項「二十米ないし六十米の波長において通信効果最も良好なる波長およびこの波長帯において軍用通信として最も適良なる波長」では、以下のようにまとめられました。

『以上の諸事実験を総合するに、将来軍用通信としての波長は四十五米ないし五十米の間に選定するを適良とすべし。けだし短波長通信の生命とする所は小電力をもって遠距離通信を行うにあるをもって通信効果最も大なる五十米付近の波長を選定するを可とし、かつ太平洋上における混信少なき波長を可とするをもてなり。但し右の結論は本実験成績の精細なる研究を経たるものにあらず。かつ駆逐艦、潜水艦、航空機等の使用波長に関してはなお研究を積まざる経からざるを重ねて切言す。』 (軍艦多摩, 前掲書)

 

アマチュアに助けてもらったのは受信機だけではなかったようです。第四節、第十一項にはアマチュア無線家から送信機の周波数ドリフトを押さえる回路図とその実物を見せてもらったことが報告されています。

『1.本実験に使用したる送受信機について

イ、送信機

東京電信所ならびに技術研究所の送信は比較的不安定なるに反し、米国素人通信、海軍軍用通信および商用通信は、はなはだ安定にしてほとんど従来の長波長通信と異なる事なし。これが原因は種々あるべきも送信機の構造に関係するところ大なるものあるは想像に難からず。

羅府某素人無線家の言によれば、今回使用せし送信機回路はその構造簡単にして製作容易なるも、同調尖鋭に過ぎるをもって、現今米国素人間には多く採用されいららずとて、自己製作にかかる別図五十「ワット」送信機を示せり。本送信機は「ロスアンゼルス」対「ピッツバーグ」の米大陸横断通信に使用し至極安定良好なる成績を収めつつあるものなり。』 (軍艦多摩, 前傾書)

62) 日本無線史にも記録された、軍艦多摩の通信長と「ロスの受信機研究家」 

軍艦「多摩」の短波長太平洋横断通信試験を、我国の電波正史ともいえる日本無線史第10巻から引用します。まず横浜出港からハワイの部分です。

『軍艦多摩の艦長は海軍大佐出光万兵衛(海軍通信界の功労者)、通信長は海軍大尉野村留吉(海軍大学の選科学生として特に無線通信を専攻した者)で、この通信試験には極めて適任で、艦船相手の実験としては比類のない優秀な信頼し得る成績を得た。

横浜出港以来天候は終始快晴、海波ほとんどなき平穏なる航海であった。軍艦多摩は所定の方案に従い、東京無線電信所および技術研究所との外に、連合艦隊の指定艦(巡洋艦鬼怒)と交信しつつ、太平洋を横断し、ハワイ島ホノルルに到着するまでは、とにかく通信連絡は可能であった(もちろん交信時間は夜間が多かった)。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第10巻, 電波監理委員会, 1951, p78)

 

しかしスーパーヘテロダイン受信機が動作しない為、通信試験に支障が出始めます。そして日本無線史には次のように記録されました。

『ハワイ島出港後は、夜間受信は相当困難となり、桑港附近になったときにはほとんど不可能となった。たまたまロサンゼルス在泊中、偶然にも受信機の研究に興味を抱いている一米国人と知り合いになり、軍艦多摩の野村通信長がこの米国人の研究より暗示を得、艦内にて受信装置を仮製し、桑港へ再び回航し、同港在泊中この仮製受信機にて一般受信状況を試査せしに、東京方面の夜間通信は明確に聴取することが出来たのである。』 (前掲書, p78)

受信機の不調に悩んでいたら、偶然にもロサンゼルスで受信機研究家と知り合いになり・・・、とのことです。まだ短波研究が始まったばかりの、この時代にそんなに都合良く短波研究家と出会えるはずはないでしょう。さらに日本無線史ではこの米国人研究家から暗示を得て、まるで我が帝国海軍が短波受信機を急遽作り上げたかの "武勇伝" 的な記述ともいえます。

出光艦長の報告書(前掲)『羅府某素人無線家より短波受信機を譲り受け、九月二日以後これを使用し・・・(略)・・・東京電信所および技術研究所の送信を受信し得たり。』と、なぜこんなに異なるのか想像力を働かせてみました。

 

日本無線史の編纂が始まったのは、焦土と化した我が国土を進駐軍が闊歩し、すべての日本人が自信喪失していた1948-9年(昭和23-4年)で、第10巻(海軍無線史)を執筆されたのは海軍技研で短波研究に従事した谷恵吉郎氏らでした。海軍は解体されるし、公職追放の追い討ちを受けた元海軍電波関係者としては、帝国海軍がアメリカ人に助けられたとは書きたくなく、(アメリカ人研究者より暗示を得て、)我が帝国海軍が立派な受信機を完成させたとしたのかも知れません。それは日本人として心情的に理解できるような気がしますが、皆さんいかがでしょうか。

 

さて日本無線史からの引用を続けます。75周年祭はパレードや記念イベント、晩さん会などが半月間ほど続くもので、その様子を無線電報局KFSやKPH経由で日本に送りたくても、サンフランシスコ港付近は多くの商船で混雑し、軍艦「多摩」の受信機は激しい混信で使いものになりませんでした。そこで(ロスのマチュア無線家から譲り受けた)短波受信機が大活躍したのです。

『そこでじらい桑港在泊十日間毎夜東京と自由に交信し得た。この太平洋横断夜間通信の可能となったため桑港における七十五年祭のその日その日の状況を、毎夜その都度東京無線電信所を経由して海軍省に報告する事が出来た。

往航には送受信機装備後の検査および訓練の時間が充分に無かったため、実験中故障突発等のことあり、思わしき成績を出すことが出来なかったが、復航は順調に実験が遂行され、信頼し得る良好な成績が得られた。』 (前掲書, p78)

帝国海軍と米国アマチュアの交流がなければ、この短波長太平洋航海通信試験の成功はなかったといっても良いかも知れません。

 

軍艦「多摩」には有坂磐雄氏(JLYB)の同級生、愛甲文雄氏が実地訓練生として乗船していました。また有坂氏はこの時期に戦艦「金剛」の通信士として乗船しており、多摩-金剛間の短波帯による船間直接通信に成功通信に成功したようです。「有坂磐雄伝」より愛甲氏の回想部分を引用します。

『・・・大正十四年八月、少尉に任官したとき、私は儀礼艦"多摩"の臨時乗員で北米サンフランシスコに行った。その時有坂は戦艦"金剛"の通信士で、日本ではじめて短波無線電信機を作り、"多摩"と直接通信の試験通信をやった。日本本土と直接通信が出来たのは、これがはじめてである。有坂のお陰で"金剛"と "多摩"の通信関係者は当局から表彰された。』 (岡本次郎/木賀忠雄, 『電波と共に:有坂磐雄伝』, pp9-10)

 

1984年(昭和59年)8月27日、水交会において行われた海軍反省会に出席された愛甲文雄氏の発言も引用しておきます。

『・・・(略)・・・今の野村(留吉・兵46)さんの件に関して言いますが、私は大正十三年(注:T14年の誤り)にですね、多摩がですね、米国の大使が日本で死にまして、バンクロフト(Edgar A. Bancroft)というんですが、そして、その遺骸をもってサンフランシスコに行って渡したんですよ。

その基は、私のクラスに有坂磐雄(兵51)という本当に電波の神様がいました。お父さんは、あれは技術中将で、有坂砲を作った人(有坂鉊蔵・造兵中将)なんです。その有坂(磐雄・兵51)がですね、金剛の通信士のとき、小倉真二(兵43)さんですかな、それが金剛の通信長です。そして有坂が通信士です。有坂(磐雄・兵51)がちょうど短波通信を考案してですね、そして金剛で発信して、それを多摩がアメリカに着くまでずーっと連絡しとって、多摩と直接通信ができたのはそれがはじめてです。』 (戸高一成編集,『 [証言録] 海軍反省会7』, 2014, PHP研究所)

 

なおこの金剛(日本)-多摩(米)の軍艦間通信は、軍艦「多摩」の公式報告書には登場しませんので、有坂氏と愛甲氏の個人的実験の可能性も否定できません。

63) 帝国海軍、呂号53潜水艦で短波試験

潜水艦の任務遂行において無線通信の必要性を強く感じていた、帝国海軍第11潜水隊所属の呂号53潜水艦乗員の後藤中尉は、1924年(大正13年)12月より潜水艦用無線通信の研究に取り組んでいました。1925年(大正14年)8月には「水中無線電信送信及受信実験報告」をまとめました。

 

さらに1925年(大正14年)9月15-16日の潜水学校教程演習の際に、瀬戸内海西部の豊後水道付近にて、呂号第五十三潜水艦と呉海軍無線電信所および佐世保無線電信所間にて短波長による通信試験を実施しました。これには波長30-70m(周波数4.3-10.0MHz)でループアンテナが用いられました。

 

1925年(大正14年)11月30日、その実験結果は極秘「潜水艦ニ於ケル超短波長送受信機ノ実験研究ニ関スル報告」として、第十一潜水隊より海軍艦政本部第三部へ提出されましたが、その概要は以下のとおりです。

 

◎ 受信について

呉軍港在泊中はもちろん航海中でも、サンフランシスコからハワイに向かう軍艦多摩がループアンテナで強力に受信できていた。遠洋において単独行動をとる場合でも本国よりの情報を受け取れ、かつ敵通信を遠距離から傍受できることは戦略上の価値は極めて大である。

◎ 送信について

今回は呉海軍無線電信所・佐世保海軍無線電信所との通信は不調に終わったが、短波長の発達は世界的趨勢であり、昼夜による伝播差、波長による伝播差など、今後も徹底的に短波の性質を研究する必要がる。

64) 朝鮮総督府逓信局 無線実験室の短波長実験施設 J8AA が開局

逓信省の3番目の「J+数字+2文字」コールサインが誕生しました。J8AAです。下の写真(1925年頃撮影)が朝鮮総督府逓信局の敷地内にあった、無線実験室の建屋で、ここに短波実験施設J8AAが設置されました。

まず『日本無線史』 第一巻より引用します。

『大正十四年の夏から冬にかけて、大連や京城(ソウル)にも二〇〇W程度の送信機が出来たので岩槻(J1AA)と交信し長波に匹敵する好成績を得た。』

 

J8AAのオペレーターだった朝鮮総督府逓信局工務課の梅田吉郎氏の記事をもってさえ、その開局時期は1925年(大正14年)の夏頃のような、秋頃のようなではっきりしません(次の記事では大正14年秋ごろ開始です)。

『朝鮮逓信局の無線実験室からJ8AAの仮符号で短波長電信を送信したのは昨年の秋頃からで最初朝鮮内地で受信してみたが、あるいは跳躍距離内に近かったものか、感度すこぶる低く一、二百哩以内にては距離の遠近による強度の差ほとんどない様であった実は当時波長と距離との関係を重大に考究しなかったからと思う。』 (梅田吉郎, 朝鮮の短波長実験成績の概要, 『無線と実験』, 1926.7, 無線実験社, p484)

 

また次の記事では大正14年夏ごろ開始としました。

『電機器材を集めるのに骨の折れる当地では、いよいよ短波の送受信機を作って実験したのは昨年夏頃からで、逓信局構内の無線実験室からJ8AAの仮呼出符号で送信し、鮮内各地で受信実験をやったが当時は二〇米ないし二八米、および三六米ないし四一米の間で試験をしたがあまり成績良好ではなかった。それは試験距離が短か過ぎあるいは跳躍現象のためであった事と思う。』 (梅田吉郎, "朝鮮の短波長", 『ラヂオの日本』, 1926.8, 日本ラヂオ協会, p45)

 

両記事とも似た内容ですが(上記引用部分だけを比較してもお解りになるかと思いますが)、産・学・官・軍の各界の協賛を得て設立された社団法人日本ラヂオ協会が発行する「ラヂオの日本」の記事の方が多少詳しく書かれています。

JARLの初代機関誌となった大正15年発行の「無線之研究」にJ8AAが聞こえたとレポートされているほか、ARRLのQST誌にもJ8AAは登場するのですが、その実態が明かされたものは上記二誌に限られます。その意味において梅田吉朗氏の記事および氏が投稿されたJ8AA無線実験室の写真(上記)は非常に貴重なものでしょう。左図はやはり梅田氏が電気学会への論文(1933年)で使用した無線実験室の写真です。

朝鮮総督府逓信局の飯倉文甫工務課長が日本ラヂオ協会の評議員に選出されており、「ラヂオの日本」などの編集幹事である荒川大太郎技師から、J8AAの活動を紹介するよう飯倉課長へ依頼があったのではないでしょうか。なお無線実験室で主に短波の実験(J8AA)を担当したのが梅田吉郎技手で、中波ラジオ放送の実験を担当したのが篠原昌三技手(京城放送局の設立で転籍し、終戦時は京城放送局長)でした。

 

とにかくJ8AAの最初の実験は1925年(大正14年)年の夏または秋頃に朝鮮逓信局のエリア内を対象として行われ、波長20-28m(周波数10.7-15MHz)と36-41m(7.3-8.3MHz)が使用されました。また日本無線史に登場する大連(関東州)の短波実験局についてはまったく不明です。4月に荒川技師が沙河口受信所に出張し、岩槻J1AAの受信テストを行ったという実績があることから、私はこの大連無線電信局沙河口受信所に短波送信機が仮設されたと想像します。

65) 1925年夏、実験施設のDistrict Number(エリア番号)の方針決定?

無線局の免許発行事務は1925年(大正14年)5月12日以降は新設された電務局の所管となりました。岩槻受信所建設現場と東京芝の官連実験室のコールサインは、(通信局時代に)J1AA(4月)とJ1PP(5月)を使い始めました。しかしこの種の実験を目的とする、他の短波施設にも、同種の数字付き呼出符号を発給したかというとそうではありません。例えば落石無線電信局JOCは長波の実用局のコールサインをそのまま使いました(春洋丸JSHの短波試験もそうです)。鹿児島無線電信局は実用局JKB(第一装置:長波)とは別に第二装置(短波用)にJBKの指定を受けました。のちに東京無線電信局の検見川送信所や大阪無線電信局の平野郷無線局にも短波送信機が装備されましたが、その呼出符号は(実用局の形式である)JYZ, JYB, JPPや、JES, JEW でした。

このように既に実用局のコールサインが指定されていればそれを用い、新規であれば実用局形式の呼出符号の指定を受けましたが、朝鮮総督府逓信局が運営する無線実験室の短波装置に何らかの呼出符号を決める必要がありました。逓信省では米国アマチュアの呼出符号の頭の数字(Radio District Number:いわゆるエリア番号)が、米商務省の電波局(Radio Division)の行政管理エリア単位で分けていることを承知しており、J1AA、J1PPの前例にならい、この実験局を「J8AA」としました。

(アメリカではコールサインの番号が電波行政区であることを、逓信省が知っていた件については、J1AAのページの最後の方にある "J1AAというコールサインについて" を参照してください。)

上図左表は「逓信一覧 第三十四回」 (大正十四年十二月調べ, 逓信省大臣官房文書課) p9にある、各地の逓信局の場所とその管轄エリアの表です。ちょうどJ8AAのコールサインを決めた年のものです。この表の逓信局の掲載順序(右から左への順番)にご注目ください。東京→名古屋→大阪→広島→熊本→仙台→札幌の順番です。

 

また同書p4には組織図がありますが、そこから各逓信局の部分を抜き出したのが左図です。やはり右から左への各逓信局を並べる順序は先ほどの例と同じです。もし東京逓信局を1番として、この順番で数字を振って行くと、名古屋逓信局2、大阪逓信局3、広島逓信局4、熊本逓信局5、仙台逓信局6、札幌逓信局7になります(左図赤数字)。すなわち内地(日本本土)が1から7番なので、朝鮮総督府逓信局は8番になったと考えられます。

 

東京の1番と、朝鮮の8番についてはJ1AA, J1PP, J8AAという事実があるので疑う余地はありませんが、2番から7番は証明できるような文献は残念ながら発掘されていません。しかしRadio District Number を(地形的なエリアではなく)電波行政区により割振っている米国の例があること、そして各地方逓信局には既に常用されている「お決まりの」順番があったわけですから、余程特別な理由でもない限り、この順番を念頭に置いたと考えます。

【参考】1908年(明治41年)5月16日、日本初の公衆通信を行なう現業無線局として銚子無線電信局(海岸局)JCSと天洋丸無線電信局(船舶局)TTYが開局しました。その2年後の1910年(明治43年)4月の逓信管理局官制の公布により、全国13エリア(東京、横浜、長野、新潟、名古屋、金沢、大阪、神戸、広島、熊本、長崎、仙台、札幌)に逓信管理局を設置しましたが、1913年(大正2年)6月13日に地方逓信官署官制を公布し、(逓信管理局を廃し)全国5エリア(東部、西部、北部、九州、北海道)に逓信局が置かれました。そして1919年(大正8年)5月14日、地方逓信官署官制を改正する勅令により、全国7エリア(東京、名古屋、大阪、広島、熊本、仙台、札幌)に逓信局が設置されました。この勅令にある別表『逓信局 名称、位置及管轄区域表』の中で並べられた順番こそが、「東京→名古屋→大阪→広島→熊本→仙台→札幌」です。これ以降、逓信省の資料や文献はこの順序に従っています。

