J Callsigns

Jコールサインについて紹介します。GHQ/SCAP は日本人が運用する無線局を承認し、そのリストを1946年8月29日の対日指令SCAPIN第1166号に添付しました。これはマスターリスト(連合国の周波数監理原簿)と呼ばれています。この8月29日は無線電信法により逓信省が無線局を許可してきた時代から、民間通信局CCSによる施設承認へ完全移行した「電波行政上の敗戦の日」といっても良いでしょう。

この日(8/29)、戦後初の"Jコール" の実験局も承認されました。同時に新たなDistrict Number(エリアナンバー, 地域番号)を振り直して、東京は9エリアになりました。そして1947年2月20日をもって日本人のJプリフィクスはJXに変更されその幕を閉じました。

同時期に連合国人のアマチュア局も始まりましたが、第8軍は戦前のDistrict Number(エリアナンバー, 地域番号)にほぼ準拠したものを用いたため混乱が生じました。連合国人の "Jコール" は1949年1月1日に"JAコール"になりました。これらの詳細についてはAnother J もご覧ください。

なおJコールサインの第一号という意味では、逓信省通信局工務課の実験施設「J1AA」が1925年(大正14年)4月4日に埼玉県の岩槻受信所の建設現場に仮設され、4月6日には米国の6BBQ局と交信しました。これについてはJ1AAのページをご覧ください。

また終戦時に残っていた戦前からのJコールサインの局は3,550kHzのJ2FA、6,400kHzのJ2CK/J2DB、7,100kHzのJ3LDの4局でした。終戦時の無線局のページの最後をご覧ください。

国際的に日本に「J」の文字が割当てられたのは1912年のロンドン会議ですがこの話題については私設実験局のページをご覧ください。

  • 発給が再開された、Jコールサイン

1946年7月1日、逓信院(BOC)は逓信省(MOC)に変わった。そしてMOCはCCSへ電離層観測および対流圏伝播を観測する実験局の申請を行い無事SCAP登録された(なお日本放送協会の実験局が一部含まれた)。日本では戦前より実験局のコールサインには「J+数字+2文字」を使ってきたので今回もそれにならったが、サフィックスはZAから発給を再開した。おそらくは戦前に発給したJコールサインと明確な区別をつけるために末尾のZから再開したものと想像する。これら Jコールサインの実験局の承認までのいきさつについては District Num を参照されたい。

なおCCSによる電波統治時代は(ごく一部の例外をのぞき)官報には無線局の許可は公示されなかった。無線電信法に基づき逓信省が無線施設を許可していたのではなく、民間通信局CCSの判定基準により、CCSがSCAP Registry Number を交付し、その後の実務手続きを逓信省が代行したに過ぎないからだろうか?(1949年秋にいくつかの周波数帯の許認可権が電気通信省電波局に与えられてからは、多少は掲載されるようになった。)

1946年8月29日に、J2ZA, ZB(東海北陸)、J6ZA, ZB(九州)、J7ZA(東北)、J8ZA, ZB(北海道)、J9ZA, ZB, ZC, ZD, ZE, ZF, ZG, ZH, ZI, ZJ, ZK, ZM(関東信越)の合計19局がGHQ/SCAPのCCSに承認された。ただしDistrict Number は朝鮮・関東州の8番と、台湾・南洋群島の9番が日本の行政権から切り離された(1946年1月)ため、これらの番号を日本本土に引き揚げて、再構成したものが用いられた。この戦後のDistrict Number については前頁をご参照願いたい。

  • 奇妙な数字2桁のJコールサイン

また数字が2桁のJコールサイン、J28A, J28B, J28C, J28D(東海北陸)、J68A, J68B(九州)、J78A, J78B(東北)、J88A, J88B(北海道)、J98A, J88B, J98C, J98D, J98E, J98F, J98G, J98H, J98I, J98J, J98K(関東信越)もこの8月29日に承認された。たとえば依佐美送信所の場合、アマチュアとの共用波1,775kHzと3,550kHzではJ2ZAを名乗り、9,175kHzではJ28Aに使い分けている。犬吠埼や柿岡の60.0MHzではJ9ZC,J9ZKが使われているのは、当時のAmateur 5m Band が56.0-60.0MHzだからだ。また筑波山の50.0MHzにJ9ZJが使われているのは、アメリカではアトランティックシティ会議に先立って、5m Band を6m Band(50.0-54.0MHz)に変更して、こちらもアマチュア用周波数だったからだろう。

もっともアマチュアの周波波ではない2,065kHzのJ2ZAと、6,395kHzのJ8ZAというケースもあるが、電波型式がA0(無変調搬送波)なので、このままでも善しとしたのだろうか?だが45MHzのJ9ZMはA1なのでこの理屈では説明がつかない。無理に理由を探せば、J9ZJ(筑波山)とJ9ZM(東京)はともにBCJ日本放送協会の実験局で、筑波山と技術研究所(世田谷)間でVHF伝播実験を計画しており、50MHzの筑波山がJ9ZJだから、45MHzの技術研究所もJ9ZMとしたのだろうか?

