標準電波の歴史

標準電波とは無線局の発射周波数と公称周波数の偏差を基準値内に収めるために、各無線局が所有する波長計の目盛を校正させる事を目的とした電波でした。フランスでは1918年(大正7年)に、イギリスでは1921年(大正10年)に、そして1923年(大正12年)の3月6日よりアメリカ、8月3日より日本でも標準電波の発射が始まりました。日本は世界で四番目に標準電波を発射した国ですが、(アメリカのWWVは事前に発射日時を告知しながらの発射でしたので)定期発射という意味においては日本が世界で三番目になります。

【参考1】 ただし米国商務省の資料によると、1923年初頭にイタリア(ローマIDO)がURSI標準電波を発射しており、アメリカや日本より早かった可能性があり調査中です。

【参考2】 公称周波数とは各国の電波主管庁からベルン総理局へ登録されている、その無線局に割当てられた周波数です。

【参考3】 1920年代前半までこの電波を"Calibration Waves"と呼んでいました。

1930年代までの標準電波とは、まず可能な限り正しいと考えられる波長の電波を発射し、同時にその周波数を周波数基準原器をもとに精密測定し、実測結果を続けて送信するものでした。やがて周波数基準原器をもとに精密な送信周波数を作り、それを直接発射する方法に移行しました。つまり送信波の周波数が極めて正確なものを指すようになりました。ちなみに無線報時(タイムシグナル)は標準電波とはまったく独立的に始まったものですので、本ページの末尾にまとめました。そちらを御覧下さい。

1896年(明治29年)、逓信省電気試験所の松代松之助氏により手が付けられた我国の無線研究は、実用化を急いでいた海軍省に逓信省から技術者を出して海軍主導で実用化を達成し、日露戦争を勝利に導いたことは有名な話です。以来、太平洋戦争に敗戦し軍が解体されるまで、海軍無線と逓信無線は別々の歴史を刻み、そして逓信関係者は海軍無線を語らず、海軍関係者もまた逓信無線を語らないまま、それぞれで無線史が記録されて行きました。

この2つの歴史(逓信無線史と海軍無線史)をまとめる大きなチャンスが一度だけありました。終戦直後の1949年(昭和24年)に日本無線史の編纂がはじまりましたが、それには秘密の多かった海軍や陸軍の無線を明るみに出す事も目的に含まれていたのです。残念ながら日本無線史は縦割りの組織単位で編纂されたため、組織ごとに「我こそが全日本チャンピオンだ」と名乗ることに終始したといえるでしょう。たとえば逓信関係者による逓信無線の歴史だけで語るため、日本初の海岸局が銚子無線JCSになり、日本初のVHF実用化が飛島-酒田回線になるというわけです。しかし中央気象台(現:気象庁)関係のページでは富士山-三島の連絡回線が日本のVHF実用化第一号だと自慢し、海軍無線のページでは日本のVHF実用化は「九〇式無線電話機」の配備により達成されたとしています。第一号だらけで、日本無線史は全13巻を読破しないと実態を見通せません。

さらに終戦から相当の年月が経過しても、旧海軍無線関係者は専門外の逓信無線には触れず、旧逓信無線関係者もまた専門外の海軍無線を取り上げませんでした。他省のことを生半可な知識では語れない(語るべきでない)ということだと思います。結局、組織横断的に歴史をまとめた、我国の「総合無線史」は編まれないまま、戦前の電波史を語れる重鎮の方々が世を去られ、現代に至ってしまったと言えるのではないでしょうか。

標準電波の歴史もまさしくそうで、1951年(昭和26年)に出版された日本無線史には船橋無線の標準電波(1923年開始、海軍省)と検見川無線の標準電波(1927年開始、逓信省)がそれぞれの巻に収録されましたが、旧逓信系の方々は海軍の標準電波には何の反応も示さなかったように見えます。そして無線書籍や無線雑誌の筆者の多くが旧逓信系の方々でしたので、一般の無線ファンには標準電波の歴史の半分(逓信側)だけが伝わりました。これは旧逓信系の筆者達が海軍の標準電波を隠したとかではなく、単に海軍無線には詳しくなかったので触れなかったということでしょう(しかしそれが戦後70年を経過した今も影響しているのも事実です)。

さて話を戻して標準電波ですが、1936年(昭和11年)頃より学術研究会議の音頭で我国の標準電波の一本化が協議されて、1940年(昭和15年)1月30日より新しい標準電波JJYとして生まれ変わりました。

本ページでは海外の動向も含めながら、我国の標準電波の「総合史」として記述するように努めてみたつもりです。来る2018年に標準電波発射100周年を迎えますが、無線史研究家のみなさんの参考になれば幸いです。

1) 我国の標準電波の研究 (1918年~)

我国では第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)に海軍で研究が始まりました。

明治から大正中期までの火花式送信機の全盛期は実送信波長と公称波長との偏差が相当あり、それでも通信上は大きな支障もなく、誰も問題にすることはありませんでした(のちに真空管式の持続電波が共存する時代になっても相変わらずそうでした)。

そんな時勢の中、我国でいち早く電波の標準化に着手したのは(逓信省ではなく)海軍省でした。

大正七年頃までは我国には未だ波長の絶対的測定をする標準が出来ていなかった。当時の現状は外国から購入した各種の測定器から測った平均値をもって標準とする有様であり、また従来の火花式のような同調の尖鋭でない電波の測定は数%の誤差は止むを得ないものとして、測定精度は余り問題とされなかった。・・・(中略)・・・海軍では大正七年海軍少佐西崎勝之が主となり、回路の周波数を直接測定する方法につき研究することにした。(電波監理委員会編, "側波器及び周波数精密測定",『日本無線史』第十巻, 1951, 電波監理委員会, p315)

また1914年(大正3年)に東京帝大電気科を卒業し海軍に入った向山均造兵大技士は1918年2月に英国へ派遣され、同年10月よりロンドン大学で無線技術を学んでいました。そして1919年(大正8年)7月にはフランス駐在を命じられ、同年11月より(仏電気学会により運営される)パリ高等電気学校へ入学し、同時に陸軍中央無線研究所の無線電信講習生になりました(この時に造兵大尉に昇進)。パリ高等電気学校は陸軍電信部長フェリエ少将とパリ大学の全面的な協力により、メニー教授などフランス無線界トップクラスの教師陣を集めて、軍や郵政省からの委託学生に最先端無線技術を教育していました。

1920年(大正9年)春、向山造兵大尉はパリ郊外(エッフェル塔の南西5km程)にある陸軍のイシー(Issy)無線局の見学を特別に許されました。イシー局は世界で最初に標準電波を定期発射した無線局です。大いに刺激を受けた向山大尉はこの管理手法を日本海軍も導入すべきと考え、海軍省の栃内次官へ報告書を送ることにしました。

2) 1918年(大正7年) 世界初の標準電波 仏陸軍イシー無線局

1918年(大正7年)、仏陸軍のイシー(Issy)無線局より世界初となる標準電波の定期発射が始まりました。ではどんな事情があって、どんな目的で標準電波が発射されるようになったのでしょうか。

第一次世界大戦末期にフランス軍の無線局が急増し、より厳密に発射電波の周波数を守らせないと収拾がつかなくなる恐れが生じました。各無線局には波長計が配備されていましたが、気温や経時変化で波長計の目盛りが狂ってしまうため、そんな波長計を使っていくら念入りに無線機の波長ダイアルを調整しても、各局の周波数は中々合いませんでした。

そこで考え出されたのが広範囲に点在するの管下軍用局に対し、時を決め一斉に、それも同一基準精度の電波を使って各自の波長計を校正させるという画期的な手法です。これは「標準電波長送信法」と呼ばれました。標準電波は月3回の頻度で発射され、その波長は450m[666.7kHz]、 600m[500kHz]、 750m[400kHz]、 1000m[300kHz]、 1300m[230.8kHz]、 1600m[187.5kHz]、 2000m[150kHz]、 2500m[120kHz]、 3000m[100kHz]の9波でした。

1920年(大正9年)春、イシー無線局と陸軍中央無線電信研究所を見学した向山造兵大尉は、やがて日本でも同じような問題が起きるだろうと感じ、報告書『仏国軍無線電信標準波長送信法 及 精密ナル波長計目盛法報告』(仏駐秘第150号, 大正9年5月3日, 全17ページ)をもって、同システムの採用を栃内曽次郎海軍次官に進言しました。その報告書より引用します。

ニ、本法の要領

標準波長送信所より月三回(一日、十日、二十日)次の如く九種類の波長を送信す(不減滅波)

陸軍中央無線電信研究所は右各波長を精密測定し、実波長を標準送信所に通告す

標準送信所(イシー局)は右により、さきに送信せる九種波長の実波長を送信す

各電信所は各自、波長計(あるいは受信器)にて九種の送信を精確に同調受信し、後に受信せるその実波長により波長計(あるいは受信器)の目盛をなす

中央研究所にて採用せる受信波長測定法 及 波長計目盛法は「アブラハム」及 故「アルマニア」両博士の研究せしむる所にして多少複雑なるも精度大なり

標準送信所は巴里(パリ)郊外ISSY-LES-MOULINEAUX(イシー・レ・ムリノー)なる、ISSY旧要塞にあり電球(真空管)送信機を用ふ

送信距離五〇〇吉米(500km)以上 艦船にも利用されつつありと云ふ


三、「イシー」標準波長送信所

巴里郊外(西南、城壁より約一里)イシー、レ、ムリノー(ISSY-LES-MOULINEAUX)なる旧要塞内(Fort d'Issy)にあり、機器は砲廊内に配置さる(第一図) 長波長不減滅式送信装置、短波長同(共に電球式)及 応急用スパーク式送信機、受信装置一式を有す

空中線 長、短波長用の為、大小二あり、大空中線傘型(第二図)、小空中線T型(第三図)

続けて陸軍中央無線電信研究所での波長の計測法や、波長計の目盛法を詳しく報告しましたがここでは引用を省略し、最後の結論を紹介します。

六、結論

最近数年間の無線電信電話の異常なる発達(電信所数、通信距離の増加、送受信速度の進歩、不衰滅波の普及、受信器感度、同調式の増加、空電除去法の発達、多重通信法の実現等)に伴い同時に空間を伝播する無線電波の数は益々多く、従って波長、精確なる統一の必要益々と大にして、波長数「パセント」の誤差は当然のことと考えふれたる時代は過去れり。

仏国陸軍とて、その管下無数の無線電信所を有効に使用する目的のもとに一九一八年始めより採用せる標準波長送信法は、その中央無線電信研究所にて採用せる精密なる波長計目盛法と相まって充分その目的を達したり。本法は一見はなはだ複雑なる如きなれども、実用上の困難少なく、多数互いに遠隔なる電信所の波長を短時間に精密に統一し得る方法としては最良のものと信ず。

本法は不衰滅波、受信装置の普及せるところの我海軍にて採用容易にして効果大なるなり我国一般無線電信に応用さるれば益々可なり。一方無線電信の国際的性質を帯ぶること益々多うるなり。近き将来に本法の如きあるいは国際法により強要さるるに到らんか。 (終)

3) 1920年(大正9年) フランスが標準電波FL,YNを発射開始

1900年に海上移動の公衆通信(無線電報)が商用化された電波先進エリアの欧州では、無線界で双璧をなすマルコーニ社(英国)とテレフンケン社(独国)が競って各国に海岸局を建設してきました。第一次世界大戦で民間通信が大きく制限された時期もありましたが、終戦(1918年11月)で経済活動が再開され、一気に通信量が増大すると無線局の混信問題が表面化しました。商業局の間でも、発射周波数を公称周波数に合致させる努力(必要性)が認識されたのです。

波長計(Wavemeters)の目盛校正に供する為に、フランスのエッフェル塔無線局FL(Paris)とリヨン無線局YN(Lyons)より、標準電波の定期発射(毎月1, 15日)が始めていることを、米国のRadio Amateur News誌1920年3月号(Experimenter Publishing [New York])の記事"Particulars of Transmissions from the Eiffel Tower and Lyon Wireless Stations" で報じました。送信開始日は不明ですが1920年の1月頃ではないかと想像します。

また英国のWireless World誌1920年5月15日号(The Wireless Press [London])の記事"Special Signals from FL and YN for the checking of wavemeters"でもこの標準電波を伝えています(下図)。エッフェル塔FL・リヨンYN両局併せて4波(20, 30, 43, 60kHz)の標準電波を発射しました。スケジュールは以下のとおりです。 

エッフェル塔無線局(呼出符号:FL)

リヨン無線局 (呼出符号:YN)

米英を代表する2大無線雑誌で紹介されたことから、このエッフェル塔・リヨンの標準電波が世界初のものとして有名ですが、本当は前述した仏陸軍イシー局の標準電波の方が先です(イシー局の場合は軍用でしたので一般向けには発表しなかったのかもしれません。なおこのエッフェル塔・リヨンの波長測定は仏陸軍が行いましたので、実は同じ系統だともいえます)。 

当時の無線電信電話年鑑(Marconi Press Agency Limited)によると、各波のIDに相当する符号(A, B, C, D)は1分間の繰り返しで(呼出符号FLやYNは送出しなかった)、送信電力はエッフェル塔が約60Kw、リヨンが約100Kwでした。また発射開始時刻は後に17:30に繰り上げられ、さらに末期には16:30からになったようです。