 

逓信省工務局では大正15年度の予算で札幌・金沢・広島の各郵便局で短波実用局を建設することになりました(昭和2年4月に運用開始)。これら郵便局は無線施設としては新規なので既得の呼出符号がなく、送信試験に J7AA(札幌)、J2AA(金沢)、J4AA(広島)が指定されてもおかしくはなかったはずです。しかし札幌郵便局の施設が完成したのは、1927年(昭和2年)1月7日と8日に実施された、第二次国内通信試験の直前で、金沢郵便局・広島郵便局はまだ準備中でした。この国内通信試験の責任者でもあった官錬J1PPの小野孝技師が、電信電話学会(現:電子情報通信学会)の論文によると札幌郵便局はJ7AAではなくJPSを使用しました(小野孝, 国内短波長通信に就いて, 電信電話学会雑誌, 1927.3, p197)。従ってこのあと準備が整った、金沢郵便局と広島郵便局がJ2AAやJ4AAを使ったとは考えにくいです。(2番から7番の発行例があればと思ったのですが、残念です。)

なお金沢郵便局JKVは海外のアマチュア局とも試験交信していますので参考までに引用します。『短波無線は非常の際に有線通信が途絶した場合に備えるためと、有線通信の補助として重要都市間連絡を目的としたもので、金沢においては昭和二年五月一日から事務を開始した。開設の初期における相手局は、東京無線局と大阪無線局であったが、また遠くオーストラリア、ニュージーランド、ジャワ、アメリカ西海岸とも試験的に交信している。』 (『北陸の電信電話:その九十年の歩み』, 北陸電気通信局, pp197-198, 1964)

金沢郵便局JKVのアマチュアとの交流はかなり後まで続いていたようで、1929年(昭和4年)のオーストラリアのThe Advertiser紙(Oct.12,1929)のAmateur Notes欄にVK5RXの記事があります(左図)。

 

のちの1927年(昭和2年)のワシントン会議にて、(アマチュアを含む)実験局の呼出符号を「国籍+数字+文字」と定めたため、この1925年(大正14年)夏頃に暫定的に決めたと推定される日本版 Radio District Numberが、そのまま採用されたのではないでしょうか。

なお岩槻受信所建設現場のJ1AAは1930年(昭和5年)から検見川送信で無線電話の実験局として復活しました。さらに1937年(昭和12年)からは小山送信所で対ニューヨーク(RCA社, MKY社)向けの電波伝播試験用の実験局として活躍しました。このときにはマドリッド会議で(アマチュアを除く)呼出符号の数字に0と1を使用するのを禁じられていたため、数字の1を2に変えて呼出符号「J2AA」を用いました。

66) J1PP の呼出符号は大正13年から使用されたのか?

J1PPとJ8AAはとても似た面があります。東京放送局JOAKの放送開始に先立ち、1924年(大正13年)春より、技術試験を目的に開局したのが逓信官吏練習所内に置かれた逓信省工務局の実験放送局です。1925年(大正14年)春には短波長による無線電話実験を目的にJ1PPか施設されました。

そして京城放送局JODKの放送開始に先立ち、1924年(大正13年)より実験放送を始めたのが、朝鮮総督府逓信局構内の無線実験室の実験放送局です。朝鮮逓信局の佐々木技師の記事を引用します。

『京城では逓信局実験室からマルコニー、ユー、ビー、四百ワット機で毎週四回、夜間放送をなしつつある。これらは再生を施した二球式以上の機械なら、少なくとも夜間は鮮内どこでも聴取し得るはずである。・・・(略)・・・京城放送局(社団法人)が、既に放送機(マルコニー、Q型六キロ)の注文を発し、今秋よりその事業を開始しようとするまでの運びとなったことは、半島住民のために誠に幸いなことであり、一般の期待もかなり大きいようである。』 (佐々木仁, "ラヂオを受けて", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, p47)

1925年(大正14年)の夏から秋頃には短波実験用にJ8AAを開局し、1926年(大正15年)1月からは短波長の無線電話実験を開始しました。J1PP(東京)とJ8AA(京城)は、ほぼ同様の開拓の道をたどったといえるでしょう。まずJOAKに先立って行われた官練の実験放送から振返ってみます。

 

1940年(昭和15年)に放送開始15周年を記念して、電気通信協会は放送・電波関係者に執筆を依頼し、電気通信誌の記念号を発行しました。その中にJ1PPを指揮・指導していた小野孝氏の記事があります(左図の左側)。

『そこで、逓信省は放送局技術要員の養成かたわら、放送開始一年前の大正十三年に、芝区の逓信官吏練習所のバラック建てに、GE社製一キロワット機を据付け、JIAAと称し、佐々木諦君が主として約一カ年間にわたりこの実地試験を、昼夜の別なく担任してくれた。』 (小野孝, 放送技術後日談, 『電気通信』第3巻第9号 放送拾五周年記念号, 1940.6, 電気通信協会, p93)

この記事はこのあと(岩槻から)検見川に移ったJ1AAの国際放送の話題になるため、小野氏は官錬のJ1PPのコールサインをついJ1AAと誤記してしまったようです。しかしこの逓信協会の記事は「小野さんの生涯」 (故小野孝君記念刊行会, 1955)に遺稿集として転載された際に、関係者の手により「J1PP」に訂正されました。(左図の右側)

 

小野氏によると、あたかも大正13年に官錬実験室から行われたラジオの実験放送のコールサインがJ1PPだったような表現です。この実験放送は新聞や雑誌など多くのメディアに取り上げられましたが、『こちらは逓信官吏練習所であります』というアナウンスはあっても「J1PP」というコールサインが使われたという話はまったく見当たりません。もしそんなことがあったなら過激で先鋭的な「無線と実験」誌が一番で取り上げていたでしょう。

1924年(大正13年)5月29日に無線と実験社の記者が官練の実験放送局を取材訪問した記事があります。

『受信室の隣は、例の「本日は晴天なり」 「皆さん聞こえますか」と姿は見えねど御声ではお馴染みのマイクロフォンがある部屋である。・・・(略)・・・アナウンサーすなわち「本日は晴天なり。聞こえますか」とやっている人は練習所の学生が誰でも暇にやるそうな。しかし一時間も二時間もしゃべり続けるとたいていはくたびれて、最初の間は音声明瞭で、調子も何びとにも聞こえる様にゆっくりやっているが、しまいには声も枯れてくるし調子も早くなってくるのだといっていた。』 ("本日は晴天なり こちらは芝の逓信官吏練習所であります。聞こえますか?", 『無線と実験』, 1924.7, 無線実験社, p175)

 

JOAKの開局することになり、官錬無線実験室の実験放送は終了しました。そしてJ1PPのコールサインで短波実験はじまりましたが、場所が同じ官錬実験室なので、J1PPが官練を代表する意味において、小野氏がそう表現しただけではないでしょうか。すなわち大正13年の実験放送では、J1PPの呼出符号はまだ使われていないと私は考えています。

67) J8AA の呼出符号も大正13年から使われていたのか?

Web上では「大正13年から朝鮮逓信局がJ8AAの呼出符号でラジオの実験放送を行った」とする記述も見受けられます。しかし私は大正13年11月に始まった朝鮮逓信局による実験放送には呼出符号J8AAは使用されていないと思うのです。前述のとおり朝鮮逓信局の無線実験室では大正14年夏~秋頃からJ8AAで短波実験が始まりましたが、同じ無線実験室からラジオの実験放送も行っていたため、(ひっくるめて)そう言われるようになったのではないでしょうか?

【感想】 一般的には「J+数字+2文字」という構成のコールサインは、J1AAの河原猛夫氏が1925年(大正14年)4月に考案したもので、これにJ1PPやJ8AAが追従したといわれており、私はそれを支持したいと思います。もしJ1AAよりも先行して、大正13年からJ1PPやJ8AAが使われていたとするなら、その頃から逓信省ではDistrict Number(エリアナンバー)を決めていたことになってしまいます。

 

なおJ1PPはJOAKが開局したあと(すなわち官練の実験放送を終了したあとで)施設されました。つまり官錬では中波の電話(放送)実験と短波の電話実験は期間的にダブっていません。しかしJ8AAは中波の実験放送を行っている最中(大正14年の夏から秋)に短波実験を始め、1年半の平行運用期間がある点が大きく異なっています。朝鮮逓信局の中波の実験放送が終わったのは1927年(昭和2年)1月16日で、京城放送局の試験放送開始(2月26日)の直前でした(左図:「打切った逓信局ラジオ放送」, 朝鮮, 1927.2 ,朝鮮総督府, p151)。なお京城放送局の試験放送開始を2月20日とする文献が多いので、開始がはやまったようです。

 

1926年(大正15年)2月の朝鮮逓信局訪問記があります。筆者は衆立無線研究所の飯塚良造氏で、梅田技手と篠原技手を取材したうえで、ラジオの実験放送にはJ8AAの呼出符号を使っていないと伝えています。

『東京出発は二月九日でありまして、二昼夜にて京城に着きました。どこへ行っても屋上を見渡してアンテナの有無に注目するのは職務上の習慣性で車窓より見る朝鮮の大都市には必ず多少の空中線を見受けました。

まず第一に首脳部たる総督府逓信局工務課を訪問しました。ラジオ放送の選任技手たる、梅田、篠原両君に面接し、篠原技手の案内にて放送室を見せて頂きました。放送機はウエスタンであります。ただ今は入力二五〇ワット、波長四百米をもって毎週日、火、木、金の四回、午後六時より八時半頃まで約二時間放送しております。国際的コールは使用せず放送前後に「朝鮮逓信局」とのみ申しております。プログラムは内地と大同小異で肉声放送であります。レコードは出演者の遅刻の時のつなぎだけで、私の滞在中、五月信子なども出演放送しておりました。・・・(略)・・・短波長もナカナカ熱心に研究されております。波長は主として四十米、五十ワットをもって放送され、夜間は埼玉県岩槻などより受信せりとの通知に接するそうです。電話はレコードであります。内地と異なり優秀な部分品を得るのに不便ゆえ、大部分はお粗末なる御手製なれども優秀なる成績を上げいるのは感服の至りであります。もっとも測定器は神田三敬社製の万能ブリッジおよび安中製のショート・ウエーブ・メーターなどが備付けてありました。

なお佐々木課長よりの御依頼でありましたが内地の熱心なるファン諸君で、もし朝鮮の放送をキャッチした場合は、その時の参考になる種々なる状態を逓信局工務課長宛に御報知願いたいと申されました。』 (飯塚良造, "朝鮮におけるラジオ界の視察記", 『無線と実験』, 1926.4, 無線実験社, p732)

68) 歴史に残らなかった、逓信省の太平洋移動受信試験(大正14年9月)

1925年(大正14年)9月、逓信省は北海道の落石無線局JOCから短波送信させて、それを工務局の伊藤豊技師がサンフランシスコ航路の春洋丸で移動しながら受信する試験を実施しました。これに関する対外発表はありませんでしたが、客観的にみて実施されたのは間違いないと考えます。

1958年(昭和33年)4月5日、東京の国際文化会館にて「電波界今昔」という座談会が行われました。元逓信組の荒川大太郎・伊藤豊・石川武三郎・網島毅の各氏、元陸軍技研の河野健雄氏、元海軍技研の谷恵吉郎氏、元NHK組の苫米地貢氏と中村寅市氏、そして現役郵政組から浜田成徳・西崎太郎・荘宏の各氏および電波研究所から米村嘉一郎氏という、電波界の重鎮が集まりました。明治時代から順に、皆さんが電波研究の昔話を語るという興味深い「電波時報」の企画で、司会は郵政省電波監理局の荘次長でした。

『司会 次に短波及び超短波時代ということで、それぞれの初まりのお話を願いたい。

伊藤 一番初めに太平洋横断の短波試験をやったのだがさっぱり報いられない。それは大正14年の9月20何日かの横浜発春洋丸で米国へ出張したときの話ですが、その頃アマチュアの40メートル近辺の波が馬鹿に遠く世界中ほとんどどこへでも届くということが分かりまして、逓信のほうでも短波の試験をやろうということになり、ちょうど僕がアメリカへ長津君と行くことになったので、落石からする試験電波を、フレンチバルブのベースメタルをもぎとったチャチな受信機で横浜からサンフランシスコまで毎晩一生懸命に聞いて行った。その結果は報告してある。これが我国最初の太平洋横断の短波試験のはずです。この受信試験は落石が暗くならぬとやれぬので日本を出て数日の間はまだ宵の口だからいいが、だんだん船が東に行くに従って時間が食い違ってくる。船の方ではとっくに日が暮れても、落石はまだ暮れない。

サンフランシスコ近くになると、約七時間も違い、もう真夜中になる。しかしこれも逓信省命によるのだから我慢したが、この貴重な事件がどの記録にも載っていない。これは正式記録に載せるべきだと思う。なおこの試験は春洋丸局長 水野君、局員唐津、清水両君の協力によって行われたものであることを付けくわえておく。

荒川 君の行ったのは何年。

伊藤 14年9月。

荒川 その前からやっていたのだから。

石川 年度を間違えてるのじゃない。

荒川 その前にやったから出来たのだろう。それをやる動機があったのだ。

伊藤 アマチュアみたいのことは前からやっていたが、太平洋を越えてやったのは初めてだと思う。それが載っていない。

荒川 太平洋を超えたのは、もっと早くやってる。通信には、もちろん使われないが・・・・・。

伊藤 日本ではやっていない。それはそれ用の送信機がなかったことでもわかる。』 ("座談会[電波界今昔]", 『電波時報』, 1958.6, 郵政省電波監理局, p43)

 

伊藤氏は自分の移動受信試験が公式記録に残らなかったことに強い不満があり、「太平洋を超えたのは自分が最初」と発言し、1925年(大正14年)4月6日に日米初交信を成し遂げたJ1AAの現場責任者だった荒川氏がこれに反応しました。実際に伊藤氏の9月より、荒川氏のいう(J1AAの)4月のほうが早いのは間違いありません。でも伊藤氏が言いたかったのは、1926年(大正15年)2月に工務局の河原氏が送信機を春洋丸に積んで、岩槻J1AA/官練J1PP/落石JOCと交信しながら航海したのよりも、自分の方が半年早かったということだったかも知れません。

工務局時代、伊藤氏の上司が荒川氏でしたが、両者の対談はすれ違いのままで、このあと荒川氏がJ1AAやJ1PPの功績を説明したあと、以下のように議論を打ち切りました。

『荒川 それ以後は日本の短波も皆さん御存知のとおりの発展をとげたという状況でありましょう。その時代において、今の伊藤君の功績というものは全く僕も今日初めて聞いたようなわけで、それでそれを表彰しなかった(笑)のは甚だ悪いことで、それだけです。』 (前掲書, p44)

 

伊藤豊氏が大正14年秋に短波受信機を持って渡米したことは大正15年当時の記事からわかります。

『なお聞くがごとくんば、米国海軍はこのアーマチュアの団体と協力して短波長に関する大規模の試験をしているとの事である。

自分が昨年春洋丸で米国へおもむくとき持っていった短波長受信機で航海中傍受したところによると、米艦には四〇メートル付近の短波長を装置したものがたくさんあって、盛んに艦同志はもちろんかなり遠く離れている陸地とも通信していた。短波長にとってこれも難問題のひとつたる音色もなかなかしっかりした美しいもので、かつ感度の変化などもいづれかと言えば少ない方であった。』 (伊藤豊, "米国に於ける短波長界の現況", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, p413)

 

さらにこの件を調べてみると、伊藤氏がこの時期にRCA社との技術者交換研修で渡米したことが日本無線史に記されていました。

『我国からは逓信技師 伊藤豊と 富岡受信所の通信書記 長津定とが同年9月15日横浜を出帆し、桑港(サンフランシスコ)、紐育(ニューヨーク)、ホノルルに滞在してRCAの通信業務と技術、その他米国の一般無線界を調査見学し、翌年十五年二月十一日共に帰朝した。 』 (電波監理委員会編, "日米間無線技術者の交換", 『日本無線史』第一巻, 1925, 電波監理委員会, p142)

 

伊藤氏の出入国の日付がはっきりして、ようやく理由が想像できました。伊藤氏は1925年(大正14年)9月15日に出国なので、春洋丸に持込む受信機や、落石無線局JOCに短波送信機を準備する必要から、少なくとも8月にはこの移動受信が計画されていたのでしょう。確かに短波開拓の歴史としてはかなり早い時期です(J1AA/J1PPには負けますが)。ところが研修出張なので米国滞在期間が長くて、帰国は1926年(大正15年)2月11日でした。