  • 160m, 80m, 5m アマチュアバンドに日本人の "Jコール"の電波が出る。

終戦後で一番最初に、(戦前の日本で使っていた)アマチュア周波数の割当てを受けたのは、連合国のアマチュアではない。日本の警察だった。周波数は3,550kHzでEVP, EXP, EVS, EXS系のコールサインで運用された(GHQ/SCAP CCS を参照)。しかし1946年5月10日の日本帝国政府に分配する周波数リストには、日本のアマチュアに割り当てられてきた周波数(1,775kHz, 3,550kHz, 7,100kHz, 14,200kHz, 28,400kHz, 56,800kHz)は含まれていなかった。すなわち日本の周波数ではなくなったので、警察無線も3,550kHzの使用を中止した。

1946年6月19日になって1,775kHz, 3,550kHz, 5m Bandの上端60,000kHz などが日本帝国政府に追加された。戦後の日本のアマチュアバンドで "Jコール" の電波を出したのは連合国だけではない。文部省、逓信省、日本放送協会の実験局が "Jコール" で電波を出しはじめた。

特に160m, 80m Band は多くの業務局が使用していたので、第八軍がアマチュア用に使い始めたのは1948年秋になってからだ。その意味では160mと80m Band では日本人の"Jコール" の発射の方が時期的には早かった。(もっとも1,775kHz はA0波でコールサインは送らなかったかも知れないが、)3.550kHz の方はA3波なのでコールサインは送出されているはずだ。


上図は1946年8月29日付け対日指令SCAPIN第1166号に添付された日本初のマスターリスト(GHQ/SCAPの無線局管理の原簿)である。左からSCAP Registry No., 周波数, コールサイン, 電波型式―出力―局種 の順である(J9ZAは新潟県北蒲原郡聖籠村の文部省新発田電波観測所でSCAP登録番号が「1145S」になっているが、本来なら都道府県番号10の新潟のはずなのに、なぜか11の長野である)。このようにJ9ZA-ZI, J2ZA, J2ZB, J6ZA, J6ZB, J7ZA, J8ZA, J8ZB の計16局が3.550kHz, A3, 400Wの許可を得ている。

逓信省がこのマスターリストを作ってCCSへ提出した。それにCCSがSCAP Registry No.を振って、8月29日にSCAPINにて発令したのである。従ってリストの内容は8月29日よりも1~2ヶ月前の状況を反映していると考えられる。

  • 1946年 文部省電波物理研究所が観測再開

戦後の文部省電波物理研究所J9ZH(左写真、東京都小金井)は、各地に電波観測所を設けた。1946年3月に新発田観測所J9ZA(新潟県, 1946年11月観測開始)、勝浦観測所J9ZE(千葉県, 観測に至らないまま1948年8月に閉所)、浜名観測所J2ZB(静岡県, 1947年夏観測開始)、平方分室(埼玉県)開所した。

1946年7月には日本の最北端の稚内観測所J8ZB(北海道, 1947年3月観測開始)と最南端の山川観測所J6ZB(鹿児島県, 1946年12月観測開始)、深浦観測所J7ZA(青森県, 1947年3月観測開始)が、同年10月には茅ヶ崎分室が開所した。なお新発田J9ZAと深浦J7ZAは統合されて、1949年11月に秋田電波観測所(秋田市手形旧陸軍練兵所跡地)へ無線設備とともに移転した。

マスターリスト(1946年8月29日)から "J" 一文字のコールサインを書きだしたものが下表である。

なお二桁数字の "Jコール" は数ヶ月の短命で廃止され、J28AはJ2ZAに、J28BはJ2ZBに吸収統合された。統合先のないJ28C にはJ2ZC という一桁数字の "Jコール" を新たに指定した。同様の措置でJ2ZC, J2ZD, J7ZB が誕生した。ちなみにJ9ZIは逓信本省庁舎、J9ZB(J98B)は電気試験所平磯出張所、J9ZJ(J98J), J9ZM, J7ZB(J78B)はBCJ(日本放送協会)の技術研究所、J9ZG(J98G)は文部省三鷹報時所(のちの東京大学東京天文台)、J2ZA(J28A)は国際電気通信株式会社の依佐美送信所である。

(最北端のJ8ZB稚内観測所)

  • J9ZK 犬吠崎電波観測所

上記の表ではJ9ZLが飛んでいる。J9ZK(千葉県銚子市犬吠)はJ9ZL(埼玉県入間郡大井)と60MHzの伝播実験を行っていた。当初は大井が受信局だったので(予備免許でコールサインJ9ZLは指定されたが)、本免許は後になったというのが実情のようである。

"土屋清美,犬吠電波観測所の昭和20年代,電波研・通信総研の想い出,2001" より引用する。

『犬吠観測所の初期は、本省の大平測定所(千葉県松尾町)の犬吠分室でした。終戦のころ、庁舎が全焼したとかで、代わりに、古びた平屋の建物(陸軍の兵舎、細長くて畳の部屋が7~8室あった)の一室の畳をはがして、ぎしぎしする床に60MHz帯の送信機が設置され、埼玉県入間郡の大井(受信所)に向けてキャリヤーを送信していました。VHFの陸上伝播実験をしていたのです。ここ(犬吠)の建物はゆるやかにくぼんだ所で一番高い所には砲台の跡もあったり、(海からの米軍の攻撃に備えて)、土で囲ったような形の所もありました。昭和22年秋頃、私が着任した頃には、前記送信をしていましたが、よく停電があり、送信停止になりました。3人が交替で、夜間、送信機のおもりをしましたが、夜は電力使用が一般に少なかったので、安定した送信が出来ました。』