4) 初期の標準電波の方式について

現代の標準電波は非常に正確な周波数で発射されていますが、当時は近似波長の電波を発射し、その発射された電波の波長を精密測定し、その測定結果を別途受信者へ配信しました。

エッフェル塔無線局FLとリヨン無線局YNは、それぞれ正確な周波数の維持に努めたでしょうが、どうしても誤差が含まれます。陸軍中央無線電信研究所が両局の標準電波を精密測定し、その実測値をただちにリヨン無線局YNへ有線で知らせます。

そして今発射したばかりの4波の実測値をリヨン無線局YNが18:45または19:00より波長15,000m(20KHz)で告知放送する方法を採りました。すなわち陸軍イシー局の標準電波と同じ方法がとられました。ところで標準電波の発射精度がどの程度のものだったかについては、Wireless World(上図)の告知例 "A-5,170m B-7,080m, C-10,025m D-14,990m" から想像できます。波長が短いほどズレが大きかったようです。

欧米諸国を2年間(1920.3-1922.3)視察して帰国された東京高等工業学校(現:東京工業大)の山本勇氏が、1922年(大正11年)11月の電気学会演説予稿現時欧米(英仏独米)に於ける無線電信電話概況』で報告されていますので引用します。イシーについも触れられています。

すでに1918年より陸軍イシー局が波長450m(667kHz)から3,000m(100KHz)までの9波を発射しており、エッフェル塔FL・リヨンYNの波長5,000m(60kHz)から15,000m(20kHz)と合わせると、各無線局が所有する波長計の目盛を広範囲で校正できる環境が整いました。

次にEiffel塔局の任務は毎月一日と十五日に二回に標定波長の放送をなすことである。その日の18時00分(GMT)に5,000米の波長を、また18時10分(GMT)に7,000米の標定波長を放送するのである。これによって各所の波長計や受信器が標定される。なおEiffel塔局の放送に続いて同日に、長波長の標定放送はLyon局によって行なわれる。同局では18時20分(時間はすべてGMTにてあらわしたり)に10,000米、18時30分に15,000米の標定波長を送ることになっている。これらの放送はすべて持続電波により三分間連続するのである。

なお仏国の陸軍の無線電信研究所(l'Établissement central du matériel de la radiotélégraphie militaire)ではこれらの放送電波を受信して標準波長計によりて検査しその誤差をLyon局に通報し、Lyon局では放送同日の19時00分に前記放送せられたる四種類の波長の正確な数値を電文によって放送するのである。

次に短波長(現代でいう中波)の標定放送は巴里(パリ)近郊のFort d'Issy(イシー要塞跡)の陸軍練習局によって毎月一日,十日,二十日に行なわれる。やはり正確に時刻を期して。一日には450, 600, 750米の三波長を、十日には1000, 1300, 1600米の三波長を、また二十日には2000, 2500, 3000米の三波長を放送するのである。 (山本勇, "現時欧米(英仏独米)に於ける無線電信電話概況", 『電気学会雑誌』, Vol.42-No.412, 1922.11, 電気学会, p892)

【参考】 イシーの標準電波は当初9波を出しましたが、上記のとおり3波づつ3回に分けて送信するようになりました

5) 1921年(大正10年) イギリスが標準電波GFAを発射開始

またイギリスでは1921年(大正10年)より、英国航空省(Air Ministry, London)の無線局(呼出符号:GFA)が、波長計を校正させるために標準電波の発射を始めました。

もともとGFAは波長1,400m(214KHz)で、一日3回(08:15, 09:15, 20:15)気象情報を放送していましたが、1920年末に波長1,680m(179KHz)が追加され一日14回の放送になり、さらに1921年春には一日17回に拡充されたようです。しかしGFAの気象放送は頻繁に変更があったようで、私は情報を整理できておりません。

この気象放送の合間をぬって、波長1,680m(179KHz, 08:45)、1,400m(214KHz, 09:00)、900m(333KHz, 09:05)、1,300m(231KHz, 10:10)で標準電波の発射を始めました(上図:"Regular Transmissions of Wireless Stations", Wireless World, Apr.30,1921, pp85-88)

これが英国の標準電波のはじまりですが、残念ながら運用開始日やその当初のGFAの発射仕様を発掘できていません。次に紹介する1922年1月10日よりの発射仕様と大きくは違わないだろうと想像します。

6) イギリスの標準電波GFA 周波数変更と仕様 (1922年1月10日)

1922年1月10日より航空省GFAの標準電波が波長1,400m(214KHz, 07:45)、1,680m(179KHz, 07:50)、900m(333KHz, 07:53)へ変更されました。その発射仕様がWireless World誌(1922年1月21日号)に掲載されていますので引用します(下表)。

呼出"CQ v GFA" を送ったあと、波長番号(1: 1400m, 2: 1680m, 3: 900m)を30秒繰り返し、最後に長符を5秒発射します。そして直ちに送出電波長が測定され、波長番号、繋いだBT(-・・・-)、波長偏差(数字4桁)が送られます。もし誤差がなければVA(・・・-・-)で終わります。ただし数ヵ月後には発射時刻と順番が、波長1,400m(214KHz, 07時45分)、900m(333KHz, 07時50分)、1,680m(179KHz, 08時00分)に変わりました。

7) ウルシUSRI主導で国際標準電波FL, UA, LY がスタート (1922年2月1日)

標準電波で先行していたパリで、1921年(大正10年)、国際無線電信会議の準備技術委員会議が開催されました。この会議で各国が所管する無線局の発射波長の許容偏差を定めるべきだと推奨されました。これが国際的な「標準電波議論」のはじまりです。

この議論を受けて、1922年(大正11年)2月1日、国際電波科学連合URSI(ウルシ:Union Radio-Scientifique Internationale)の名の下に、フランスのエッフェル塔FL(1035GMTより波長2,600m[115kHz])、ナントUA(1415GMTより波長9,000m[33kHz])、ラファイエットLY(1955GMTより波長23,450m[13kHz])の3局が世界に向けて標準電波の定期発射を開始したことをWireless World誌(Apr.1st, 1922, p)が報じました(下図)。

France has already inaugurated the transmission of U.R.S.I. signals from Eiffel Tower (FL), Nantes(UA) and La Fayette (LY), these having commenced on February 1st.

The transmissions are made daily at the times indicated below:- ("The U.R.S.I. Signals", Wireless World, Apr.1, 1922, p20)

フランスはすでにエッフェル塔(FL)、ナント(UA)、ラファイエット(LY)からU.R.S.I.信号の送信を開始しています。これらは2月1日に始まりました。

送信は、以下に示すタイミングで毎日行われています:-

URSI de 自局呼出符号」のあとに、前日に発射した標準電波の波長(W/L)実測値と、その時の空中線電流の実測値を送信しました。これには各国の電波主管庁が所有する周波数標準器または標準波長計を世界レベルで統一させる目的のほかに、各国における三波の伝播状況をより正確に把握しようという狙いがあったからです。

さて無線界では1914年発表された「オースティン-コーエン実験式で有名な米海軍無線研究所のオースティン氏(L.W. Austin)が標準電波について記した論文"Reception Measurements at Naval Radio Research Laboratory, Washington" (L.W. AUSTIN, Proceedings of the IRE, June 3rd 1922, Vol:10, pp158-160)紹介します無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers, 現:IEEE)で発表されたものです。

1922年2月17日から3月31日までラファイエットLYのURSI標準電波をリヨンYNやドイツのナウエンの長波局と受信比較についての研究でした。

なお前記Wireless Worls誌にはラファイエットLYのURSI波が波長23,450mとありましたが、オースティン氏の論文ではファイエットLYのURSI波長は23,400mです。私は波長23,400mが正しいと想像します

ところで1920年からエッフェル塔FLとリヨンYNが発射していた「古い標準電波」は、その後、どうなったのでしょうか。

エッフェル塔FLの「定時送信スケジュール"Complete List of Regular Daily Transmissions"(下図:Wireless World誌1922年7月1日号p428には、10時33分-10時38分に波長2,600mのURSI標準電波が発射の記載がみられます。さらに「古い標準電波(波長5,000mと7,000m)」が毎月1日と15日の18時00分と18時10分に発射されていることも書かれていますので、当初は両方の標準電波がFL局より発射されていたようです。

【参考】 まだ調査中であり、確証は得られておりませんが、1923年(大正12年)中にエッフェル塔FLとリヨンYNの「古い標準電波」は終了したかもしれません(ただし『無線電信電話年鑑』の1924年版や1925年版にはこれらが引き続き掲載されたままになっています)。

8) 日本でも利用されたフランスの標準電波LY

日本では時間帯の影響なのか(?)1955分(GMT)に発射されるLY局の波長23,400mのUSRI標準電波だけが受信できたようです。『日本無線史』第二巻から引用します。なお 『日本無線史』がいうボルドー局というのはラファイエット局の別名で、同じ局です。

各業務間の混信の機会も多くなるに従って発射周波数を公称周波数に正確に合致させることが必要となり、大正十年巴里(パリ)で開催された国際通信会議準備技術委員会議において国際周波数標準設定の必要性が論議されるようになった。しかし、ある一国が主体となって国際的周波数を定めることは各国の事情もあり、簡単に解決しなかった。また同会議では各国でその基準を定めるべきものであると推奨することとなった。既にその当時において巴里に天文台の天体観測を基準とする標準周波数電波の発射も行なわれ、(フランスの)ボルドー局から二三四〇〇米(周波数12.8kHz)、三〇〇kWで毎日標準電波を発射しこれを各国で受信してその国の周波数標準と比較する方法がとられていたのである。我が国においてもこの受信を行なって波長計の較正に資した ・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, "標準電波",『日本無線史』第二巻, 1951, 電波監理委員会, p407)

ウルシURSIの国際標準電波LYは19:55GMTより前日の実測周波数と空中線電流を知らせたあと、20:00GMTよりタイムシグナルを発しました。

『・・・(略)・・・一九二二年(大正十一年)二月以来この標準電波の発射を行なったものである。この電波は標準周波数を一定の電力で定期的に発射し、その発射の直後に巴里天文台より発する標準学術報時信号(タイムシグナル)を行なうもので次の要領に依ったものであった。

送信局 ボルドウ(北緯四四度二〇分、西経〇度四八分)

空中線実効高 一七〇米

電弧式送信機

(一)波長 二三四〇〇米 二)周波数 一二八〇〇〇c/s

空中線電流 四八〇A

空中線電力 三〇〇kW

空中線抵抗 一、一七Ω

 

発射方法

1955GMT URSI de LY ................(前日標準電波発射の正確な周波数及び空中線電流)

1956GMT 二分間の長符

1958GMT 2000より発射する学術報時信号の予備信号

斯様な方法で毎日送信された電波を我国で受信し、いかなる感度を与えるかを確かめたのであるが、受信装置としては地上約一米の台上にのせた二米平方の枠型空中線を使用した高周波三段増幅、ヘテロダイン検波、低周波増幅三段の受信機を用い ・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, "無線測定", 『日本無線史』第二巻, 1951, 電波監理委員会, p442)

【参考】 LY局のURSI電波は1922-3年頃には波長18,940m(16kHz)へ変わったようです。なおWireless World誌(Aug.29, 1923, p746)にはLY局の波長18,940mへの変更日を1922年4月28日とする読者からの投稿記事がありますが、私はまだ検証できていません。

9) 着実に進んでいた日本海軍の「基準標準波」の研究 (1922年)

日本ですが、1908年(大正7年)以来、周波数の標準化に取組んできた海軍省では、1922年(大正11年)頃には着実に研究成果を重ねていました。日本の標準電波の完成まであと一歩のところまで来ました。

当時海軍造兵工廠電気部に一〇万c/sのアレキサンダーソン発電機があったので、この回転数を出来るだけ正確に測定し、その高調波を利用して標準波長を制定した。標準測波器に使用した蓄電器は相当年月を経過し、エーヂングが出来ていると思われるムアーヘッドの同心円筒固定型のものと、従来標準測波器として使われていて比較的信用の置ける可変空気蓄電器とを並列とし、コイルはパイソレックス・グラスの円筒上に、特殊エナメル撚線(高周波損失を出来るだけ少なくするため、素線の太さ、撚り方とその数、巻き方等を研究して決定した)でつくり、一〇〇米(三〇〇〇Kc)から三万米(一〇Kc)までの波長範囲がキャリブレートできる回路を作った。

発電機の回転数を一定にするため、リード・エンド・ノースラップ製の音叉を使用し、ストロボスコピックの方法で発電機の磁励回路の抵抗を加減した。かくして得た十種類の基本周波数およびその各々の高調波に対し標準にする測波器を同調さして目盛をつけた。他方発電機の回転数はオッシログラフにかけ、時間は水路部を経て天文台からの秒時を使った。

かくて測定した十種類の基準標準波の精度は約一〇〇〇分の一に達し、従来の精度より少なくとも一桁増した。この測定に使った諸元の温度係数は通常状態の温度変化の範囲では、この程度の精度にはほとんど影響が起こらぬように注意工夫した。 (電波監理委員会編, ”側波器及び周波数精密測定”, 『日本無線史』第十巻, 1951, 電波監理委員会, pp315-316)