伊藤氏が留守中に、日本では(伊藤氏の後輩にあたる)河原氏が送受信機を春洋丸に積んで日本と交信しながら太平洋を往復する実験が計画されました。伊藤氏が乗って帰った2月11日着の春洋丸に、今度は河原氏が乗り込み2月21日に出港。4月2日に帰国しました。伊藤氏は帰国後、落石JOCからの短波受信試験を記した復命書(いわゆる出張報告書)を提出したと思いますが、4月には河原氏が岩槻J1AA/官練J1PP/落石JOCとの交信試験を記した復命書を出したはずです。

伊藤氏の試験は「受信のみ」、河原氏の試験は「相互交信」なので、せっかくの伊藤氏の功績はすっかり色あせてしまい、上司の荒川氏でさえ忘れてしまったのでしょうか。伊藤氏がもう少し早く帰国していれば、「受信試験」がもっと評価されたかもしれませんね。

69) J1PPというコールサインの由来は Postal Tele-Phone

上記座談会で、官練無線実験室の呼出符号J1PPの「PP」の由来が紹介されました。ちょうど伊藤氏と荒川氏が初の短波試験で議論となって、そこへ司会が割って入り、再度荒川氏へ振ったところです。荒川氏は伊藤氏に言い聞かせるように語り始めます。

『司会 日本の短波の始まりを荒川さん、ひとつ・・・・・

荒川 とにかくね、無線電話という、放送が先だけれども、放送が大正14年に始まったわけなんだけれども、震災があってからね、放送というものは必要だから、放送をやろうというのでやったのだけども、結局逓信官吏練習所に機械を持ち込んでね、無線電話の機械を作った。その頃、それで放送しておったことは皆さん御存知なんだ。

そのときは同時に練習所の河原君と佐々木君がおったわけで、短波の機械をつくったわけだ。その呼出符号がJ1PP という、フォスタル・テレフォンというのでJ1PP というので、それは電話でやった。電信にはJ1AA という電信の符号を作って、あれはなんだけね。最も小さいバルブのMT4かを使って河原君と佐々木君と一生懸命にやった。実験としてはその頃始めた。・・・(略)・・・われわれがアマチュアをよそおって、そうしてJ1AAというので世界中の短波のアマチュアと交信をやった。38メートルだったと思うが記録は忘れちゃった。そこで私はなんだったか、大正15年に英国、アメリカへ行ったら、その頃通信を向うのアマチュアと会った訳なんだけれども、いろいろ話をしたわけで、旧交をあたためたが、われわれが通信をやったのじゃない。やったのは電信では河原君、電話では佐々木君がレコードを掛けたりしてやっていた。・・・(略)・・・岩槻がJ1AAの本拠になっておった。そのときいろいろ試験をやった。その頃は落石に短波はなかった。

伊藤 初めて太平洋を僕が行くというので急ぎやったのではなかったかしら。』 (前掲書, pp43-44)

 

今度は荒川氏の方が勘違いされていて、大正14年の夏頃には落石無線局JOCに短波送信機が持ち込まれています。その施設目的が伊藤氏が乗船する春洋丸へ送信するためかは分かりませんが、とにかく時期はちょうど一致します。

 

官練実験室のコールサインはJ1PPが用いられました。この選定についても金子氏の記事から引用します。

(コールサインは)『この実験にもオペレーターが勝手に決めた。したがって正式なものではないJ1PPという呼出し符号が使われた。逓信省(Postoffice)の電話(Phone)で、J1PPと佐々木技手(故人)が名付けたといわれる。』 (金子俊夫, "ハム前史紀行(1) J1AA 秘話", 『CQ ham radio』, 1976年2月号, CQ出版社, p341)

70) FM成分を多く含むJ1PPの短波無線電話 (小野孝技師の苦悩そして病気)

逓信官吏練習所は古くから無線電話の実験をはじめて、大正13年にはJOAKに先だってラジオの定期実験放送を行いました。ですから、まさか周波数を中波から短波に変えただけでダメになるとは考えもしませんでした。発振器に振幅変調を掛ける方式は、中波では影響が少なくても、波長20mの短波ではFM成分が多く含まれ実用に成らないということに気付かず、試行錯誤を繰返したのです。

『大正十四年四月から十二月まで逓信官吏練習所において我国最初の無線電話の実験(電力一キロ)が行われた。・・・(略)・・・主として小野技師が担任指導し、逓信技手佐々木諦らが実務にあたった。当時は短波のスーパー受信機が無かったのは勿論、四極真空管も未だ日本にはなかったので、鹿児島、落石等で三球再生式セットによる電話受信の試験報告は芳しくなかった。

よって夕刻から夜半にかけ、外国のアマチュアを相手に先ずはモールスで呼出し、直ちに電話に切換えて聞いてもらう方法を毎日繰返したが、自励発振器を振幅変調する送信法であったため周波数変調を伴い、遠方では明瞭度が悪くなって中々了解してくれなかった。当時は自励発振器を変調したのでは明瞭度が悪く雑音率も高いので短波の電話には使えないということが判らなかった。

近距離で試験すれば変調度も深く明瞭度もよいので外国に届かぬのが不思議だという訳で、毎晩遅くまで火の気のない寒いところで頑張ったため、ついに強度の神経痛を病み、しばらくは安静に休養するの止むなきに至ったこともある。』 ("短波の実験", 『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, p13)

ARRLのQST誌は先行するアマチュア達の短波研究の成果が惜しげもなく掲載され、逓信省や海軍省ではQSTから送信回路や受信回路から多くの示唆を得ていました。これもアマチュアが短波を開拓したと賞賛されるゆえんです。しかしアマチュアには短波の無線電話が許可されていない時代でしたので、短波無線電話送信機のお手本がなかったこともあるでしょう。

71) J1PPの第二号機が完成

J1PPの無線電話はなかなか良い成果を出せないまま時が過ぎ、変調方法の改良に明け暮れていました。春に組立てたJ1PP第一号機は、300W級の電信用送信機の自励発振器にプレート変調器を追加し電話用に改造したものですが、9月より製作に着手したJ1PP第二号機は500W級の自励発振器にプレート・チョーク変調したもので10月中旬にいったんの完成をみました。

 

左の写真は官練無線実験室にJ1PP第二号機です。これは当時の書籍, 新聞, 雑誌に使用された有名な写真なのですが、ここに写っている左右の装置の説明が日刊『ラヂオ新聞』(1925.12.29)にあります。川野記者が佐々木技手にインタビューしました。

『写真は左が放送器のモジュレーター、右がオッシレーターです。この実験室にはその他、数種類の短波長受信器があった。これらの受信器にてこの放送局の報告を受信している。』

見分け方ですが、向かって左側の装置上部にはメーターが一つだけですが、向かって右側の装置上部にはメーターが3個並んでいます。メーター3個の方が発振機です。下図[左]は、『無線と実験』1926年(大正15年)2月号の穴沢技手の記事で使われた写真です。また『無線と実験』1925年(大正14年)11月号に掲載された写真が下図[右]で、いずれもメーターが3個ついたもので、これが二号機です。

 

『逓信技師小野孝、河原猛夫、佐々木諦は、九月頃から電話送信機の組立に着手し種々工夫改良の結果、搬送波出力約五〇〇Wの自励式送信機に陽極チョーク変調のいわゆる定電変調方式をもって、短波無線電話機の試作に成功した、そこで昼間の遠距離試験を目標とし、前回同様波長約二〇米の調整を行ったが変調度を深くすると音質が低下して中々よい調整点を求めることが出来なかった。雑音を減少するため送信機の繊條(フィラメント)及び陽極(プレート)電源には全て直流発電機を使用した。

整流子火花の除去には特に苦労したが、十月中旬に至り二〇米電波を約五〇%程度に変調することが可能となったので、鹿児島や台北、京城等に聴取試験を依頼し、鹿児島からは昼間の受話極めて良好との通知に接したが、すでに冬季に入っていたため季節的関係上この程度の短波では諸外国の素人無線局を相手とする遠距離試験が不可能であった。やむを得ず送信機を改作して波長三五米を使用することとし・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, "短波電話の創始時代", 日本無線史第一巻, 1950, 電波監理委員会, p335)

1925年(大正14年)10月中旬にせっかく完成したJ1PPの第二号機(波長20m)でしたが、冬期に向かって世界のアマチュア達が20m帯から再び40m帯へ戻りはじめたため、この第二号機を波長35mへ改造することにしました。そのため短波帯無線電話試験は1925年(大正14年)11月までお預けより落石JOCを対手局として再開されることになります。

72) Wireless World 編集部へ送られた荒川氏の手紙(大正14年10月10日付け)

英国の無線雑誌 Wireless World 誌の11月18日号("Letters to the Editor", pp717-718)に荒川大太郎技師から届いた手紙が写真4枚(内2枚を下に引用)とともに掲載されて、大きな反響を呼びました。荒川氏は8月にアルゼンチンのBA1局と交信したこと等を紹介しています。

[写真に添えられた説明文]

左図:A general view of the Iwatsuki short-wave station (J1AA), controlled by the Japanese Department of Communications.

右図:The short-wave receiver, tuning from 15 to 100 metres, at Iwatsuki.

 

  Sir, - I was very glad to fine the report on page 222 in The Wireless World and Radio Review, August 19th, 1925, that the signals from the station J-1AA were picked up for the first time in your country by Mr. S. K. Lewer (G-6LJ), of West Hampstead. J-1AA is the temporary experimental short-wave station of the Department of Communications, and is not amateur, as was stated in the above issue. The transmitters and receivers are at Iwatsuki Radio Receiving Station, Saitamaken, near Tokio (about 30 kilometres apart). As I have been engaging in the erection of the station and short-wave tests, I am sending you a brief description as follows :-

 A.-- Transmitters.

        No. 1.- Wavelength, 40, 20, and 14.6 m.

                    Valves : One MT -4 (Marconi).

                    Aerial : Inverted L. Height 15 ni., length 15 m.

                    Counterpoise : 3 wires each 3 m. long.

                    Radiation : 1.5 amps.

        No. 2.- Wavelength, 36 m.

                    Valves : Two 13V -204. (G.E.).

                    Aerial and counterpoise : Same

                    Radiation : 2 amps.

       No. 3.- Wavelength about 5 m.

                   Valves : Two UV -203 (G.E.).

                   Aerial : 15 m, vertical copper tube.

                   Radiation : 1 amp.

 B.- Receivers.

      Wavelength : 5 to 100 m.

       Circuit : Low loss grid and plate tuning.

       Valves : Detector and one L.F. amplifier.

  We started the short-wave tests in the beginning of this year. The longest distance communication was recorded during August with BA-1 at Buenos Aires, Argentine, this country being the farthest in the world from our land (about 18,000 kilometres). Signals from all other Continents, Europe, Africa, Australia, and North and South America also reach us ; as an example, 2BR and 2YT in your country, and 2NM, 2DSS, 2LZ, also 2XAF in daylight on 20 metres.

  As our transmissions were picked up both in London and New York, I believe two-way communication on short wave should be possible, and that it will be done within a few months.

  J-1AA usually listens -in from 20.00 to 08.00 G.M.T. on 20 and 40 metres, so I should appreciate it if English amateurs would call the station in the Far East in the night.

  The accompanying photographs of J-1AA will, I hope, be of interest.

D. ARAKAWA

Radio Engineer, Department of Communication

October 10th, 1925.

Tokio, JAPAN.

コールサインJ-1AAは荒川氏が実際に(アマチュア流に)そう書かれたのか、編集部が活字にする際にそう表記したのかは不明です。

73) 1925年(大正14年)10月20日現在における岩槻J1AAの送信機

日本ラヂオ協会の編集幹事を務める工務局の荒川大太郎技師は、1925年(大正14年)10月20日における岩槻受信所建設現場に仮設された短波実験局J1AAの送信装置を公開しました(荒川大太郎, 岩槻に於ける短波長試験成績, ラヂオの日本, 1925.12, 日本ラヂオ協会, p151)

 

◎第一装置

◎第二装置

◎第三装置

 

74) DX通信の上限周波数はいずこに?アマチュアを対手局とする実験の限界

逓信省は1925年(大正14年)春から夏までの時期は、(実験パートナーの申込折衝が不要の)世界のアマチュア局を対手局とし短波帯(80m, 40m, 20m)の知見を蓄積し、先進諸国に追いつこうとしてきました。そうことから逓信省工務局の面々は常々雑誌記事でアマチュアの貢献を賞賛しており、アマチュアの「良き理解者」でもありました。

岩槻の第三装置(60MHz)はARRL主催の夏季試験に間に合うように製作されたものですが、結局5mでは交信実績も、受信報告カードも来ませんでした。この事実から波長20mと5mの間のどこかに、遠距離通信可能な上限周波数が存在することが予見されたのです。しかし米国のアマチュアバンドは200, 80, 40, 20m, 5mで、この方法の限界でした。

【参考】10m Band(28MHz)は1927年のワシントン会議で、また15m Band(21MHz)は第二次大戦後の1947年のアトランティックシティ会議で追加が承認されたバンドです。

 

1925年の冬季に向かってアマチュア達は再び40mへ戻るムーブメントが起きました。前述したとおり、官練無線実験室のJ1PPもこの流れに乗り、波長20mから35mへ改造しています。短波帯の上半分(15-30MHz)は欧米の無線会社により研究が進められました。

1925年11月。ドイツ郵政庁(ナウエン局)と逓信省(岩槻建設現場)はアマチュアバンドのない16m(18.8MHz)と13.5m(22.2MHz)の実験を開始しました。

『昨年11月に至り、更に短き16及13.5メートルにつき受信試験せるに、ナウエン局の両電波の岩槻に於ける受信感度は第八図(13メートルにも略同様)の如くに感応するのは極めて面白き現象というべし。』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p707) 

この第八図とは1925年(大正14年)11月30日14時から12月5日10時まで、1時間おきにナウエンPOF(波長16m)の受信強度をプロットしたものです。連日14時頃から聞こえ始め急激に強度を増し夕方17時にピークに達したあと、急速に弱まり19時にはほとんど聞こえなくなる傾向がはっきりと読み取れました。中上氏はこの現象をさらに追試しました。

『本年一月のナウエン局受信試験と同時に仏国サンタシーズ局FWの43メートル及23メートルを受信せるに、その結果は第十図の如き感度を有す。すなわち43メートルは双方夜間たる時もっとも感度大にして、23mは双方昼間なる時感度最大にして、双方夜間たる時かえって感度小なり。この他米国東海岸のロッキーポイント局WQO 40メートル、ニューブランスウイツクWIZ 39.5メートルの岩槻に於ける感度は第十一図の如し(この曲線は大西洋の夜間なる時 先方の通信を傍受したるのみにして、二十四時間試験せるものに非ず)。 』 (前掲書)

75) アマチュア無線の必要性を 出光艦長が財部彪海軍大臣へ報告

1925年(大正14年)10月20日、軍艦多摩の出光萬衛門艦長より、財部彪海軍大臣へ「軍艦多摩特別任務報告」が提出されました。これは膨大なページ数からなる公式報告書ですが、その「第三章 教育訓練並実験調査事項」、「第二節 各科記事」、「第四 通信科」、「4 所見」の(四)で米国のアマチュア無線の現況と、我国でもアマチュア無線を認めるべきである旨の報告が財部海軍大臣になされました。

 (左図クリックで拡大) 

『米国における素人無線家の活躍はじつに目覚しきものにして米国今日の無線の発達はこれ●素人無線家に負うところ甚大なり。これが素因は国民の富力、教育の普及等種々あるべきも、主として無線通信取締規則の寛大なるにあること言を俟たず。これを我が国の現状に比する時はまさに両者極端に走れるを見る。我が国においてもある程度まで規則を寛大にし一般国民をして無線通信研究の機会を得せしむるは必要なること認む。』 【注】●は私が判別できなかった文字です。『之等(これら)』でしょうか?