それにしてもJ9ZKの60MHz送信機のお守り役の大変さが伝わってくる。

『数十メートル先に井戸があって、そこから飲み水や、風呂の水を運ぶのもひと仕事でした。風呂は、鉄釜様で板にニクロム線を取り付け、風呂の中に入れて沸かしました。ちょくちょくニクロム線が切れて閉口しました。木造のしっかりした新庁舎が完成したのは昭和24・5年頃で観測所の形が整いました。このころから着任する人が多くなりました。しかし宿舎は、相変わらず、前述の古い建物で畳の間等から篠竹が伸びて出たり、茸が生えたりしました。』 こののち大井への60MHz送信実験は終了して、平磯からの送信波の受信局になったという。

では犬吠崎J9ZKと大井J9ZLの60MHz伝播実験の一端(1948年5月)を引用する(なおこの当時はJX9K, JX9Lに指定変更されている)。

『・・・(略)・・・目下60Mcの電波を犬吠実験所より発射し、大井実験所にてその電界変動を記録測定している。・・・(略)・・・(1948年)5月9日の部分食時に上述の伝播実験を特に念入りに行ったのである。観測期間は5月9日を中心としてその前後10日間即ち5月4日より5月14日迄毎日07h30m(JCST)より15h00m(JCST)迄連続測定を行い、特に5月8日の07h30mより5月10日の15h00m迄3日間は連続記録を行う予定であったが、実験の途中送信機故障のため予定通りの実験は出来なかった。日食当日は07h00mより測定を始め、日食開始から食甚過ぎ迄の電界変動の模様は記録できたが12h18mに送信電波が停止した。此のため日食前半の測定は出来たが、後半即ち復円後迄の測定が出来なかった事は残念であった。日食時に於ける影響は後述する如く予想以上に著しく此の結果はVHF伝播研究に多大の示唆を与えるものである。』 (松尾三郎/清水栄蔵, 昭和23年5月9日 日食時に於ける超短波(VHF60MHz)電界強度の変化に就いて, 電波, 1949.1, 修教社, p9)

またBCJ技術研究所の村上氏の学会発表の中で、J9ZKの60MHzの電波について触れる部分があるので引用する。

『我々の理論公式の正しさを裏付ける意味で次の三組の実験結果と比較しよう。・・・(中略)・・・第三に松尾、池上両氏の実験(松尾三郎, 池上文夫:VHF伝播に対する山岳丘陵の影響, 通研月報 2, Aug. Sept. 1949)を借用しよう。この実験は犬吠電波観測所から60Mcの垂直偏波を発射し(W=200W)、筑波山の裏側で受信したものである。』 (村上一郎, 山陰への超短波及び極超短波の廻折について, 昭和25年12月 電気通信学会雑誌 第33巻12号, p71)

2008年に池上文夫京都大学・拓殖大学名誉教授が電子情報通信学会の通信ソサエティマガジン (No.6 秋号, pp4-10)に執筆された "私の研究者暦:電波と通信の研究雑記帳" にも犬吠JX9K(ex J9ZK)と大井JX9L(ex J9ZL)の60MHz波が登場する。

池上氏は1947年に京大を卒業し逓信省電波局へ入省。社会人2年生の1948年より通信研究所を兼務し、この60MHzの研究に携ったことで「電波の面白さに強く魅せられた」そうである。

『 ■超短波の山岳回析利得

地形の超短波(60MHz)への影響を測定するため、大井(埼玉県)・犬吠(千葉県)実験所からの電波を、関東平野で移動測定した実験の祭、奇妙な現象に遭遇した(1948)。山の背後では遮へい損のため当然電界が低いと予想したが、驚いたことに筑波山・加波山の背後では山のない所より電界が20dBも高く、しかも早いフェージングがほとんどなく安定である。

原因究明に半年余り悩んだ末、ナイフエッジ回析損が球面大地上の回析損よりも小さいためで、フェージングが小さいのは主要波が強いためと理解できた。分かってしまえば至極当然だが、電波の面白さに強く魅せられた。』

  • J6ZB 山川電波観測所

J6ZB(鹿児島県山川)の建設時のエピソードを "大瀬正美,山川電波観測所の創設,電波研・通信総研の想い出,2001" より引用する。

『昭和21年4月27日から2週間、鹿児島県の南部で観測所に適当な場所を選定するために、尾上、田崎、私の3名で出張した。当時は出張命令証明書と連合国最高司令部の指令写しを持参しなければ切符が買えなかった。ガラス窓もないような満員の客車(貨車よりはよい)で、約45時間かけてようやく鹿児島市にたどりついた。当時の街は焼け野原で桜島の噴火による火山灰で荒廃していた。鹿屋をはじめ吉野、国分等々と探してみたが適当な場所は見つからなかった。』 日本人は国内移動ですら、GHQ/SCAPの許可が必要だったとは想像を絶する世界である。

『あきらめかけた頃、財務局から指宿海軍航空隊の送信所が山川にあるから行ってみてはどうかという話があった。藁をもつかむ心持ちで指宿線に乗った。当時はほとんど貨車で座席もなく、満員の立ち詰めで2時間半かけてようやく終点山川駅に到着した。成川の部落をすぎて坂道を登りきると急に視界が開けて目の前に送信所の建物が見えた。周囲は草がおい茂り建物は20年9月の枕崎台風で屋根などが相当傷んでいた。送信棟の内部は大型送信機が3台残っていた。アンテナ関係は1週間前に米軍がすべて爆破していた。それでも建物や機器類がなんとか使えるので最終的に場所をここに決定した。当時建物の控室には沖縄に帰る復員軍人が数人生活していた。』