10) 海軍省が先行し周波数標準器を完成させる

戦前の日本では海軍大臣、陸軍大臣、逓信大臣の三人が、それぞれ所管する無線局の許認可権を有しており、電波の監理監督は別個に行われていました。逓信省は陸軍省や海軍省の無線施設に権限は及ばないし、また陸軍省や海軍省は逓信省の管轄する無線施設に権限が及びません。もちろん陸軍省と海軍省間でも相手の無線施設には権限が及ばなかったのです。

そこで電波三省が相互に協力して無線通信に関する連絡調整を行なうために、1922年(大正11年)より三省会議が設けられました(昭和4年には三省電波統制協議会となり、これが戦前の日本の電波行政の最高決定機関でした)。1906年(明治39年)にベルリンで開催された第一回国際無線電信会議より、この電波三省(陸海逓)それぞれが政府代表を選出していますが、国際会議において我国の権益を確保するためにも電波三省の意見統一が必要でした。

三省会議において海軍省は完成させた電波標準器を、陸運省や逓信省のものと比較し、我国の無線波長基準を統一しようと提案しましたが、陸軍省も逓信省もまだ周波数標準器が完成していませんでした。

そこで海軍省のみで、標準電波の発射による全海軍無線局の波長基準の統一を図ることになりました。これが我国における標準電波定期発射のはじまりです

かくて標準測波器は制定されたが、これを陸軍、逓信両省の標準測波器と比較するように両省に申入れたが、いずれも標準測波器未制定のため比較試験はできなかった。よって海軍ではその標準器を基準として全海軍の波長を整合統一することにした。(電波監理委員会編, "側波器及び周波数精密測定", 『日本無線史』第十巻, 1951, 電波監理委員会, p316)

11) 逓信省電気試験所が波長計の校正方法を研究

まだ周波数標準器を持っていなかった逓信省でしたが、波長計の目盛り校正方法の研究は行っていました。その第一人者が坪内信氏です。

早稲田大学の坪内信教授が、逓信省の電気試験所第四部の仕事を手伝いはじめたのが1919年(大正8年)でした。やがて坪内氏は周波数標準器を持たない逓信省が、いかにして自分たちの波長計の目盛りを校正すればよいかという研究を担当しました。1922年(大正11年)、坪内氏により校正された波長計を海軍の周波数標準器で調べたところ良好な成績が得られたため、『電気試験所研究報告』第115号およびその要約を『電気学会雑誌』(Vol.43-No.421, 1923)で発表しました。

内容概要

1919年に余が逓信省電気試験所第四部の嘱託を命ぜられて以来、費用も労力も多くを要しないでかなり正確な波長計を製作する事に従事したのであつた。波長計更正法には種々あるが結局米国標準局が示した方法に大体よる事にした。それはinductanceを計算から出し、capacityを測定から出し、両者の結合から波長を算出するにある。波長計は約200 metersから22,000 meters の範囲をおおう様に作られたのである。(坪内信, "標準波長計の更正", 『電気学会雑誌』Vol.43-No.421, 1923年8月, p790)

坪内氏の校正方法の有効性は海軍の協力で確められました。

丁度海軍省に於て特別高調波発電機の周波数によつて更正せられた所の標準波長計があつて、吾々の波長計と比較する事を許された。その結果の一例は第十図に示してある。これによれば両者殆ど全く一致せるのを見る故に、本更正法は相當信頼し得るものと結論せられるのである。本実験は逓信省電気試験所第四部に於て横山英太郎氏指導の下に行つたものである。ここに横山技師並に海軍標準波長計使用に関して多大の配慮を受けし西崎海軍中佐、実験に熱心に従事して余を助けられし松尾武雄氏及故大倉荘司氏に深厚なる謝意を表する次第である。(坪内信, "標準波長計の更正", 前傾書, p802)

12) ウルシURSIの国際標準電波をイタリアIDOも発射開始

開始日時を追い込めていませんが、イタリアも1922年末から1923年始の頃にURSIの国際標準電波の発射に加わりました。下図は米国商務省が毎月発行するRadio Service Bulletin Vol.71(1923年3月)"International Signals of Standard Wave Intensity and Frequency"(p12)からの引用です。

これまでURSI国際標準電波を発射して来たフランスのエッフェル塔局FL(10:35GMT, 波長2600m[周波数115.3kHz])、ナント局UA(14:15GMT, 波長9000m[周波数33.3kHz])、ボルドー局LY(ラファイエット, 19:55GMT, 波長23400m[周波数12.8kHz])に加えて、イタリア無線局の名門であるローマ局IDO(16:00GMT, 波長10500m[周波数28.6kHz])がリストされています。ローマIDOのURSI国際標準電波に関する詳細は不明ですが、米商務省の政府刊行物からの引用ですので間違いないでしょう。

そうすると次に紹介するアメリカWWVや日本JJCよりも早く始まったことになります。ただし当時のURSIシグナルは電波伝播調査の目的も強かっため、この件は調査継続とします。信頼できる新しい情報が得られ次第、本ページを更新させていただきます。

13) 1923年(大正12年)3月6日 米国が標準電波WWVを発射開始

波長計の目盛りを校正させるためにフランスは1920年(大正9年)から、イギリスは1921年(大正10年)より標準電波を発射していましたが、米国にはそういう電波がありませんでした。

1922年(大正11年)2月27日から3月2日、アメリカの各種無線局の周波数分配を考える初めての会議Conference of Radio Telephony(第一回国内無線会議、First National Radio Conference)が開催されました。急増する放送用の周波数をいかに確保するかが焦点で、50kHzから3MHzまでの業務別分配プランが作成されました。

【参考】 それまでは1.5MHz以下の電波が利用されており、上端の1.5MHzにいたのがアマチュア局です。

しかし各無線局・放送局に分配した周波数を遵守させるためには、各局が所有する波長計が正しく校正されていることが必要です。

1922年12月、米国の商務省標準局Bureau of StandardsがコールサインWWVで標準電波を発射することを決めました。まず1923年(大正12年)1月29, 30日に試験発射が行われました。

1923年3月6日のEST(東部時間)23:00より第一回のWWV公式発射を行いました(左図)。1波15分間をワンセットとして、EST23:00より周波数550kHz(波長550m), 500kHz(600m), 440kHz(680m), 380kHz(790m), 320kHz(940m), 260kHz(1,150m), 200kHz(1,500m)の順に深夜01:15まで送信しました。

標準電波WWVの発射仕様は以下の通りです(Department of Commerce, Radio Service Bulletin, Feb. 1923, p20)

事前に2か月分ほどの発射日と発射波長をその都度(商務省のRadio Service Bulletinや、新聞、無線雑誌で)発表する方式でしたので、完全なる定期発射ではありませんでした。(下表は私が各資料からまとめたもの:横軸が周波数75kHzから2MHzで、縦軸が3月6日から10月7日です。)

1923年6月28日、商務省は第二回国内無線会議の勧告に従い、世界に先駆けて1.5-2.0MHzにアマチュアバンドを創設しました。これまでは1.5MHz以上で希望する周波数(現実的には1.5MHzの1波に集中)を個別に許可を受ける方式でしたが、1.5-2.0MHzの範囲から逸脱しなければ好きな周波数で電波を発射できるようになりました。また特別アマチュア局(商務省分類上ではアマチュア局ではなく陸上特別局)には低い1.35-1.5MHzが与えられました。

そしてアマチュア達に周波数を厳守させるために、同年10月7日深夜01:05から03:41まで1.35MHz, 1.5MHz, 1.6MHz, 1.7MHz, 1.8MHz, 1.9MHz, 2.0MHzを発射しました。アマチュア達は所有する波長計の目盛りをこの電波で校正しました。

14) イギリスの標準電波が航空省GFAから郵政庁GKUへ (1923年)

1923年(大正12年)には英国航空省GFAの標準電波は、英国郵政庁GPOのデヴィゼス無線局GKUに引き継がれたようです。デヴィゼスGKUの標準電波は長波2,100m(142.8kHz)のみで、00:44, 04:44, 08:44, 12:44, 16:44, 20:44(GMT)の一日6回の発射でした。

左表はWireless World and Radio Review誌1923年7月28日号と8月1日号からの抜粋です。

また米国商務省が毎月発行しているRadio Service Bulletin3月号で紹介されたことから、デヴィゼスGKUの標準電波がはじまったのは1923年の1-2月頃だと想像します。

Devizes will as at present broadcast on 2,400 meters the call signals of the ships for which messages are on hand, and they will ask ships to “Stand by” until 44 minutes past the hour for the standard wave of 2,100 meters. This standard wave will be emitted at 0044, 0444, 0844, 1244, 1644, and 2044 G.M.T. ("Wave Lengths Used by Devizes Radio Station", Radio Service Bulletin No.71, Mar. 1923, p10)

後述しますが、このあと1924年(大正13年)に英国国立物理研究所NPLの無線局5HWが標準電波業務を始めたのと入れ替わりに、デヴィゼスGKUの標準電波は幕を閉じたようです。デヴィゼスGKUの標準電波は短命だったようです(詳細未確認です)。

フランスのル・ブルジェFNBの標準電波

あと詳細は不明ですがフランスでは1923年の後半より、ル・ブルジェ(Le Bourget、パリの郊外)局FNBが標準電波が始まっています。Wireless World and Radio Review誌(1923年12月27日号, p417)によれば、GMT 08:44より波長900m(333.3kHz)、0847より波長1,400m(214.3kHz)、0850より波長1,680m(178.6kHz)で発射されました。

15) 1923年(大正12年)8月3日 日本の海軍省が標準電波の定期発射を開始

さていよいよ日本の標準電波です。

海軍省は、1923年(大正12年)8月3日付、『海軍公報(部内限)』で"基準波長送信ニ関スル件"(大正12年, 軍第536号)を通牒し、日本初の標準電波の定期発射をスタートさせました。

かくて標準測波器は制定されたが、これを陸軍、逓信両省の標準測波器と比較するように両省に申入れたが、いずれも標準測波器未制定のため比較試験はできなかった。よって海軍ではその標準器を基準として全海軍の波長を整合統一することにした。この目的のため、副標準測波器を作成し、これを各工廠及び船橋送信所に一つずつ配布し、大正十二年八月より船橋送信所からは時を定めて標準電波(電波部の原器でチェックされた)を放送し、主として海上部隊の波長整合に供した。また工廠の副原器は軍港所属の艦船および陸上部隊の測波器の較正に使用された。また配布した副原器検査のため、時々電気部の副原器を携帯して比較校正した。かくして全海軍の波長は次第に統一されるようになった。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第十巻, 側波器及び周波数精密測定, 1951, p316)

海軍が完成させた標準測波器(原器)をもとに複数の副原器を作って各工廠に配り、軍港にいる艦船や陸上部隊が所有する測波器を校正させると同時に、船橋無線にもこの副原器を置いて標準電波を発射させ、その波長を原器で精密に計測したあと、再び船橋無線から実測値を送信しました。我国初の標準電波は洋上に出ている艦船の測波器を校正させるために発射されものです。

残念なことに大正12年『海軍公報』の「部内限」版は防衛省防衛研究所にも現存していない模様で、今では初の標準電波の発射様式は詳らかではありません。どこからか、この部内限版の海軍公報が発掘されることを祈りたいです。

【参考】当時の海軍省では、通常の『海軍公報』とは別に『海軍公報(部内限)』も発行していました。

しかし標準電波の定期発射を開始した日時だけは、(ある記述の発見によって)特定することができました。下図[左]は1924年(大正13年)1月29日海軍公報(部内限)』の1ページ目です。ここの雑款に注目して下さい。ちょうど文の途中で段が変わっていますが、それぞれを拡大したものが下図[右]の①と②です。

①→②と続けて読んでみます。『基準波長送信ニ関スル件 左記要領第一号 送信日時中 「毎月第一金曜日午後一時ヨリ 約二時間」トアルヲ 「毎月第一木曜日午後一時ヨリ 約二時間」ニ改ム 大正十二年八月三日部内限公報参照

つまり大正12年8月3日『海軍公報(部内限)』で「毎月第一曜日の13~15時に標準電波を発射」としていたものを、大正13129日『海軍公報(部内限)』で「毎月第一曜日」に変更していたのです

前述の日本無線史』第十巻には『大正十二年八月より船橋送信所からは時を定めて標準電波を放送』とありました。そこで大正12年8月の「第一金曜日」が何日かを調べてみました。すると8月3日が第一金曜日でした。

日本初の標準電波は、1923年(大正12年)8月3日(第一金曜)13:00より、船橋の東京海軍無線電信所JJCで始まりました。

【参考】 海軍省や陸軍省の電波研究は機密に属するために逓信省側では実態を把握できておらず、1949年(昭和24年)より編纂作業が始まった『日本無線史』の第2巻,第14章,第8節「標準電波」はあくまで逓信省側の情報でまとめられたもので、後述する昭和2年に逓信省の岩槻・検見川無線が発射したものを「標準電波の始まり」だと記されました。

しかし『日本無線史』編纂の目的のひとつは、これまで秘密にされてきた軍部の無線を明るみに出そうとするもので、特に『日本無線史』の第10巻(海軍無線史)は元海軍技研の谷恵吉郎氏が執筆されました。第10巻で「海軍省の標準電波の開始時期」が公にされました。

16) 英国標準電波が郵政庁GKUから国立物理研究所5HWへ(1924年)