 

アマチュアへの短波開放に反対する帝国海軍内で、出光艦長がこのような報告書を海軍大臣に提出したことが、大きな意味を持つことになります。徐々に海軍の態度が軟化しはじめたのです。歴史的な報告書ですのでどうぞクリック拡大しご覧ください。

76) 東京海軍無線電信所(霞ヶ関)から短波帯長距離通信実験が行われる

1925年(大正14年)11月9日、練習艦隊の軍艦磐手(いわて)に短波無線機を装備し、霞ヶ関(現:農水省、厚生省)の海軍省構内にある東京海軍無線電信所と通信しながら、横須賀を出港しました。台湾海峡から東シナ海を南下し、オーストラリア大陸を反時計回りに航海しニュージーランドまで行って、日本の信託統治領の南洋群島経由で帰ってくるという、大規模な短波伝播試験を実施(大正十四年 軍務二第289号)しました。帰国は1926年(大正15年)の4月上旬になりました。

それにしてもさすがは海軍です。いったんやるとなれば実験のスケールが違いますね。この詳細については改めて紹介します。

77) 電気試験所平磯出張所 JHBB の短波試験(12MHz, 300W, 電信電話)

我国の学術的電波研究の総本山である電気試験所第四部は、短波研究において本省工務局(J1AA, J1PP)にすっかり出し抜かれていました。岩槻J1AA(工務局)の日米交信成功の報に刺激され、7月の短波受信研究を手始めに、1925年11月9日より波長25m(12MHz)300Wを発射し、その受信試験を行いました(MT4二球送信機)。

『平磯出張所に於いて大正14年より高岸栄次郎氏、畠山孝吉氏等により、Nauen(独)POX, AGB、Pittsburgh(米)KDKA局等の短波通信を受信しその強度を測ると共に、波長25米、出力300Wの送信機を試作して、平磯より送信し移動受信を行なって距離の増減に対する強度の変化を調べ、東京附近の受信強度はかえってAGB等より遥かに弱い事を知り、いわゆる跳躍距離の存在を見出している。』 (電気試験所編, "短波及び超短波の伝播", 『電気試験所五十年史』, 1944, pp439-440)

 

詳細については横山第四部長と畠山氏の各々が書かれた雑誌記事から引用します。なおこの試験では無線電話も実験していますので官錬無線実験室J1PPに次いで短波で無線電話を発射したのは電気試験所の平磯出張所になります。そして短波のポータブル受信機(再生検波+AF2段)を製作し各地へ移動し受信測定しました。

『短波受信と並行して短波送信機の研究が進められ、ついに大正十四年の十一月に至り、波長二十五米、空中線入力約三〇〇ワットの無線電話機が完成致しましたので、この二十五米の電界強度が距離と共に、どのように変化するかを確めるために、私と、それから今仙台放送局におります鈴木利行君とが、受信機やアンテナをかついで出かけました。 』 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(四)", 『ラヂオの日本』, 1935.7, 日本ラヂオ協会, p41)

 

電気試験所の呼出符号には、逓信省や朝鮮逓信局が使っている「J+1数字+2文字」のものではなく、JHAB(第四部)とJHBB(平磯分室)、JHCB(磯濱分室)という、一般的な4文字コールサインが指定されました。すなわち逓信省は自分達本省と、外局である電気試験所や東京逓信局などをはっきりと区別していました。

『最後に呼出符号指定について一言すべし。当部および平磯出張所は、従来試験あるいは研究の目的をもって、随時電波を発射せり。しかるに近時無線界長足の発展と共に、各所に電波を発射するに至り自他相互を区別するの必要を痛感せるをもって次記無線電信呼出符号および無線電話呼出名称の指定を受け各自の発射する電波なることを明瞭ならしむるためじこん、これを使用することとせり。』 (横山英太郎, 『電気試験所事務報告, 大正15年度・昭和元年度』, 1927.7, 電気試験所, p60)

なお昭和2年に逓信省が海軍省へ提出した短波局リストにJHAB, JHBBは含まれていますが、JHCBの文字は見当たりません。従ってJHCBは長波and/or中波の許可だったと想像されます。

【参考1】 そもそもを言えば、公衆電報ビジネスを扱う無線局のコールサインを重複しないものにしようというベルリン会議以来の国際ルールがあるだけで、公衆電報を扱わないラジオ放送局や電気試験所の実験施設などにJOAKやJHABなどのコールサインを付ける義務などありません。自分達さえ判別できれば各国電波主管庁の裁量に委ねられています。

【参考3】 「J+1数字+2文字」の実験局の呼出符号は逓信省(含む朝鮮総督府逓信局)専用だったようで発給例はJ1AA, J1PP, J8AAの三局だけでした。

【参考3】 大正14年当時の四文字コールサインは「J●●B」の中央の2文字を指定していました。必ずしも●●がアルファベット順とは限らないのですが、電気試験所はHA, HB, HCの連続コールを得ました。 アマチュア無線的に末尾2文字のAB, BB, CB に着目してしまうと当時の事情が見えなくなります。コールサインの構成は私設実験局のページをご覧下さい。

 

逓信省は JHAB, JHBB, JHCB を官報告示していません(J1AA, J1PP, J8AA も同じです)。J1AAのページでも述べましたが、逓信省は血の濃い身内への許可をわざわざ国民へ告示する必要はないと考えていたようです。のちになって1927年(昭和2年)のワシントン会議の決定に従い、第四部JHAB, 平磯JHBB, 磯濱JHCBはそれぞれJ1AF, J1AG, J1AH に変わりましたが、おそらく J1AA-J1AE は逓信省工務局が自分達の実験用に確保し、逓信省の外局用がJ1AF-J1AZ に分配したものと想像します。その意味においては第四部J1AF, 平磯J1AG, 磯濱J1AHのコールサインは逓信本省に次ぐ外局としての先頭コールサインだといえます。

 

その試験結果を横山第四部長が「ラヂオの日本」に寄稿されています。

一 はしがき

短電波は遠距離の方が強勢であるということは周知であるが、この試験では送信局の附近において受信強度は距離と共にいかに変化するかを知り、短電波通信に関する一資料を得んがため、茨城県平磯町電気試験所平磯出張所を送信所とし友部、土浦、阿見、我孫子、東京、岩槻等を受信地とし次の実験をおこなった。その大要をここに報告する。

二 送信装置

送信装置はマルコニー、オスラム会社製真空管MT4、二個を発振管に使用し約三〇〇ワットの空中線電力を得られる様にした。使用電波長は二十五米であって空中線及びカウンターポイズの大きさ及び送信空中線電流は次記の通りである。

表中空中線Bは地表面上に最大の輻射を与ふると考えられた空中線で、使用電波長と空中線の垂直部の有する固有電波長との比が〇.三九になる様にしたものである。

三 受信装置

再生式オーヂオ二段増幅の携帯用受信機を各地に携帯運搬して実験を試みた。その空中線は高さ四米のビーエス二〇番七ケ撚線一條で、カウンターポイズは空中線と同様の大きさのものを用い地上一.五米の高さに設けた。

四 受信成績

各地に於ける試験は大正十四年十一月、行われたのであって、その受信成績を概括すると次表の通りである。

五 受信機に感ずる騒音

・・・(略)・・・

六 結言

・・・(略)・・・終わりに本試験は平磯出張所長 高岸栄次郎氏のもとにありて、主として川添重義氏が送信を担任し、畠山幸吉氏が受信を担任して行われたものである。』 (横山英太郎, "短距離に於ける短電波受信試験", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, p34)

78) JHBB波(電信、電話)の各地での受信状況

畠山幸吉氏の記事から、同氏と鈴木利行氏による各地でのJHBBの受信試験の様子を引用します。

『十一月九日に、いよいよ第十二図の様な受信装置を持って平磯出張所を出掛け、第一の試験場であります友部へ行きましたが、ここでは午後二時から三時までの試験に間に合うために適当な受信地点を探す必要があり、それには重い荷物をぶら下げておっては大変なので、午前中に宿屋に入りましたが、あまりに早い「お着き」だったので、宿屋では妙な顔をし、また友部駅前の交番では、挙動不審としてお巡りさんに怪しまれました。』 (畠山幸吉, "短波の昔ばなし(四)", 『ラヂオの日本』, 1935.7, 日本ラヂオ協会, p42)

各受信試験場ではなるべく平磯方面の見晴らしが開けた場所が選ばれました。以下、前掲書より引用を続けます。

◆ 友部 (11/9-10) 『夜になりますと霧がひどく、そのために受信機がうまく働かなくなってしまい。そのうえ昼間に比較してボディ・エフェクトが甚だしく、受信機の調整が厄介で閉口致しました。この他に列車が通過する時の機械的雑音がこれまた昼間に比してひどく耳につき、思うように受信できませんでしたがこれらの事は屋内の、しかも静かな場所だけで試験しておりました私には、野天の実験というものに対して非常に尊い経験でありました。』

◆ 土浦 (11/10)

『鉄道線路に沿った有線電信線のそばに立ててありました放送聴取用アンテナを借用いたしましたが、電鍵のキークリックが物凄く混信し、受信機が発振していなくても、可聴率が二,〇〇〇以上で全然受信不可能でありました。このキークリックなどは、友部で経験致しました汽車の機械的雑音と共に、夢にも考えなかったものでありますが、面白いことには、JOAKの聴取には、この猛烈なキークリックは少しも妨害にならないということを、このアンテナの持主が申しておりましたが、空電は短波の受信にはさほど苦にはならないのに、空電と似ている?有線電信のキークリックがこれほど妨害になるということは、どうにも不思議でなりませんでした。』 (翌11日の阿見は雨で中止。そして安孫子へ。)

◆ 安孫子 (11/12)

『ここでは雨にあいましたので、二軒の家に就て放送聴取用アンテナの借用をお願い致しましたが、怪しまれて物にならず(後で聞いた事ですが、この二軒のうち一軒は、オメカケサンのお宅だったそうです)、雨の晴れるのを待ってアンテナを立てて受信いたしましたが、ただビートが聞こえるだけでありました。そして私共は、いよいよ東京へ行きました。』

◆ 東京 電気試験所第四部 (11/12-14)

『まず電気試験所の第四部で受信を行いましたが、雑音が甚だしく、これでは到底受信は出来ないのではあるまいかと思われましたが、それでも雑音の中に、かすかに平磯からの音楽を聞くことが出来ました。・・・(略)・・・第四部ではあまりに雑音が甚しかったので、いったいどれ位の雑音があるのか調べてみようというので、私の受信機で雑音の強さを測りましたところ・・・(略)・・・』 (翌15日は日曜日で休暇)

◆ 岩槻 J1AA (11/16-17)

『当時岩槻受信所には、現逓信省工務局無線課の某氏が、UV-二〇四A 二個をプッシュプル?に組立てた送信機(J1AA)を操縦しながら受信を行っておいででしたが、私共が行きました時には、ドテラ姿で眠そうな目をして出て来られました。聞けば毎日毎晩連続勤務で、夜などもほとんど徹夜で短波の試験を行っておられるとのこと、誠にお気の毒には存じましたが、無理にお願いして平磯からの二十五米の電話を受信していただきました。ここでは午後二時ないし三時の間では、可聴率約二くらいで音楽を聞くことが出来ましたが、夜になりますと、意外にも昼間に比してビート音もたいへん弱く、「不思議なるかな、ようやくビーを聴取し得るにすぎざる程度にて、このオーディビリティ大なる時にて約一二〇(筆者注―昼間は約八〇〇くらい)、まったくきき得ざることままあり・・・」というような文句が記録の中に見えます。』 (翌18日は大岡山で試験)

◆ 阿見 (往路11/11は雨で測定中止し  復路11/19に再立寄り、筑波山へ向かう)

『上京の途中は、雨にたたられて、充分試験が出来ませんでしたが、帰途は天気良く、ぐあいがよろしうございました。第十八図は試験地付近の見取図でありまして、私共の行きました頃は、阿見はまだ要塞地帯ではありませんので、アンテナも自由に建てることが出来ましたが、それでも兵隊さんに叱れはしまいかと、びくびくしながら試験しました。さて、いよいよ試験にかかりますと、友部の時と同じように霧がひどく、受信機の調整が大変厄介で困りましたが、そのうちに空が雲り風が出て来ましたので、霧もなくなりました。そう致しますと受信機の調整も急に容易になり、約二十五くらいの可聴率で音楽を享楽することが出来ました。』

◆ 筑波山 (11/21-22)

『なぜ筑波山へなど行ったかと申しますに、阿見と筑波山とは平磯からほとんど同じ距離にありますから、筑波山と阿見とでは土地の高低による受信強度の差がわかるであろうというわけで筑波山に行きました。受信場所は男体山の測候所内で、ご承知のごとく測候所は大木の林の中にあり、その上ちょうど雨風が激しかったものですからアンテナを建てる由もありませんでしたが、折よく測候所の前に第十九図のような柱がありましたのでこれを拝借致し、これにあり合わせの線を全部つなぎ合わせて引っかけ、それをアンテナと致しましたが、電線の余分がありませんのでカウンター・ポイズもアースも使用できませんでした。』

79) 11月21/22日、「通俗ラヂオ講演会」で "短波の神秘" をPR

産学官軍で設立された社団法人日本ラジオ協会の目的は『本会は無線電話その他一般電波の応用に関する知識の普及交換ならびに研究を目的とす』とあり、さらに『本会は前条の目的を達するために左の事業を行う。一、雑誌ならびに図書の発行 二、談話会、講演会ならびに講習会の開催 三、展覧会の開催 四、発明の奨励ならびに表彰 五、そのた本会の目的を達するため必要なる事業』だと会則で定め、これにのっとり、1926年11月21・22日に有楽町の報知講堂で通俗ラヂオ講演会を開催しました。

◎第一日 11/21(土)12:00開場 13:00-16:00

◎第二日 11/22(日)12:00開場 13:00-16:00

上記のように最先端の研究者である超豪華な面々による無線講演会が実現したのも、日本ラヂオ協会ならではでしょう。東京無線電信局(検見川送信所・岩槻受信所)の工事長であり、J1AAの指導監督者でもある、逓信省工務局の荒川技師の講演「短波長送受信に就いて」も大盛況で、来場者達は "短波長の神秘" に魅了されました。

80) 逓信省側幹事 荒川大太郎氏 がアマチュア無線を称賛!

私設局への短波長開放を目指していた逓信省としては、講演会に参加できなかった人々へも広く短波長をPRすべく、荒川氏の「短波長送受信に就いて」の講演内容を『ラヂオの日本』(1926年2月号/1926年4月号)に一部補充のうえ掲載しました。

これは日本ラヂオ協会の逓信省側幹事としての講演ですので、1925年(大正14年)秋の頃、逓信省がアマチュア無線/アマチュア無線家をどのように捉えていて、来場者にどのように伝えようとしたかを知ることができます。以下引用します。なお◎は私が差し込んだ補足で、実際には紫文字の文が連続します。

◎アマチュア無線の発祥と、質の悪い電波の増加で、交通整理の機運が高まる

『無線通信の元祖ともいうべき火花式発振機の利用が拡張されるに従い、専門家以外の人々までが興味を誘われて素人無線家の激増を誘起し、減衰率の多い電波が盛んに発振されて空中は混乱状態に陥り、ついには取締りの避くべからざるに至って、波長制限の問題が起こった。』

◎アマチュアは200mより長い電波の使用を禁止され(1912年)、良い結果をだせなくなった(停滞期)

『海軍、陸軍、電信局、商業無線会社および素人実験家等はすべて勝手な波長を使用せんと要求したが、結局素人実験家は一番能率の悪い部分を割当てられた。かようにしてアマチュアは当時実用価値の一番少ないとみなされた二〇〇米突以下を用いて実験を行うことが許可された。』

◎しかし1920年代に入り真空管式持続電波の普及でアマチュアは息を吹き返した

『この範囲の火花式減幅電波は到達距離も少なく、あまり良い結果が得られなかったけれど、真空管の優秀なものが製作され、これによって任意の短波長持続電波が発生されるに至って短波長の研究は格段の進歩を示し、』

◎大正13年7月24日、短波長80,40,20,5mがアマチュアに与えられ、小電力遠距離通信を発見し専門家を驚かせた

『アマチュアは許可された八〇、四〇、二〇米突等の波長帯において驚くべき好能率の遠距離通信に成功し、斯界の専門家をして再び短波長の研究に没頭せずにはおられれぬ様にした。』

◎逓信省も称賛するアマチュアの功績!