大瀬氏はアンテナの建設資金を取りにいったん帰京。しかし新円切替え時期で高額紙幣がなく、10円札を5000枚(=5万円)を持って再び鹿児島へ向かった。

『東京から京都までは無蓋貨車、岡山までは貨車、下関まで石炭車の上、下関からなんとか客車に乗ることができた。寝るにしても資金を持っているのでおちおち寝られなかった。山川に帰りつくと、尾上さんたちも旅費がなくなり、かつお工場の2階に間借りをしていた。』

無蓋車とは材木などを運ぶ荷台だけの貨車。石炭車は炭坑から石炭を運搬する器のような貨車だ。やっと山川に帰り着くと上司たちは資金切れで間借り生活に!当時の電波観測技術者が並々ならぬ苦労をされれたことを知り、ほんとうに頭が下がる思いである。

なお大瀬氏はラバウル観測所に赴任するはずが、船が用意できないまま終戦を迎えた。上司から「君はもともと南方に行くはずだったから、山川を頼む」と命じられ、さらに昭和30年代に入ると「君はもともと南方に行くはずだったから、南極を頼む」と、南極越冬での過酷な電波観測に従事された。それも第一次南極観測隊から続く常連メンバーであり、氷の裂け目を雪上車で渡る際に、観測用機材とともに極寒の海中に車ごと転落するなど、まさに命がけで電波観測に従事された研究者である。

  • J9ZB 電気試験所 平磯出張所

J9ZB(茨城県平磯)の平磯出張所は非常に古く、1915年(大正4年)1月に逓信省の外局である電気試験所が、海上を伝播して到達する電波の伝播状況を研究するために出張所として開所した。1925年(大正14年)に呼出符号JHBBで短波研究を開始している。小規模な実験を経たあと、1927年(昭和2年)12月から翌年2月まで無線電話送信試験(波長37.5m, 空中線入力最大2kW)が行なわれ、JHBBの呼出符号が周辺国までとどろいた。

ちなみに平磯のコールサインは大正4年の開局からサンフランシスコ講和条約発効までの間に、呼出符号なし→JHBB→ J1AG→ J2AG→ J9ZB(9175kHzの呼出符号J98BはJ9ZBへ吸収統合)→ JX9B→ JG2Bとめまぐるしく変わっている。

1948年6月、GHQ/SCAPの民間通信局CCSの機構改革勧告に基づき、電波物理研究所は逓信省に統合され、山川J6ZBと平磯J9ZB間 1,080kmで固定周波パルスによる斜入射伝播実験が行われるようになったが、1953年(昭和28年)4月に山川電波観測所の実験庁舎が焼失し中断のやむなきにいたった。

"塚田壮平,平磯の想い出,電波研・通信総研の想い出,2001" より引用する。

『当時、平磯の所長をしておられた河野さんの勧誘で、私がその後を引き継いだわけでありますが、当時の平磯は、戦後の荒廃がひどく、まずやるべきことは、庁舎や官舎の修理や立替えが主な仕事であり、再三、本省の経理課に赴いて、予算のお願いをいたしました。そのかいあって、ようやく庁舎部分を建て替えていただきましたが、その後、本省の網島電波監理局長が平磯を視察に来られたことは、珍しいこととは言え、もっともな成り行きでありました。』

  • J9ZG 文部省三鷹国際報時所

1946年8月29日に対日指令SCAPIN第1166号の発令でJ9ZGが指定されるまでは、東京天文台の構内にあった文部省三鷹国際報時所は、東京天文台JGT(周波数4200, 7050, 10581, 12045kHz)を利用していた。戦災で国分寺の文部省電波物理研究所(J9ZH)との有線電話が途絶していたため、電離層観測業務の連絡用として用いられたという。

1948年(昭和23年)7月10日にこの組織は東京天文台に移管され、その名は消滅した。

  • J9ZM 日本放送協会BCJ 技術研究所

1940年代、アメリカでは既に40MHz帯でFMラジオ放送が始まっていた(戦後になって現在の90MHz帯へ移転)。終戦で日本でもFMラジオ放送の研究に着手しようとした。それが日本放送協会BCJの技術研究所J9ZM(免許:45MHz, 400W, 世田谷)だった。物資不足の中、苦心の末、45MHz/300Wの送信機が完成した(左図[右]:斜め側面から見た送信機)。 『戦後、昭和21年より高島、中村は超短波FM放送について基本的な調査をはじめ必要な部分回路の実験を進め、周波数45Mc, 300W放送機を試作し、昭和22年12月、技研100m鉄塔から実験電波を発射してサービスエリアおよび混信妨害等を調査する第一次実地試験を行った。』 (三十年史, 1961, 日本放送協会技術研究部, p37)

我国でFMラジオ放送を目的とした最初の実験局はNHK技研のJ9ZMだった。ただし45MHz波の伝搬調査が行われたのは1947年(昭和22年)12月で、コールサインがJ9ZMからJX9Mに変わったあとだが、この伝播試験よりも前にVHF放送中継試験に参加しているので以下に紹介する。

  • J9ZJ/J98J 筑波山中継実験所と、J78B塩屋崎(豊間)