1924年(大正13年)、英国の国立物理研究所(NPL:National Physical Laboratory)は高安定・高精度の標準マルチバイブレーター波長計(The Standard Multi-vibrator Wavemeter)を開発しました。60kHzで±0.5kHz以内の精度を達成し、コールサイン5HWで標準電波(60kHzから360kHz)の発射を開始しました。これまで郵政庁GKUが発射していた標準電波を国立物理研究所5HWが引き継ぎました。

英国の無線雑誌Wireless World誌(7月16日号, pp460-461)と    Wireless Weekly誌(7月16日号, p341)で、5HWの標準電波が報じられていることから、発射開始は1924年の6月頃からと考えられます。

【注】 公衆通信(電報)を扱わない無線局は国際符字列によるコールサインを使う義務はありませんので、英国の実験局やアマチュア局が使っていた「数字+2文字」形式です(1930年代には国籍符字が付いてG5HWになりました)。

発射様式ですが隔週火曜日の14:48GMTより、360kHzで「CQ CQ CQ de 5HW 5HW 5HW」を2分間繰り返したあと、短い長符を発射し、送信機は正確に360kHzに合わせ込まれます。そして15:00より下表の順に標準電波が発射されます。

最初の電波360kHzで「N1 N1 N1」と「20秒間の長符」を6回繰り返して送ったあと、アンテナ電流値を2回送り、• — • — • で終ります。この一連のオペレーションが1波あたり3分間です。

そして5分休憩中に、短い長符を発射し、送信機を次の周波数(280kHz)に正確に合わせ込みます。15:08よりその280kHzで「N2 N2 N2」と 「20秒間の長符」の反復および「アンテナ電流」を告知し3分間のセットを終えます。以下N3からN8まで同じです。なお誤差は最低周波数の60kHzで±0.5Hzですから、最高周波数360kHzではその6倍(±3.0Hz)におさめました。

標準電波の発射周波数の真値(測定値)を別に告知しない「正確に合わせ込まれた波長の発射」(=現代の方式)は英国の国立物理研究所5HWで始まりました。

17) 船橋無線JJCが発射する標準電波の波長

ところで我が国の標準電波は1923年(大正12年)8月3日13時より、海軍の船橋無線JJCで始まったと特定できましたが、その波長(周波数)など詳しい「発射仕様」はわかっておりません。

1924年(大正13年)12月24日『海軍公報(部内限)』で標準電波の発射仕様の変更が通牒されました。これは「無線電信ニ関スル件(大正13年 軍第709号)」で、『大正十四年一月ヨリ当分ノ間 左記ニ依リ測波器(波長計)ノ整合及通信波長ノ測定ヲ施行セシメラレ候』としました。

これが我国における標準電波発射様式の歴史をさかのぼれる最古の公的資料(防衛省防衛研究所所蔵)でしょう。

標準電波は東京海軍無線電信所(船橋無線JJC)より毎月第一木曜日10時より2時間、波長5,600mから400m刻みで波長3,200mまでの7波と、そこから200m刻みで波長1,800mまでの波の合計14波を順番に発射し、海軍所属無線局がこれを受信し測波器を校正します。

【注】大正14年2~4月だけは毎週木曜に発射

同時に海軍技術研究所では船橋無線JJCから発射された基準電波の波長を測定して、船橋無線JJCへ通知ます。

船橋無線JJCは当日15:00よりその実測値をモールス信号で受信各局に放送するというものでした。

つまり帝国海軍はフランスのFLとYNが1920年に始めた標準電波の発射法を踏襲したといえます。

 日本初の標準電波の発射を命じた資料名が判明

ところで上図の一番最後の「附記」にお宝が埋もれていました!

本件施行ト同時ニ大正十二年軍第五三六号大正十二年八月三日海軍公報(部内限)参照ニ依ル基準波長送信ニ関スル件ヲ廃止ス

1923年8月3日、日本初の標準電波の発射を命じた資料の名称が、海軍通牒基準波長送信ニ関スル件』(軍第536号)であることが判明しました

18) 船橋無線JJCの標準電波の発射仕様

船橋無線の標準電波では、コールサインJJC用いずに、今何番目の波長を出しているかを示す「送信波長番号」によりました。

その方法は「送信波長番号」2分間、「長符」30秒間、「休止」20秒間、「長符」30秒間、「休止」20秒間、「送信波長番号」「終了符」の順をワンセットとし、5分間の「休止」を挟んだ後、次の波長の送信を開始します。送信波長番号1の波長5,600m(53.571kHz)から送信波長番号14番の波長1,800m(166.667kHz)までの発射を終えるのに、それなりの時間を要しました。

標準電波、その後の改正履歴

19) 1925年(大正14年)2月 逓信省が逓信官吏練習所無線実験室から標準電波を試験発射

電波の標準化では海軍に遅れをとった逓信省ですが、米国が国内無線会議で決めた周波数分配を実行するにあたり、まず標準電波WWVの発射を始めたことに注目していました。

限られた電波をより多くの無線局に配分するためには互いの周波数間隔を狭めてチャンネル数を確保しなければなりませんが、各無線局が自分に指定された周波数を厳守することが大前提です。

1925年(大正14年)の逓信省電気試験所の調査報告書に以下の記述があります。

1921年夏 巴里(パリ)において国際通信会議準備技術委員会開催され、その席上において今後各国が使用し得る波長範囲につき討論せられ、また米国においては1922年二月ワシントンに開催されたる無線会議(米国の第一回国内無線会議)の結果、特殊用途のものには極めて狭き波長範囲を与えることを提案せり。かくのごとく狭き波長範囲内において、しかも混信を生ぜず完全に通信するためには互いに確度大なる波長計を使用するを要するは言を俟たず。 (中井友三, "波長計確度の大なるを要する所以", 『電気試験所調査報告』第十四号, 電気試験所, 1925.5, p17)

ちょうど火花式から真空管自励発振式への移行期(水晶発振式の実用化前)で、周波数精度を守れるかは各局の正確な波長計と日常点検にかかってきます。逓信省はまず身内の波長計を正すことから手を付けました。

1925年(大正14年)2月12-28日、逓信省通信局工務課は各地方逓信局の無線検査官が使う波長計を校正するため、逓信官吏練習所無線実験室から周波数120から750kHzまでの6波で逓信省の標準電波が発射されました(J1PP J8AAのページ参照)。これが逓信省による標準電波の起源になります。

ちなみに逓信省が編纂した逓信事業史(昭和16年)では、大正14年に官練無線実験室が発射したこの「標準電波」の記載はなく、不定期な試験送信だったと想像します。

20) 1927年(昭和2年)2月 海軍省の標準電波がスピードアップ

1926年(大正15年)11月26日海軍公報(部内限)』「側波器ノ整合ニ関スル件(大正15年軍務二第451号)」で、1927年(昭和2年)1月10日より月3回(第一、二、四木曜日10:00-11:00)、波長5,200mから400m刻みで波長2,800mまでの計7波を発射することが通牒されました。

そして波長測定を同じく船橋の東京海軍無線電信所JJC内で行うことで、基準電波の発射終了に続けて実測値を放送し、結果が出るまでのスピードアップが図られました。

21) イギリスの標準電波5HWの標準電波(1926年当時)

英国の国立物理研究所(NPL:National Physical Laboratory)標準電波局5HWは、60KHzから360KHzの8波を隔週火曜日の15:00と16:00に送信していましたが、1926年(大正15年)9月7日より16波に拡大されました。第一火曜日にShort-Wave短波長群(260-960kHzの8波)、第三火曜日にLong-Wave長波長群(30-200kHzの8波)の標準電波を発射しました。

その新しい発射様式(1926年)を引用します("Calibration waves from the N.P.L.", Wireless World, Aug.25 1926, p274)

第一火曜日は14:55-15:00に予告信号(200KHz)を発した後、波長番号3回、「長符」40秒を1セットとして4回繰り返し、次の波長に進みます。なお波長番号は「N」を冠し、N1:960KHz、N2:840KHz、N3:700KHz、N4:580KHz、N5:500KHz、N6:360KHz、N7:300KHz、N8:260KHzの順に発射され16:00で終わります。

また第三火曜日は14:55-15:00の予告信号(200KHz)のあと、「M」を冠した波長番号でM1:200KHz、M2:160KHz、M3:115KHz、M4:86KHz、M5:66KHz、M6:50KHz、M7:40KHz、M8:30KHzの順に各波を発射し16:00で終わります。

予告信号はモールスで"CQ de 5HW"を繰り返したあと、最後に"Short (or long) standard wave frequency transmissions, stand by."と送信されます。また各電波の周波数は充分に合わせこまれており、実測周波数の値は送信されませんでした。もし必要ならその都度、国立物理研究所NPLに問い合わせることになっています(1924年の標準電波5HWの開始時よりこの方法だったと想像します)。

22) 海軍・陸軍・逓信の標準周波数計の比較が実現

1926年(大正15年)10月30日-11月11日、東京帝国大学で汎太平洋学術会議が開催され、関係各国の科学者が多数参集しました。ここで海軍の西崎大佐が波長の国際整合を提言したことがきっかけとなり電波三省(陸海逓)での標準周波数計の比較が実現しました。

大正十五年秋、第三回汎太平洋学術会議が東京で開催された時、その無線部門(座長オースチン博士)の席上で海軍大佐西崎勝之は国際的混信を防止するためには国際的波長の整合統一が必要であることを提言し、これが採択された。オースチン博士は同年、帰米後、華府(ワシントン)の標準局(Bureau of Standards)でつくった水晶発振の測波器を比較のため海軍に送付してきた。これを機会に電波研究委員会で、陸海逓三省の標準周波数計の比較測定を行なったところ、その結果は三省ともかなり米国の測波器に一致した。

この結果は一九二七年(昭和二年)華府(ワシントン)の国際無線電信会議と共に開催された万国無線科学会議(URSI)の会議(我国よりは箕原勉と横山栄太郎が出席した)に報告された。ここに報告された研究はもっぱら大尉浜野力、ついで大尉中野実および技手柴田繁吉等これに当たったもので、水晶発振器を用いるマルチバイブレーター使用ダブル・ビート法等に関して、種々有益なる発明考案を含み、その精度は10-7より10-8の程度まで引上げられたものである。(電波監理委員会編, "側波器及び周波数精密測定",『日本無線史』第十巻, 1951, 電波監理委員会, p316)

この後1928年(昭和3年)からは文部省学術研究会議によって三省の標準電波の比較試験が1937年(昭和12年)まで続けられました(後述します)。

23) 1927年(昭和2年)秋 岩槻が検見川を遠隔操作して標準電波を開始

1927年(昭和2年)秋、"逓信省の標準電波"が毎週土曜日に岩槻受信所から検見川送信所を遠隔操作して定期発射されるようになりました。ようやく逓信省も海軍省に追いつきました。

『日本無線史』第二巻, "標準電波"によると、週一回土曜のみの発射でしたが、のちに週二日に改められました(この週二回という送出頻度は昭和15年のJJYにも引き継がれました)。以下引用します。

逓信省が標準周波数電波を送出したのは昭和二年 東京無線電信局岩槻受信所から行ったものを嚆矢とする。もっともこの標準電波の送出は各逓信局無線検査官の使用する電波計の較正に資する事を目的としたものであって、一般には公表されたものではなく、その送出回数も最初の内は一週間土曜日一回だけに限ったもので、その後一週間に二回送出するに過ぎなかった。

この標準周波数の送信方法は東京無線電信局検見川送信所を岩槻受信所から東京中央通信所を通して直接操縦し、一定の時間ダッシュ(長点)を送信し、この発射電波を同時に岩槻受信所に備付けたサリバン会社製マルチバイブレーターで測定し、この測定結果を直ちに送信して告知する方法をとったのである。すなわち標準周波数の送出というよりも、むしろその近似周波数の発射を行い、発射された電波周波数の正確な値を通告する方法をとったのである。

この方法はマルチバイブレーターそのものの確度について問題もあったので、昭和四年にはこのマルチバイブレーターの代わりに米国GE会社製の水晶制御による標準電波発生機を使用し、東京天文台の報時により、これをチェックしてその誤差を求める方法がとられた。(電波監理委員会編, "標準電波",『日本無線史』第二巻, 1951, 電波監理委員会, p407)

岩槻受信所が標準電波のオペレーションを行いました。陸線で検見川をキーイングして、それを受けて測定します。そして検見川波の正確な周波数が判明したら、再び岩槻が検見川の送信機からモールス信号で実測周波数を告知します。この方法のルーツは1920年に始まったエッフェル塔局FLとリヨン局YNにあります。

なお1929年(昭和4年)にGeneral Electric社製水晶式標準電波発生器を、1934年(昭和9年)にはGeneral Radio社製水晶式周波数標準器を購入し岩槻に設置し測定精度の向上に努めています。

24) 逓信標準電波に対する逓信省の公式見解

このように昭和2年秋より毎土曜日、逓信省でも標準電波が定期発射されるようになりました。しかし発射様式(コールサインや周波数および発射時刻など)が明らかではありません。

1991年(平成3年)に発刊された『標準電波50年の歩み』(郵政省通信総合研究所編)は過去の関係文献を丹念に調査し、まとめられたものですが、昭和2年の標準電波に関しては『日本無線史』第二巻の内容をなぞったに過ぎません。海軍の標準電波に比べ、逓信の標準電波は情報が少ないのが残念です。

戦前の逓信省の標準電波に対する公式な見解がどうだったかを念のために調べておきました。1940年(昭和15年)に逓信省が発行した『逓信事業史』には次の一節があります。

我国に於いては昭和二年より東京無線電信局岩槻受信所をして標準電波の発射を行わしめて ・・・(略)・・・』 (逓信省編, 『逓信事業史 』第四巻, 1940, 逓信協会, p922)

これが戦前の逓信省の公式見解で、大正末期に逓信官吏練習所から発射した不定期な標準電波を別として、逓信省による標準電波の定期発射は昭和二年の岩槻&検見川を嚆矢とします。

ここで注意しなければならないのは「標準電波」という言葉の定義そのものが変化している点です。1927年(昭和2年)から出された検見川波を当時の日本では「標準電波」と呼んでいましたが、技術革新で更に周波数確度が高まると、今度はそのような高い確度を持った電波こそを「標準電波」と呼ぶようになりました。

特に終戦後の1948年(昭和23年)の国際無線通信諮問委員会CCIR第5回総会において、標準電波に対して± 2 x 10-8 という当時としては高い確度が勧告された以降は、昭和2年の検見川の標準電波は「標準電波とは呼ぶには力不足の電波」のような扱いをされることが多かったのではないでしょうか?