『われわれは短波長利用の先駆をなしたアマチュアの努力に対して多大の敬意を払わなければならない。彼らは漸次その数を増すに従い、いずれも一致団結して未知の世界に開拓の歩を延ばし、あるいは雑誌の発行により、あるいは公開の会合を催して、おのおのが疑問とする点もしくは専門家でさえ解決し得なかった諸問題につき盛んに意見交換をなし実験成績の発表をおこなった。わずかに一個の電球が消費するだけにも満たない程の小電力を用いて、よく数千マイル、否々地球を半回りしたアンチボードの地点とさえも確実に通信を行ったとの報告は決して珍しくない程あまたの人々によってなされたのである。』 (荒川大太郎, "短波長に就て", 『ラヂオの日本』, 1926.2, 日本ラヂオ協会, p13)

以上のように講演会の聴衆および全国の読者へ、荒川氏が逓信省幹事の肩書の下でアマチュアに対し最大限の称賛の言葉を送ったのです。これは一般国民にアマチュア無線の有用性を解き、短波アマチュア認可への気運を醸成することで、難色を示す海軍筋を牽制する作戦だったのかもしれません。

しかしそんな深い意味はともかくとして、当時の逓信省には我国が極めて短期間に先行諸国の短波研究水準に近づくことができたのは、岩槻J1AAに対する海外アマチュアの協力があったからこそだとの認識を持っていたのは間違いないでしょう。

81) J1PPを35mへ改造 (サイゴン、ニュージーランド、アイルランド、スウェーデンから受信報告)

1925年(大正14年)11月になると、波長20m(15MHz)から35m(8.3MHz)へ改造したJ1PP第二号送信機とその空中線の再調整を繰返しながら、落石無線JOCを対手局とする無線電話試験が始まりました。

J1PPの無線電話は徐々に調子をあげて、音楽レコードを流したり、東京放送JOAKを短波帯35mでサイマル送信していました。翌年になるとJOAKみずからが、短波中継放送の実験局を開設しましたが、このように大正14年の秋から官練無線実験室による放送の短波中継実験が始まっていたのです。

『本邦においては、大正十四年の秋から、短波長無線電話試験を行い、時々東京放送局のプログラムを同時に送っていた・・・(略)・・・』 (荒川大太郎, "短波長電波の話", 『科学知識普及会』, 1926, p67)

『昨年十一月以降、芝公園にある逓信官吏練習所で三五米の無線電話発振試験をやっていたが、毎日北海道の落石無線局から感度強勢、受話明瞭の報告があり、西貢(サイゴン)の素人無線家からも岩槻局経由で受話可能の通知を受取った。』 (荒川大太郎, "短波長に就いて[二]", 『ラヂオの日本』, 1926.4, 日本ラヂオ協会, p37) 

フランス領インドシナの西貢(サイゴン, 現:ベトナムのホーチミン)のアマチュア局8JL(元 8QQ)と交信した岩槻J1AAは、8JLから「J1PPの無線電話がサイゴンで聴えた」ことを知らされました。後日になって西貢(サイゴン)8JLからJ1PPを1925年(大正14年)12月10日に受信したとの受信報告書が届きました。【注】 カードのF. 8JLの「F」の文字はフランスを示す国際中間符号と呼ばれるものであり、呼出符号はあくまで「8JL」です。「F8JL」ではありませんので念のため。なおこのあとすぐ、仏領インドシナの中間符号は「f i」となり、本国(f)と区別されるようになりました。また8JLはその後コールサインが「1B」に変わったようです。

1925年(大正14年)12月1日、J1PPの試験電波は遠く、新西蘭(ニュージーランド)にも達していたことが、これもやはり後になって2XA局からの受信報告で判明しました。順番的にはニュージーランド(2XA)での受信の方が、サイゴン(8JL)よりも先でしたが、「ラヂオの日本」誌に載らなかったところをみると、2XAからの受信報告書がJ1PPに届いたのは、かなり遅かったものと想像します。【注】 カードのz-2XAの「z」の文字はニュージーランドを示す国際中間符号と呼ばれるもので、呼出符号はあくまで「2XA」です。「Z2XA」ではありませんので念のため。 

◎ J1PP の電波が欧州まで到達

12月9日から12日は空中状態がとても良くて、遠く欧州までJ1PPの無線電話が届いていたことが後になって次々に分かってきました。 まず英国の6TMが12月9日にJ1PPの電波を受信したことが、Wireless World誌1925年(大正14年)12月23日号の読者レポート欄に載りました。『・・・(略)・・・Japanese J1PP on about 36 meter on December 9th, 10th, 11th. 』

さらにまた、同欄には12月10日にJ1PPを英国6LJが受信したとの報告もありますが、それについては後ほどハワイFX1との交信ところで紹介します。

12月11日になると愛蘭(アイルランド)で受信されました。

『・・・(略)・・・愛蘭ダブリンにて芝逓信官吏練習所の三十五米電波を受信せる通知、その抄訳は「一九二五年十二月十一日八時四十分(グリニチ時)貴局がXYZ局を喚呼中の持続電波を受信せり、判読し得る受信感度なり、受信波長約三十五米、距離九千浬、空中電気普通にして混信なし、音色純粋にして良好感度変化せず。当方の受信機は検波用真空管一、ローロス合調器を使用す(以下省略)」 』 ("QSLカード", 『逓信協会雑誌』, 1926.8, 逓信協会, p85)

この時の愛蘭からJ1PPに届いた受信カード(下図左)は、東京中央電信局の新局舎参観会の臨時無線陳列室に陳列されで、中上係長が参列の各国務大臣に解説したもののひとつです。

そして12月12日の試験電波が北欧の瑞典(スウェーデン)でも受信されました(上図右)。工務局の荒川技師は次のように述べています。

『また最近、瑞典のSMTN局からの通知によれば、同地の午前十一時頃、即ち本邦の午後七時頃、練習所が短波長で東京放送局のプログラムを実験的に中継しているのを聞いたそうである。東京放送局の数分の一の電力で、ただ短波長なるが故に、向こうの昼間に聞こえる等という事ははなはだ興味多いことである。』 (荒川大太郎, "短波長に就いて[二]", 『ラヂオの日本』, 1926.4, 日本ラヂオ協会, p37)

82) 12月7日、米国アマチュアに80mバンドの短波無線電話が許可される

(Amateurs Allowed to Use Radiotelephone Equipment, Radio Service Bulletin, No.105, p15, Dec.31,1925, Department of Commerce)

 

1925年(大正14年)12月7日、商務省は200mバンド(1.5-2.0MHz)中の170-180m(1.67-1.76MHz)部分に認められていた無線電話を、短波80mバンド(3.5-4.0MHz)中の83.28-85.66m(3.5-3.6MHz)でも認可すると発表しました(General Letter No.274)。

岩槻J1AAは、先行していたアマチュアの無線電信送信機の製作記事を参考にできました。しかし官練実験室J1PPの無線電話の場合、アマチュアに短波の無線電話が許可されておらず、手軽に参考になる短波用無線電話の文献がなく(また、米国の無線機メーカも研究・実験は行っていましたが、まだ企業秘密のレベルでその回路はほとんど非公開)、その実用化には大変な苦労をしたことは前述のとおりです。

83) J8AA(朝鮮京城)が、J1AA(埼玉岩槻)、JOC(北海道落石)と交信

朝鮮総督府逓信局工務課の梅田吉郎氏の記事によると、1925年(大正15年)12月17日にJ8AAがJ1AAとの交信に成功しました。

『何分仕事の暇々にやる実験であり、かつ材料取集めに非常に不便があるから、いよいよ岩槻無線と受信できたのは昨年十二月であった。電力二〇〇ワット(入力)の電信送信機にて波長四〇米前後で昼夜何時にても岩槻と連絡とれる事がわかった。』 (梅田吉郎, "朝鮮の短波長実験成績の概要", 『無線と実験』, 1926.7, 無線実験社, p484)

 

同様の件がラジオの日本(大正15年8月号)には詳細に報告されています。

『何分我々が他の仕事の暇々にやる事であり、なお実験室の電力設備も不足している上、一週四回はラジオ放送もあるのでその試験時間が著しく制限され、思い出した様に時々試験するのである。昨年十二月には電力二〇〇ワットの送信機を作って、同十七日午後七時から八時までの間で電力線六〇サイクル交流を電源とし持続電波四一米で送信、この時空中線長三一米、カウンターポイズ一七米、空中線電流五五〇ミリアムペアで岩槻無線とは十分連絡とれた。その後たびたび岩槻と交信し四〇米前後なら昼夜とも岩槻と連絡とれる事が出来た。当時北海道落石無線とも交信でき、これまた連絡とれた。』 (梅田吉郎, "朝鮮の短波長", 『ラヂオの日本』, 1926.8, 日本ラヂオ協会, p45)

京城J8AAと岩槻J1AAの初交信は12月17日19:00-20:00で周波数は7.3MHz(波長41m)でした。さらに落石JOCとも交信できました。 なお週4回のラジオ放送というのが、前述した京城放送局JODKに先行した朝鮮逓信局ラジオ実験放送のことです。

 

ちなみに朝鮮逓信局無線実験室J8AAでは、この12月頃より無線電話送信機の製作がはじまりました。官錬無線実験室J1PPの無線電話実験に影響されたものと想像します。

84) J1PP(電信/電話)がブラジル1AC(電信)、アメリカ9DNG(電信)と交信

J1PPの無線電話はニュージーランド、サイゴン、スウェーデンで受信されましたが、1925年(大正14年)12月19日、ついに短波長による初の "海外" 無線電話通信に成功しました(国内では既に岩槻J1AAや落石JOCと交信実験中)。それも初回から太平洋越えの大記録となったため、逓信省では異例のプレス発表を行ったようです。(写真はその相手局のひとつ、アメリカの9DNG局のシャック)

 

『ラヂオの日本』誌は次のように報じています。

『兼ねて試験中であった芝公園逓信官吏練習所内の短波長無線電話装置は、種々改良を施しておったが、この程実用に差支えなき程度に竣成したので、去る十二月十九日夜、折柄短波長無線電信で連絡をとっていた、北米合衆国カンサス州ローレンス町の「9DNG」および南米ブラジル国の「1AC」に受話を依頼したところ、いづれも明瞭に聴取出来たとさっそく無線電信で返事が来た。練習所の呼出符号は「J1PP」波長三十五米、電力(発振真空管入力)約一キロワット、空中線電流一・八アムペア(空中線は総長七十米、高さ五十米、地気としては)長さ七米三本のカウンターポイズを使用)の小電力に過ぎない。けだし本邦にてかかる短波長小電力にて一万一千浬のブラジル迄聞こえた事は、最初の特筆すべき記録であろう。同所ではなお引続き試験を行っているが、北京、比律賓(フィリッピン)、布哇(ハワイ)等にて続々聴取せられたと返事が来ている。その内布哇では成績も優良で、高声器に出すことが出来たと通知してきた。(A・D)』 ("内外時報", 『ラヂオの日本』, 1926.2, 日本ラヂオ協会, p69)

産・学・官・軍の電波関係者で創設された日本ラヂオ協会の『ラヂオの日本』誌の出版業務を担当していた編集幹事が工務局荒川大太郎技師であることから、この記事末尾にある「A・D」とは荒川氏に間違いないでしょう。

85) 誤植 1AC→(bz1AC)→BZIAC→BZIC(ラジオ新聞)→「アマチュア無線のあゆみ」

J1PPの電話がブラジル(1AC)やアメリカ(9DNG)へ届いた件を逓信省工務局はプレス発表し、大正14年12月24日の日刊『ラヂオ新聞』(ラヂオ新聞社)にも掲載されました。それが「アマチュアのラジオ技術史」 (岡本次雄, 1963.11, 誠文堂新光社)で引用され、さらにはJARL50年史『アマチュア無線のあゆみ』でも再び引用されました。

 

しかしラジオ新聞が逓信省発表を転載する際に誤植があり、その誤植のまま上記の書籍(アマチュアのラジオ技術史、アマチュア無線のあゆみ)へ引用されてしまいました。では『アマチュア無線のあゆみ』を見てみましょう。「1AC」のコールサインが似ても似つかぬ「BZIC」になっています。

『本邦短波長無線電話 南米北米に達す

逓信省逓信官吏練習所内に於いて目下仮に設備せる三五米短波長無線電話は、小野技師、河原技手及佐々木技手により本月上旬より試験中の処、其の成績極めて良好にて本邦内は勿論、西貢(サイゴン)にも到達せり。更に本邦標準時にて本月19日午後5時半、英語を以てJ1PP(練習所の仮呼出符号)により送話試験をなす旨を一般的に放送し、蓄音器レコードによる音楽等を放送せるに、南米ブラジルBZIC局より短波長無線電話にて右短波長無線電話聞ゆとの報あり、更に当方よりも是れに答へ連絡を取りたり、次いで同午後7時20分米国カンサス州ローレンス町(カンサス市の南方 トペツカ市の東方)在住のヘルグスマッキーバー氏より、同様日本J1PPの電話聞ゆとの通報ありしを以て当方は電話にて先方は電信にて連絡の上、同所に於ける当方電話電波の強勢なるを確証せり。右送話装置は入力僅か約一〇〇〇ワツトの小電力に過ぎざるものにして無線電話通達距離の記録として未曾有の事に属す。(逓信省工務局発表)』 (『アマチュア無線のあゆみ JARL50年史』, 1976, 日本アマチュア無線連盟)

 

逓信省工務局発表の原文を見る事はできませんが、工務局の穴沢氏が『無線と実験』(T15.2, p400) にこの発表を掲載されているものがあり、また当該ラジオ新聞も図書館等で閲覧可能ですので、上記赤字部分をこれらと比較してみました。一番目は誰でも読めるよう親切で(サイゴン)を付けただけです。

2番目)無線と実験・ラジオ新聞ともにJIPP(JアイPP)なので、逓信省の発表から誤植だった可能性があります。

3番目)無線と実験BZIAC(BZアイAC)から、逓信省の発表は、呼出符号1ACに国際中間符号を附して、「bz 1AC」 「BZ 1AC」「BZ1AC」か、数字がアイになった「BZIAC」だったと想像します。それをラジオ新聞では「A」を落としてしまい、かつ数字の1がアイなので、「なんとBZIC」です。

4番目)無線と実験の「電信にて」がラジオ新聞では「電話にて」になっています。逓信省の発表は「電信」ではないでしょうか。

5番目)の西か南かは飛ばして、6番目)無線と実験のTIPP(ティ・アイ・PP)、ラジオ新聞のJIPP(J・アイ・PP)から、Tは無線と実験の誤植でしょう。アイは逓信省の発表からそうなっていたのかも知れませんね。

7番目)無線と実験の「入か」も無線と実験の誤植だろうと思われます。

 

ちなみにJ1PPの活躍は1926年1月19日の『東京朝日新聞』(夕刊p2)にも「芝公園から偶然に世界的のラヂオ記録」というタイトルで報道されましたが『昨年十二月十日から毎日放送試験をやっていたところ、十九日午後五時半頃突如意外にも南米ブラジルB、Z、I、A、C局からそれが聞こえるという信号に接した。』となっています。

1980年代にワープロが普及するまでは、手書きの書類をタイプ係に廻して、和文タイピストが活字にしていました。手書きの数字の1とアルファベットのIの見分けは難しく、たとえ1に見えても、文字の間に数字が挟みこんであるとは思わずアルファベットの「I」だと解釈するほうが普通でしょう。

ブラジル局の本当のコールサインは「1AC」です。ところが逓信局の発表時には、おそらくブラジルを示す国際昼間符号bzを冠した「bz1AC」と書かれた原稿がタイピストに渡され、タイピストはこれを「BZIAC」という大文字アルファベット5字で打ち、それがチェックをすり抜けてプレス発表され、さらにラジオ新聞がこれを転載する時にはAが落ちてしまい「BZIC」の4文字になったのではないかと想像を膨らませてみました。とにかく「1AC」が、全然違う「BZIC」に化けて、今日まで伝承され続けているという非常に珍しい事例です。

【参考】各国のアマチュアの呼出符号は「数字+文字」だったため、例えばアメリカの「1AC」とブラジルの「1AC」が区別できないため、QST誌の国際コーナーなどでは「u1AC」・「bz1AC」のように小文字(uやbz)で国を示す記載法が用いられました。しかしこれは交信に使用する呼出符号ではなく、印刷媒体上での表現です。政府発行の呼出符号(数字+文字)に勝手に国籍記号を付けて交信するのは違法行為ですから。J1AAのページの最後の方で、この話題に触れていますのでご覧ください。 

 

BZICに変化したのは『ラジオ新聞』の誤植が原因で、これは逓信省発表とは関係ない話ですから『日本無線史』の記述は以下のとおりです。

『逓信官吏練習所の呼出符号はJ1PPを使用した。最初ICWの電信で呼出をかけ、続いて電話に切換え喚呼した。午後六時頃になってブラジルのBZ1ACから応答を得たが、電信は明瞭であるけれども電話は弱くて駄目とのことであった。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, p335)

なおWeb上では『逓信官吏練習所(J1PP),35m(8.6MHz)のA3でサイゴン,ブラジル,北米と交信 』といった記述を見受けます。おそらくソースはラジオ新聞でしょう。しかし『ラジオ新聞』は『本邦はもちろん、西貢にも到達せり』と、届いたといっているだけで、交信したとは書かれていません。

現代のアマチュア無線では聞こえた局をコールし、応答がなければそれは「失敗」であり、その価値はほとんど無いといって良いでしょう。わざわざ発表されるぐらいですから、アマチュア無線家のサガというか、西貢(サイゴン, 8JL)とも「交信した」と早とちりしたのではないでしょうか。

86) 1925年(大正14年)12月19日のJ1PPの交信の様子

岩槻J1AAに比べて、官練実験室J1PPの様子を伝える記事は断片的なものばかりで、けして多くありません。そんな中で小野孝技師が12月19日の詳細を『ラヂオの日本』に発表されました。J1PPからは小野技師が英語による電話でCQを発して、ブラジル1ACと米国9DNGからは電信で応答があり、それを河原技手が聞き取りました。佐々木技手もこの初交信の現場に立会っていました。