日本放送協会BCJの福島県にある塩屋崎(豊間)J78B(のちにJ7ZB)と筑波山中継実験所J98J(のちにJ9ZJに統合)はともに120MHzと150MHzの許可を得た。両地点でVHF帯の伝搬実験を行うのが目的だった。

もうひとつ筑波山中継実験所J9ZJは50MHzの許可も得ている。こちらは都内の技研や放送会館を結ぶ際のことを考えた申請だったようである。これらの電波を結ぶ試験が計画された

『藤田、三木、山口清、園部茂、駒井又二、斎藤泰治は、超短波FM中継についても昭和21年より、基礎的調査を行い実験用機器を製作。昭和22年春、筑波山上に設置したFM通り中継器を利用して、第3.4図のように東京と豊間との往復回線について、第一次試験を行い成功を収めた。筑波山上に設置したヘテロダイン通り中継器は東京からの下り回線に使用し周波数45Mcを50Mcに変換、出力30Wの装置であり、また豊間からの上り回線は通り中継器ではなく、それぞれ周波数120Mc, 出力30W(豊間) および周波数150Mc, 出力30W(筑波山)のFM送受信機であった。』 (三十年史, 1961, 日本放送協会技術研究部, p37)

1947年7月にこれらのFM実験が民間通信CCSに承認されたことは確認できたが、FM中継実験は1947年(昭和22年)春とのことなので、なおそれより早くに短期承認があったのだろう(調査中)。

J7ZB(塩谷崎豊間)・J9ZJ(筑波山頂)・J9ZM(技術研究所)は実験準備中の、1947年2月20日にJX7B(塩谷崎豊間)JX9L(筑波山頂)JX9M(技術研究所)に指定変更された。したがって上記の試験はJXコールだった。

  • もうひとつのJコールサインも始動

1946年8月27日、第八軍の占領地域(日本本土)におけるアマチュア無線規則 "Regulation governing amateur radio operation by allied personnel in Japan" が制定されて、第八軍司令部(HEA:Headquarters Eighth Army)より通達(Circular 259, Aug.27,1946)された。ここに第八軍エリアのアマチュア無線制度と、この規則に基づいたアマチュア局の運用が始まった(参照:連合軍GHQにおける占領境界図)。民間通信局CCSの日本無線局の管理原簿「マスターリスト」がSCAPIN第1166号にて示されたのが1946年8月29日なので、ほぼ同じ時期である。

第八軍が発行するアマチュア用コールサインは「J」の1文字プリフィクスに戦前の日本で使われていたDistrict Number を使用し、日本人の局との混乱を避けるためか、3文字サフィックスとした。さらに戦前に台湾と南洋群島で使われたDistrict Number 9 は、それぞれ中華民国とアメリカの占領地になったため、この9番をGHQ/SCAPの占領地(連合国支配地:日本・南朝鮮・琉球)側に引き揚げて、米第十軍(奄美・琉球)へ割り振った。この時点で奄美・沖縄はJ5からJ9に変わった。

また朝鮮で使っていたDistrict Number 8 はそのままGHQ/SCAPの傘下の米第24軍団(南朝鮮占領担当)が引継いだ。

  • アマチュア規則の制定前の暫定運用

この運用規則が制定される少し前に、File AG311.23(9 Apr. 46)レターで太平洋陸軍総司令官CINCAFPAC(Commander in Chief, Army Force Pacific)より第八軍総司令官(Commanding General Eighth Army)へ、アマチュア局として28.0-29.7MHz, 56.0-60.0MHz, 144.0-148.0MHzの使用を許可する下達があったといわれている。FCCの発行したアメリカのWコールサインで運用されたようだ。

私はFile AG311.23 に分類されるものをこの前後半年区間で丹念に探してみたことがあるが、ついに見つけることができなかった。GHQ/SCAPの記録係(Record Branch)によるList of Papers (AG311.23) にも、この時期にそれらしきものはリストされていない。1946年5月10日に決定した、日本帝国政府に分配する周波数 "Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" により日本帝国の周波数が決まったが、これは裏返していえば連合国軍の周波数が決まったという意味でもあり、また日本帝国と連合国の周波数の持ち分が明確化されたという意味を持つ。だから(何の証拠も見つかっていないが)私は、第八軍エリア(日本本土)における連合国の周波数が確定した1946年5月10日の直後に、第八軍のアマチュア局が始まったのではないかと考えている。

なお1946年7月1日より、7.150-7.300MHz, 14.100-14.300MHzの下達(CX62525, 28 June 1946)は確認できている。だがそもそもの始まりがいつなのかが未確認で残念である。

さて前掲の連合軍GHQにおける占領境界図で示されているとおり、南方諸島(小笠原、硫黄島、南鳥島、沖ノ鳥島)および南洋群島(カロリン、マーシャル、マリアナ)は連合国GHQの占領地域ではなく、アメリカ(海軍の太平洋方面軍)の占領地域だったため、日本本土から行政分離された直後(1946年2月ごろ?)よりアマチュア局の運用が暫定的に認められるケースがあったようだ。

また北緯30度以南の西南諸島(奄美・沖縄・石垣・大東)は占領当初、海軍の太平洋方面軍の指揮下にあったため、ここでも陸軍の第八軍占領地域(日本本土)よりも少し早い時期に運用が許可されたようだ。