しかし後述する岩槻受信所の金子技手の報告書にもはっきりと「標準電波」という文字が見えるとおり、当時の標準電波関係者の方々は自信と誇りをもって我国の「標準電波」を運用されていました。初期の「標準電波」の発射に携われたすべての関係者のご苦労に敬意を払うとともに、私はJJYより前に発射されていたこれらの標準電波も、れっきとした「標準電波」と呼ぶべきと考えています。

25) 国際無線通信諮問委員会CCIRで許容偏差値を規定勧告(1929年)

1927年(昭和2年)に開かれたワシントン会議では送信周波数偏差の数値を規定するところまで踏み込めませんでしたが、各電波主管庁が自国の無線局の送信周波数の偏差を管理するよう求めました。逓信省の稲田工務局長は帰国後、この会議の報告記事を書かれていますので引用します。

一局に割当てられたる周波数と実際に発射せらるる周波数との差の許容範囲に関しては、国際的に何パーセント以内なるべしというが如く、数字的にこれを規定する事を避け各主管庁がその範囲を決定し、技術の進歩に伴いこれを極小とするに努むべしとせり。一発射の占有する周波数帯に関しても、また通信の種類および型式に応じ技術の進歩に適応して、その占有周波数帯を各主管庁において決定する事として数字的規定を避くる事とせり。 (稲田三之助, "国際無線電信会議", 『ラヂオの日本』, 1928.1, 日本ラヂオ協会, p85)

周波数偏差基準などワシントン会議で積み残した技術上の諸問題は、国際無線通信諮問委員会(CCIR)を創設し、そちらで決めることになりました。 CCIRで国際的な周波数の許容偏差値が協定されることを想定し、1929年に逓信省がGeneral Electric社製水晶式標準電波発生器を購入したり、海軍省では(送信波を測定して実測値を放送する方法から、)あらかじめ送信波の周波数を合わせ込んだ標準電波を発射する方法に変えました。

戦前の日本では、軍用電信法(のちの軍用電気通信法)により、陸軍大臣・海軍大臣が、無線電信法により逓信大臣が、それぞれが所管する無線局の許認可権を有していた関係上、電波管理の基準となる標準周波数を三省各々が所有し、自分たちが所管する無線局の周波数を一定偏差内に維持するよう努めていたからです。

実際に1929年(昭和4年)9月18日より、オランダのヘーグで開かれた第一回CCIRでは、図のとおり局種別に発射周波数の公称周波数に対する許容偏差を決定(CCIR勧告)し、「発射する周波数の正確さ」を数値規制することになりました。

1921年(大正10年)の国際無線電信会議パリ技術準備委員会で周波数の許容偏差値の制定が取上げられて以来、8年間の時を経てようやく国際合意をみました。

これは無線史上に特筆される出来事です。

そしてこの許容偏差の決定が標準電波の質を高めたといえるでしょう。

Web上では『1927年(昭和2年)に逓信省が周波数標準器の設置に着手、正式に標準電波の発射が開始されたのは1940年(昭和15年)・・・略・・・』というような記述が見受けられます。

しかし1923年(大正12年)に「正式」に始まった船橋無線JJCの定期標準電波に触れていないし、1927年に始まった検見川無線の標準電波を「着手」という表現にとどめており、検見川より定期発射されていたことさえも、うやむやになりそうです。それに1940年(JJY)を「正式」だとするのは、それ以前は非正式だと言っているようなものです。

我国の無線局の周波数偏差をCCIR勧告の国際ルールに少しでも近づけていくには、船橋無線(海軍)および検見川無線(逓信)の標準電波が不可欠でした。当時における両省の標準電波の功績がもっと評価されるべきだと思います。

26) 海軍省が新標準電波ATを発射開始(1929年2月4日)

1928年(昭和3年)12月27日『海軍公報(部内限)号外』、「測波器整合ニ関スル件(軍務二機密第444号)」で海軍の標準電波の改正が通牒されました。1929年(昭和4年)2月4日(木)より、毎月第一、三木曜の月二回、10:00-(50kHz)、14:00-(59kHz)に海軍省による定期の標準電波の発射が始まりました。

例示されているように基準周波数への調整中のコールサインはABで、基準周波数の用意ができたらコールサインATで用いて送信されました。すなわち船橋無線JJCのコールサインは標準電波では使わなかったことがわかります。標準電波が使うコールサインは国際ルール上では自由です(公衆電報を扱う局や実験局(含むアマチュア)だけが国際符字列で構成する呼出符号を求められていた)。

<改正履歴> 昭和10年6月26日、海軍公報(部内限)号外で報告書様式の注記が少し変更(軍務二機密第488号)。

27) 東京無線電信局岩槻受信所が海軍の標準電波ATを測定し報告(1929年6月29日)

左図は1929年(昭和4年)6月20日に海軍省が発射した標準電波を東京無線電信局岩槻受信所の金子技手が測定し、その結果を海軍艦政本部総務部の妹尾第一課長へ通知した書類です。 

下図は見やすいように私が書き直したものです。

このように逓信省と海軍省は標準電波の運用で協力しあっていたように思えます。

ところで検見川送信所の第一装置(大連回線)は周波数36.5kHz(呼出符号JYR)で、第二装置(京城回線)は周波数54.5kHz(呼出符号JYS)でした。この検見川JYS(周波数:54.5kHz)のプラス4.5KHzが「59KHz」、マイナス4.5kHzが「50kHz」で、ちょうど海軍省の標準電波の二波に符合します。なにか意味があるのでしょうか?

28) 標準電波の統一と、海軍の標準電波の終了

戦前は海軍省・陸軍省・逓信省のそれぞれが所管する無線局に対する許認可権を持っていました。そして三省それぞれが周波数標準器を所持し、それを電波管理上の基準にしていましたが、そもそも三省の周波数標準が一致しているかが問題になったのが1928年(昭和3年)でした。

互いの基準がズレたままで、各省所管する送信機の周波数を調整したなら、混信問題は酷くなるばかりです。

かくしてこの重要なる問題を文部省の学術研究会議の電波研究委員会で扱うこととなり、海軍技術研究所、陸軍科学研究所、逓信省電気試験所が参加し、1928年(昭和3年)から1937年(昭和12年)までそれぞれの周波数基準の比較試験が繰返されてきました。やがて学術研究会議では我国の標準電波を三省別々に発射するのではなく、逓信省(検見川無線)に一本化して、これを整備することが検討されるようになりました。

1936年(昭和11年)12月26日付(学研発第294号)で学術研究会議の桜井会長が、海軍省の山本五十六次官に対し、「標準電波 統一」問題に関する業務について応援して欲しい旨の要請を行ない、海軍省はそれを了承しました(左図)。

【参考】 山本海軍次官とは、のちに連合艦隊長官に就任されたあの有名な山本五十六氏です。

さら次の年も1937年(昭和12年)10月13日付(学研発第126号)で「標準電波 統一」問題について応援要請が海軍省に送られ了承されています(左図)。

なお学術研究会議は海軍造兵中尉の桂井氏を指名していましたが、ご当人が多忙に付き、海軍省が選出したのは海軍短波の創始研究者でもある、海軍技研の谷恵吉郎氏(海軍が解体され、『日本無線史』第10巻で海軍標準電波を世の明るみ出した方)でした。

上図に「標準電波統一」という言葉が使われています。これまで三省それぞれで標準電波を発射していましたが、今後は逓信の検見川波に一本化し、周波数確度を整備改善しようという相談だった推察します。

なお陸軍省所属の無線局は、陸軍科学研究所にある周波数標準器に従って、波長計を校正していたはずですが、陸軍省の標準電波については詳細不明です。おそらく必要に応じた不定期(臨時的)な発射だったのでしょう。

そして昭和12年12月1日『測波器整合及送信機電波調定ニ関スル件』(軍務二機密第1450号)にて12月限りで海軍省の標準電波が廃止されることが通牒されました(左図)。

1923年(大正12年)に始まった海軍省の標準電波は、1937年(昭和12年)12月をもって幕を閉じました。


1927年(昭和2年)秋から岩槻・検見川が始めた逓信省の標準電波は、1929年(昭和4年)にGE社の水晶式標準電波発生器を、1934年(昭和9年)にGR社の水晶式周波数標準器を導入し周波数精度を改善する努力が続けられてきました。

検見川波そのものを改善しようとする声は、逓信省内で何年も前からあったようですが、なかなか認められませんでした。それが具体化したのは1937年度(昭和12年度)で、ようやく標準電波の改修工事予算として14万円を獲得できました。学術研究会議および陸軍省と海軍省の後援があったからです。

参考までに学術研究会議のもと、各機関の周波数標準器の比較試験を行っていた電気試験所の河野廣輝氏の報告を引用します。これが昭和12年時点の日本の実力値です。

学術研究会議電波研究委員会が連絡の任に当たり、逓信省電気試験所にある周波数標準原器、陸軍省科学研究所にある周波数標準副原器、海軍技術研究所にある同副原器、逓信省岩槻受信所にある同副原器、相互間の周波数比較試験を行っている。・・・(略)・・・逓信省電気試験所にある標準器・・・7 x 10-8、陸軍科学研究所にある標準器・・・6 x 10-8、海軍技術研究所にある標準器・・・7 x 10-8、逓信省岩槻受信所にある標準器・・・19 x 10-8 であった。最近の外国の情勢に比較すれば上記の値は優秀なるものとは言い得ない。さらに安定度につき一段の改善が希望せられる状態である。(河野廣輝, "周波数標準器の比較試験に就て", 『工学研究撮要』 第4号, 1938, 学術研究会議工学研究委員会, p15)

29) 新標準電波への改修工事 (1937年4月~1939年3月)

さて改修工事についた予算が14万円と少なかったため、岩槻に置かれていた水晶発振式の周波数標準器の出力を逓降器で低い周波数まで落として陸線で検見川へ送り、これを受けた検見川で逓倍器を通して目的の短波周波数を得ることにしました。岩槻が検見川の心臓になり脈拍を送るのです。昭和12年度予算で1937年(昭和12年)4月に着工し、翌年度末の1939年(昭和14年)3月で工事は終わったようです。

検見川の標準電波用として新たな短波送信機が日本電気へ発注されました。

『検見川無線30年史』によれば、逓信省仕様書型番「TV-1503」送信機と呼ばれるもので、検見川送信所機器配置図(昭和12年11月30日現在)では第三発振室の一番奥の左手に鎮座していることが確認できました(図)。

30) 新標準電波の発射試験が始まる (1937年末 or 1938年5月から?)