【注】 この記事でも数字の1がアイの、JIPPになったり、BZIACになったりで、(実際に交信した小野氏が書かれたものなので)記事の原稿は絶対に間違っていないはずです。やはり印刷されるまでの過程で、結局こうなってしまうようです。数字と文字の組合わせは理解され難く、米国の9DNGは(9→q→Qで)QDNGですし、また部下の佐々木諦技手の名前は「締」になっています。そういった明らかに誤植と考えられるものは訂正のうえ、新仮名使いにて、以下に紹介します。

【参考】この記事はJ1PPの初の海外無線電話交信を伝える唯一のものであり、昭和25年の日本無線史第一巻、短波電話の創始時代(逓信官吏練習所の実験)P335にも引用されました。

 (J1PPに届いたカード)  

初めて全世界に無線電話を送るの記

短波長無線電信の驚くべき効果と混信および空電分離の容易およびフェ-デン現象の消失とから、無線電話を短波長電波に乗せてやれば、キット全世界に電話を送ることが出来よう。さらに混信空電等に妨げられて実用に適する中継の出来ない無線中継放送の可能性をも予期し得る。これが実績を確実ならしむる為に、逓信省工務局においては逓信官吏練習所にその装置を仮設しておった。元来、短波長装置は、その調整が困難で、その発振の安定を欠く点からこれを電話装置とするには相当の熟練と苦心を要する。加えて我々は貧弱な持合せ品を工面しながら組立てるのだから楽な仕事ではなかった。九月頃から始めて、色々工夫改良し、結局定電流方式を採用して、まず二〇米の短波長にすべてを調整した。変調法のごときもおいそれと調整がとれず相当の時間を費やしたのである。

十月中旬、二〇米の電波をほとんど満足し得る程度に変調することも出来たが、すでに冬季に入った為と、聴取相手の少ない為とで、その成績が充分に確められ得なかった。

やむを得ずこのたびは三五米の短波長に改作して十二月六日より電波を発射し、その動作の良好にして安定なることも認め得たから、これを確知する為、落石局や、検見川局に依頼して無線電信機で聴取してもらった。すなわち十二月七日より毎時午後四時ないし六時以後まで、送話し受信成績をとってもらうと、検波真空管一個、可聴増幅一段にて、その感度は受話器並列抵抗で一オーム以下の強度を有し、明瞭度も普通放送電話より良好なりとの報告を受け、また西貢(サイゴン)よりも強勢に感受し得たとの通報来たり、ここに確信を得たのである。

 

そこで十二月十九日土曜(この日を選んだのは、土曜、日曜は素人局の活動盛んなるを見込んだ)本装置を主として手掛けた佐々木諦君と、無線電信通信には自信のある河原猛夫君とに密かに居残ってもらって夕方より調整をはじめ、日本時の午後五時まず無線電信で全世界の局を同時に換呼しておき、(これが為にはCQなる符号を出せばよいのだ)はなはだ貧弱なイングリッシュで

当方は日本は東京芝区にある逓信官吏練習所、仮の呼出符号をJ1PPと称する約三五米の局であるが、もしこの無線電話を聞きつけたなら手紙をくれたまえ。また短波長無線電信で返事をくれてもよい。頼む。

と数回繰返したあと、河原君に短波長無線電信機に耳を当ててもらった。五時三十分、河原君の口から

来たぞ!ブラジルだ

と叫ばれた。そして電信符号を紙に書き続けていく跡を眺めるとこうだ。(実はイングリッシュのプアーな点をも発表するのは苦笑に値するが、これもご愛嬌だから全部さらけ出すことにする)

bz  1AC  R  OK  your  SIG  QSA(strong)  OM: -

your  phone  can't  understand............

これを注すれば

君のところの信号は強勢に感受できる。―

お前の電話は了解できない。―

しかるにそれ切りで、河原君の手は受話器や受信機を盛んにひねり廻しはじめた。そして残念だと受話器をはずしてしまった。それは市内の雑音に妨げられて符号が聞けないとのことなんだ。しかし、ただ今は夏季にある、そして東京に対しては地球上ほとんど反対の裏の位置にあるブラジル国まで我々の肉声の届いた事は確められた。

もう一度と、その局を呼出して返事をとろうとしたが、もはや先方は夜明けてしまった時間なので先方からのシグナルが弱く、聞き取り得ないのであった。仕方なく、こんどは米国素人局を換呼してみると、幸い午後七時に

R  OK  J1PP  ju  9DNG  your  SIG  strong

GA(send on)  phone  K  K

と返事があった。いわく

「俺は9DNG局だ。お前の信号は強勢だよ。もう一度電話を送ってくれ。聞いているから」

というのだ。当方も喜んで繰返して送話すると今度は

「お前の電話は判るよ。しかし明瞭度が良いとはいえないよ、今日は遅いから明日頼む」

というのだ。明瞭度は無線電信受信機で極度に再生して聞いているのだから、先方の問題でもあるのだが、ともかく北米カンサス州ローレンス町ヘルグス、マッキーバー氏より以上の報告を得たことになった。以上は我々が初めて米国にも我々の肉声を送り届けたことを知ったときの状況である。

その後、御用終いの日、英国イングランドのエフ・エー・メイヤー氏(g2LZ)から「僕は毎日君の電話を強勢に聞いているよ。毎日君を当方から換呼したが、成功しないので残念に思っている。毎日僕は英国標準時の午前七時から同八時まで、三四米で送るから、聞いて連絡とってみたい。」との電報を入手したので、その日と二九日の夕方四時、聞いてみたが効果がなかった。そして年末なので皆にも休んでもらうことにして試験を中止した。

新年早々、十二月十二日の(当時は落石や検見川で聞いてもらって変調を加減してたとき)電話を聞き取った趣きの聴取書が、加奈太(カナダ)と米国から送り届けられた。この記事が誌上にのるころには多くの受信書が積み重ねられることだろうと信じている。(小野生)』 (小野孝, "初めて全世界に無線電話を送るの記", 『ラヂオの日本』, 1926.3, 日本ラヂオ協会, pp58-59)

 

ちなみに1AC(Carlos G. Lacomb氏, リオデジャネイロ)は当時とても有名な局で、IARU(International Amateur Radio Union)のブラジルのナショナル・プレジデントでした。J1PPのCQに1ACから応答があったのですから、J1PPの電波がブラジル・リオデジャネイロまで届いたのは間違いありません。小野技師としてはJ1PPの電話を1ACが聞き取れなかったのは、自分の英語がプアだから理解されなかっただけだと解釈したのかもしれませんが、この電話通信は不完全な交信のようにも思えます。

交信直後の1926年(大正15年)1月4日の日刊ラヂオ新聞で、(小野技師の上長だった)中上係長は次のように語りました。

『南米のブラジルと通話した世界的記録を出した逓信省官吏練習所の短波試験に就いて中上工務局無線係長は得意の鼻を動かして語る。「南米のブラジルと云えば丁度南半球に於ける日本の真裏に当たり約一万八千キロメートルを隔てた遠方の地で、この調子だと全世界に達したものと見ても差支えない・・・(略)・・・無線電話(ラヂオ)が僅か一キロの電力で完全に地球の端で受信できたというのは確かに驚異的レコードといって差支えなかろう。逓信省で行う短波長中継放送準備中の副産物に過ぎないが・・・(略)・・・」と』 ("南米との通話に成功の我が短波長試験", 『日刊ラヂオ新聞』, 1926.1.4)

しかしその中上氏が34年後の1960年(昭和35年)には、J1PPの初交信相手を米国の9DNGだとする記事を書かれています。ブラジル1ACとの交信にはちょっと心苦しい面があったのかもしれませんね。

『短波が長距離通信に適することが判明したのは大正の末期であるが、逓信省では逓信官吏練習所に短波無線電話機を自作し、これをもって大正14年12月19日、米国との通信に成功した。これがわが国最初の国際無線電話の実験で、たとえ単なる実験とはいえ、将来の国際無線電話の実現に明るい見通しを与えた。』 (中上豊吉, "国際無線の回顧", 『電波時報』, 1960.10, 郵政省電波監理局, p39)]

87) 常に「放送」の先陣を切ってきた「逓信官吏練習所無線実験室」

ところで上記『ラヂオ新聞』(1926.1.4)に『逓信省で行う短波長中継放送準備中の副産物に過ぎない』という中上氏の発言に注目したいです。官錬無線実験室は1924年(大正13年)より定期実験放送を始めました。1925年(大正14年)、東京放送局JOAKが放送を開始すると、官錬無線実験室J1PPは短波長による放送中継試験を始めたわけです。東京放送局JOAKの実験施設が短波中継の実験を始めたのは1926年(大正15年)でした。また成功しませんでしたが1930年(昭和4年)にはツェッペリン伯号の日本到着場面の国際ラジオ中継を試みました。

88) 逓信官吏練習所無線実験室 J1PP 取材記事

また、ラヂオ新聞(1925.12.29)にJ1PPの取材記事がありますので引用しておきます。

『 二十四日既報の逓信官吏練習所に於ける短波長放送無線電話の実験を詳細に知るために記者はその実験室を訪ねた。多忙中にかかわらず佐々木技手は親切に説明された。この送話装置は簡単なもので最大容量一キロであるが普通イムプット六百-七百ワット位であるという。これで放送すると北米や南米の素人局からJ1PP(練習所の呼出符号)聞ゆと盛んに無線電信にて報告がある。

この放送器の発振器プレート電圧は二千五百ボルト、これに用いるバルブは東京電気製、モジュレーターのプレート電圧はまた右に同じくこのバルブは、J二五〇型、そしてこれらの装置に於いてはアンテナのリーデングは実に送話の状態に影響するという。送話器はソリットバック式のものを用いているがために普通のマイクロフォンの様にデリケートな音がよく入らぬので北米あたりの聴取者の報告によるとソプラノ、ソロ、ギターなどの音楽は明瞭に聴取できるという。またハワイ附近を航行中の船舶が受信したときはラウドスピーカーにて聴取したと報道があった。これで世界的に成功したことが判る。現在英米にても短波長の放送無線電話は少ない。ちなみにこの波長は三十五米突であると。(川野記者)』 ("わが短波長放送は世界的の大成功", 『日刊ラヂオ新聞』, 1925.12.29, ラヂオ新社, p1)

89) 世界のアマチュア無線局から注目されたJ1PPの無線電話

アマチュア無線の先進国であるアメリカでさえ、1925年(大正14年)12月7日に短波帯の無線電話が解禁なったばかりで、実験・研究がこれから始まろうとしていた時期だけに、無線電話による "Two Way QSO" ではありませんでした。しかしJ1PPの無線電話実験が当時のアマチュア無線界で相当話題になったようです。笠原功一氏(JFMT, 3AA, JXIX, J3DD, J1IZ, J2GR, JA1HAM)は以下のように伝えました。

『米国ではこのごろ80m帯で電話をやることを許したとか聞いたが、とも角一般に電信全盛時代である。だから昨年来、東京J1PPの電話は全世界のアマチュアに非常なショックを与えたのだった。私はその当時、何時も太平洋を越えてオーストラリヤと北米、南米のアマチュア達がJ1PPのうわさ話を盛んにやっているのをきいた。』 (笠原功一, "短波長無線の話", 『無線之研究』, 1926.6, 無線之研究社)

1926年(大正15年)初頭には、世界レベルでいえば放送中継業務で短波の無線電話の実用化が始っていましたが、時間の関係か日本では受信できませんでした。無線会社は短波無線電話のノウハウをオープンにしてませんので、アマチュアが投稿する無線雑誌やQSTの記事を情報源としていた我国はその開発に苦心しました。

『日本では岩槻局でフィリピン米国海軍無線局と豪州のアアチュアの放送した電話をそれぞれ一回聴いたのみで、今なお他の短波長放送局を見出し得ないが、米国スケネクタデイ放送局では短波長放送を行っているが、それらしいものは聞こえたようであるが、ただ時間の関係がうまく行かぬからか確かめられていない。』 (荒川大太郎, "短波長に就いて", 『ラヂオの日本』, 1926.4, 日本ラヂオ協会, p37)

【注】当時は交信のあてもなく試験電波を発射するのも「放送」と呼んでいました。

90) J1PP の無線電話の交信法

まだ無線電話による交信相手がいない時期なので、一方的に試験電波を垂れ流して、外国の電波監督庁や民間無線会社に傍受試験を申込むか、アマチュア実験家から受信報告書が送られてくるのを心待ちにするしかありません。前者はなにかと厄介ですし、後者だと随分あとになってから受信報告書が届くため、季節とともに伝播状況が変化する短波実験では歯がゆいものがあります。1925年(大正14年)11月から12月上旬までのJ1PPの試験は、岩槻J1AA・落石JOCと交信しながら、明瞭度などの受信音を報告してもらい、もしその電波を偶然どこかのアマチュアが聴いてくれて受信書が送られてくれば儲けものというやり方でした。

そこでJ1PPが取った新たな方法は、無線電話でCQを発信し、無線電信で応答できるアマチュア局にはその場で報告を返してもらって、それができないなら郵便で受信報告を送ってもらう方法でした。1925年(大正)12月19日はその新しい方法で成功を収めた記念日となりました。

このように我国の短波開拓は、世界のアマチュア達に頼るところが非常に大きかったことは特筆されるべきではないでしょうか。そして逓信省はアマチュアの貢献・有益性を高く評価し、本気で彼らへの短波開放を考えていたことも。

88) 12月22日、J1PP(電信/電話)が、ハワイ6DCF, FX1(電信) とも交信

1925年(大正14年)12月10・11日、J1PPがハワイの6DCFと無線電話の送話実験をしているところを、イギリスのS. K. Lewer(6LJ)氏が受信し、Wireless World誌(Dec. 23rd号)のCalls Heardコーナーにレポートしています。 『Mr. S. K. Lewer (G6LJ), West Hampstead, also reports having heard both sides of a communication between J1PP and hu6DCF, Honolulu, at 8.30 a.m. on December 10th and the speech and music on December 11th. 』

6LJ局は8月に岩槻J1AAを受信しWireless World誌にレポートした方です。そして左図が実際にJ1PPに届いた受信報告書です(クリックで拡大)。前述しましたが、この前日(12月9日)には同じく英国の6TMがJ1PPをキャッチしています。

もしこの試験がうまく行ったのならば、これが我国の無線電話国際通信の初成功ですが、逓信省は19日のブラジル1ACや米国9DNGとの交信を初成功としていることから、10・11日の6DCFとの試験は不発に終わったものと想像されます。

しかし12月22日にはハワイ・ホノルルのフォート・シャフター陸軍通信隊短波実験局(Fort Shafter, Army Signal Corps' experimental shortwave station)FX1との試験で大成功を収めています。

『更に驚くべき通知が布哇(ハワイ)近海の米国巡邏船FX1から来た。いわく「貴局の放送電話は毎晩傍受している。貴局の位置はどこですか御返事下さい。貴局の放送は非常に感度強く、かつ明瞭で高声器を通して聴くことが出来る・・・・云々」。』 (荒川大太郎, "短波長に就いて[2]", 『ラヂオの日本』, 1926.4, 日本ラヂオ協会, p37) 

出展ソースが『外国雑誌』としかなく詳細は分かりませんが、逓信省工務局の穴沢氏が『無線と実験』(大正15年2月号, p400)にFX1との22日の交信を紹介しています。

『 Dec. 22nd evening, FX1 at Honolulu reports that; "Your I.C.W. very QSA about R9 hr. Have hrd ur voice several nites and modulation good es received you on loudspeaker FB OM" 』 

FX1は1925年(大正14年)春から夏にかけて、米海軍とARRLが協力して、旗艦シアトル(呼出符号NRRL)が太平洋上にて短波伝播試験を行った際に、ハワイのフォート・シャフター陸軍基地に試験的に設置された短波実験局です。海軍特務艦鳴門がホノルル経由で横須賀-サンフランシスコ間を往復(4月9日-6月18日)し、米海軍の演習を偵察した際の報告書にも、ハワイ近海でFX1を受信した旨の記載があります。また『無線之研究』誌の読者の受信報告欄などにも登場しますので、日本でもよく聞こえる局だったようです。

1926年(大正15年)2月12日、南アフリカ・ヨハネスバーグのA4Vとの交信成功の記事(QST, May 1926)では、呼出符号が「6DGF-FX1」の連名になっていることから、6DGFの勤務先がFX1なのか、あるいはその実態は両局同体で、目的や周波数に応じて、陸軍実験局FX1とアマチュア無線局6DGFを名乗ったのでしょうか?私にはよく分かりません。

【参考】なおCB無線史を追ってきた私としては、フォート・シャフターFX1は1929年7月8日、大統領令(EO No.5151-A)で陸軍局として初めて26-27MHz(26.190MHz, 26.220MHz)が指定された無線局だったことの方に興味があります。Old 27MHz(Military)のページもご覧下さい。

91) J1PPがオーストラリアの3KBとも通信に成功

交信日は12月の何日か不明ですが、オーストラリアの3KB(Alfred Kissic氏, Victoria, Australia)とも交信しました。

『豪州ビクトリアの素人実験家3KBは十二月中旬短波長電信で当方を喚呼してきたから応答すると先方のいわく、「君の電話は先程から聴いていて、レコード(蓄音機の)音楽二枚を聞いた。今一度送ってくれたまえ云々」

よって当方さらに五枚のレコードと先方の呼出し、およびアナウンスを放送したところ、答えていわく、「ありがとう、ありがとう。君の声を聴き、かつ私の局を電話で呼んで下さって私は非常に嬉しい。ぜひお手紙下さい。君のレコードは四枚完全に聴きましたが、最後の一枚は混信で邪魔されました。最初ギターと次のナイチンゲールの鳥の鳴声はすてきに良かった。どうぞ君の住所をお知らせ下さい・・・・」 』 (荒川大太郎, "短波長に就いて[2]", 『ラヂオの日本』, 1926.4, 日本ラヂオ協会, p37)

92) J1PPが南米ウルグァイJCPと交信、QSLを見てビックリ!