南方諸島、南洋群島、西南諸島、南朝鮮地域はそもそも日本から切り離されているので、5月10日の「日本対連合国の周波数分配」には一切関係しない。したがって1946年の早い時期から母国のWコールサインを使い運用(28MHz)されたようである。

  • 複雑なJ9 問題

下図のように日本本土では2種類のDistrict Number が使われるようになった。左の図が第八軍で、右の図がCCS(およびその配下の逓信省)のDistrict Number とコールサインである。

アマチュア無線規則 "Regulation governing amateur radio operation by allied personnel in Japan" (1946年8月27日制定, HEA通達第259号)では、第十軍(奄美・琉球エリア)がDistrict Number 9 だと定めた。しかし同時期にCCSの配下の逓信省は9番を関東信越エリアに当てた。Jブロックの国際符字の正当な権利者は本土側だから当然だったのだろう。第24軍団(XXIV Corp.)の南朝鮮地域は戦前のJ8を継続使用したが、独立に向けて準備中であり、またアトランティックシティ会議を目前に控えて、新たなプリフックスへの切替え方針がはっきりしていたので、あくまで一時的な借用と考えられた。しかしJ9の方は複雑だった。奄美・琉球への行政権が日本から切り離されたにもかかわらず、これらの地域で日本の "J9コール" が使われたからだ。

(第八軍) (逓信院)

【注】戦前の逓信省のDistrict Number では四国の徳島・高知は大阪逓信局の管轄で3番だった。しかし中国地方(鳥取・岡山・島根・広島)と四国地方(香川・愛媛・徳島・高知)は、第八軍の指揮の下でイギリス連邦占領軍(BCOF)が進駐した地域だったため、この英連邦BCOF担当エリアがJ4になったようだ。また戦後はサフィックスZAから発給されたが、最終的には2エリアと6エリアでサフィックスがXの実験局も許可されている。

GHQ/SCAP支配地域の中でも南朝鮮地域と奄美・沖縄はともに日本へ併合された歴史を持つため、独立を前提として日本から行政分離させ、米軍の軍政のもとに民主政府の準備が始まった。だからこれらはいずれ独立させる地域なので、けしてアメリカのものには成らない。

しかし小笠原諸島・硫黄島・南鳥島などは独立させる目的ではなく、単純にアメリカが占領した地域であって、軍部はアメリカの領土(恒久的支配地)にしたいと主張し、国務省と対立していた。伊豆諸島以南のいわゆる南方諸島を日本から切り離したのは、極端にいえば日本本土の連合国占領地とアメリカ合衆国占領地の国境線を決めたようなものだ。【注】なお伊豆諸島は1946年3月22日になって、アメリカから連合国(第八軍)占領エリアに収容された。

だから連合国の島(奄美・沖縄)と、アメリカの島(小笠原・硫黄)が混同されるようなことは絶対に避けたいはずだ。つまり奄美・沖縄に割り振ったJ9 を、小笠原・硫黄でも使うわけにはいかず、この地域ではしばらくプリフィクス未定の状態になったはずだが、現実には左図QSLカード(1947年)のような運用があったのも史実である。

アマチュア無線規則 "Regulation governing amateur radio operation by allied personnel in Japan" (1946年8月27日制定)ではJ9の範囲はGHQ/SCAPの占領地の西南諸島(奄美・沖縄)に限定され、南方諸島(小笠原、硫黄島)および南洋群島は含んでいない。それにしても このカードの、IWO JIMA が異様に大きいような気がしまいか?門外漢の私はこれ以上の論評を避けて、現役アマチュア無線家による歴史研究に譲る。しかし連合国人によるアマチュア運用規則が制定された1946年8月27日以降での、小笠原や硫黄島でのポータブルJ9という表示は、私には(イリガルとまでは思わないが)なにか釈然としない・・・・とだけ記しておこう。

なお沖縄はアメリカの意に反し日本復帰要望が激しくて独立運動に発展することはなかった。しかし朝鮮戦争の勃発で極東地域の緊張が高まったため、軍事拠点として利用されるようになり、連合国が日本から去った1952年以後も、アメリカの施政権下におかれた。

  • 日本人の実験局の"J9コール"を廃止

1947年1月31日、逓信省MOC(Ministry of Communications)は"Geographical List of Japanese Radio Stations" を発行した。SCAP登録が済んだ無線局を、各都道府県別に収録したものだ。このリストでは関東信越エリアの "J9" プリフィクスの全局が、"J2" プリフィクスに差し替った。

逓信省はJ9ZA-ZMのプリフィクスをJ2に変更し、J2ZA-J2ZMとした。そのため元々東海北陸のJ2ZA-ZDの4局は、その後ろのJ2ZN-J2ZQに廻された。これによりDistrict Number 9は、2に吸収統合されたように見える。いや9が2を横取りして、本家の2を自分の配下にしたような感じだ。

しかし 都道府県別リスト"Geographical List of Japanese Radio Stations" の埼玉県を見てみよう。(下図をクリックで拡大)