改修工事を終えた1938年(昭和13年)3月31日現在の配置図では、新設された第四発振室へ移設されています(下図)。

ちょうどこの時期と符合するのが「海軍省の標準電波の終了」(昭和12年12月)です。岩槻・検見川の予備的な試験電波がこの頃より始まり、それが海軍省の標準電波を店じまいする理由のひとつとなった可能性も考えられます。 

ですが本件の施設工事を終えたのは、逓信省の網島氏の文献(網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 『逓信協会雑誌』, 1939.9, 逓信協会, p8)でも1939年(昭和14年)3月末と記されています。なので、次に述べる海軍・陸軍省から5kW送信の了解を得た1938年(昭和13年)5月頃から本格的な試験発射へ移行していったのではないでしょうか。

1938年(昭和13年)5月2日、逓信省は「標準電波用周波数割当に関する件」(電業第1002号, 逓信省電務局)で4/7/9/13MHz, A1/A2/A3, 出力5kWの使用に支障がないかを軍部に照会しました(図)。

4MHz波の高調波(8MHz, 12MHz)、7MHz波の高調波(14MHz)とぶつからないように選定したのではないでしょうか。


これに対して5月8日付、陸附第2678号で陸軍省から「異存無き」との回答がありました(図)。

このほかに海軍省からの回答書もあるはずですが、私にはみつけられませんでした。

こうして1938年(昭和13年)5月頃より「逓信による、逓信・海軍・陸軍のための、標準電波」の実運用のための電波発射が始まったと思われます。

31) 新標準電波にコールサインJJYを指定 (1938年夏)

標準電波の場合は、国際符字列で構成する呼出符号の送出は義務付けられていません。

だからこれまで海軍省の船橋無線JJCも、逓信省検見川無線も(たぶんJYS)そういった国際登録のコールサインを使わずに標準電波を発射してきたわけです。ところが今回は国際的な呼出符号が指定されることになりました。その意図するところは私にはわかりませんが、とにかく標準電波にコールサインJJYが与えられたのです(なおタイムシグナルの方は学術的かつ国際的な枠組みの中で、船橋無線のJJCと、銚子無線のJCSというコールサインを使ってきました)。

1938年(昭和13年)8月19日の官報にて、8月1日より、東京中央電信局と大阪中央電信局に所属する各送信所のコールサイン・リストにいくつかを追加したと告示しています(昭和13年8月19日, 逓信省告示第2650号)。このとき東京中電(検見川送信所)の追加分として JJY, JJY2, JJY3, JJY4 が掲載されました。

官報がいう8月1日が、検見川JJYの「何らかの節目にあたる日」だったかというと、そうではないかもしれません。たとえば陸軍省からの開局同意回答が6月22日だった東京中電(小山送信所)のJJR, JJR2, JJR3なども同じ告示に含まれています。この告示にあるすべての局が8月1日に同時開局と考えるよりも、7月中に本運用に入った局を、まとめて8月1日付けで中電のコールサインリストに追加したと考えたほうが自然でしょう。

ということで、1938年(昭和13年)夏(おそらく7月)に、JJY(4MHz), JJY2,(7MHz), JJY3,(9MHz), JJY4(13MHz)というコールサインで標準電波が運用発射されだしたと想像します。ちなみに「JJY」というコールサインは1913年(大正2年)1月1日、海軍省の輸送艦若宮丸に指定されたのが最初なので、いわゆる中古コールサインです(明治の呼出符号のページを参照)。

32) 世界各国の標準電波の運用体制

逓信省の若手エース網島毅氏は1939年(昭和14年)に逓信協会雑誌で、諸外国の標準電波を紹介しました。我国の標準電波が統一されてJJYとして再スタートした頃の事情がわかる貴重な資料だといえるでしょう。

当時の標準電波の発射国は米国・英国・ドイツの3国で、短波でも数多くの標準電波が発射されていました。特にドイツが短波を使って日本を含む極東アジア向けに標準電波を出していることに対して、日本の電波関係者はあまり快くなかったのではないかと想像します。そういった電波事情の中で日本のJJYも世界で四番目に短波の標準電波を発射するようになりました。

戦前の標準電波 アメリカ

米国

米国に於ける標準電波発射業務は標準局(National Bureau of Standards)に属し、ワシントン近在のベルツビルにある送信所より標準電波を発射している。本業務は毎週火曜日、水曜日および金曜日(公休日を除く)に行われているのであって、火曜日および金曜日の東部標準時による午前一〇時より一一時三〇分迄は五〇〇〇キロサイクル(5MHz)、正午より午後一時三〇分迄は、一〇〇〇〇キロサイクル(10MHz)、午後二時より午後三時三〇分迄は、一五〇〇〇キロサイクル(15MHz)の三種の周波数の搬送電波を三回にわたり発射し、水曜日の同じ時間には、同じ搬送電波を一〇〇〇サイクルの標準可聴周波数で変調して発射している。各標準電波の発射時間九〇分中最初の四分間および最後の四分間には電鍵符号または音声によって局呼出符号WWV、搬送周波数、および ・・・(略)・・・送信電力は二〇キロワットである。これら標準周波数の中、五〇〇〇キロサイクル波は、ワシントンより数百哩以内の距離、一〇〇〇〇キロサイクル波は、本国の他の部分全般、また一五〇〇〇キロサイクル波は米国西部地方および世界の各地方の要に供すべく発射せられている・・・(略)・・・』(網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 『逓信協会雑誌』, 1939.9, 逓信協会, p7)

戦前の標準電波 英国

英国

英国に於ける標準電波発射は英国郵政庁(General Post Office)の経費の負担の下に理工学研究所(Department of Scientific and Industrial Research)がその業務を執っているのであって、使用目的のいかんに応じて種々の標準電波を多くの局より発射している。しかして国家的標準としては物理学研究所より発射せらる三九六キロサイクル搬送波を一〇〇〇サイクルの標準可聴周波数にて変調せるものが採用せられ、各月の第二火曜日に中部欧羅巴(ヨーロッパ)標準時午前〇時四〇分より正午迄の間に発射されている。・・・(略)・・・午前十一時五五分より電鍵符号により、局呼出符号G5HWおよび一〇〇〇サイクルの確度を告知するのである。・・・(略)・・・

(また、)放送局の使用に供する目的をもって、精密度に於いて多少劣る副標準周波数を五局より発射している。すなわち、ブルックマンス・パーク局よりは放送プログラムに従って、誤差毎秒二サイクル以内に保たれる一一四九キロサイクルの標準電波を発射し、ダベントリー局よりは誤差二五〇〇〇分の一以内に保たれる六〇六〇、九五一〇、九五八〇、一一七五〇、一一八六〇、一五一四〇、一七七九〇、二一四七〇、一五二六〇、二一五三〇、六一一〇、一一八二〇、一五一八〇、一五三一〇キロサイクルの電話電波を短月電波伝搬状況に応じて種々の時刻に発射しており、ムーアサイド・エッヂ局よりは、一一四九キロサイクル、ベンモン局よりは八〇四キロサイクル、ワッシュフォード局よりは一〇五〇および八〇四キロサイクルの電話電波を放送プログラムに従って誤差を毎秒三サイクル以内に確保して発射している。・・・(略)・・・』(網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 前掲書, p7)

【参考】 英国のダベンタリー(Daventry)短波標準電波の呼出符号, 周波数,出力は下表の通りですWireless World, Sep.11,1936, p297)

戦前の標準電波 ドイツ

独国

独国に於ける標準電波発射業務は逓信省がこれを管理しており、周波数標準器としては、理工学研究所(Physikalische Technische Reichsanstalt)において完成せられたるものを用いており、周波数標準局の発射周波数をこれに準拠して充分なる精密度の範囲内に保たしめている。発射局としては六局あり、ベルリン局よりは八四一キロサイクル、ハンブルグ局よりは九〇四キロサイクル、ライプチッヒ局よりは七八五・〇〇二キロサイクルの電話電波を中央欧羅巴(ヨーロッパ)時午前六時より午後十二時迄の間発射し、ミューラッカー局よりは五七四キロサイクルの電話電波を中央欧羅巴時午前〇時より午前二時迄と、午前六時より午後十二時迄との二回発射している。ナウエン局よりは、標準可聴周波数で変調せる一七五二〇・一キロサイクル(17.5201MHz)波および同じ電話電波を季節により適当の時刻に発射して極東方面に於ける利用に供している。ツェーゼン局よりは放送局および中部アメリカ、南部アジアに於ける利用を目的として九五六〇キロサイクル(9.560MHz)の電波を。放送局および北部アメリカ、南部アジア方面に於ける使用の目的をもって一五二〇〇・一キロサイクル(15.2001MHz)の電波を。放送局および南部アメリカ、日本の用に資するために、九五四〇・五キロサイクル(9.5405MHz)の電話電波を。また南部アメリカ、および極東方面に対する目的をもって一〇二九〇・一キロサイクル(10.2901MHz)の電話電波およびこれを標準可聴周波数で変調したものを発射している。・・・(略)・・・』(網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 前掲書, p7)

戦前の標準電波 フランス

仏国

仏国に於いては周波数標準器としては無線電気研究所(Laboratorie National de Radioelectricite)にデイコーによりて完成せられたものを有しているが現在標準電波の発射業務は行っておらず、米国、英国あるいは独国における標準電波を随時利用している現状である。・・・(略)・・・』 (網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 前掲書, p7)

戦前の標準電波 日本

このように網島氏は各国の状況を紹介したうえで、我国の貧弱な標準電波の設備および運用体制について次のように述べられています。

ひるがえって我国における現状を見る時、その径庭のあまりに大なる遺憾の念を禁じ得ないものがある。我が逓信省においては現在岩槻受信所に唯一の旧式なる周波数測定装置と周波数標準器とがあり、これによって程度の低い周波数測定を行い、各方面の多くの要求の僅か一部をようやく満たしているのであるが、この電波観測業務の管理運営に対しては未だなんらの組織制度なく、従ってこれが従業員にすら一人の専務者なく、何れも常務の片手間にこれを動かしているに過ぎない現状である。(網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 前掲書, p7)

後述しますが、一般にはJJYは1940年1月30日に運用が始まったことになっています。

しかし改修工事が1938年3月に終わって、同年夏にはコールサイン(JJY, JJY2, JJY3, JJY4)が公表されています。それから1940年1月までの1年半もの期間を、電波を出さずに放置されていたとは考え難く、もう運用が始まっていたでしょう。

この時期に書かれたのが上記の網島氏の記事でした。検見川JJYの心臓にあたる岩槻の周波数標準器の話と、片手間に要求の一部を満たしている現状に触れています。これが検見川JJYを指しているのは間違いありませんが、検見川から標準電波を出しているとの明言を避けました。1939年当時では標準電波の存在は非公開(秘密?)だったようです。

JJYの運用は始まっていたのに、その運用体制が置き去りにされたままであることを憤り、海外の事例を引き合いにしながら、身内の「逓信協会雑誌」で暗に批判したのかも知れません。

33) 日本はなぜ新標準電波JJYを公開したのか?

逓信省は1940年(昭和15年)1月6日の官報で、同年1月30日より毎週火曜日と金曜日に、呼出符号JJY, JJY2, JJY3, JJY4で標準電波を発射するとして、送信スケジュールや周波数を一般国民に公開しました。標準電波の公開はこれが初です。

といっても我国が戦争に突き進む中で、個人、学校、企業、団体を問わず、短波受信の許可が厳しく制限されはじめていました。1936年(昭和11年)3月17日「オールウェーブ受信機ノ取締ニ関スル件」(電業第462号)で短波受信不許可の方針を示し、1939年(昭和14年)10月25日の放送用私設無線電話規則改正(省令第48号)、同年11月1日の「無線通信機器取締規則」制定等で規制が強化される真っ最中でした。

国民には受信を許さない短波帯JJYの送信スケジュールを、わざわざ官報で国民に公表する意味は何だったのでしょうか?私は「日本国民に公表したかった」のではなく、「海外に誇示したかった」と思うのです。

1991年(平成3年)に郵政省通信総合研究所がまとめた『標準電波50年の歩み』で吉村和幸標準測定部長が、その改修目的を以下のように述べています。『昭和15年に行われた標準電波の開設の主な目的は、同一周波数放送の同期、通信信号の長距離同軸伝送の周波数同期にあったといわれている。

また標準電波の公開前の1939年(昭和14年)に、JJY施設の設計担当のひとりである網島氏も、同書に同様のことを書かれています。

私が逓信省に入省して間もない昭和6年に私は上司より命令されて、同一周波数によってある一定の距離のはなれた2局或は3局の放送局を同時に運用した場合、地上における聴取状況がどのようになるか調査研究を始めたことがあった。・・・(略)・・・特に夜間の同一周波数放送は、対向局間の周波数偏差を極めて少なくさせるのでなければ例えそれが同一番組の放送であっても成功は困難であるというものであった。・・・(略)・・・しかしながら周波数標準器の問題は、独り無線分野の問題にとどまらず、有線通信の分野においても、搬送通信方式が次第に高度化し中継器の数が増大すると同時にその搬送周波数が次第に高くなるに及んで、発信局と受信局における周波数を合致させる手段としても、標準電波の発射は極めて重要であるとの意見が強くなり、かつこれに対する陸軍及び海軍からの要望もあって ・・・(略)・・・』 (網島剛, 『「標準電波50年の歩み」の刊行を祝して』, 郵政省通信総合研究所, 1991)

34) 同一周波数放送のための新標準電波JJY

標準電波の目的のひとつとされる「同一周波数放送」とは、1939年(昭和14年)9月1日に第二次世界大戦が始まるや、イギリスのBBC放送が全国同一の番組で、周波数も2つのグループに統一したラジオ放送をいいます。イギリス上空に侵入してきたドイツ軍機がラジオ電波を傍受し攻撃目標の都市を特定するのを防ぐためです。

日米開戦に備えて我国でも同様の電波管制の準備をすべきだと陸軍が強調するようになりましたが、周波数の精密同期を実現するためには、全国の各放送局が同一基準により校正された電波計をもって、自局の水晶発振周波数を常に監視・調整しなければなりません。その全国統一の校正基準として期待されていたのが、改修工事を終え身内向けの標準電波を試験発射していた検見川JJYでした。

1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾奇襲で太平洋戦争が始まりました。即日、電波管制が発せられラジオ第二放送は停波しました。翌9日にはラジオ第一放送を全国同じ860KHzへ一斉に切替えて、混信防止の意味から夜間の送信電力を500W以下に制限しました。その目的は敵機の電波傍受により各都市の位置を悟られないようにするためで、コールサインのアナウンスも行わないことにしました。しかしラジオがよく聞こえないとの苦情が放送協会に殺到し、同年12月20日より統一周波数を1,000KHzに変更すると同時に、東京と大阪だけは2KWにしました。各放送局に委ねられた水晶発振回路の精密調整は困難を極め、わずかでも周波数のズレがあると混信の際に不快な唸り音が生じるため、混信が増える夜間は同年12月25日より全国を5地域に分けて700, 750, 800, 900, 1000KHzを使い分けました。