逓信省工務局の荒川技師はアマチュアが大西洋横断通信に成功して以来、彼らの通信成果は、たとえそれが趣味ものといえど、結果的に無線界に大きく貢献するのだと、アマチュア無線を賞賛しています。アマチュア達の実験成果が、短波帯での実用通信開設への大きなきっかけとなり得ることを、逓信省工務局では実感していたのでした。

『次に逸することの出来ぬは短波長をして今日のごとく隆盛をならしめた素人実験家の所有する局の存在である。米国においてはその局数二千を超え、英国は六百、その他、仏・独・伊・豪とうを始め、南阿・南米とうの僻地に至るまで、いずれも短波長の素人局があり、自分の職務の余暇を利し、多くは夕刻から明けがた迄、世界的連絡通信に熱しており、その結果は互いにQSLカードを交換することによって、自己の記録の増して行くことを誇りとするのである。彼らはだだの興味から行っていることであろうが、その結果を利用する事によって、無線界に大なる貢献をなすに至るのである。

たとえば数日前、親しく感じたことであるが、一ケ月ほど程前に練習所と南米の一国ウルグァイの素人局 y JCP と四十米附近で通信をした。距離は一万八千キロメートル以上であるが、その時は夕の六時から七時頃までに相当強く聞こえ、今迄もその他の南米局ともいくたびもやった事であるから、あまり大したこととも思わなかったが、数日前その局からのQSLカードを見ると、送信機としてUV二〇二号ラヂオトロン二個を使用しているに過ぎない事がわかった。その真空管の一つの容量はわずか五ワットであるから、二つで一〇ワットを越さぬのである。今迄は少なくともいづれもUV二〇三即ち五〇ワット以上の電力を使用している局とのみ交信していたのであるから、その結果の異常なのに驚かされたのである。

その時、聞いたところではウルグァイの送信は、かなり強く、無数の米国や豪州の素人局が発信している中を分離して聞こえたので、一日少なくとも二、三時間は充分通信できる見込みがあるのであったから、かかるものを商用通信その他に実用すること、決して不可能ではなく、無線界における大なる革命の曙光ではないかと、はなはだ喜ばしく感じたような訳である。』 (荒川大太郎, "短波長に就いて[2]", 『ラヂオの日本』, 1926.4, 日本ラヂオ協会, pp37-38)

 

下記がそのQSLカードです。相手のコールサインは「JCP」でJuan Carlos Primavesi の略なのでしょうか?「JCP」の左に(少し隙間を空けて)「y」の文字が見えますが、これはウルグァイ国を示す国際中間符号で、コールサインが「YJCP」ではありません。 

JCP(ウルグァイ国モンテビデオ)との交信日時を私は特定できていません。J1PPに届いたQSLカードのURUGUAYの"GUA"の辺りに書かれているのが交信日付で、"19. 12. 1925" のようにも読めます。

『・・・(略)・・・数「ワット」のものとて玩具ではない。現に昨年の十二月には南米ウルグァイの一実験家が僅か十「ワット」の電力をもって、東京市の中の練習所と一時間ばかりも通信を交換した。受信状態の特に悪い練習所のような市街の電車の中にはさまっている所で、ともかくも昔(それも十年もならない近頃のこと)日米通信を行った時代よりもよっぽど感度がいいことを私は確めている。十「ワット」の送信機をアマチュア自身が組立てたとすれば、今日恐らく本邦でスパーヘテロダインを一台買うより廉価で作れるであろう。かようなものでたとへ一時間なりとも地球の反対の側にある、一万八千キロも離れた所と国際通信が出来ることは大なる驚異であり、看過する事の出来ぬ大問題と言わねばならない。かかる記録は一青年が自分の月給を少しづつ割いて作り上げ、そして毎日の仕事から帰った夕食終に、ちょっと電鍵を叩いただけの結果に過ぎないのである。』 (荒川大太郎, "短波長実験通信の現状", 『科学知識』, 1926.4, 科学知識普及会, p37) 

ウルグァイJCPとの交信成功は日刊ラヂオ新聞の記事にもなりました。

『芝公園逓信官吏練習所内の短波長放送が全世界に聴こえたことは既報の通りであるが、今回また計らずも世界無線界の驚異的事実が同所において発見された。というのは去る十二月初旬、練習所(JIPP局)では南米ウルガヒ国のYJCP局なる一素人局と午後六時頃、約一時間にわたって無線電信の通信交換を行ったが当時は先方も相当なな電力を使用していることと信じて別に不思議にも思ってなかったところが、最近同局からその当時の送信状態を詳細に報じて来た夫れによると同局の送信器はバルブはラヂオトロンUV二〇二、二個を使用し電力は僅かに十ワットであったと云うことである。』 ("芝公園と南米間の短波長交換通信 僅に十ワットの電力を用いて驚異的の新記録", 『日刊ラヂオ新聞』, 1926.1.30)

93) 12月27日?のアルゼンチンAA8局からのカード

J1PPは12月19日にブラジル(1AC)、アメリカ(9DNG)との初の海外交信のあとも、御用納めの日まで精力的に通信試験を行ったようです。そしてついにJ1PPの電波は遠くアルゼンチンまで到達しました。 

『12月には東京の逓信官吏練習所内に38米の無線装置を設置して実験を行ってみた所、遠くアルゼンチンと通話し得られる事も確かめられた。』 (中上豊吉/小野孝, "6.日本に於ける現状", 『短波長無線電信電話』, 1926, オーム社, p194)

 

左図が官錬無線実験室J1PPに届いた南米アルゼンチンのAA8局のカードです。

その日付は(ARGENTINAの)"N"の尻尾の跳ね部分に掛かっていて、なかなか判別がしづらく、「27/12/1925」 とも、「21/12/1925」 とも読み取れますが、上記中上氏の『通話し得られる事も確かめられた』という言葉から、受信レポートだったと考えてよさそうです。

1925年12月実施のJ1PPの海外通信試験について、『東京朝日新聞』も伝えていますので引用します。

『アメリカのラヂオが磐城無線電信所へ聞こえたとて有頂天になったのはもう一昔も前の事となって、ラヂオの進歩は目覚しいばかりだが、最近芝公園逓信官吏練習所のラヂオが偶然のことから世界的の新レコードを作ったというので、同所の小野、河原、佐々木の三技手は雀踊りして喜んでいる。それは同所のラヂオ中継試験で、短波長無線電話機(電力一キロワット、電波長三十五メートル)を使って昨年十二月十日から毎日放送試験をやっていたところ、十九日午後五時半頃突如意外にも南米ブラジルB,Z,I,A,C,局からそれが聞こえるという信号に接した。・・・(略)・・・廿八日まで放送しつづけた。そのかいあって最近同所へはQSLカードやら手紙やらが来るわ来るわ。近いところでは北海道の落石発電所、朝鮮のあるラヂオ商、さては奉天、上海、双橋あたりの外人のアマチヤアを始め遠くサイゴンやフィリピン、ハワイ、カナダ、北米の東海岸中部、カルフォルニア米国カンサス州ローレンス町のヘルグスマッキンバー氏からなど「よく聞こえます」と愉快な返信が飛び込み、ブラジルの如きは成績を電報で伝えてくるし・・・(略)・・・技手連はこの分では試験さえ完成すれば我が東京放送局のラヂオが全世界の何処へでも聞こえるようになるのも遠くはあるまいといっている。』 ("芝公園から偶然に世界的のラヂオ記録 短波長機で中継試験の最中 英米各国から聞こえる聞こえると続々来る愉快な通知", 『東京朝日新聞』, 1926.1.19, 夕刊p2)

94) 米商務省式に従わないアマチュアのコールサイン

各国の電波行政当局はアメリカ商務省式の「1数字+2(or3)文字」を採用することが多い中で、アルゼンチン当局はアマチュアに「2文字+1数字」(例:有名なDXerのCB8をはじめDB2, AE5等)、そして実験局に「1文字+1数字」(例:A1, A8等)を指定していました。

隣国ウルグァイも前述「JCP」のように米商務省式には従わないもので、オペレーターのイニシャルJCP(Juan Carlos Primavesi)だと想像します。しかし1926年になってから米商務省式を採用し、「JCP」局は「2AK」というコールサインで活躍しました。

95) 逓信省よりも先に米商務省式呼出符号を使った日本の無許可アマチュア

日本では1925年(大正13年)に苫米地氏貢らが、1926年(大正14年)初頭頃に濱地常康氏が無許可で短波送信をした際にどのような呼出符号をつかったのかは明らかでありません。1926年の夏過ぎには楠本哲秀氏が、やはり無許可で短波アマチュア通信を行い岩槻J1AAとも交信したようです。その呼出符号は文献記録からは得られておりません。しかし楠本氏はアメリカで学校のクラブ局でオンエアしていた経験から、おそらくは米商務省式「1数字+2(or 3)文字」を使ったのでしょう。

1926年の秋から暮れにかけて中波帯において、神戸の笠原功一氏がJFMT、大阪の梶井謙一氏がJAZZという自家製コールサインで交信した後、同年暮れに笠原氏は米国商務省式「1数字+2文字」の「3AA」に改め、上海附近にいたフランスの軍艦と交信しました。

戦前の日本では逓信大臣・海軍大臣・陸軍大臣のそれぞれが、管轄内の無線許認可権を持っていましたが、逓信省の実験局は「J+1数字+2文字」(例:J1AA, J1PP, J8AA)を使い、電気試験所の実験局「Jから始まる4文字」(例:JHAB, JHBB)や、現用海岸局はそのまま営業用の「Jから始まる3文字」(例:JOC)を使いました。また海軍省の実験局は意味を表しない(?)和2字構成の呼出符号(例:ウカ等)を使ったのではないかと私は想像しますが良く分かりません。

つまり日本では米商務省式コールサインを使いだしたのは逓信省よりも、無許可のアマチュア達の方が先でした。もっとも1927年のワシントン会議で私設実験局(Private Experimental Station)に「国籍符字+1数字+3文字以下」が採択されたので、逓信省のJ1AA, J1PP, J8AAの方に先見性があったともいえます。

96) 逓信官吏練習所無線実験室にあった工務局の実験局 J1PP のその後

逓信省工務局電信課無線係が運用した短波実験局は2つありました。ひとつは岩槻受信局建設現場のJ1AAで、まもなく(大正15年3月末日をもって)東京逓信局へ引渡すため、工務局が手を引くことははっきりしていました。もうひとつは官練無線実験室にあったJ1PPです。J1AA/J1PP両局ともに欧米の短波研究に一刻もはやく追い付くために、(短波通信の性質上)徹夜で通信実験を重ねました。

しかし1926年(大正15年)3月末の岩槻受信所の東京逓信局への引き渡しを契機として、工務局による研究的な短波試験は終息し、実用局としての国内短波無線網を建設するためにJ1PPが試験の中央局として活躍しました。またJ1PPは1926年(大正15年)12月に日本初の無線写真電送にも成功しました。

 

その一方で短波無線電話の改良も細々と続けられ、ついに自励発振器に直接変調を掛けるのは中波ではうまくいくが、短波では発振器の周波数変動を誘発させ明瞭度が悪くなることを突き止めました。

『短波では自励発振器をそのまま変調する方法は、変調の都度搬送波の周波数が大きく変動するため、近距離受信では明瞭度がよいと思っても、遠距離になると雑音レベル(搬送波ハム)が高くなり受話の明瞭度が著しく低下することが、その後も引き続いて行われた練習所における種々の実験結果によって明らかにされた。』 (電波監理委員会編, "遠距離無線電話の試験時代", 『日本無線史』第1巻, 1950, 電波管理委員会編, p336)

そこでJ1PP第3号機の製作に着手し、1928年(昭和3年)夏には自励発振段を分けて、終段で変調を掛ける送信機を組立てたところ、これまでの自励発振へ直接変調するものより遥かに良好な成績を得ました。

『この送信機は小電力自励発振器の出力を二段階にわたり電力増幅を行ったもので、最終段増幅器の陽極回路においてチョーク変調を行った。この試作機の搬送波出力は約五〇〇W、周波数は九Mcと一三Mcの二種であった。この送信機で国内試験を行った結果は自励送信機をそのまま変調する最初の方式より遥かに良好で、短波による遠距離電話連絡の可能性を確認するに至った。本機による実験は翌四年七月まで継続されたが、この実験は後に述べる水晶制御式送信機を設計する基礎的資料を得るのに役立った。』 (電波監理委員会編, "遠距離無線電話の試験時代", 『日本無線史』第1巻, 1950, 電波管理委員会編, p336)

1929年(昭和4年)8月19日、ドイツの飛行船ツェッペリン伯号の霞ヶ浦着陸では、その様子をラジオ中継して欲しいとベルリン放送局から逓信省に要請(8月16日)がありました。そこで既設のベルリン-バンドン(ジャワ島)回線へ接続するため、東京-バンドン間を官練J1PPの短波無線電話で結ぼうとしたのですが、残念ながらこれは失敗でした。栄光のコールサインJ1PPとしての活動はここまでで、1930年(昭和5年)春からはJ1PPの第4号機(水晶発振式)は検見川送信所に据付けられ、呼出符号はJ1AAを名乗ることになりました。 

◎ なぜ検見川に据付けられたJ1PP第四号機は、呼出符号J1PPを名乗らなかったのか?