◆東京のスタジオと埼玉県川口市大字里の送信所(進駐軍放送WVTR, 870kHz)を結ぶのが無線中継実験局JO9A(37.5MHz)。

◆東京のスタジオと他の中央局を結ぶのがJO9H(3475kHz), JO9J(6175kHz), JO9K(9550kHz)。

◆東京のスタジオと埼玉県川口市青木町の送信所(東京中央放送局第1, JOAK, 590kHz)を結ぶのがJO9C(37.5MHz)。

◆東京のスタジオと埼玉県川口市赤井町の送信所(東京中央放送局第2, JOAK, 1340kHz)を結ぶのがJO9B(37.5MHz)。

◆埼玉県北足立郡小室村の電波実験施設がJ2ZF(元J9ZE, 3550kHz, 9175kHz)。

このように日本放送協会のJO9局は従来どおりDistrict Number 9 のままなのである。しかし電波観測用実験局J9ZFの方は、District number 2のJ2ZFに変更された。同じ埼玉県(コード16)に設置された無線局なのにだ。

つまり関東信越エリアの9番を廃止したのは、実はJ9局に対してだけの措置だったことがわかる。おそらくは、1946年8月より奄美・沖縄地域で "J9コール" を使い始めたことが強く影響していると考えられる。

(なお南朝鮮エリアでJ8を使いだしたことが、北海道エリアのJ8実験局とかぶる件は、1947年に開催されるアトランティックシティ会議を控えて、朝鮮へ新プリフィクスを指定する準備が進められており、あまり問題にはならなかったようだ。)

結局は "Jコール" 以外の実験局・非常局には、これまでどおり関東信越エリアは9番のコールサインを指定する予定だったと想像される。マドリッド会議で採択された実験局のコールサインの数字に0と1を使うことを禁じる規定(素人局は対象外)が発効する1934年(昭和9年)を前に、企業や官設の実験局と、素人の実験局のDistrict Number を2本立てにすることをためらい素人局を実験局として扱った逓信省だったが、今回 は"Jコール" 局に限って、別のDistrict Number が設定された。

  • 日本人のJコールサインが突然終了(1947年2月20日)

1947年2月20日に事件が起きた。Jコールサインだけに限定して、関東信越の9エリアを廃止し、2エリアに統合するだけでは済まなくなった。これらは何者からの指導(圧力)により「なかった事」とリセットされてしまい、Jコールサインの日本人の実験局は全てJXプリフィクスに切り替わった。その理由は沖縄のJ9アマチュアと、関東エリアのJ9実験局の、おそらくCCSの命令で日本側が全Jコールサインを放棄することで決着したのではないかと私は想像している。

戦前より我々日本人が使ってきた「Jひと文字のコールサイン」は1947年2月20日に終了した。詳しくはJX/JY Callsigns を参照願いたい。

  • JコールのX系(J9XA-J9XO)が申請される (1947年1月17日)

"Jコール" はZAから再開されたが、実は後期には「サフィックスX」のJコールサインも免許されたのである。

1947年1月17日、逓信省MOCは"Application concerning establishment of private experimental radio telegraph and telephone equipments"(逓信省LS第69号)で沖電気(J9XA品川工場, J9XB芝浦工場, J9XC自動車)、日立製作所(J9XD戸塚工場, J9XE自動車)、日本電気(J9XF玉川工場, J9XG自動車)、東洋通信機(J9XH栗橋工場, J9XI自動車)、東京無線電気(J9XJ下丸子工場, J9XK自動車)、日本無線(J9XL三鷹工場, J9XM自動車)、国際電気通信ITC(J9XN狛江工場, J9XO神代分室)に対し、FM30W以下で33.3/37.5MHz(鉄道用移動無線)と38.9/38.5MHz(警察用移動無線)を申請した。

MOCとしては日本メーカーによるVHF帯FM移動体無線機(警察用と鉄道用)の開発を活性化させるのが目的だった。その背景には軍用無線機の需要が全滅し、無線産業が瀕死状態に陥っていたので救済の意味もあったのかもしれない。

1947年1月31日の時点では、まだCCS承認は下りていなかった。従って同日付の無線局リストには掲載されていない。1947年2月5日、CCSは"Application to Establish Experimental Installation for Development of Fixed and Portable FM Radio Equipment" で、MOCのLS第69号(1月17日)の申請は、承認されしだいマスターリストの改定で発令するとした。

1947年4月1日付けのマスターリストの改定で、これらの局はJX9N-JY9Bで承認された。つまりJ9コールで申請されたが、審査中にコールサインの発番規則が変わってしまい、正式承認時にはJX9(JY9)コールだったという珍しい事例である。

  • 先行し承認されたテレプリンター(FS)実験局J9XP, J9XQ (注:J2XP, J2XQで承認)

1947年1月17日に無線機メーカーの実験局(J9XA-XO)に続けて、J9XPとJ9XQが申請されたようだ。残念ながら私はMOCの申請書も、CCSの承認書も発見できていないが、1947年1月31日の"Geographical List of Japanese Radio Stations" にはJ2XP(3.550MHz, A2,50W, 千葉市検見川)とJ2XQ(3.550MHz, A2,50W, 千葉県印旛郡臼井町)が掲載された。つまりJ9XA-XOを追い越して一足先にJ9XP, J9XQが、(日本人のJ9プリフィックス廃止で)J2XP, J2XQのコールサインで承認、そして掲載された。

ではなぜJ2XP(申請時J9XP)とJ2XQ(申請時J9XQ)が、すぐに承認されたのだろうか?どうもこの2局は半年前からコールサインなしで承認済みの実験局だったからだと思われる。では時間を1年前に戻し、国際電気通信の社史よりこれらのいきさつを引用する。