35) 搬送通信方式の周波数同期のための新標準電波JJY

次に標準電波の目的の後者「搬送通信方式」ですが、検見川波の試験運用がはじまった1938年(昭和13年)前後の時代背景を振返ってみましょう。

当時は我国が中国大陸へ進出するにあたり東亜通信網(有線網)の高度化が必要不可欠と考えられていました。

東亜通信網の整備充実は日(日本)(満州)(支那)を一体とする東亜ブロック確立の文化的母体をなすものとして、逓信当局では昨夏内閣のもとに電気通信委員会を設けて技術的研究を行う一方、内地と大陸を結ぶ通信網の整備実現に鋭意努力を払っていたが、現在の国際電気通信会社を改組拡大して真に強力な一大国策会社を設立して三国通信網の統制整備の完璧を期すべきであるとなし国際電気通信会社法中改正法律案を今月中旬ごろ議会へ提出の運びとなった。 ・・・(略)・・・』 ("東亜通信に国策会社 国際電気通信会社を改組し資本金一億円に拡大", 『大阪毎日新聞』, 1939.2.7)

1931年(昭和6年)に満州事変が勃発、翌年3月には日本軍による傀儡政権である満州帝国が誕生しました。同年、逓信省の篠原登・松前重義両技師は中継増幅器に周波数特性補正機能を持たすことで、無装荷ケーブルであれば多数の回線を広帯域に多重化でき、さらに反射や位相歪等もなく経済的な長距離伝送が実現できると、「無装荷ケーブル搬送波方式」を学会発表しています。ただちに小山-宇都宮間で実証実験が行われその優秀さが確認されたのですが、軍部はこの大発明を見落としませんでした。

この画期的方式は大日本帝国が建設せんとする東亜通信網に最適とされ、1935年(昭和10年)に無装荷ケーブルの架設工事を開始。途中海底ケーブルで壱岐対馬を経由し、1938年(昭和13年)に大阪と満州帝国の奉天間が、翌年には東京-奉天間(2,700km)が開通しました。そして1940年(昭和15年)には大日本帝国の帝都東京と満州帝国の帝都新京(3,000km)が結ばれたのです。

検見川標準電波JJYが完成するまではケーブル通信は3回線の多重でしたが、JJYの試験運用がはじまると、無装荷ケーブル搬送周波数の同期精度が上がり、6回線の多重化を実現しました。さらに2年後には新京からハルビンまでケーブルが延伸され、世界最高の長距離有線通信技術として注目されました。

【参考】松前氏は工務局長に就任(昭和16年)されましたが、のちに反戦活動が発覚し東條英機氏の怒りを買い、二等兵として南方戦線に送られた方でした。

当時の網島無線係長の記事を引用します。

東亜通信網が無装荷ケーブルによる搬送回線を基調として着々拡張整備せられつつある時、送受両局における搬送周波数の同期は極めて重要となって来る。すなわち通話の明瞭性の上より搬送周波数の同期は二十サイクル以内に保たれねばならないが、搬送式多重通信方式の発達につれて使用周波数帯域はますます拡張され、搬送周波数も次第に高くなりつつあり・・・(略)・・・例えば東京北京間においては五つの搬送区間により複合されるから、一般搬送区間の同期を二〇サイクルに保つも全区間にては一〇〇サイクルにもなり得るので現在保守者はこれに対し非常な努力を払い、かろうじて規定値を保っているが、六通話路方式あるいはそれ以上の方式を採用すれば到底現在の方法では満足できなくなり、これに対して適当なる施設を講ずる事が必要になるのである。・・・(略)・・・今や支那事変は長期建設の段階に入りてこれが神経系統たる通信の輻輳は日に繁きを加うるの時、日満支を含む東亜地域における電波統制の強化ならびに東亜通信網の大動脈をなす無装荷ケーブル搬送回線の一元的同期は正に焦眉の急務である。ゆえに電波統制強化の実行手段として最も重要にして必要欠くべからざる重大問題であると信ずる。 (網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 『逓信協会雑誌』, 1939.9, 逓信協会, pp3-8)

36) 新標準電波JJYの公開は国威発揚のためだったか?

このように標準電波の改修工事は国民のためではなく、戦争の道具として軍部がその価値を認め、逓信省を後押したことによります。でも不思議なのは「なぜ官報告示したか」です。同一周波数放送にしろ、無装荷ケーブルの東亜通信網建設にせよ、これまで通り身内の業務として非公開のまま標準電波の発射を続けても良かったはずです。

昭和12年に改修工事予算を獲得しにも関わらず、標準電波を増強改修するとの雑誌記事は見当たりません。つまりJJYの試験電波が発射される頃になるまで、国民に官報告示するつもりはなかったのではないでしょうか。

1939年(昭和14年)になって官報告示の方針がきまり、そこで網島氏が下記の記事(逓信協会雑誌, 1939.9)を書かれたのではないか?そう想像してみました。

関係当局は毎年これが実現に対し非常な努力をもって、その必要性を強調していたのである。ようやくにしてこの希望は僅かにその一部分が達せられて、一昨年度予算の通過を見、鋭意工事の進捗を図った結果、十三年度末において据付けを終り目下最終試験中であって正式に標準電波の発射されるのも近きにありと思われる。 (網島毅, "標準電波発射並に電波観測制度の確立を要望す", 『逓信協会雑誌』, 1939.9, 逓信協会, p8)

(国民には短波受信を禁止しており)国民に何の便宜を提供するものではない新標準電波JJYを、わざわざ官報告示したのは、大東亜共栄圏の建設を旗印に大陸へ進出しようとする我国の工業力の高さを、アジア周辺国および鬼畜米英へ示すためだったかもしれません。

標準電波の確度を世界最高水準にすることによって本邦技術に対する諸外国、特に東洋諸国の信用を増進し、引いては我国通信機器の海外進出を助長すること大なるものがあろうと信ずる次第である。(網島毅, 前掲書, p3)

また1934年(昭9年)のリスボンCCIR会議で各大陸から標準電波の発射が推奨されたことも、アジアにおける指導的立場を目指している我国の電波関係者を刺激したのかもしれません。

1934年、ポルトガルのリスボンに開かれた第3回C.C.I.R.(国際無線通信諮問委員会)では、「標準電波の発射は世界各地方で確実に受信し得るため充分多数で行うことが必要であり」 「原則として各大陸地帯毎にかかる業務を行う局を設置することを奨励する」という意見が表明された。 (松本喜十郎, "世界の標準電波", 『電波時報』, 1952.6, p60)

古くから標準電波を発射していたフランスはその業務を休止し、米国が短波で、英国・独国が中波と短波を発射していました。特にドイツのナウエン局は極東向けに17520.5KHz(DFB, Nauen)を、ツエーゼン局は日本向けに9540.5KHz(DJN, Zeesen)、極東地域向けに10290.1KHz(DZC, Zeesen)の標準電波を出していましたが、日本の電波関係者にしてみれば、あまり愉快な話ではなかったでしょう。

そこでです。もし日本が米・英・独に続き、世界で四番目に短波帯標準電波を発射しても、それを公表しなかったら、誰にも認知されないままです。日本の標準電波は1923年(大正12年)、米国のWWVと同じ年に始まったというのに、身内の電波利用として非公開にしてきました。今回は官報で告示することで、日本が世界で四番目、かつ"アジア初"の短波帯標準電波の発射業務を開始することを世界に知らしめようとした。私はそう想像してみました。

37) 改修計画通りにはいかなかった JJYの電波

岩槻・検見川の標準電波の改修工事は予算がわずか14万円だったため、望む増強改修は行えず、従来から岩槻にあった二重恒温槽50KHz水晶式発振器(原器)の出力を一旦1KHzまで逓降させて、音声信号として陸線で検見川まで送り、検見川で逓倍し目的の短波を得る方法として設計されました。しかしこの作戦はうまくいきませんでした。

逓倍数が非常に多いため、わずかの雑音や位相変動によって、きわめて複雑な波形となり、標準電波として使用にたえない結果となった。したがって、最初の設計を変更し、標準周波数信号として一〇Kcを採用し、逓倍数を減ずるとともに、標準電波発射用の直接の原器とせず、これを五〇〇Kc(五〇逓倍)まであげて、単に、検見川分室の前記周波数原器を較正するだけにとどめた。(電波監理委員会編, "第九章標準電波・電波予報・電波警報 第一節標準電波", 『日本無線史』, 1951, pp486-487)

当初の計画をあきらめ検見川の標準電波送信機TV-1503型に50KHz水晶発振回路を追加改造し、これを逓倍して短波を得ました。そして岩槻(埼玉県)の周波数原器からは10KHzまでの逓降にとどめて陸線で送出し、東京中央電信局の局舎で中継増幅して、検見川(千葉県)へ届けました。検見川ではこれを500kHzまで逓倍して、TV-1503型送信機の50KHzの高調波とビート法で校正する方法をとりました。標準電波は週二回で、誤差値は次回発射の際に公表したそうです。

発射された標準電波は岩槻で監視受信し、原周波数標準器(岩槻所有の50KHz水晶発振器)の発生周波数の高調波と比較し、修正値を考慮して、標準電波の正否を検し、その誤差は、次回発射の際、修正値として発表した。(電波監理委員会編, "第九章標準電波・電波予報・電波警報 第一節標準電波", 『日本無線史』, 1951, p486)

38) 軍部の後援もあり、 JJY のさらなる改修

1941年(昭和16年)より四か年継続事業として岩槻・検見川の第二期改修工事と、電波標準局の設置が認められました。周波数精度の向上をめざし、遠い岩槻から東京中電経由で基準信号を持ってくるのをやめて、検見川から2kmほどの距離の幕張に副標準器を置き、ここから検見川へ送出するようにしました。このとき検見川の調整盤の改造と送信機およびアンテナの再調整が行われ、1944年(昭和19年)6月1日より実施されました。遠距離用には高い周波数の方が有利との見地から発射周波数が高めにシフトされたためです。この時期に280万円もの予算を引き出せたのは、軍事面からの効用がその背景にあり、軍部の後押しがあったためでしょう。

昭和15年、松前重義技師が東亜地域からの出張から帰り、当時のわが国と東亜地域との関係から、標準電波施設を拡大して、東亜地域全般にまで、これを利用させ、日本技術の高揚と、ひいては日本商品の販路開拓等の意味を含めて、標準電波の電力を五キロワットから二〇キロワットぐらいまで増力することが提案され、第二期計画として、標準電波局を新設して電波に関する標準の維持・研究を行わせ、さらに標準電波の発射業務をも実施させるなどの構想のもとに、一五年第七五回帝国議会へ提出し、四カ年計画として二八〇万円程度の予算を獲得した。(電波監理委員会編, "第九章標準電波・電波予報・電波警報 第一節標準電波", 『日本無線史』, 1951, p488)

日米開戦が近づいた昭和16年秋、逓信関係者の発言にも戦時色が強まってきました。逓信省標準電波建設所長に就任した(J1PP設計者だった)小野孝氏の記事を引用します。

ここに日満支を含む東亜地域全般の電波周波数の厳重なる規正、基準の設定および東亜通信網の大動脈を無装荷ケーブル搬送回線の有効なる運用ならびに臨戦態勢の編成に伴う通信の確保等、目下の臨戦態勢上の急需に応じるための周波数標準の強化統一の必要が痛感せらるるに至り、強力なる軍部の後援により逓信省がその任務を果たすべく、標準電波発射の強化および観測局の設置を行うこととなり、逓信省内に標準電波建設所を設け、軍民協力をもってその建設にあたる事になった次第である。しかして能ふる限り急速にこれが建設を遂行し、聖戦の完遂に寄与せむことが期待されている。よってもって多くの困難を克服し一日も速にその実限に邁進せざるを得ない立場におかれたのである。(小野孝, "標準電波施設の建設に就て", 『逓信協会雑誌』, 1941.10. 逓信協会, p55)

二代目の標準電波建設所長に就任された齋藤齊氏の昭和18年の記事も中々勇ましいです。

この標準電波の発射および電波周波数監視業務は世界のいわゆる大国はいずれもこれを実施していて周波数規正の独自性を確立しているのであるが、仏国および欧州の諸小国のごとき技術的弱小国では独逸(ドイツ) 英国 米国 の標準電波を受信してこれに依存して自国の周波数規正を行っている貧弱な状況である。・・・(略)・・・この秋にあたり我が逓信省が電波標準局を建設し、しかも内容的に世界最高水準を突破することを目指していることは真に同慶の至りである。(齋藤齊, "標準電波施設の建設に就て", 『逓信協会雑誌』, 1943.8, 逓信協会, p35)

1945年(昭和20年)には終戦で、一時期停波していたようです。1946年(昭和21年)4月1日に検見川JJYは復活しましたが、その2年後には小金井JJYに移りました。現在は短波のJJYは廃止され長波に移行しました。我国の標準電波は「長波に始まり、長波に戻った」のでした。