1927年(昭和2年)に開かれたワシントン会議で定めた新しい無線規則(1929年1月1日より発効)では、これまで各国の電波主管庁が自由に決めていた実験局(含むアマチュア局)のコールサインを、「国際符字列による1-2文字+1数字+2文字」形式に世界統一するとしました。そこで逓信省は日本の実験局のコールサインを「J+1数字+2文字」に決めました。さらに末尾の2文字を免許人で区分し、たとえば数字が1の東京逓信局管轄エリアでは呼出符号「J1AA-J1AE」を逓信省の実験局に、「J1AF-J1AZ」を逓信の外局の実験局に、「J1BA-J1BZ」を逓信省以外の官庁実験局に、そして「J1CA以降」を民間企業や学校および個人の実験局だと決めたようです。【参考】 例をあげるとAF-AZは逓信の外局である電気試験所J1AF(大崎第4部,旧JHAB), J1AG(平磯出張所,旧JHBB), J1AH(磯濱分室,旧JHCB)や同じく外局の東京逓信局逓信講習所に指定され、BA-BZは官立学校や逓信以外の省庁。ただし県立などの公立学校や東京市の電気試験所など国立ではないものは私設局の扱いなのでCA以降。

するとJ1PPという呼出符号はこの区分上では民間(私設実験局)に属することになり、官設の検見川で使うには整合しません。この送信機が逓信省(工務局)のものならJ1AA-J1AEから選び、東京逓信局(検見川送信所)のものならJ1AF-J1AZから選ぶことになります。逓信省の電報ビジネスの現業局が実験施設のオーナーというのには少々違和感があり、(送信機は東京逓信局の検見川送信所に置かれたが、それはただの置き場所であって、)これは逓信省工務局の実験局だという解釈になったと思われます。呼出符号は逓信省のJ1AA-J1AEから選ぶことになり、岩槻のJ1AAが既に運用停止していたのでこれを使ったのではないでしょうか。

 

◎ なぞの写真「JPZ J1PP」 

左図は電波時報(1968.1, 郵政省電波管理局編)の電波百年記念特集の中で使われた写真のうちのひとつで『 ☆ 明治30年当時の無線電信機(電気試験所において実験に使用した通信機) ☆ 』 という説明が付けれれていました。しかし明治30年(1898年)に電気試験所の松代松之助氏が組み立てたのは非同調式火花送信機にパラボラビームですからそんなはずはありません。

 

いろいろ調べてみたところ逓信官吏練習所が1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)夏まで使っていたものでした。無線と実験誌1931年1月号の別冊付録のコールブックに官錬無線実験室のJPZJ1PP(周波数7.100/9.540/11.800/14.200/15.120/17.790MHz)がリストされていました。7.100MHzと14.200MHzはアマチュア用ですからこれをJ1PPが、その他の周波数をJPZが使用したものと想像します。

もともとJPZは昭和2年(1927年)12月6日まで天拜山丸が使っていました。そして昭和5年(1930年)夏、長崎県遠洋底曳網水産組合が長崎県水産試験所内に開設した漁業無線局JOUのコールサインが、1ヶ月ほどしてJPZに指定変更(s5.9.1官報告示第2050号)されています。漁業用の1364kHzの電信500W, 電話250Wです。

『機械はこれを東洋無線電信電話株式会社に請負わしめ、屋舎およびアンテナポールの工事は県知事の許可を得てこれを県土木課に託し、四月七日起工、七月七日竣工し、その翌八月(翌8日の誤記?)熊本逓信局の検定を受け無事合格、七月二十日検定証の交付を受け、ここに新たに陸上無線電信電話局の設立を了するに至れり。』 (長崎県水産会編, 『長崎県水産誌』, 1936, p140)

それにしてもこの短波送信機で官練無線実験室は何を研究していたのでしょうか?私には全く分かりません。

97) 1926年(大正15年)2月24日、全国放送網計画を決定 (おまけ)

おまけとして、京城放送JODKに関する話題を紹介します。

逓信省の東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の経営統合と全国放送網建設計画について引用します。

『大正15年2月24日朝、四ヶ月以上に亘って事務当局が練りに練った放送事業の統一経営、全国放送網建設に関する立法について、大臣官邸において大臣の決裁を乞うため関係者一同が会議を開いた。・・・(略)・・・逓相の一段によって放送事業の方向が一大転換をすることとなった。』 (電波監理委員会編, "全国的経営及び施設計画案の逓信省議決定", 『日本無線史』 第七巻, 1951, 電波監理委員会, pp112-115)

  この日、決定した我国最初の全国放送網建設計画では名古屋を現状維持とし、全国に放送局を増力・新設して配置するもので、金沢が先送りになりました。

◎増設(東京・大阪10kW)、新設(広島1kW, 熊本・仙台10kW, 札幌10kW建設着手)・・・T15年度

◎改装(広島10kW)、新設(長野10kW)・・・T16年度

◎改装(大阪0.5→1kW)、新設(弘前・浜松3kW)・・・T17年度

◎新設(野付牛3kW)・・・T18年度

 

左図(クリックで拡大)は「放送事業統一経営に関する調査」附 第二号「第一期放送施設に依る可聴圏図」で鉱石受信機での可聴予定範囲を示す地図です。この地図は日本放送史(第三編 日本放送協会の成立と放送網の建設/第二章 逓信省の方針決定, 日本放送協会, 1951, pp306-308)にも掲載されました。名古屋局は現状のままとされ、まぼろしの「浜松局」3kWを見ることができます。

地図上に一点破線で引かれた建設予定の放送中継線(陸線)にもご注目下さい。各放送局を結ぶ中継線は北方へは仙台・弘前を経て青森までを建設し、札幌と野付牛へは経費が安く済む無線中継を想定しました。当時の技術水準の現状から、他局の中波放送波を受けての再送信だと想像しますが、ちょうどこの時期(1926年1月)にJOAKが特例的に短波実験の施設許可を得ており、短波無線電話による放送中継の研究開発が始まりました。短波開放の通達のページをご参照下さい。

98) 1926年8月25日、全国放送網の波長・電力を軍部へ照会(電業第1884号) (おまけ)

1926年(大正15年)8月20日、先行三放送局が日本放送協会として経営統合された時点における放送局は下表のとおりです。

日本無線史第七巻(pp221-222)にある「軍部との折衝」について説明します。2月24日に決定した逓信省の「全国放送網建設計画」に従い各放送局の使用波長の選定をおこなっていました。8月15日の日刊ラヂオ新聞には金沢局決定の記事があります。『懸案となっていた北陸放送局は今回いよいよ金沢副放送局の名称で明年度中実現する計画のもとに大体の方針が決定した。』 ("北陸放送局決定 明年度から金沢市に", 『ラジオ新聞』, 1926.8.15)

 

1926年(大正15年)8月25日に、各局の波長の選定を終えた逓信省は、海軍省と陸軍省へ「放送無線電話施設計画に関する件」(電業第1884号)でラジオ放送全国拡大に伴う波長や増力が、軍の通信関係に支障ないかを照会しました。

 (クリックで拡大)

 

1926年(大正15年)9月16日、第七飛行連隊を立川から浜松へ移す計画があるため、送信場所を同隊から30km以上離すことや放送時間についての制約条件が付いた回答(陸普第3864号, 1926.9.16)が陸軍省より逓信省と海軍省に送付されました(クリックで拡大)。

逓信省は結局、浜松を断念して名古屋を10kW化する計画に修正し、誕生したばかりの日本放送協会の「全国放送網建設計画」案として提出させて、10月27日に逓信省がこれを承認する形になりました。その後も改正があり、1928年(昭和3年)1月には弘前や野付牛は凍結されました。

【注意】 2月24日に承認された「全国放送網建設計画」は(日本放送協会が誕生する前ですので)"逓信省の計画"。10月27日の改正計画は逓信省と日本放送協会で作った、"日本放送協会の計画"です。

99) 朝鮮逓信局の実験放送 JODK (1926.10.5-) (おまけ)

逓信省の全国放送網建設計画では大阪JOBKを波長385m(779kHz)から400m(750kHz)に変更するものだったので、10月5日より朝鮮逓信局の実験放送を波長400m(750kHz)から350m(857kHz)へ移しました。波長350mに突如出現した謎の放送をキャッチした根岸巖氏(千葉市在住)が『無線之研究』誌に記事を書かれています。

『最初に聞いた十月七日も夜などもノービート法でやっと混話がある程度まで避けて、やっと聞いた位でした。その夜七時半頃波長計で約三五二米の所にビート音を聞いたのを手はじめに和楽や日本語のアナウンスメント等が明瞭に聴取出来ましたが、空電が多くすぐ自己振動が起きるので、その後ノービート法で聴取しました。それで「今までの四百米を三五〇米に変更して 云々・・・ 時刻をおしらせいたします。九時四分・・・JODK」といったのがどうしてもBKとしか聞き取れませんでした。

翌夜は雨でしたがかなりよく聞こえ「JODK、こちらは朝鮮逓信局であります」というのや「波長を四百米に変えますから」といった後、四百米で「お知らせ」を放送しているのなども聞き取れました。この局もある程度のフェーディングを伴いますし、AKが放送をやめる頃はもう終わっているので、当地ではこの局の放送を「聞く」ということはもっと高級の受信機を用いるのでなければできかねます。』 (根岸巖, "遠近の放送局を相手にして", 『無線之研究』, 1927.1, 無線之研究社, p50)

【参考】 筆者は日本放送協会技術局にお勤めだった根岸巖氏ではないかと想像しますが、この記事の時点での経歴等は存じません。

 

1926年10月7日、波長350mで謎の放送をキャッチしたがコールサインが「JOBK」と聞こえたので不思議に思い、翌8日も聞いてみると「JODK、こちらは朝鮮逓信局であります」というアナウンスが飛び込んできました。AK, BK, CK に次ぐ四番目の呼出符号が誕生したのでしょうか?しかしJOBKのようにも聞こえるため、根岸氏は朝鮮逓信局へ問い合わせたところ11月7日付の書状が届きました(11月11日着)。根岸氏が朝鮮逓信局からの返書を雑誌に発表されています。

『アナウンサーのDKというのがどうしてもBKと区別付きません。問合せてみましたら11日付で左の通り御返事がありました。

拝啓

秋冷の候 益々御清栄の段 奉賀候

陳者 当局放送受信成績 早速御報道被下感謝候

尚当局は京城放送局開始迄 左記に依り定期実験放送を致居候條御参考迄に御通知申上候

 

呼出名称 朝鮮逓信局

呼出符号 JODK

電波長 三五〇米

空中線入力 一五〇「ワット」

空中線電流 四「アンペア」

機器

送信機 「マルコニー」UB型 四〇〇「ワット」放送機 発振管入力二五〇「ワット」

送話器 「ウエスターン」「ダブルボタン」型送話器

放送日 毎週 (放送事項)

火曜 内地人向

木曜 鮮人向

金曜 内地人向

日曜 内地・鮮人向

放送時間 毎日 自午後七時 至八時半

 

朝鮮逓信局 工務課 無線係 (11・7)(IN生, "ラヂオ切張帳(三)", 『無線之研究』, 1927.1, 無線之研究社, pp48-49)

根岸氏の他にも朝鮮逓信局JODKを受信した人がいました。10月12日にJODKを受信した浅井武二氏が日刊ラヂオ新聞に報告しています。

『・・・(略)・・・なおJODKに関し、去る十月十二日夜聴取いたし候由を先方へ報道いたせしところ、別紙のごとく丁重なる返書に接し候間 ここに貴紙を通じ公に致しくだされ候わば幸甚に候・・・(略)・・・』 ("読者より", 『ラヂオ新聞』, 1926.10.25)

100) JODKというコールサインを使った放送局は2つある (おまけ)

1926年(大正15年)2月の時点では、前述の飯塚氏の朝鮮逓信局訪問記によると『国際的コールは使用せず放送前後に「朝鮮逓信局」とのみ申しております』でした。飯塚氏が、実験放送を実際に運営していた梅田吉郎技手・篠原昌三技手それに佐々木仁課長に面接した上での記事ですからこれは間違いないでしょう。そして同年10月の波長変更の時点より、少なくとも内地の二人のラジオファンが朝鮮逓信局は京城放送局がJODKのコールサインを使って実験放送を行っているのを傍受し、さらに同局へ問い合わせたところ、朝鮮逓信局がコールサインJODKを使っている旨の返書を受領しています。これは『無線之実験』誌と『日刊ラヂオ新聞』に掲載されました。さらに多くのラジオファン達が朝鮮逓信局JODKを受信したと想像します。

 

同年11月30日に社団法人京城放送局の設立が許可され、12月9日に波長367mで「JODK」が与えられました(朝鮮総督府告示第379号、官報告示:1927年1月7日)。(左図クリックで拡大) 

(関東州の大連放送局がJQシリーズの「JQAK」を指定されていたように)朝鮮の京城放送局のコールサインにはJBシリーズの「JBAK」が予定されていましたが、内鮮(内地・朝鮮)一体政策により、内地と同じJOシリーズにすべきという意見とが対立したと伝えられています。

すったもんだの末、設立準備中の京城放送局にJODKを与えることは9月までに決着して、京城放送局JODKが開局するまでの期間に限り、暫定的に朝鮮総督府逓信局無線実験室が運営する実験放送がJODKを使ったのではないかとの考え方が、まず浮かびます。

 

しかし当時この実験放送を行なった当事者である篠原技手が、日本放送史(1965年)に、JBAKを指定したい逓信省電務局と、JODKを主張する朝鮮総督府逓信局との溝が埋まらず、ついに朝鮮逓信局が見切り発車でJODKの既成事実を作り始めたと書かれていますので引用します。

『大正十三年十一月京城府光化門通りの逓信省構内から、朝鮮最初のラジオ電波が発射された。実験用放送電波の発射に先立って、コールサインが問題となった。朝鮮逓信局は内地のAK・BK・CKにつぐ第四番目のJODKとする要請をしたところ、逓信省はJO●●は国内用に保留して、外地放送局に対しては、朝鮮はJB●●、関東庁はJQ●●、台湾はJF●●とする意向であった。そこで、現地当局は、内鮮一体の国策に反するとして、双方対立したのである。』 (篠原昌三, "JODKのコールサイン", 『日本放送史』, 1965, 日本放送出版協会, pp224-225)

 

コールサインをめぐって逓信省と朝鮮総督府逓信局がこう着状態に陥っていたのがJOAK, BK, CKが出揃った1925年(大正14年)後期から翌年頃だろうと想像しますが、注意を要するのはこれは京城放送局のコールサインの話ではありません。朝鮮総督府逓信局の実験放送のコールサインのことです。このようにコールサインの指定で逓信省と揉めていたため、朝鮮逓信局の実験放送はコールサインが決まらないまま「朝鮮逓信局」とのみアナウンスしていたようで、前述の飯塚氏の訪問記とも一致します(またこの中波実験放送のコールサインがJ8AAだったという説にも疑問を感じます)。

 

朝鮮総督府逓信局の実験放送局は、将来、京城放送局が設立されて放送が始まるまでの暫定運用との位置付けでしたので、この実験放送局が獲得したコールサインは、将来は京城放送局に譲るつもりだったことが想像できます。いよいよ京城放送局の設立が大詰めに入った1926年(大正15年)秋、やがて始まるであろう京城放送局の試験放送もあることだし、強行突破でコールサイン問題に決着を付けようと考えたようです。

『しかし、実験放送開始も間近になったので、当時の逓信局長の英断によって、京城放送局はJODKを使用することとなった。私はこの時、JODKの第一声をアナウンスした。その後、社団法人京城放送局が設立された際、JODKは既成事実としてそのままとし、つづいて開局した各放送局はすべてJB●●を割り当てられたのである。』 (篠原昌三, 前傾 日本放送史, p245)

はしょられた部分を私なりに補足させてもらえば、「朝鮮総督府逓信局長の英断によって、逓信局の実験放送がJODKを使用すこととなった。そして逓信局の実験放送でJODKの第一声をあげた。しかし逓信局の実験は京城放送局の開局と入れ替わりに閉局させ、京城放送局にJODKを譲る計画だったので、この措置は "京城放送局がJODKを使用することになった" という意味を持っているのである。」です。

こうして朝鮮総督府逓信局のJODKと、逓信省のJBAKの論争がこう着状態になっていた1926年(大正15年)10月に、逓信局の実験放送がJODKのコールサインを使い始めたようです。そして前述したとおり、朝鮮逓信局の実験放送JODKの受信報告が日刊ラヂオ新聞にも掲載されるなどし既成事実を重ねました。この作戦が効を奏したのか、逓信省が譲歩せざるを得なくなり、それが官報にも掲載された12月9日の決定(京城放送局にJODKを指定)につながったのでしょう。

 

次に引用するものは同じ篠原氏による記事ですが、はっきりと「逓信局のコールサインがJODK」だと述べられています。

 

『京城放送局の前身ともいえる前述の実験用無線局には、当然コールサインが必要であるので、(朝鮮)逓信当局では日本の逓信省に対してコールサインの割当てを要請した。ところが、外地の放送局に対しては、朝鮮にはJBAK - - -、台湾にはJFAK - - - のように割当する方針であるとのこと。しかし、朝鮮総督府の施政方針は、常に内鮮一体、一視同仁の政策をとっているので、日本で第4番目の放送局としてJODKの割当を強硬に主張されたようで、やがて私は「JODK!こちらは京城逓信局実験放送」というJODKの第一声をアナウンスしたことを覚えている。』 (篠原昌三, "JODKから50年", 『放送技術』, 1977.7, 日本放送出版協会, p90)

 

1927年(昭和2年)1月20日より京城放送局のJODKの試験放送が始まったとのことですから、それ以前のJODKの放送は(民間の京城放送局ではなく)朝鮮総督府逓信局の方でしょう。つまりJODKというコールサインを使った放送局は二つあって、初代JODKは朝鮮総督府逓信局の実験放送局でした。そして1927年(昭和2年)1月16日、朝鮮逓信局による実験放送は終了しました。

◎ このページの最後に・・・

さて本ページ冒頭で佐々木諦氏の記事を紹介した通り、官練無線実験室はほとんど語られることもなく無線史から消えようとしています。東京放送局JOAK開局の約一年前に官練無線実験室が行ったラジオ実験放送は当時あれほど東京市民から注目された放送だったのに、超レアな話題になってしまいました。

また私設実験局のページで書きましたが、1908年(明治41年)5月27日に、日本郵船所属の丹後丸YTGが銚子無線JCSに送った報知新聞社宛ての電報が我国初の公衆無線電報の第一号ですが、裏話としてはそれよりも2週間ほど前に、横浜港に停泊中の東洋汽船所属の天洋丸TTYが官錬無線実験室へ連日のように多数の公衆無線電報を送っていました。すなわち官連無線実験室は公衆無線通信発祥の地でもあったのです。

せめてWeb上だけでも、大臣官房の官練の中に通信局工務課(後の工務局)の研究施設が存在していたという不思議な事実と、ここで行われた輝かしい功績を記録し残しておきたい。そういう気持ちで書かせていただきました。