『昭和21年4月、桑港(サンフランシスコ)PW(Press Wireless)回線にFSモールス信号が送られてきたことに刺激され、同年7月小山送信所で2個の水晶発振器を電子管切替器でマーク、スペースに応じて切替える電鍵装置の試作に着手し、9月完成したので直ちに福岡受信所との間に送信電力の低減、通信速度の向上等の調査を目的として通信試験を実施したところ、従来のAM方式に比較して信号対雑音比の改善(10db)と送信電力の節減が得られたのみならず、フェーディングに対してもかなり有効なことが判明した。』 (FS送信機, 国際電気通信株式会社社史, 1947, p234)

1946年(昭和21年)9月17日に逓信省MOCは"Application concerning to emissions of Radio Wave for experimental purposes"(逓信省LS第12号)でUHFの多重FM無線電話システムとともに、国際電気通信株式会社ITCの検見川送信所・臼井送信所と、東京大手町の東京中央電報局(Tokyo Central Telegraphy Office)の実験システム(Radio printing telegraph system)をCCSに申請した。申請周波数は戦前よりアマチュアと実験局に使われてきた3,550kHzである。

1946年9月23日、CCSは"Assignment of Frequencies for Experimental Purposes" で「目下検討中だが、もし承認にすれば10月に予定しているマスターリストの第2次改訂で発令する」とした。そしてそのとおり改定リストに掲載された。

1946年10月22日の対日指令SCAPIN第1283号で、マスターリストの第2次改訂(2nd Amendment to Master List 0f frequencies assigned for use by the Japanese Government, 22 Oct. 1946)が発令されたが、この追加リストでは検見川送信所(千葉県)と臼井送信所(千葉県)に3,550kHzを使う"Experimental Telegraph Printer"局(A2, 50W)が、1947年2月1日までの期限付きでリストされたが、この時点ではコールサインはなかった(None)。

1946年11月20日、国際電気通信ITCの臼井送信所から3,550kHzで送信が始まり、それを東京の電気試験所(Electro Technical Laboratory)で受信したがS/Nが6dBほどしかとれず一旦中止。前掲書の引用を続ける。

『12月末に至り対米回線にFS方式を採用することになり、31日からPWと交信を開始し、引続き22年1月23日 MKYとも交信した。その結果、従来のAM方式に比較して送信機運転時間も1日述35時間から24時間に短縮され、送信電力も5kWから2-3kWに低減され、通信速度は80語/分も楽であった。実施直後は装置が試作品であったため中心周波数の変動、偏移周波数の切替に難点が認められたが、調整の結果これは解決した。』 (国際電気通信社史)

1946年12月11日、埼玉の岩槻受信所での受信テストが始まったが良好な結果が得られた。しかし同期確立と文字化けの改善が必要で、1947年1月24日よりその改良試験が始まったが、同時に承認期限2月1日も目前に迫っていた。

1947年2月3日、逓信省MOCは"Application for Postponement of Experimental term of Radio Telegraph Communications"(逓信省LS第73号)で、2月1日で承認期間を満了する検見川と臼井の実験局をあと2ヶ月延長して欲しい旨願い出た。1947年2月5日、CCSは"Application for Extension of Experimental date of Previously Authorized Project" で「承認したならば次回のマスターリスト改定に掲載し発令する」とした。

『2月頃から多重信号の影響から継電器の調整をマークよりにして交信していたが、キークリックや寄生振動が頻発したため、遂に3月末 FS電波の送信は中止した。』 (国際電気通信社史)

この3,550kHzで承認済みの国際電気通信ITCのテレプリンター実験局(コールサイン:None)に、J2XP(またはJ9XP)とJ2XQ(またはJ9XQ)のコールサインを指定するだけだったので、直ちに承認されたものと思われる。【注】 J9XA-XOの15局の方は新設申請

  • J6XA, J6XB も登場

1947年(昭和22年)1月30日の対日指令SCAPIN第1500号で、マスターリストの第5次改訂(5th Amendment to Master List of frequencies assigned for use by the Japanese Government, 30 Jan. 1947)が発令されたが、この追加リストでは福岡県糟屋郡新宮村に3,550kHz(と6,395kHz)を使う"MOC Experimental"局(A2, 50W)が1947年4月1日までの期限付きでリストされている。MOCとは逓信省であり、コールサインの欄には "None" とされていた。

このコールサイン無しの逓信省実験局は翌日(1月31日)の"Geographical List of Japanese Radio Stations" に登場する、福岡県糟屋郡和白村のJ6XA(3.550MHz,A2,50W)、J6XB(6.395MHz,A2,50W)だと考えられる。もちろん僅か1日後にコールサインが決まったのではないだろう。マスターリストの改定発令はたいてい実態より1~2カ月遅れるので、コールサインNoneで申請されたものが、1月30日にそのまま発令されたと考えられる。いずれも国際電気通信株式会社のテレプリンター実験に関連するものだろう。

少なくとも1947年初頭にはJ2ZA-ZQ, J6ZB, J7ZA, J8ZA, J8ZB の「J+Zサフィックス」の16局と、J2XP, J2XQ, J6XA の「J+Xサフィックス」の3局の、計19局の日本人の "Jコール" 局が、(戦前からの)アマチュア無線用の周波数3,550kHzで活躍していていた。この3,550kHzは日本国に分配された周波数なので第八軍のアマチュア局はいない。 【注】しかし1948年には3.550MHzは連合国に召し上げられてしまい、第八軍のアマチュアが使うことになる。