39) JJYが世界で二番目という都市伝説

戦前においては最古参のフランスが標準電波を中止したあと、米英独の3カ国が短波を含む標準電波を発射していました。そこへ日本のJJYが1940年(昭和15年)より短波で加わりましたが、前掲の網島氏の記事によれば、短波の標準電波は米英独に次ぎ世界で第4番目でした。

第二次世界大戦が終わり、1947年(昭和22年)のアトランティクシティ会議では、標準電波に関してCCIRへ諮問することになりました。そして1948年(昭和23年)にストックホルムで開かれた第5回CCIRで、標準電波局の周波数確度に±2 x10-8を求める勧告を行いました。この流れで標準電波が再編され、1948年(昭和23年)春にハワイのWWVH、1950年(昭和25年)2月に英国ラグビーのMSFが開局し、1951年(昭和26年)5月にはイタリアのIBFも試験発射を始め、さらに2年ほどあとに南アフリカ共和国ヨハネスバーグのZRE21も加わりました。1954年(昭和29年)当時の世界の標準電波を下表(1954年現在)に示します。

JJYより古い英国G5HWやドイツはもう既に停波しており、日本のJJYが、WWVに次ぐ歴史ある標準電波局に自動昇格したのです。この表を見る限り「WWVの次に古いのは、我が日本のJJYである。」ということになります。もちろん間違いではありませんが、あくまで「現存するものの中では」という意味ですね。

1951年(昭和26年)1月号の電波時報より引用します。

『・・・(略)・・・このような電波を始めて業務として発射したのは、米国標準局所属のWWV局で、1933年(昭和8年)4月のことであるが、我が国でも1940年(昭和15年)1月30日から発射され、専用業務としては世界で二番目であった。(松本喜十郎/栗沢孝雄/今野清恒, "標準電波の発射方法改正について", 『電波時報』, 1951.1, 電波監理委員会, p19)

きちんと調査したわけではありませんが、「JJYが世界で二番目」と雑誌等に書かれたのは、これが始まりではないでしょうか?筆者は三人の連名ですが、郵政省電波研究所第二部の松本標準課長を中心に書かれたものと推察します。ここに「業務」という文字が二回出てきます。

まず『このような電波を業務として発射したのは』とあり、次に『専用業務としては世界で二番目であった』としていることから、「標準電波を発射することだけに専念している無線局」を指していると想像できます。

そういえばパリのエッフェル塔局FLとリヨン局YNの標準電波は1920年(大正9年)から発射されましたが、それぞれ本業とする業務の合間を縫って月二回の発射でした。1923年(大正12年)に始まった日本の海軍省の標準電波も、1927年(昭和2年)に始まった逓信省の標準電波も、それぞれの本業とする業務の合間に定期発射されてきたわけです。標準電波が目的の無線局ではありません。

JJYは戦後1949年(昭和24年)に検見川を出て、小金井の専属送信施設から発射されるようになりました。また専属の組織により運営されるようになりました。ということで、「昔からいろいろ標準電波はあったかもしれないが、専属業務としてのフルイに掛ければ、戦前からあるWWVが一番で、JJYが二番だろう」という意味ではないでしょうか?

しかし読み手の興味は「誰が最初に発射したか?」です。記事が転記・転載される中で、やがて「専用業務としては」の文字は見落とされてしまい、単純に「世界で一番に開局したのが米国のWWVで、二番目に開局したのが日本のJJYである。」という都市伝説が完成してしまったように感じます。

38) 銚子無線JCS と 船橋無線JJC の無線報時信号(タイムシグナル) ・・・おまけ

最後に無線報時信号(タイムシグナル)にも触れておきます。これは標準電波とはまったく別物でした。

世界のタイムシグナル局の歴史

世界で最初に無線でタイムシグナルを発射したのは米海軍で、1903年(明治36年)9月に海軍天文台USNO(United States Naval Observatory, Washington DC)からの基準クロックでキーイングしたといわれています(不定期発射)。

タイムシグナルの定期発射は1904(明治37年)年8月9日よりボストンの海軍ヤードで始まりました。以後1905年中に全米各地の海軍ヤードでも発射するようになりました。

1907年(明治40年)にはカナダもセントジョーンズ天文台からクロックをもらってハリファックス局VCSが無線でタイムシグナルを出し始めました。

また欧州ではフランスやスイスが1904年頃から無線報時信号の研究をはじめたようです。

1909年(明治42年)、エッフェル塔無線局は有線でパリ天文台と結んで、タイムシグナルの発射実験を開始しました。左図は実験を知らせるModern Electrics誌(1909年3月号, p433)の記事"A clock for elffel tower"です。

約1年の実験を経て、1910年(明治43年)5月23日より、150kHz(40Kw)でエッフェル塔無線局FLの報時信号が正式にスタートしました。

パリのBureau des longitudesが1915年に出版した"Wireless time signals. Radio-telegraphic time and weather signals transmitted from the Eiffel Tower, and their reception"の巻末付録より下表を引用しておきます。これは1914年(大正3年)頃のタイムシグナル発射局だと考えられますが、実は1911年からタイムシグナルを送信している我国の銚子無線JCSがリストされていなのが残念ですね。

 無線による報時はその後各国へ広がり、1922年(大正11年)初頭における世界のタイムシグナル発射局はThe Consolidated Radio Call Book 4th Edition(May 1922)によると、米海軍(本土NSS, NAA, NAR, NAT, NPK, NPE, NPG, NAJ, NPW, NPL、ハワイNPM、パナマNBA, NAX、フィリピンNPO)、アルゼンチンLIA、オーストラリアVIA, VIM, VIP、ブラジルSOH、カナダVCS, VAK、中国(上海租界FFZ)、フランスFL、ドイツPOZ, DHM、インドVMC, VWK、日本JCS, JJC、メキシコXDA、ニュージーランドVLA、ポルトガル領東アフリカCRZ、英領サラワクVQF、南アフリカVNCでした。

日本のタイムシグナル局の歴史

日本の無線報時信号は1911年(明治44年)12月1日、東京天文台から陸線で銚子海岸局JCSの中波500kHz送信機を制御し、毎日20時59分より5分間、日本中央標準時の試験放送を始めたのが最初です。翌1912年(大正元年)9月1日に正式運用となり、それが一般に公表(逓信省告示第545号)されたのは1913年(大正2年)7月1日でした(発射仕様はこの告示を参照)。ちなみに銚子無線JCSは逓信省最古の海岸局です。洋上の艦船の位置(経度)測定に使っていたクロノメータ(標準時計)の時刻を校正するのを目的としました。

一方で海軍船橋送信所JJCによる報時信号の歴史はどうだったのでしょうか。

船橋送信所JJCではまだ建設中の1916年(大正5年)7月14日よりタイムシグナルの試験発射が始まりました。そして1916年(大正5年)11月16日に対米公衆電報通信の取扱を開始しましたが、そのおよそ1ヶ月後(同年12月11日)に正式な報時信号(火花式長波75kHz)がスタートしました。

昨年十一月十六日開局したる船橋無線電信局に於ては、銚子無線電信局と同一の回線内にその発信機を取り付け、東京天文台よりの報時信号を銚子局と同時に、発信するの設備をなし、昨年七月十四日より引続き試験的に発信中なりしが、成績良好なるより、同年十二月十一日より実施する旨、同十二月九日の逓信省告示第一一一五号をもって発表されたり。ちなみに信号は従来銚子局より発信し居るものと全く同一にして、また銚子局と同時に発信し居るものなり。なお十二月七日海軍省水路告示第七六号、第七三項を参照すべし。 (『天文月報』, 1917.1, 日本天文学会, p115)

また船橋無線JJCでは1924年(大正13年)2月16日から6月30日まで、一時的に持続式電波44kHzが試されたこともありました。

本年二月十六日より持続電波をもって発信中なりし船橋無線報時信号は本年七月一日より火花式四千メートルに復旧する旨告示されたり。逓信省告示第九百四十六号・・・(略)・・・』 (『天文月報』, 1924.7, 日本天文学会, p111)

1925年(大正14年)6月10日からは、銚子JCS(500kHz)および船橋JJC(39kHz)の報時信号が午前・午後の2回(11時と21時からの4分間)になりました(大正14年6月3日, 逓信省告示第865号)。1933年(昭和8年)9月15日から12月15日まで地球物理学会議および天文学生主宰の国際連合測定に我国も参加し、小山送信所(呼出符号JAP,周波数12MHz)から短波で発信した記録が『日本無線史』第二巻p334にあります。1935年(昭和10年)頃より、タイムシグナルは銚子JCS(500kHz)と検見川無線の短波を使ったようですが、船橋無線の長波がどうなったか詳細不明です。

昭和十年四月十五日、東京無線電信局が当局(東京中央電信局)と合併するにおよんで、同業務(無線報時)は以来当局の所管するところとなり今日におよんでいる。またこのときから短波(五四七〇、九二六〇、一三一七五、一三六四〇 及び一八五二〇KC または四〇〇〇、四六三〇、九二六〇 及び一三八九〇KC)が新らしく登場した。 (『東京中央電報局沿革史』, 電気通信協会, 1958, p444)

1941年(昭和16年)5月8日より船橋無線の長波と短波の報時信号の内、短波のものが不正確なので、陸軍中央無線電信所が船橋無線の長波を短波4660kHzで再送信しています。目的は満州での測地用でした。

測量用時報ノ件 (陸軍省受領 陸文機受第三九七四号、起元庁(課)名 交通課)交支通第七号

副官ヨリ参謀本部総務部長、陸地測量部長、

関東軍、北支軍、駐蒙軍、総軍、南支軍各参謀長及

「陸軍中央無線電信所長」ヘ通牒

首題ノ件 当分ノ間先ノ通実施セラルルニ付承知相成度「セラレ度依命通牒ス」

左記

時刻 毎日午後九時及午後十一時

開始期日 五月八日

周波数 四六六〇「キロサイクル」

時報要領 逓信省ニ於テ実施シアル長波学用時報ヲ陸軍中央無線電信所ニ於テ受信シ之ヲ自動的ニ発射ス

陸支密第一二九九号 昭和拾六年五月七日

説明

測量部実施の満蒙測量特ニ蒙古測量ノ天体ニ依ル地点決定ノ為誤差約百万ノ一秒内外ノ時報ヲ必要トシ従来逓信省所管ノ長波、短波二種類ノ時報(船橋ニ於テ海軍無線機ヲ借用シテ放送シアリ)ヲ利用シアリトコロ長波ハ正確ナルモ短波ハ中継線及機器ノ関係上不正確ニシテシ速カニ之ガ改善ヲ所期シ得ラルサルヲ以テ陸軍ニ於テ自ラ実施セントスルモノナリ

 敗戦(1945年)で海軍の船橋無線JJCは連合国総司令部GHQ/SCAPに接収されて進駐軍の無線局になったため、タイムシグナルは一旦終了しました。

しかし1947年(昭和22年)頃には、銚子JCS[500kHz](10:59-11:03/20:59-21:03と、検見川JJC[39kHz], 臼井JJC2[4.630MHz](10:54-11:03/20:54-21:03)および検見川JJC3[9.260MHz], 臼井JJC4[18.890MHz](10:54-11:03)で再開されました。

報時信号と標準電波の合体

報時信号(JCS/JJC)と標準電波(JJY)が合体したのは意外と遅く、1948年(昭和23年)8月1日より合体試験電波の発射がはじまりました。そして検見川JJYから小金井JJYへ移った1949年(昭和24年)12月16日から正式運用でした(昭和24年12月16日, 電気通信省・文部告示第1号)。

なお銚子JCSの報時信号は役目を終え1952年(昭和27年)2月に終了しましたが、検見川と臼井によるJJCの報時信号は昭和30年代になっても続けられ、前掲の東京中央電報局沿革史によれば1957年(昭和32年)3月1日時点での周波数は検見川が39.35kHz, 8702kHzで、臼井が4316kHz, 13051.5kHz, 17069.5kHzでした。

そして報時付き標準電波JJYが一般化したことを理由に、1960年(昭和35年)3月31日をもってJJCは廃止されました。

電波時計(タイムシグナルによる自動修正機能)のはじまりは?

タイムシグナルは船舶が現在位置の経度を割り出すための「クロノメーター」の時刻修正に用いられて来ました。現在では電波を受けて誤差を自動修正してくれる、いわゆる「電波時計」と呼ばれるものが普及しましたが、そういう自動修正機能の時計はいつ頃からあるのでしょうか?これがそうかは分かりませんが、雑誌『工業』(工業改良協会)1921年(大正10年)8月号p6にあった記事をご紹介しておきます。

電波にて時計の針を訂正

米国での話だが無線電力にて時計の針を正すという珍しい事がある。ワシントン気象台より発する電波はニュージェルシーのある所点における一時計に作用して、その時計の狂いをなおすというのである。この時計には電波の選択、感受、及び繋電の諸装置が施してあって、正午前一分にしてスイッチは自動的に閉じ(ONになり)、正午気象台より送らるる無線電力を感受するのである。機械が気象台よりの信号しか受けない様に仕組まれてあるのは当然だ。信号を受取るとスイッチは自動的に開く(OFFになる)。もし何の信号もない場合にはスイッチは十二時後三十秒閉じて(ONされて)いるが、その後は次の日の正午前一分にならなければ決して働きをしない。この時計がある近隣では一様にこれを標準時計として便宜がっているそうである。